迷い猫探偵

01

それはもう、ほんの親切心のつもりやった。腹空かせて鳴いてるのが可哀想で、それでついコンビニおにぎりなんか持ってたもんやから、ついつい差し出してしもうただけや。

いくら野良猫いうても、命には変わりない。出来るなら元気に長生きしろよ。ただそれだけのつもりやった。

当然、昼間おにぎりをくれてやった猫が夢に出てきても、どうという事はなかった。例え〝そいつ〟が夢の中でにやにや笑いながら喋っても、例えその言葉が「ありがとうございました、あなたは猫にお優しい方なのですね」やったとしても、それがなんやと言うんや。

そらそうやろう。〝そいつ〟が「お礼に猫の世界へご招待します」と言うても、そんな事。

しかし、「ご招待」が現実になったと知った時、俺はとんでもない恐慌に陥った。

ああ、どうしたらええかさっぱり解らん。俺は、猫になってしもうた。

様子がおかしい事に気付いたのは、まず目を開いた時やった。妙に部屋が広い――というより天井が異常に高い。しかも、被っていた布団が重い。風邪でもひいたかと思うたが、寒気もしないし、むしろ暑いくらい。ついでに、視覚や聴覚、嗅覚までもが異常に過敏になっていて、頬の辺りがざわついて仕方なかった。

無意識に手を頬に伸ばすと、かつてないほどに髭が伸びていた。一晩で髭がびっしりと生える性質ではないはずやのに、なんやこのモッサリ感は。まるで何年も剃刀をあてていないんやないかというほど髭が濃くなっていた。そんな事あるかい、と思うたが、離した手が視界に入った時、俺は変な声を上げていた。

「ニャ」

ニャ? 電波の激しい女やあるまいし、俺はなんて声を出しとんのか――と一瞬考えたところで、サッと血の気が引いた。手がおかしい。自分の手ではなくなっている。どう見てもどう考えても、それは猫の手やった。

「フギャー!」

何!? ――と言うたつもりやった。ピンク色の肉球が動揺に震えている。

布団を這い出て慌てて身を起こすと、視界が異常に低い事が判った。いつもなら見えるはずの、積み上げている本の一番上が見下ろせない。見上げている。慌てて辺りを見回すと、両手がすでに猫である事に気付く。少し身体を捻ってみようとしたら、有り得ない角度まで曲がってしまった。

体が捩れた事に驚く間もなく、目に入ってきたのはこれまた毛がびっしり生えた背中、そして人間にあるはずのない尻尾。わけが判らなくてもう声も出ない俺とは裏腹に、尻尾はふらふらと楽しそうに揺れている。どうやら俺は、白黒の猫らしい。――いや、そうやなくて、なんで俺が白黒の猫なんや!

その時、これまで感じた事のない五感の何かに動かされて、俺は窓の方を見た。

そこには、昨日の昼間、おにぎりをくれてやった猫がいた。

「やあ、おはようございます。昨日はどうもありがとうございました」

そいつは夢に出てきた時と同じように、にやにや笑いながらそう言って尻尾を揺らしていた。どうやって入って来たのかと思うたが、昨晩俺は窓に鍵をかけなかった。器用なヤツめ、窓をこじ開けやがったな。窓は細く開いて、風にカタカタ鳴っている。

「どうですか、猫になった気分は。けっこういいもんでしょう?」
「おい、それよりこれは――

俺はするりと出てきた言葉をグッと飲み込んだ。喋ってるやないか。さっきの変な声はなんやったんや。

「そりゃ、猫同士ですからねえ。喋れますよ。人間には鳴き声にしか聞こえませんけど」
「いや、それはどうでもええから、それよりこれは一体――
「ですから、昨日のお礼ですよ、たぶん」

いや、お礼になってない。しかも、たぶんてなんや。

「そんなもんええよ、気にするな。お礼はもういいから戻してくれんか」
「あらら、お気に召しませんでした? でも、僕が猫にしたわけじゃないからなあ」

ごく普通の茶トラのそいつは、前足をペロペロ舐めながら不穏な事を言うた。いや、お前夢に出てきたやろうが。あれはなんや。お前やない言うんやったら、誰が。

「僕はおにぎりをもらった事に感謝しただけです。きっと猫の神様か誰かでしょう、うん」
「ええ加減な事言うなよ、そんなん困るんや。どうすれば戻る?」
「まあ、お姫様にキスしてもらうというのが一般的ですよね」

この現代日本のどこにお姫様がいてる言うんや! 俺は混乱と怒りがない交ぜになってしもうて、ばたりと倒れこんだ。猫独特のしなやかな腕が恨めしい。力を込めると、キュッと肉球が縮まって、ちょっと可愛い。いやいやいや、そうやなくて!

「なあ、頼むからどうにかしてくれ。何か知らんのか、戻る方法」
「だからお姫様の――
「そんなん言うても、お前お姫様なんて会うた事あるんか」
……いましたよ、僕にもお姫様が」

窓の細い桟に寛いでいたそいつは、急に目をぎょろりと開いて俺を睨み付けた。「いました」? お姫様が?

「お聞きの通り、僕は関東の生まれです。故あって越してきましたが、見知らぬ土地にびっくりした僕は家を飛び出し、以来、迷子の野良です。最初に越してきたのがどこなのかもよく覚えていません」

まるで人間のように遠い目をしたそいつは、視線を逸らしてあくびを1つ。

「僕の事を可愛がってくれた女の子、彼女が僕のお姫様です。まあ、僕は生まれつき猫ですけど」
「おい、ちょっと待て、意味が解らん。そやったらその子を探せばええんか?」
「その子は僕のお姫様ですよ。あなたのじゃない」

それやったら、俺のお姫様を探さないといけない言う事か?

「お姫様の心当たり、ないんですか。見かけによらず寂しい方なんですね」
「何もかも大きなお世話や。要するに、女ならええわけやな」
……混乱するお気持ちは解りますが、あなたそれ本気で言ってます?」

その辺を歩いている女に飛びついてキスすれば戻れるのかと思うたんやが、どうもそれでは駄目らしい。それ以前に、どうも俺は正常な思考が出来んようになっているらしい。目の前でのんびりしている猫の言う事が要領を得ないせいもある。

つまり人間に戻るには、「お姫様」にキスをしてもらわないとならなくて、それは女なら誰でもいいというわけではない。そこまではいい。さてじゃあ、その「お姫様」というのは、どういう基準で決まるのか。

「なあ、お姫様言うのはどういう人間ならええんか」
「あなた本読んだ事ないんですか?」
……口の減らんヤツやな。部屋中に散らかっとるやろうが」

俺にはそいつがため息をついたような気がして、少し苛つく。お前こそ生まれつき猫なら、本なんぞ読んだ事はないはずやろうが。

「あのねえ、お姫様にキスしてもらうには、あなたが善い事をして、相思相愛になればいいんですよ」
「なんや、本て童話の事か」

なんや、かえるの王子様か、と思うたが、ありゃ壁に叩きつけられて戻るんやなかったか。一体こいつは何と混同しているのか……本当にキスなんかで戻るんやろうな。しかも、善い事をして相思相愛、て。童話と違うて人間と言葉を交わせるわけでもなし、猫の身でどう善行せよというんや。

柔らかい指先を口に当てて考えていた俺に向かって、茶トラのそいつは招き猫のように手を挙げた。

「さあ、じゃあ行きましょうよ。お姫様を探しに」
「いや、ちょっと待て。人間はいきなり行方不明になれん」

さあ困った。ワープロとかパソコンでもあれば何とか書置きを残せるかもしれないが、生憎そんなものは持っていない。残るは、携帯電話のみ。果たしてこの肉球の付いた手であの小さいボタンを押せるか? いや、押せるか、やない。押すんや!

俺は携帯電話に飛びついて、格闘を始めた。畜生、誰や小型化なんかしやがったのは。

「まだですかあ」
「やかましい」

何度も失敗して、ようやく俺は一通のメールを打ち終えた。上手い事にEMC全員にまとめて送ったメールの履歴が1番最初に入っていた。これに返信すれば全員に届く。内容は、思い立って墓参りのついでにふらふらしてくる、とした。これなら何も突っ込んでは来ないやろう。

「待たせたな、そんなら――いや待て、出られん」

部屋のドアノブが果てしなく遠い。猫ならジャンプすれば届くのかもしれんが、猫初心者の身には心許ない。俺はぺたりと座り込んでドアを見上げた。いかん、人間に戻る前に餓死してしまうんやないのか。

「まだ混乱してるみたいですね。あなた今、〝猫〟なんですよ」
「それは解ったよ、でもこれは――

間違ってるのはお前の方だと言いかけた俺を無視して、そいつはくるりと身体の向きを変えた。そいつの背後には、狭い窓の隙間。おい、まさか――

「猫であればこの程度、どうって事ないでしょ。さあ、行きますよ」
「いやいやいや、猫言うてもまだ慣れてないんやし、受け身取りそこなったら死んでしまうやろ」
「大丈夫ですよ、猫はそういう風に出来てます」

そんなアホな。慣れてない子猫なら死ぬやろうが。しかし、どちらにせよここを出なければ餓死が待つのみ。

「よし、そんならお前を信じる。見本、見せてくれ」
「いいですよ。難しい事じゃありませんからね」

そうは言うたが、俺自身、四足歩行には最初から何の違和感も感じていなかった。二足歩行していた頃と、何も変わらん気がする。大丈夫、塀から転がり落ちて死んだ猫はおらん――と思う、たぶん。細くて狭い窓の桟にも、軽々飛び乗る事が出来た。あとは、この減らず口のやり方を真似ればいい。

窓の下には、アスファルト。ひらりと飛び降り――途中で1回転半くらい捻りを入れて――た茶トラを凝視していた俺は、肉球にじわりと汗が広がるのを感じたが、どうしたわけかまったく恐怖の方は感じなかった。茶トラの手本を見るまでもなく、こんな事は朝飯前のような気がして来た。

「おーい、いくぞ」

一応そう茶トラに声をかけると、俺は後ろ足に力を入れて、跳んだ。

次の瞬間、俺は何事もなく地面に着地していた。空中で何をしたのかも覚えていない。すごいもんやな、猫というのも。あの高さから飛び降りておいて、痺れ1つない手が不思議で開いたり縮めてみたりする。少々毛深いが、やはりちょっと可愛いやないか。

「ね、大丈夫だったでしょう。じゃ、腹ごしらえでもしてから行きましょうか」
「腹ごしらえ?」

つい鸚鵡返しにそう言うてしまったが、いやな予感がする。

「この先にご飯置いておいてくれるお婆さんがいるんですよ」

ビンゴ。この辺りでも有名な迷惑猫婆さんの事や。自宅の周辺に鰹節を乗せた白飯を無作為に置いては、近所の人に文句を言われている婆さんだ。お世辞にもその猫まんまはきれいなものではない。

「いや俺は遠慮しておく……
「何ですか、元人間ていうのは贅沢ですねえ」

なんと言われようとあれは願い下げや。しかし食事の問題は残る。茶トラの言う「お姫様」が見つかるまで、どれくらいかかるかも判らないのやから。さあ、どうするか。

とはいえ、どうするかも何もあったものではない。頼りに出来そうな人間と言うたら限りがある。

「そしたら、俺、行くわ。またな」
「おや、そうですか。それじゃ、また会いましょう。ところであなた人間なんだから、名前あるんでしょう」

尻尾をくるりと身体に巻きつけて、茶トラが聞いた。俺は少しだけ考えてから、言う。

「ああ、あるよ。二郎……ジロー、や」
「そうですか、じゃあジローさん、またね」

せっかく名乗ってやったのに、茶トラは名乗り返す事もなく去って行ってしまった。

「さて、行くか」

果てしない道のりになるやろうが、行かねばなるまい。助けてくれ、可愛い後輩達よ!