迷い猫探偵

04

は学校に行ってしもうたし、腹は膨れたし、眠いし――

万が一隣人が在宅とも限らないので、迂闊にテレビをつける事も出来ない。そう薄い造りの壁ではないようやが、それでも静かな午前中の住宅街の事、誰もいないはずの部屋からテレビの音が聞こえてきてはまずかろう。ああ、暇や。暇やけど眠い。

本でも読んで時間を潰したいところやが、俺の部屋と違うて、の部屋はちゃんと片付いているから、こっそり読んで戻しておくという事も出来んようや。そもそも、床の上には何も転がってない。机の上もテーブルの上も同じ。ああ、暇や……そんで、眠い。

そんな事を考えているうちに、俺はまたぐっすりと眠ってしまったらしい。いい塩梅でだるい身体が、物音にぴくりと反応した。顔を上げ、物音がした方――ベランダを見ると、なんとあの口の減らない茶トラが窓を引っかいている。よくここが判ったな。というかここは何階やったか?

「こんにちはジローさん、こんなところにいたんですね」

そんなまさかとは思うが、猫いうものはテレパシーかなんかで話しとるもんなんか。窓越しでも茶トラの声ははっきりと聞こえる。窓を開けてやりたいが、猫の身でクレセント錠を開けてやる器用さが俺にあるとは思えん。

「お前か。悪いな、開けてやれんで」
「いいんですよう、そんな事は。それより、人間に戻るの諦めたんですか。まあそれもいいでしょうなんせ――
「おいこら、そんな事は言うてへん。ここは後輩の家で、仕方なく世話になってるだけや」

相変わらずぺらぺらとよく喋るやつだ。

「お前の言う『お姫様』を探す間、寝床と食事を提供してもろてるだけや」
「ふうん、親切な方なんですね」
「ああまったくええ後輩を持ったもんや。まあちょっとここから出られんのは困ってるが」

そう、それをどうにかせんと、お姫様探しどころではない。

「はあ、寝ぼけて閉じ込められたわけですね」
「お前はどうしてそう、いちいち癇に触るものの言い方をするかな」
「しかし……女の子みたいな部屋ですね、あなたの後輩さんはそういう趣味がおありで?」
「俺の後輩イコール男いう発想に至る根拠はなんや。後輩は女の子やから余計な勘繰りはよせ」

どうもこいつは失礼が過ぎるような気がするが、生まれつきの猫に人間の礼儀を当てはめても仕方ない。だが、茶トラのそいつは目を細めてぐっと窓に近寄ってきた。……こいつはたまに、こんな風に妙に迫力のある仕草をする。俺の部屋で自分にも「お姫様がいた」と言うた時もこんな感じやった。

ただの野良猫、と道端の石ころにも等しい意識しか抱いていなかったのは、俺が人間やったからか。猫という同等の立場になってみると、長く野良生活を経験してきたこいつの方が、度胸が上という事になってしまうのやろうか。怖い、というんではなく、変な威圧感がある。

「女の子、なんですか?」

ゆっくり開いた目が、きらりと光る。いや、錯覚やない。こいつ、豹変しとる。なんなんや、一体。

「ああ、大学の後輩。唯一俺を連れ帰れる部屋に住んでたもんでな……

一応返事をしてみたが、どうした事か、窓一枚隔てた茶トラから俺は逃げ出したかった。わずかに胸を反らしていた俺の方に向かって、茶トラはにじり寄ってくる。大丈夫、窓があるんやから――

「じゃあ、その子に、お姫様になってもらったら、いいじゃないですか」

一歩歩くたびに一言ずつ区切って、茶トラは窓に近づいてくる。なんやなんや、このホラーくさい展開はどういう事や。女なら誰でもええわけやない、と言うたのはお前の方やろう。女の子の――の家に厄介になってたら何かまずいんか?

「女の子なら誰でもええわけや、ないんやろう?」
「お姫様の可能性は、どんな女性にもあるんですよ」
「しかし――

そう言いかけた俺の目の前で、茶トラのそいつは、パッと牙を剥いた。おい、どういう事や。俺は猫初日よりも動揺している。もしこの時、ドアの鍵が開く音がせず、がマリアを連れて帰って来なかったら、俺は一体どうなっていたんやろう――

「ニャローッ! ただいま!」
「ニャロー? ジローさんじゃないんですか」

茶トラを取り巻いていた、妙な威圧感が一気に緩む。そして、彼にとっては「ジロー」である俺をニャローと呼ぶ声に、くすりと笑われた気がした。くそう、ニャ神ニャ郎とか言いやがったやつは誰やったかな。ドアをばたんと開けたは、勢いよく部屋に駆け込み、窓を挟んで茶トラと対峙している俺を見ると、またデレデレになった。

「え、なにニャロー、お友達?」
「どうしたの、――あれ、ニャローってば彼女?」

おいおい、お前らどういう思考しとるんや。だが、はいそいそと窓を開いて茶トラを招き入れた。茶トラのやつも甘えた鳴き声なんぞ立てて、のっそりと入ってくる。

「あれ。彼女じゃないや。この子オスだよ」

そういうマリアに茶トラは擦り寄る。ニャアンと可愛らしく鳴いて、マリアの手に撫でられるままになっている。

「おいおい、どういうつもりや」
「いいじゃないですか、僕もちょっとお邪魔したって」
「わあ、懐っこい子。ニャローも見習ってよ」

マリアにごろごろと喉を鳴らして甘える茶トラを見て、は鼻を鳴らした。おい。知らぬ事とはいえ、そこの茶トラみたいに甘えろというんか。この俺に。何か他に出来る事があるはずや。

「え、何、昨日はあんなにべったりだったのに、冷たいの?」
「そうなのよ。疲れてたんだとは思うんだけどさ、一緒に寝てもくれなかった」

2人揃って若い娘が、そういう誤解を招くような言い方をするな。というか、なんなんや俺も。お父さんか。お父さんなのか。いや、可愛い後輩を案じてる、優しい先輩なだけや。そうや、そうに決まっとる。

マリアの膝に納まってしまった茶トラがニヤニヤしているようで、俺は気分が悪い。だが、無関心を装ったつもりの俺は、の膝に乗せられてしまった。俺が茶トラのように飼い主に甘えてこないもんだから、のやつ、嫉妬したんやな。

「あなたねえ、やっぱり贅沢ですよ。お姫様になれる女の子、2人もいるじゃないですか」
「なんでそこに直結するのか、意味が解らん」
「解らない? そうですか、ふうん――

茶トラの言葉、そしてすっと閉じられてしまった目も、意味が解らない。やマリアがお姫様候補になる? 俺が善行をして、どちらかと相思相愛になる? 猫が何かにちょっと役立ったところで、やマリアは俺を愛するようになるとでも言うのか? そんなまさか。

しかも、昨晩の様子では――

「江神さん、連絡ないね」
、あんまり考えすぎちゃだめよ。江神さんだって子供じゃないんだし」
「だから不安なんじゃない」

変なタイミングで俺の話をしだした2人の声に、俺はぴくりと尻尾を震わせた。茶トラもいるというのに、そんな話は、正直聞きたくない。ましてや、本人がいないという前提で交わされる言葉を、当の本人が聞いているというこの居心地の悪さ。あまり突っ込んだ話をしてくれるなよ、2人とも――

「あれっ?」

おう、どうしたマリア。

「この子、首輪に何か――

話が逸れた事に安堵した俺は、マリアに顎を持ち上げられている茶トラに目を凝らした。も首を突き出して茶トラを覗き込んでいる。……あー、くん。気持ちは解るが、俺を膝に抱えたまま前屈姿勢になるのはやめなさい。背中に、当たります。

「どしたの?」
「何か書いてある。かすれててよく読めないけど、これは住所、かな?」
「へえ、じゃこの子どこかで飼われてる子なのね」

は? 茶トラは野良やと自己申告しとったが……

「でも、変よ。見てここ、東京都本郷区ってある」
「え? なにそれ、おかしいよ。どういう事?」

生まれも育ちも関西である俺は、関東に生まれ育った2人の疑問に瞬時に反応できなかった。だが、何かにつけてその名を聞く首都東京23区の事や。少し考えれば判る。マリアの声が少し震えていた。

「本郷区なんて、〝今は存在しない〟じゃない、どういう事よ」

も、マリアも、俺も。妙な空気に包まれて沈黙した。

その中で、茶トラ1人がにんまりと笑うように目を細めていた――

その後の2人の会話を要約すると、こういう事になる。

茶トラの首輪に書かれていた住所、本郷区は昭和22年に小石川区と合併して文京区になっている。本郷といえば、かの東京大学がある事で有名やが、その地名が区名として使われていたのは遠く遥か昔の事で、つまり茶トラの首輪にある住所は存在しない事になる。

しかし妙なのは、例えば茶トラの首輪が本郷区が存在していた時代に作られたものであるとして、それなりの経年劣化が見られるのならまだしも、そこまでの劣化が見られないという事。文字こそかすれているが、とても1940年代の代物とは思えない。

俺だけやなく、やマリアも当然の疑問にぶち当たる。

1940年代の〝お古〟を使っているのではないとしたら、なぜ〝存在しない住所が書かれている〟のだ。

とマリアの2人はやたらと気味悪がっていたが、俺もそれには同感。のんびりとマリアの膝で寛ぐ茶トラが、化け猫のように見えてくる。そんな事を信じる気にはなれないが、事実俺はこうして人ならぬものへと姿を変えている。全部、こいつの仕業やったとしたら――

「やだなあ、この子、戦前の東京に心酔してるとかいう人に飼われてるんじゃないでしょうね」
「うわ、怖い。帝都東京府よ今一度、とかそういうの?」

いやいやいや、お前たちはどうしてそう明後日の方を見るんや。というかそんなやつおるんか。だが、それはともかく、や。幸か不幸か、達と意思の疎通は行えない代わりに、俺は茶トラとは話が出来る。

「おい、どういう事や」

わけのわからない事続きで、俺も苛立っていた。目一杯凄んだつもりやったが、茶トラはまた豹変した。

「人間のルールなんて、僕には関係ありませんよお」
「問題なのは人間のルールやない。お前も聞いてたやろう、問題は――
「僕はお姫様を探してるだけの、野良ですからねえ」

半音高くなる語尾が気色悪い。だが、そんな事に怯んでいる場合やない。俺はあくまでも反論しようとしていたのやが、茶トラは豹変を解くと、前足の肉球など舐めながら、機嫌よさそうに言う。

「ねえジローさん、いや、ニャローさん? 僕のお姫様探し、手伝ってくれません?」
「は? 何を言うて――
「ほらほら、善い事をしないと人間に戻れませんよ」

茶トラの薄く開いた目が今にも豹変しそうで、俺は何も言い返せなかった。