未完の恋物語

10

「ちょうど娘たちにあの頃の話をしてたの」
「信長くんの奥さんでしたか」
「そう。私の後継ぎ」

柿田氏にお茶を出した由香里はニヤリと口元を歪めた。そう、女将、由香里ときて、は次世代の清田家の嫁であり、中心となってこの家を守っていく女である。また、女将や由香里が望んだように、もその道を目指している。

「もう、38年前になりますか。お父さんは――
「もし生きてたら87だわね。いくらなんでもと思うけど、昨今の年寄りは元気だから」
……実は、東京本部の会長が、まだ生きてます」
「えっ? 海外に潜んでるんじゃなかったの?」
「10年ほど前に心臓を患って、治療のために帰ってきたんです」
「図々しい話ね。毒ガスをバラ撒こうとしたくせに」

由香里の父親が逃亡、行方不明になってから1年ほどで、かの組織は事実上の解散状態であることが確認された。組織の中心となっていた上層部が由香里の父親の事件を機に海外に飛び、思想を同じくする者同士の結束が維持できなくなってしまった。

しかし、思想そのものは残り、何度も何度も組織らしきものが現れては消えを繰り返した挙げ句、21世紀を目前に東京本部が出現。由香里の父親が所属していた頃のメンバーは誰もいなかったし、柿田氏らがしっかり調査したけれど、旧世代の構成員の血縁なども認められなかったという。

やがてそこに旧世代の遺物が心臓を患って帰国、都内のアパートの一室で思想をこじらせていた東京本部の会長に据えられた――と柿田氏は言う。

「でも、あの頃のような勢いも資金も、今はありません」
「じゃあなんでまだそんなこと」
「東京本部の設立メンバーは新世代ですけど、若いわけじゃない。ですからその、勧誘ですかね」
「カルトじゃあるまいに」
「本質はそれと変わりませんよ。信仰を語るか思想を語るかの違いくらいで」

柿田氏はそう言ってお茶を啜り、長くため息をついた。

……今日で最後、だったのよね?」
「はい、そうです。というか、とっくに退官した身ですしね」
「私がカキさんじゃなきゃ話さないって言ったから、余計な仕事する羽目になったわね」
「無給なので仕事じゃありません。ボランティアです。しかも日曜に」
「しょうがないわよ。いきなり若造が来て上から目線で話されたら頭に来るじゃない」

由香里の物言いに柿田氏は堪えきれずにくつくつと笑った。柿田氏が退官する10年ほど前、月に一度のヒアリングを交代することになったと新人が来た。だがその新人君、事件当時はまだ小学生という年頃で、しかしあまりにも高圧的だったので由香里が激怒、すぐさま追い出した。

そして異変があった時のための連絡先へ電話をし、柿田以外の捜査官には一切話はしないと啖呵を切り、おかげで柿田氏はこの38年間、毎月欠かさずに清田家を訪問する羽目になった。下手な親戚よりお馴染みである。しかも退官後は無給で奉仕。

……由香里さんも、変わりましたね」
「そりゃあ38年も経てば老けるわよ」
「そういう意味じゃありません。すっかり自由になられたなと」

由香里がレースのリボンに口紅をつけるくらいが精一杯だった頃を知る柿田氏である。現在のラメ入りの服に宝石のついたアクセサリーの由香里は、同じ人のようで別人にでも見えるに違いない。

……もう無意味なことですけど、一応ね。父からは連絡はありません」
……はい、わかりました。何か変わったことは、ありませんか」
「さっきはつい甥っ子って言ったけど、久々に同居人が増えたわね。30代と2歳の男の子よ」

38年間、この繰り返しだった。由香里があまりに忙しいので、玄関先でこのやり取りだけということもあった。父親からの接触は、何か変わったことは。異変があればすぐにお知らせください――

「もう、来月からはお伺いしません。清田さんもホッとされるでしょう」
「まったく、ねえ……今でも何となく疑ってるところ、あるのよね」
「それだけあなたのことを愛してるんでしょう。見せつけるようにプロポーズしたくらいなんだし」
「ほんとにまったくその節はお恥ずかしいところを……!」

由香里の妹が疑ったように、新九郎もまた柿田氏が由香里に懸想していると考えていた。なのであの稚児ヶ淵でのプロポーズは半ば勢いであり、由香里の向こうにちらちら見え隠れする柿田氏への宣戦布告のつもりもあったのだ。この女はオレのものだ、横恋慕してんじゃねえ。

「しかしこれでやっと私も自由になれます。ご安心ください、私も結婚してます」
「そうよねえ」
「えっ」
「私はすぐわかったわよ。ネクタイの結び目の形が変わったんだもの」
……女性は怖いですね」

柿田氏は安全上の理由から月に一度のヒアリングをする、それ以上のことは全て職務の範囲を逸脱しているとして、雑談にも応じず、従って彼のプロフィールというと、氏名くらいしか由香里も知らされてはいなかった。途中、ネクタイの結び目の形で奥さんを持ったんだな、と気付いたくらいで。

「でもそんな秘密主義で、よく結婚できたわね」
「警察には専用の合コンみたいなのがあるんですよ。身元の確かな人しか参加できない」
「へ、へえ……
「そこで知り合った方の、さらに紹介でしたけどね」

鉄仮面の柿田氏はちょっと照れているらしい。頬を人差し指でほりほりと掻いている。

「ご主人や妹さんはしきりと疑ってましたが、言うほど思い詰めてたわけではありませんでした」
「そりゃそうよ。あんな事件の最中だし、知り合って数日というところだもの」
「確かに素敵な人だなとは思いましたが、ご主人を見ちゃったらね」
「関わりたくないと思ったでしょ」
「思いました」

由香里も最初は関わり合いになりたくないと思ったものだった。ふたりは揃って笑った。

「厳密には事件は起きていないし、組織は完全に消滅していないし、お父さんの死亡だって確認されたわけではない。仰る通り、87歳でも元気に思想活動している可能性はゼロではない。でも、我々ももう過去の記憶から解き放たれてもいい頃合いですよね」

由香里同様真っ黒だった柿田氏の髪は真っ白。彼はその頭を撫でて、背筋を伸ばした。

「長い間、ご苦労様でした」
「カキさんもね。もう、ゆっくりしましょうね」
「ええ。残りの時間は孫のために使いたいもんです」
「あら! お孫さんいらっしゃるの! やだあ、お互い年取ったわねえ!」

由香里の大きな声がリビングにこだまし、その様子をとエンジュはリビングのドアのガラス越しにちらりと見ていた。あんな話を聞いてしまったものだから、柿田氏がどんな人なのか見てみたくなってしまったのだ。

「なんなの、カキさんもイケメンじゃん。若い頃かっこよかっただろうな〜」
……エンジュはああいう男臭い感じの人ほんとに好きだよね」
「そりゃあ男なんだから男臭い方がいいだろ。でもあれ、マジでゆかりんのこと好きなんじゃないの」
「顔だけ見てる分には私にもそう見える」
……でももう、来ないんだよね」

足音を立てないようにその場を離れ、ふたりは2階へ戻っていく。

「うーん、オレだったら別れ際に抱き締めてキスしちゃうな」
「エンジュと一緒にしたら可哀想だと思う」
「だってもう二度と来ないんだよー」
「それって、痴漢行為だと思う。警察の人だよ」
「なんで君らは女子のくせにそうドライなのさ」

女将、由香里、。エンジュは唇を尖らせて突っ込むが、清田家の嫁はそういうタイプを呼ぶ運命にあるのかもしれない。はつい笑った。

「でもなんか、話聞けてよかった。いつか子供たちにも話してあげたいな」
「オレは……どうやって話していこうかな……

肩を落とすエンジュにがケタケタと笑っている頃、玄関では由香里が柿田氏を送り出していた。エンジュと違い紳士で分別のある柿田氏は、最後にはがっちりと固い握手を交わし、深々と頭を下げて帰っていった。それをのちに、由香里は「同士」だったと表した。

あの人もまた、同じ時代を共に走り抜けてきた、同士だったのよ。

その日の夜、これで月イチのヒアリングが終了したと報告すると、柿田氏の予想通り新九郎は「やっと終わったかー!」と安堵のため息、そして布団の上に大の字になって転がり、満面の笑みを浮かべて腹を撫で回した。心底ホッとしたらしい。

「でも私の言った通りだったじゃない、カキさんもお孫さんいるんですってよ」
「子供がいようが孫がいようが、ああいうのは関係ないの」
「勘繰り過ぎじゃないの、こんないい年して」
「由香里がいい年してニブチンなだけだろ」

もう柿田氏が訪れることはないというのに、新九郎は譲らない。

「何年経っても彼の目は変わらなかった。途中どこかで結婚して子供が生まれたんだろうけど、それでも君を見る目はずーっと同じだったんだよ。きっと一生あいつの心ん中には、あの頃のかわいい由香里がいると思うと腹立つんだよな」

遠い記憶にイチャモンをつけられても。由香里は呆れた。

「職業柄ポーカーフェイスが得意なんでしょ」
「いーや違うね。なぜならオレと同じ目をしていたからな」
「そんなら大した節穴だわ」

笑って返した由香里が布団にごろりと横たわると、新九郎のぶっとい腕が伸びてきた。ぶっといせいで新九郎の腕は重いので、そっと寄り添って手を繋ぐ。

……今日、あの頃のこと、とエンジュに話したの」
……そうか」
「これまで一番詳しく話したのは頼朝だけど、それよりちゃんと話した」

由香里も新九郎の手に手を重ね、優しく撫でる。

「もし親父さんが生きてたとしたら……ええと」
「87。生きててもおかしくはないけど、どうかしらね」
「すっきりしないまま終わりそうだな」
「あのまま海に沈んじゃってればいいんだけどね。上がらなかったから」

沖で転落したならともかく、由香里の父親は稚児ヶ淵という浜から近い場所で海に飛び込んだ。当時柿田氏も報告してくれたが、数日の内に水死体の類は見つからなかった。逃げおおせてしまった可能性はゼロではない。新九郎は頷きつつ、低い声を出した。

「今はもうそんな気はないけど、頼朝が生まれた後だな、あんたは一体嫁子供にさんざ迷惑かけて、それを何とも思っちゃいねえのかって言いたくなったことがある。情けねえ、みっともねえ男だ、それが思想活動だなんて、子供の駄々みたいなもんだって、無性に腹立ったんだよな」

何とも思ってないからあんな父親だったんだろうと由香里は思うが、黙っておく。新九郎は頼朝が生まれた時は大層喜び、まだ歩けない頃の頼朝を背中に背負って仕事に行きたいとグズっていた。以来新九郎は自分の子でも他人の子でも、子供が大好きである。父親とは正反対だ。腹も立とう。

「それをあんな江ノ島からドボンだからな」
「その現場でプロポーズしたあなたもどうなの。たち苦笑いだったわよ」
「あれ、そのことも詳しく話しちゃったのか」
「そのあとカキさんたち引き連れてモーテル直行だったことは言ってないわよ」

棘のある声で言う由香里に新九郎はヒゲを震わせて笑った。江ノ島でのプロポーズのあと、ふたりは警察の車両を引き連れてモーテル、現在で言うところのラブホテルに直行、柿田氏を含めた捜査員3名はモーテルの前でふたりが出てくるのを待つ羽目になった。

「だって由香里がいいよって言うから」
「私のせいにしないでよ。今にして思うとよくもまあ恥ずかしいことしたもんだわ」
「ここまですりゃ諦めるだろうと思ったんだけどなあ。さすがに警察、諦めが悪かった」
「本当の目的はどっちだったのよ」

勢い任せとは言え、今更になってモーテル行こうなんて誘いに頷くんじゃなかったと由香里は思えてきた。どのみち結婚はするんだし、わざわざ柿田氏たちが後ろを追いかけてくる状況でそんなところ行かなくても。まさかとは思うが、乙女の純潔を利用したのか?

だが、新九郎はヒゲの口元を由香里の頬に擦り寄せて鼻で笑う。

「そんなの由香里に決まってるでしょ。ずっと我慢してたんだから、1秒だって待てなかったよ」
……まあそういう勢いだったわよね。酒も飲んでたし」
「でもオレは約束守ったろう? 夫としても、父親としても。どうよ」
「約束の中に『体型維持』ってのも入れとくんだったわね」

由香里は新九郎のビール腹をぼよんぼよんと揺らす。エンジュが悲鳴を上げたように、あの当時の新九郎はギリシャ彫刻のような美しい体を持っていた。モーテルで初めてそれを目の当たりにした由香里はつい、6つに割れた腹筋をベタベタ触ったものだった。

……そっちこそ、後悔してない?」
「してるわけないでしょ。あの頃も今も、あなたは最愛の妻ですよ」

動物園デートから始まり、新九郎と由香里は夫となり妻となり、やがて父となり母となり、そして今おじいちゃんとおばあちゃんにもなった。長いようであっという間の日々、由香里は未だに素直にならないけれど、ずっと仲良く過ごしてきた。

新九郎は約束を守り、妻と子供と会社をも守り、それが幸せだと言える男であり続けた。

由香里が父親にもらえなかったものは、新九郎が全て与えてくれた。むしろ、こうして新九郎から全てを与えられる人生であったから、父親からは何ひとつもらえなかったのかもしれないと思うほどだ。由香里もそれを後悔したりはしていない。

今なら自分の人生なかなか幸せだったと言えるなあ、と由香里は思った。しかしまだまだ道半ば、楽しいことはたくさんあるに違いない。それを新九郎とふたりで探していきたい。

そしていつか、死ぬまでには一度くらい言ってやるとしよう。

私もずっとあなたが大好きで、最高の父親で、最愛の夫でありました、と。

だけどそれはまだまだ遠い先の話。だからまだ言わないわよ、新九郎さん。

END