未完の恋物語

7

新九郎と由香里が交際を始めてからというもの、それまでの「子供っぽい」デートはぱったりとなくなってしまった。由香里は依然としてどこに行きたいとかいう願望がなかったのだが、新九郎の方が景色のいい場所や、ショッピングに誘うようになった。

日曜のデートを暗くなる前に帰らなければならないのは変わらなかったが、週に1日や2日、残業のふりをして駅前で会ったり、清田家に顔を出したりと、由香里と新九郎の距離は一気に縮まった。

ふたりでいる時は手を繋いでいたし、景色の良い場所でのんびり座って話をする時は新九郎が後ろから由香里を抱き締め、寒い季節なのを良いことにベタベタくっついていた。そして、ひと目のないところではキスをし、すっかり熱々な関係になっていた。

この頃になるとさしもの由香里も「この新九郎にくっついていたいと思うのは、好きということに違いない」と思い始め、ようやく自覚らしきものも得ていた。

「でも私、新九郎さんのお母さんに憧れるな」
「えっ、あのきっついパーマがいいの?」
「そういう意味じゃないわよ。そう、なんていうか、あんな風に解放されたいの」

いつしか敬語を使うことも忘れたふたりは、自転車でのんびり走っていた。清田家の帰りである。親方は由香里を送るならいつでも車を使えと言ってくれているのだが、車より自転車の方が長く一緒にいられる。その上、ぎゅっとくっついていられる。

「お母さんは自分で好きなお洋服を選んで、色眼鏡にして、真っ赤な口紅をつけてるわけでしょう。あのギラギラしたお母さんを見てると、自由ってこういうことなんじゃないのかしらって思うの。またお父さんが何も言わないじゃない。うちじゃありえないわ」

新九郎いわく、彼の両親は周囲の反対を押し切って駆け落ち同然に結婚したらしい。何しろ父親の方が寡黙なので詳細は聞いていないそうだが、まあ自分たちの意思で強引に結婚を勝ち取ったくらいなので恋女房なのであろう。

「由香里さんは化粧っ気ないからねえ」
「目に見えてわかる出費は出来ないもの。食費と光熱費と水道代以外には使うなっていう人だから」
「人には衣食住が必要なんだけどねえ」
「最近玄関がガタピシ言うんだけど、直す気もないのよね」
「職業柄聞き捨てならないけど、手は出せんもんなあ」

由香里は首を伸ばして抱きつき直すと、少し声を潜めた。

「私がお化粧とかするの、嫌?」
「えっ、なんで」
「だって、知り合った頃は口紅すらつけてなかったから」
「由香里さんが楽しいって思うことを、なんで嫌がるの。どんどんやりなよ」

抱き締められるよりキスされるより、由香里は何よりこうした新九郎の何気ない言葉に胸を締め付けられるようになっていた。問答無用で上から押さえつけるだけの父親と違って、新九郎は心のままの由香里を好きだと言ってくれる。それがたまらなく嬉しかった。

「あっ、そうだ! じゃあクリスマスプレゼントはお化粧品にしようか」
「えっ、クリスマス!?」
「今度デパートに見に行こう。何でも好きなの買ってあげる」
「だ、だめよそんな高価なもの! 私何も返せないわよ!」

新九郎は信号で自転車を止めると、体をねじって振り返り、にんまりと笑った。

「お返しはチューでいいよ。由香里さんからしてね」

由香里は新九郎の背に顔を押し付け、「バカ!」と言うことしか、出来なかった。

新九郎と由香里が親密な関係になって半年が過ぎ、ふたりが出会ってからも1年が過ぎた。相変わらず由香里は働きながら家計を支え、父親の目を盗んでは新九郎と会ったり清田家に遊びに行くという日々を過ごしていた。

清田家ではすっかり馴染みの顔になり、出入りの職人さんたちにすら「早くお嫁に来ればいいのに」と言われ始めた頃のことである。

ある土曜日、半日で仕事が終わった由香里はしかし、新九郎が遠い現場で夕方を過ぎないと帰れない予定だったので、のんびり歩いて家に帰ろうとしていた。すると、自宅の前に背広を着た男性が数人いるのが見えた。知人ではない。一体何だろう。

由香里が首を傾げていると、背広の男性たちはいきなり躍り上がって三芳家の中に飛び込んでいった。由香里の背中がサッと一瞬で冷たくなる。

足がすくんでしまって、途端に由香里はのろのろ歩きになった。隣家の犬が狂ったように吠える。一体あの背広の男たちは何なんだろう。どうか母が家の中にいませんように、妹が高校やアルバイト先にいますように――そう祈っていた。

すると、ドカン、ガチャン、という物が倒れたり壊れたりするような音が聞こえてきて、それを追うように三芳家から誰かがまろび出てきた。

サンダルをつっかけて飛び出てきたのは、父だった。

彼は焦って左右を見回すと、離れた場所にいる娘に一瞬、目を止めた。そして、顔をしかめると舌打ちをし、由香里がいるのとは反対方向へと走り出した。

由香里はその場にへたり込んで、一生懸命息を吸っては吐いていた。意識的に繰り返さないと、呼吸すら上手く出来なかった。はっきりしたことはわからなくても、父が何か問題を起こしたのだということだけはわかった。でなければ、あんな風に逃げたりしないじゃないか。

そして彼は、父は、血を分けた娘の顔を見て、舌打ちをした。由香里は今更ながらに、自分の父親が彼であることを呪った。どうして私のお父さんは私の顔を見て舌打ちをするような人だったのだろう。どうして娘を愛してくれる人ではなかったのだろう。

悔しさと怒りと悲しみとが一緒に襲いかかってきた。

直後にまた三芳家から背広の男性が飛び出してきて、父親の後を追いかけていった。だが、少し遅れて若い男性が出てくると、彼は由香里に気付いて近付いてきた。

「三芳由香里さんですね」
「は、はい……
「警察のものです。お怪我はありませんか」
「い、いえ、何も」

新九郎と同世代くらいに見えるその背広の男性は由香里に手を差し出すと、背中を支えて引っ張り上げてくれた。由香里はまだ膝が笑っていた。

「あの、あの」
「ひとまずお宅へ戻っても構いませんか。伺いたいことがあります」

支えてもらわないと歩けない由香里は、その男性に促されて自宅へ戻った。すると、玄関先にエプロン姿の母親が腰掛けており、下駄箱に寄りかかって口をだらしなく開いていた。その瞬間由香里は気力を取り戻し、よろよろしつつも母親に駆け寄った。

「由香里、どうしよう、由香里」
「お母さんしっかりして、お家の中に入ろう、ね?」

茶箪笥がひっくり返り、ちゃぶ台が窓を突き破って庭に転がり落ちていた。それを避けてテレビの前に腰を下ろすと、背広の男性は「柿田」と名乗った。警察のものだと言って手帳の表紙は見せてくれたが、中身は開かなかった。

「お父さんが、思想に基づく活動をしていることは、ご存知ですね」
「はい、学生の頃からだと、聞いています」
「お父さんの世代だと学生運動よりかなり古いですから、ああいうのとはちょっと違いますが……

柿田氏は咳払いをすると、一枚の紙を差し出した。

「それが、お父さんが参加している思想グループの名簿です。下の方に名前がありますね」
……準備班、研究員」
「お父さんの、まあ言ってみれば、役職です」

怯えた目で見上げる由香里に、柿田氏は言った。

「あなたのお父さんには、毒ガスを使ったテロを準備していた疑いがあります」
……なんですって?」

母はもはやまともに話を聞いていないようだが、由香里は低い声で聞き返した。

「ここ2年ばかりの間に、このグループはかなり大きくなりましてね。お父さんが遠方へ出かける回数も多かったでしょう。ずいぶん遠くまで足を運んで仲間を増やしてたのです。その中に、過激派が生まれてしまったんですね。あなたのお父さんもそのひとりでした。毒ガスを使い、4都市を攻撃する計画が立てられていました」

過激派……? 毒ガス……? 由香里もだんだん現実感がなくなってきた。

「ちょっと前に連続爆破事件がありましたからね、警察はそっちに夢中だと思ったのかもしれません。こちらにそこそこ情報が漏れていることにも気付かないで、計画は進められていきました。そして先月、過激派のひとりを窃盗罪で押さえました。毒ガスを作るのに使う薬品を盗んだからです。その取り調べの中で、盗んだ薬品の届け先が、あなたのお父さんの予定だったことが、わかったんです」

そこまでバレていたら、父は逃げるしか手がなかったに違いない。由香里は納得したけれど、父に対する怒りはどんどん強くなるばかりだった。愚かな。明晰な頭脳を持ちながら、なんて愚かな真似を。

「ただ、お父さんの専門は毒ガスではなかった。そうですね?」
「は、はい。父は農学部で、農芸化学とかいうのが専門だとか、そんな話で」
「だけど薬品や器具を扱うのには慣れていた。そのため、毒ガスの準備の監督をしていたらしい」

そして由香里は顔を跳ね上げた。親方が、父に見積もりを頼まれたことがあると言っていた。

……何か思い出しましたか」
……庭に、作業小屋を建てたいと、工務店さんに見積もりを依頼したことが」
「今はありませんね。いつ頃建てて、いつ頃壊しましたか」
「いいえ、建てませんでした。見積もりを出してもらっただけで、何もしなかったみたいで」
「見積もりを依頼したのはいつ頃のことですか」
「そ、それはちょっと……後で話を聞いたもので」
「依頼したのはどこの工務店かわかりますか」
「えっ!?」

結局建てることのなかった小屋の見積もりの時期まで知る必要があるんだろうか。それ以前に依頼を受けたのは清田工務店である。由香里の父親から受けた見積もり依頼についての詳細を警察が聞きに来たなんて親方に知れたら。また由香里は背中が冷たくなってきた。

「し、知りません」
……では、その話は誰から聞きましたか」
「そっ、それは、父からです。み、見積もりは出したけど、気に入らなかったって」
「奥さん、本当ですか」
「ちょっと! 母に構わないでください。ショックを受けてるんです」

由香里は思わず母と柿田氏の間に腕を伸ばして遮った。だが、柿田氏は表情も変えずに由香里に向き直ると、身を乗り出した。由香里はついそれを避けて逃げ腰になる。

「先程の名簿、お父さんは下の方に名前がありましたね? 確かに毒ガスを作る組の監督をしていましたが、お父さんは組織の中でも偉い人ではありませんでした。上の指示に従ってあれこれと雑務をこなす構成員に過ぎません。だから、我々はあなたのお父さんを逮捕しに来たのではないんです。あなたのお父さんが自宅に保管していると思われる、組織にとっては有用な資料や、実験器具など、それを持っているかと確認しに来ただけだったのです。だけど、お父さんは逃げてしまった」

しかし、由香里は眉をひそめて首を傾げた。そんなものをしまう場所は、ないんだけど。

「おそらく、後日捜査令状が出てお宅を調べることになります」
「あの、そんなもの、ないと思うんですけど」
「なぜですか」
「そんなものを隠しておく場所があるほど、広い家ではないです」
……それは専門家が調査します。しかし、そのように、あなたのお父さんは組織の中では下の方に属しながら、中枢に関わっていた疑いがあり、本人も捜査員が名乗るなり逃走してしまった。もしかしたら、名簿を改めなければならないかも知れません。つまり、あなたのお父さんが組織の中でいつどのように何をしようとしていたか、それを我々は全て知る必要があります。その名簿の構成員のほとんどは監視下にありますが、野放し状態なのです。罪なき人々の安全のために、ご協力願います」

柿田氏の言うことは正しいんだろう。資材調達担当を捕まえたら、下っ端だと思っていた構成員の名が出てきた。事情聴取の体で家に来てみたら、何を話す前から逃亡。「下っ端構成員」だという情報自体を疑いたくもなる。だが、清田家は、新九郎には――

……その工務店には、私の親しい方がおります。あなた方は、そこに、私の父が毒ガス魔かもしれないと、言いに、行くのですね。罪なき人々の安全のために、私と、親しい人を、引き裂くのですね」

新九郎を、好きだと思った。これまでになく強く思った。けれどその気持ちは、三芳由香里の父親が毒ガステロを計画してた疑いがあるので、ちょっとお話をという「正義」のために、奪われるのだと思った。もしかして、清田家に嫁に行けるのかもしれないと思っていたのに――

新九郎は、由香里にとって唯一の希望だった。「好き」と思うことすら知らぬ自分を受け止め、どんな時でもあなたが好きですと愛情を傾けてくれる彼は、安らぎであり、支えであり、夢であり、朧気な未来の光だった。それを失うのか。父のせいで、父親という存在のために。

人はみな口を揃えて「親を敬え」と言う。この世に授けてもらって、育ててもらって、その恩はどれだけ返しても返しきれるものではないと言う。果たして、自分は父に一体、どんな恩があるというのだろうか。愛情も、まともな生活も、憩える家さえなかったと言うのに。

そして今、唯一の希望である新九郎までもが、奪われていく。

……本当に親しい方であれば、あなたとは関係ないと思うのでは」
「無責任なことをおっしゃいますのね。小屋の計画くらい、見過ごせないのですか」
「見過ごせるか見過ごせないかは、調べがついてから判断します」
「私は何も罪を犯していないのに、父の罪の道連れにされるのですね」
……それが、家族というものです」

由香里は思わず膝立ちになって拳を握り締めた。石頭に火がついて燃え上がる。

「冗談じゃないわ。子は親を選べないのよ。女がひとりで生きていける社会でもないのよ」
……それは、一介の捜査員である自分の責任ではありません」
「なんて言い草。私たちは被害者なのよ。父親という不可抗力の、暴力の、被害者なのよ!」
……事件はまだ、起きていません。従って、疑いをかけられている人の、家族です」
「あなたね!」

だが、由香里がどれだけ喚こうと、柿田氏は身じろぎひとつしなかった。

「お気持ちはごもっともですが、今はこれが、現実なのです」

由香里はまたぺたりと座り込み、がっくりと肩を落とした。

まだ事件は起きていないけれど、三芳家はすっかりその渦中に飲み込まれた。逃亡した父はさて、どうなるだろう。捕まるだろうか。逃げおおせるだろうか。そうしたら、組織はどうするのだろう。彼らは計画をどうするのだろう。わからないことだらけだ。

けれど、よりにもよって一番知られたくないところへ真っ先に連絡がいってしまうことになろうとは。名もなき善良な一市民である由香里に、作業小屋の見積もりが「調べねばならないこと」だなんて、分かるはずもなく――

ああ、新九郎さん、あなたのお嫁さんになるという夢想は、本当に夢と終わりそうです。最初はなんて背が高くてやかましくて鬱陶しい人だろうと思ったわ。こんな人とは関わりたくないと思ってた。だけどあなたは、何も恐れることなく真っ直ぐに近付いてきて、囚われの私を救い出してくれたのよ。

だけどそれは、あの父親の娘に生まれたという業を持つ私の、ほんのひと時の白昼夢。

そして心の中で妹に悪態をつく。

恋愛なんかしたって、私たちの人生、結局変わらなかったじゃないの。嘘つき。

……C市にある、清田工務店」
「ご協力感謝します」

柿田氏は座り直すと膝に手を揃え、深々と頭を下げた。

由香里の耳がぼんやりと遠くなる。その中を、騒々しい音とともに背広の男性が大量になだれ込んできた。身を寄せ合ったまま気力を失って項垂れている由香里とその母を置いたまま、彼らは家中を漁り始めた。その騒ぎを耳にした近所の人々も集まり始めていた。

それからしばらくすると、今度は妹の甲高い声が鳴り響き、制服姿の彼女は家の中に突進してくると、誰彼構わず出て行けと喚き散らした。取り押さえようとする捜査員には学生鞄で殴りかかり、腕を押さえられれば足で蹴り上げ、結局4人がかりで四肢を封じられ、口にハンカチを押し込まれる始末。

そして、庭の方から、捜査員の声が響くのである。

「出ました。床下に隠し部屋があります!」
「こっちも出ました! 押入れの下に隠し扉があります」

捜査員たちのざわめきの中、由香里は音もなく涙をこぼした。新九郎さん、さよなら――