未完の恋物語

5

そろそろ朝晩は涼やかな風が吹くようになっていたけれど、新九郎はやっぱり雪駄である。本人曰く、普段仕事をしている時は足回りをガッチリ固定しているので、仕事以外では緩めておきたいらしい。

そして新九郎は雪駄だが、ふたりは自然公園でサイクリングを楽しみ、昼前になってレジャーシートを広げた。由香里が弁当を用意してくると言うので、新九郎はジュースやらビールやらを買い込んできていた。飲酒運転に対する意識がとことん低い時代である。

「うひょー! うまそう! 大丈夫だったんですか、こんなに」
「たくさん召し上がるかと思って。昨日の晩からコソコソと準備しました」
「うーん、こんなきれいな弁当は初めて見ました。由香里さんはいいお嫁さんになりますね」
……何も出ませんよ」
「お世辞じゃないですって」

新九郎は缶ビールを開けながら、カラカラと笑った。だが、出掛けに妹に釘を差された由香里は、せっかくすっきりしていた気持ちがまた落ち込んできて、こっそりため息を付いた。すると、新九郎は由香里の方を見ずに低い声を出した。

……また妹ちゃんに何か言われたんですか?」
「えっ! あら、すみません、私ったら」
「妹ちゃんは高校2年生でしたか」
「どうにもませた子で……ボーイフレンドを取っ替え引っ替えしてます」

主にふたりの「デート」が子供っぽいと妹にバカにされている――ということは新九郎も知っている。

「そりゃあおふたりは美人姉妹ですからねえ、男なんかいくらでも寄ってくるでしょ」
「私は別に……
「由香里さんが知らないだけじゃないかなあ。普通ほっときませんよ、こんな美人」
……新九郎さんは大袈裟よ」

照れて恥ずかしいのではなかった。こんなことでも躊躇わず、何でも思うことははっきり口に出来る新九郎が羨ましくて、由香里はつい顔を背けた。新九郎はそれ以上深追いはせず、弁当の中のおにぎりを取り出すと、大きな口でばっくりとかじりついた。

「まあ、オレも家では色々言われます。男ばっかりだし、お上品な家じゃないもんで、兄弟子たちが好き放題言いますよ。だけど、それにいちいち従うこともないんじゃないですかね。妹ちゃんは姉上を案じてのことでしょうけど、こっちは面白がってるだけですからねえ」

おにぎりを3口で食べてしまった新九郎はまたビールをゴクゴクと流し込み、楽しそうに笑った。

「だけど、由香里さんの弁当を食えるオレは日本一の幸せ者です」

そのいつもの楽しそうな新九郎の笑顔が、由香里の胸を抉った。

この日、いつものように早めに現地を出たにも関わらず、秋の行楽渋滞に捕まってしまった由香里は真っ青になって慌てた。もし父親が早めに帰宅したら一体何をされるかわからない。途中、車を止めてもらった由香里は焦って自宅に電話をかけた。

「お姉ちゃん、これは何かのお導きに違いないわ……
「はあ?」
「ちょうどさっき父さんからも電話があって、渋滞で全然車が動かないっていうのよ」

由香里の父は今日、思想を同じくする同士たちと東北の方まで出かけていた。最近彼の思想グループはその規模が拡大しつつあり、元々は都内の大学生が中心の集まりだったが、東北、中部に仲間が増えたので、そろそろきちんと本部を立てた方がいいのではという流れになっていた。

早朝から仲間の車で東北へ出かけていった父親だが、由香里同様行楽帰りの渋滞にハマってしまったんだろう。それは容易に想像がつく。何しろ由香里もやっとのことで公衆電話にたどり着いた。もうすっかり日が傾いている。

「これはきっとお姉ちゃんもハマってるなって思って、さっきからラジオで交通情報聞いてたのよ。父さん、まだ那須にもたどり着いてないって言うし、おそらく今日中には帰ってこられないと思う。お姉ちゃんの方が確実に早く着くから、安心して」

由香里は安心して気が抜けた。そこに妹が楽しそうな声を出す。

「お姉ちゃん、暗いところで清田さんとふたりきりになるの、初めてじゃない?」
「はあ!?」
「清田さんを男して見られるかどうか、試してみたらいいわよ。頑張って!」

なんてことを言うの! と反論しようとした由香里だったが、そのままガチャンと電話は切れ、多めに入れていた小銭が戻ってきた。しかし妹に言われて初めてそのことに気付いた由香里は、受話器を握る手にじんわり汗をかき始めた。

冗談はよしてよ、暗いからなんだっていうの、もう何度も車の中でふたりきりになってきたのよ、明るいか暗いかなんてちっぽけな違いでしかないじゃない、なんですぐそういういやらしいことに話を結びつけるのよ、いつもどおり楽しくお喋りして帰ればいいじゃない!

しかし一度頭に入ってしまったものは、そう簡単に出ていかない。由香里はヨロヨロと車に戻ると、深呼吸してから助手席に着く。確かに暗い! 新九郎は背が高いので余計に顔の上半分が影になっている!

「どうでした?」
「えっ!? 何がですか!?」
「えっ!? 何がって、おうちは大丈夫でしたか」
「あ、ああ、そのことね、父も渋滞に捕まっているらしくて、まだ栃木から出られないとか」

妹が余計なことを言うから! 由香里は手のひらだけでなく、首筋にも汗をかいてきた。しかし、改めて栃木というと、しかもそこで渋滞に捕まっていることを考えると、妹の言うように父はしばらく帰ってこないに違いない。少しホッとした由香里だったが、

「あはは、まーた妹ちゃんに何か言われたんですね? 由香里さん、目が泳いでる」

そう新九郎が言うので、由香里はわざとらしいほど肩をすくめて顔を背けた。

「そ、そうなんです、あの子はほんとにおきゃんで……
「まあ、最初っから遅くなれとか言ってましたしね」
「まだ高校生なのに、いっぱしの大人のようなことを言うものだから、ついカッとなってしまって」

何も、暗いところで男性とふたりきりだぞ、なんてけしかけられたとバカ正直に言う必要はない。

「確か妹ちゃんは音楽が好きでしたよね。夜遊びしたがるんじゃないですか」
「うちはコンサートひとつ行くのも大変だから、それはいつもぐちぐち言ってます」
「オレの高校時代にもいたなあ。ディスコ通いがバレて、騒ぎになった子がいました」

新九郎はのんびり話しているが、由香里は冷や汗が止まらない。こういう状態を「意識してしまっている」と言うんだろう。明るいか暗いかの違いでしかないのに、新九郎の声がやけに籠もって、丸く響いてくる気がする。明るいときより、近くに聞こえる気がする。

「由香里さんはそういうおイタはしなかったんですか?」
「とんでもない! 出来ませんよ、そんなこと」
「じゃあもし厳しいお父さんでなかったら、してたと思います?」

何とかして冷や汗を引っ込めようとしていた由香里は、はたと止まった。もし父がああでなかったら?

そんなこと考えたこともなかったな。物心ついた時から父は父のまま、その娘に生まれた以上、違う人生違う自分を生きるなんてことは、夢にも思い描かないほどあり得ないことだった。

「どうかしら……ちょっと想像がつかないわ」
「まあ、動物園や水族館が楽しいっていうのも、可愛らしいですよ」

新九郎が鼻で笑ってそんなことを言うので、由香里は何も考えずに声を上げた。

「そ、それは新九郎さんの趣味でしょう!」
「えっ!? そんなことないですけど!?」
「だって、私がいつ動物園や水族館に行きたいって言いました!?」
「それは――あれっ!? 言ってませんね!?」

ちょっとばかり気まずい空気が車内に流れたので、新九郎は忙しなくハンドルを回して窓を開けた。秋の夜風がさっと吹き込み、渋滞のせいで流れていかないテールランプがちらちらと揺らめいてはふたりの顔を照らしている。

「そういえば、動物園はオレが提案したんでしたね。忘れてました。すみません」
「いえ、私こそ大きな声を上げたりして……

気まずい。あまりに気まずい。由香里も黙ってしまったし、新九郎は手を伸ばしてラジオをつけた。ちょうど交通情報の時間だったようで、各地行楽帰りの大渋滞であること、しかしそろそろ緩和の兆しが見えてきていることなどが淡々とアナウンスされていく。

そして番組が切り替わり、軽快な紹介と共に歌謡曲が流れ出す。どんな曲が流れてきても、そのほとんどが恋の歌だ。みんな揃って引っ込み思案なくせに、流行歌はいつでも恋を歌う。由香里は秋の夜風にかき消えていく歌謡曲が妹のお小言に聞こえていた。

お姉ちゃん、中学生じゃないのよ。

新九郎とは、そういう子供っぽいデートを繰り返していたので、行きも帰りも他愛もない話題で過ごしていた。こんな気まずい沈黙は初めてだった。ただでさえ日没後は初めてだと言うのに、余計に重苦しい。新九郎の指が所在なさげにトントンとハンドルを叩き、少しずつ緩んでいく渋滞とは裏腹に、車内の空気は張り詰めるばかり。

やがて歌謡曲の番組が終わり、今度は洋楽ばかりを流す番組が始まった。大好評に付き第5弾のディスコ・ミュージック特集だという。合間には東京と横浜の最新ディスコ情報なんかも挟みつつ、重苦しい空気の車内に軽快なナンバーが溢れ出す。

そんな軽快なナンバーに乗せて、また新九郎の低い声が聞こえてきた。

……由香里さんは、本当はどういうところに遊びに行きたいんですか?」

だが、そういう「自分の望む楽しみ」を素直に思い描けないような家に生まれ、奔放な妹と違って頑なになっていたのが由香里だ。本当は、と言われたところで、自分の中の「本当」など、彼女はまだ知らないのである。

……別に、動物園や水族館が嫌なわけではありません」
「由香里さんが行きたいなと思うような所があれば、そっちの方が」
……それも、特には」

きっとこんな時妹ならスラスラと答えられるんだろうけど、私は無理。行きたいところどころか、何をするんでもカレンダーに記された父親の予定がチラチラとよぎり、なんとかあの困った父親の逆鱗に触れないようにしなければ、といつでも緊張しているだけだ。

やっと渋滞が緩み、由香里の住む町が近付いてきた。すると、新九郎は路肩に車を停めてしまった。

「あのう〜、今まで確認しなかったオレも悪いんですけど、もしかして由香里さん、このデートって、あんまり乗り気じゃなかったですか?」

驚いて新九郎の方を見ると、彼はバツの悪そうな顔で後頭部をボリボリ掻いていた。

「断られたことがなかったもんで、てっきり、その、悪い気はしてないのかなと」

新九郎という人に狡猾で打算的な裏の顔があるとは到底思えなかった。だから、困った顔をして眉を下げている彼には、妹がずけずけと言うほど下心があったわけではないと由香里は思っている。が、だからといって、ただ子供のように遊びに出かけているわけがなかったのだ。

思わせぶりな態度で新九郎の時間を浪費させていたことが明確になってしまった。

引いていた冷や汗が一気に吹き出す。背中が一瞬で冷たくなる。

「いやあの! 決してその! なんかいやらしいこと考えてたわけではないんですけども!」
「あ、あの……
「ですけど、その、もう、誘わない方が、いいですかね?」

少しだけ顔を傾けた新九郎の苦笑いが由香里の心を抉った。自分が思わせぶりな態度でいたせいで、彼を傷つけた。それを突きつけられた気がした。しかし、元来真面目な性格の由香里も息の詰まる生活で、一般的な10代の女の子のように気楽に恋愛を考えられなかった。

とはいえそれは新九郎には関係ない「言い訳」だと由香里はわかっていた。

「それだったら――
「あ、あのっ! 新九郎さん!」
「は、はい?」

大きな声を出した由香里に、新九郎は背筋を伸ばして身を引いた。目を丸くしている。

「し、新九郎さんは、その、本当に私と、交際したいと思ってるんですか!?」

由香里の絶叫に慌てた新九郎は窓を閉め、しばし黙っていた。由香里は顔だけ新九郎の方へ向けて俯き、肩で息をしている。ポニーテールの裾がするりと落ちる。もうこれをはっきりさせておかないことには話が進まないと思い、大きな声が出てしまった。

ややあってから新九郎は姿勢を戻すと、膝に拳をついて由香里の方を静かに見据えた。

「はい、そう思ってます」
…………私のことが、好きなんですか」
「はい、好きです」

落ち着いた、真面目な声だった。由香里はそれを確かめると、顔を上げる。

「それなら、聞いて頂きたいことがあります」
……はい」
「私の父は、ただ厳しいのではありません。盲目的な、思想活動家なんです」

由香里の上ずった声が車内に溶けて消えていく。新九郎は少しばかりきょとんとした顔をしていた。思想活動家という言葉の意味が、すんなり頭に入って来なかったらしい。

「えーと……
「今日も仲間と活動のために東北まで赴いています。私の家は、その父親の支配下にあります」

告白してしまったら気が楽になったのか、由香里は自分の父親が学生時代からその思想に取り憑かれたままであることをまくし立てた。新九郎は口を挟まずに、身じろぎもせずに聞いていた。快活な高校生からそのまま家業に入った彼には、遠い話だったに違いない。

「ええと、由香里さんも、そういう主義でいらっしゃるんで――
「違います! 私も母も妹も、まったくの無関係です。父に、困り果てているだけで……
「そうですか。でしたらその、それって気にするようなことですかね?」
「はっ?」

不意をつかれた由香里は目を丸くして首を突き出した。

「由香里さんが過激思想を持った女戦士だって言うなら話は別ですが、親父さんですよね?」
「で、ですが」
「由香里さんもあと1年で成人です。そうしたら、親父さんはもうあなたを縛れないのでは」
「だけど、私だけが勝手をして、母や妹が」
「お母さんはまた別問題ですが、妹ちゃんは高校卒業ですよね? きっと好きにやりますよ」

新九郎はやっとにんまりと笑い、何度も頷いた。

「そんなことより、オレは由香里さんがどう思っているのかの方が気になります」
「わっ、私?」
「オレは由香里さんのことが好きですが、由香里さんはどうなんでしょう」

この期に及んでも、由香里にはっきりとした恋心の自覚はなかった。なのでウッと喉が詰まってしまったのだが、その由香里の手を新九郎が取った。由香里は驚き、新九郎の大きな手の中にすっぽり隠れてしまった自分の手をしげしげと見つめていた。

「私……そういうことを……考える余裕がなくて……正直、今でもよくわからないんです。父親がいる限り、私に自由はないと、だけどそれに負けたくないと思って、生きるので精一杯で」

それが偽らざる正直なところだった。しかし、

「だけど、こうして新九郎さんとお出かけするのは、楽しいです。自分の家のことなんか全部忘れて、声出して笑えるのは、新九郎さんとお出かけしているときだけです。妹には、いい加減はっきりしなさいよと叱られましたが、そういう、時間は、失いたくないと、思って、しまいました」

言い終えた由香里の両手が新九郎の手の中に包まれ、そして彼は少し笑いながら言った。

「じゃあ、またデートしましょう。オレは、少しの可能性でも諦めません」
……無駄な、時間ではないんですか」
「まさか! いつ由香里さんの心が変わらんとも限りません。諦める方がもったいない」

再度ラジオから交通情報が流れてきて、各地の渋滞がかなり緩和してきていることを伝えてきた。新九郎はそれを耳にすると、また窓を開けて車を発進させた。

どんどん少なくなっていくテールランプ、走り出した車の中で由香里がちらりと横を見ると、新九郎は満足そうに目を細めていた。どことなく嬉しそうだ。

そうして由香里の自宅近くに来ると車を停め、いつものように新九郎は玄関前まで送ってくれた。

「もし、行きたいところを考えられるようになったら、電話くださいね」
「は、はい……
「どこでもいいですよ、ディスコでも、コンサートでも」

そう言って笑う新九郎に、由香里は思わず頭を下げた。

「じゃあ、また」
「はい、ありがとうございました」

軽く手を挙げた新九郎は雪駄の足を外に向けたのだが、由香里が下げた頭を戻したその瞬間、彼女は腕を引かれ、気付いた時には頬にキスをされていた。勢いよく引っ張られたので、ポンとぶつかっただけのようなキスだったけれど、間近に新九郎の息遣いを感じた由香里は頭の中に火花が飛び散った。

「お、おやすみなさい!」

新九郎はそう言うとあたふたと逃げるようにして去っていった。

後には、ぐにゃりと傾いたまま固まってしまい、息もできない由香里だけが取り残された。