未完の恋物語

8

それからの日々のことは、特に母はほとんど記憶がなく、ろくに思い出しもしないままだった。由香里も正確に思い出せないことが多くて、空白の日々を過ごしていたという感覚しか残っていない。

清田家にはすぐに捜査員が向かい、由香里の父が依頼したという作業小屋の見積もりの控えはあるかと親方に尋ねた。親方は堅実な商売を信条としていたので、しっかり控えが残っていた。それが元になり、三芳家には毒ガス製作プラントが設置予定だったことが明らかになった。

なぜそのプラントが見積もりだけで終わったのか、ということに関しては、プラント費用が全て由香里の父に丸投げされていたからだった。それでも少しずつ器具は揃えていて、それらは床下を掘り返した空洞からまとめて出てきた。

さらに、組織の記録とも言える資料の数々が押入れの下の隠し扉の中から大量に現れた。

柿田氏いわく、本部を立てねばという話は前からあったのだが、東京本部にするという創成期メンバーに対し、他の都市の新興勢力が地元にするのだと言って譲らなかったため、未だ本部が存在せず、組織に関わるものの置き場がなかったのだという。それを由香里の父が一手に引き受けていた。

さらに、ぽつりぽつりと由香里の母が言うことには、夫は未婚の同志と娘を結婚させようかと考えていたけれど、本部の件で揉めたまま作業プラントまで丸投げされ、この三芳家自体を組織のために供出しようかと考え始めていた、という。だから結婚はどうでもよくなり、追い出す方向で考えていた。

しかし由香里の言うように、さあ女だけでさっさと出て行けと言ったところで、何のあてもない。妻と娘を追い出したくても、彼女たちが自主的にアパートか何かを借りて生活をしつつ、父の生活の面倒を見る――とは行くまい。必ず親類縁者の知るところになる。

その上、妹が後から聞き出したところによると、こんな父と頑なに離れようとしなかった母は、実家にかなりの借金をしていたらしい。内訳は父からせびられたのが半分、生活に困って頼み込んだのが半分。それを返すことも出来なければ、元をただせば父と母は遠い親戚という間柄。

どんな事情があれ、離婚は「恥ずべきこと」だった時代である。母は実家から、どんなに苦しくとも夫君に仕えろ、それが女の生きる道だと繰り返し言われてきたそうな。妹は金切り声で怒っていた。

つまり、父も母も遠い親戚というということが災いして、身動きが取れなくなっていた。

三芳家からは、組織が大規模なテロを計画していたという証拠が次々と見つかり、それらは家の前を埋め尽くす野次馬に何も説明されることなく粛々と押収されていった。捜査員たちは、近所の人々の一体何があったのかという問いには、一切答えなかった。

そして、父の逃亡から2日後、由香里は警察署の一角で柿田氏と向かい合っていた。

「お父さんは、捜査員の追跡を振り切り、海に飛び込みました」

逃亡の途中で助けを求める電話を仲間にしていたらしいのだが、誰も助けには現れなかった。どころか、三芳と資材調達担当がしくじったと知ると、組織の上の方から順に行方をくらました。一部は海外への逃亡に成功してしまい、無表情の柿田氏だが、不機嫌そうだった。

「ですが、土左衛門が上がったわけじゃありません。まだ死亡は確定していません」
「別に、私、父が死んでも悲しくありません」
「そういう意味ではありません。今後、あなた方には監視が付くことになります」
「は?」

柿田氏は睨みつける由香里の視線にもたじろがず、咳払いを挟む。

「あなた方ご家族がどれだけ不仲でも、妻であり、娘です。仮に泳いで逃亡が成功したお父さんが、あなたたちを尋ねる可能性は、他の誰より高い。彼を見捨てた組織よりはるかに高い。我々はそれを監視しなければなりません」

由香里はまたへなへなと戦意を喪失して、肩を落とした。ああまた妹が怒り狂って暴れるに違いない。事件のせいでボーイフレンドと別れる羽目になり、どこで聞きつけたか内定をもらっていた就職先からは取り消しを知らせる葉書が届いた。彼女もお先真っ暗、きっとまた喚き散らして発散するんだろう。

……監視だなんて、一体、どうやって生きていけと言うんですか」
……それは、ご自由にどうぞ。我々は監視するだけですから」
「ここが警察署で、あなたが警察官でなかったら、殴りかかっていたかもしれないわ」
「殴られて差し上げたいのは山々ですが、そうなれば、職業柄、逮捕せざるを得ません」
「冗談でも言ったつもりなの? つまらないわよ」

それから一週間後、由香里も解雇通告を受け取った。一応理由は無断欠勤ということになっていた。事務員仲間の女の子が封筒を手に捜査員の溢れかえる家に尋ねてきて、あなたクビになったからねと言い、逃げるように去っていった。

父が一体どんなことになっているか、それは捜査員の誰一人として漏らさなかったし、由香里たち母子は自宅に軟禁状態、外部と連絡は取れなかった。それでも三芳家が何やら物々しいことになっていて、どうやら父親が何かやらかしたらしいということだけはあっという間に広まった。

特に、学校、職場、縁のある場所、人々。三芳さんち、お父さん前から怪しかったけど、とうとう何かやったらしい。このところ毎日警察みたいな人たちが家中ひっくり返してる。詳しい話は知らないけど、あれは相当なことをやらかしたに違いない。

さて、家中を荒らされ、軟禁状態が続いて9日目、由香里たちは突然「これで家宅捜索は終わります」と告げられ、監視員だけを残して放置されてしまった。気がつけば由香里と母は無職、妹はこれ以上休んだら留年だと連絡が来た。

「あはは、私たち今から心中しなきゃいけないのかしら」
「笑いごとじゃないわ。私、明日にでも職業安定所に行ってくるから」
「お姉ちゃんは卒業出来てていいわね……私退学かもしれないわ〜」

途方に暮れるとはこういうことを言うのだろうなと由香里はぼんやり考えていた。ひとまず職を探し、収入が得られるまでは何とか手持ちの金だけで生き延びなければ。何か質に入れようにも入れるものがないし、金を貸してくださいと言える相手もなく、由香里と母と妹は、まさにどん底。

しかし、父親がテロ計画の発覚により逃亡中、その娘を雇ってくれるところがあるものだろうか。そんなこと調べないかもしれないが、万が一ごく地元の人間がいたら、いずればれる。そうしたら、またクビになってしまうんだろうか。

由香里の頭に「水商売」の3文字が踊る。女将のように自由なファッションをしてみたいと思っていたけれど、強制的にド派手な服を着る生活に突入してしまうのだったりして。

妹の言うように、いっそ心中した方が楽になれるのでは、と思ってしまう。

「それにしても、コウイチは許せないわ……今度会ったら殴ってやる」
「コウイチって何人目よ……。マコトまでしか知らないんだけど」
「マコトの次の次。捜査員に話を聞かされたその場で別れるって言い出しやがって」

土曜の午後を学校の最寄り駅でデート中だったそうだ。そこに捜査員が現れ、家族に問題が発生したから一緒に来てくださいと言うなり、コウイチくんは「オレはもう関係ねえよ、二度と連絡するなよ」と言って逃げていった。

「それはともかく……あの柿田って男はなんなのよ」
「えっ。まさか、何かされたんじゃないでしょうね」
「はあ? 私じゃないわよ、お姉ちゃん!」
「はあ?」

無気力が過ぎて床にだらしなく寝転がった妹は、腹をボリボリ掻きながらしかめっ面をし、由香里は由香里で意味がわからずに鸚鵡返しに目を丸くした。何の話だ。

「やだもう、また気付かないのお。あの柿田って捜査員、お姉ちゃんに気があるわよ」
「はあ!?」

妹は呆れ返って鼻から勢いよく息を吐き出したが、そんなことは寝耳に水だし、例えそれが真実だったとしても、由香里に責任はないではないか。柿田氏が勝手に懸想しているというだけのことだ。

「事件に巻き込まれた容疑者の娘に心奪われてるようじゃ、出世できないわね〜」
「困ったわね、監視員もやってるし」
「自分から志願したんだったりして〜」
……なんであんたはちょっと楽しそうなのよ」
「楽しくなんかないわよ。笑うしかないだけ」

そう言いながら妹がヘラヘラ笑っていると、玄関の戸を叩く音がした。一応家の前には監視員が常駐しているし、怪しげな人物ではありえないので、由香里は何も考えずに居間を出て鍵を開け、戸を引いた。すると、噂の柿田氏が無表情で突っ立っていた。

「なんですか、夜分に」
……差し入れです」
「は?」
「監視は基本下っ端が担当しています。そのチームから、差し入れを」

ニコリともしない柿田氏はそう言いながら、スーパーのビニール袋をサッと差し出してきた。中には保存の効く食品やお菓子などがぎっちり入っていた。

……私たちは何も皆さんを苦しめたくてやっているわけではありません。私たちも組織の一部でしかないからです。だけど、皆さんが生きるすべを失っていることは理解しています。それに疑問も感じます。こんなことは何の意味もないかもしれませんが、ご迷惑でなければ、受け取ってください」

即席ラーメンだの、チョコレートだの、缶詰だの……今の由香里たちにとって、これほど助かる差し入れはない。しかし、歓声を上げてすぐに受け取れる心境でもなかった。

「どうしたんですか、急に。今までそんなこと言った試しがなかったでしょう」
「上役の目があったからです。彼らの前ではこんなこと出来ません」
……若い監視員だけになったから、こんなものを?」
「そうです。妹さんに謝罪したいという者もおります」
「やめておいた方がいいわ。きっと許さないし、また蹴られるわよ」

由香里はつい、自嘲気味に笑った。何をバカな青臭いことを、と思ったからだ。

……笑った顔を、初めて見ました」

頭上から聞こえてきた声に違和感を感じて顔を上げると、鉄仮面の柿田氏もまた、緩く微笑んでいた。

――この人は、妹の言うように、私に気があるのかしら。だからこんな、差し入れなんかをしてくるのかしら。今まで冷徹なことしか言わなかったくせに、まるで最初から私たち母子に同情的だったんだとでも言いたげなことを、淡々と。

それとも、ただ純粋に若い正義で、何も罪を犯していない母と娘ふたりがまるで犯罪者のような扱いを受けていることに義憤を感じているのか。どちらにせよ、疲弊しきっている由香里にとっては、絆されそうになるには充分な親切だった。

だが、由香里はおかげで余計に強く思った。

だけど私には、新九郎さんしか、いなかったの。

差し入れは嬉しいけれど、もし新九郎さんが存在していなければ簡単に絆されていたと思うけど、私が今会いたいのは、新九郎さんだけなの。もう二度と会えないとわかっているからこそ、会いたいなと思ってしまうの。あの底抜けに明るい声で、この悲劇を笑い飛ばして欲しいの――

由香里の目から一筋の涙がこぼれた。

「えっ、大丈夫ですか、由香里さん」
「す、すみませ……

柿田氏が思わず驚いた由香里の腕に手を触れた、その時だった。

「あっのー、人の女に軽々しく触らないでもらえますかねー?」

由香里も、そして柿田氏も、その声に勢いよく顔を上げた。街灯の明かりがほんのりと照らす三芳家の板塀に、作業着姿の新九郎が寄りかかって腕を組み、しかめっ面をしていた。そして由香里が新九郎だということに気付くと、体を起こしてにんまりと笑った。

「毎度どーも。清田工務店です。おうちを直しに来ました」
「し、新九郎さん……
「そんな予定は……
「あんたは自分の仕事をしてなさい。こういう個人的なことは、仕事に入ってないだろ」

新九郎は柿田氏の肩に手をかけると、ぐいっと押しのけて由香里の前に進み出る。

「由香里さん、遅くなってごめんね。話、聞いたよ」
「新九郎さん、どうして……
「どうして、って、当たり前だろ。愛する人がこんな窮地に立たされてて、何もせずにいられるか」

感極まった由香里は泣きながら新九郎に飛びつき、嗚咽を漏らした。その由香里の背中を新九郎はゆっくりと撫で、何度も何度も「もう大丈夫」と繰り返した。

そして由香里が一息つくと、板塀の向こうを振り返って声を上げた。

「おーい、いっちょよろしくー!」

その声に呼応して、板塀の向こうで野太い「おう!」という声が上がり、清田家で女将のご飯を食べて酔っ払っていた職人さんたちがなだれ込んできた。柿田氏は慌てて仲間を呼びに行ったが、新九郎たちはお構いなし。そのまま荒らされた庭へ直行、縁側から母と妹に挨拶をした。

「清田さん来てくれたの……!」
「おー、妹ちゃん久しぶりだな! ちゃんと食べてるか? 痩せたんじゃないのか!」
「ふふん、シェイプアップになってちょうどいいわ」

妹も事件以来の笑顔だし、母も狼狽えてはいるが、緩んだ表情をしている。

「お母さん、今からこの戸を直しますね。他に壊れたところがあったら言ってください」
「あの……お金……
「困った時はお互い様、ないところからむしり取るほどうちはケチな商売はしてません」
「新九郎さん、そんなのダメよ」

驚いて腕にすがりついた由香里に、新九郎はにっこりと笑ってみせる。

「今後のことはこれから考えるとして、もし明日雨が降ったらどうするの、この縁側。戸が取れたまま何日放置してたんだか。いくら監視があるったって不用心すぎるし、だいぶ暖かくなったけど、夜はまだ冷えるからね。ひとまず夜風の入ってこない家にしよう。話は、それから」

自信に満ちた新九郎の言葉に、表情に、由香里はまた目の奥が熱くなった。もう二度と会えないと思っていたのに、こんな事件に巻き込まれた女なんて、やっぱり無理だろうなと思っていたのに。

それからすぐに柿田氏が仲間を連れて戻ってきたが、清田工務店さん御一行は威勢のいい掛け声で仕事を始めてしまい、こちとらあんたたちがぶっ壊した家を直してるだけだ、文句あんのかい! と返されると返事に詰まり、その上、おい兄ちゃん手伝え! と怒鳴られる始末。

……ねえ、お姉ちゃん?」
「えっ?」
「私は軽薄な男を転々としてきたけど、お姉ちゃんはずいぶんな当たりを引いたわね〜」
「あ、当たりって、あなたね」
「私はきっと男運が小出しにしか出てこないのよ。だけどお姉ちゃんは一気に出てきたって感じね」

ニヤニヤ笑いの妹には素直に頷いてやる気はしなかったけれど、由香里もそれは概ね同意だった。新九郎のような人は、おそらく生涯にふたりと現れまい。

「あっ、そうだ由香里さん、女将から弁当の差し入れがあるよ」
「えっ!? お母さんから!?」
「トラックの荷台に風呂敷包みがあるから、妹ちゃんも一緒に行って取ってきてくれないか」
「はーい!」

女将の差し入れと聞いて、由香里は慌てて外に走り出た。家の前には小型のトラックが3台停まっていて、また近所の人々が遠巻きに野次馬していた。三芳さんち、今度は何なの。そして妹とふたり、荷台を検めた由香里は短い悲鳴を上げた。巨大な風呂敷包みが4つも乗っている。

ずっしりと重い風呂敷包みを何とか家の中に運び込み、母も呼んでお勝手で開いてみると、お重とタッパーが山のように出てきた。どうやら保存の効く常備菜や漬け物がぎっしり詰まっているようだ。

一応確認させてくれとヨレヨレになった柿田氏がやって来たが、彼もその大迫力の差し入れを見て思わず喉を鳴らしていた。ずっと監視をしている上に、いきなり家の補修の手伝いをさせられてぐったりしている。由香里は彼に向き合うと、少し頭を下げた。

「柿田さん、皆さんからの差し入れも心強かったです。ありがとうございました」
……いえ、これほどのことに比べたら」
「卑下なさらないでください。そういうお気持ち、いつまでも失くさないでくださいね」

そして、ちょっと照れくさそうに咳払いをして、背筋を伸ばす。

「それから、彼は清田工務店の跡取りで、新九郎さんと言います」
……ええ、存じています。見積もりの件で、私も話を」
「あの人は、私の交際相手です。覚えておいてくださいね」
「わかりました。不審人物として記録しないようにいたします」

妹の言うことがやはり正解なのか、柿田氏は少し表情を曇らせていたが、最後には緩い笑顔を見せた。

母はまた気が抜けて座り込んでいるし、妹は差し入れのお菓子を片手に新九郎たちの作業を見てはしゃいでいる。悲劇が一転、なんだか楽しく遊んでいる時のような騒がしさに包まれて、由香里は胸を押さえた。胸の奥が熱い。家の中も暖かくなったような気がする。

この明るくて暖かい風は、新九郎さんが連れてきてくれたのね――