未完の恋物語

3

「へえ、そんな可愛いのか」
「最高に可愛いっす。オレ絶対あの子と結婚します」
「そんなにいい女なのかよ」
「はい!」

バーベキューの翌日、新九郎は兄弟子たちに向かって弁当のご飯粒を吹き飛ばしながら熱弁を振るっていた。先輩に連れて行かれたバーベキュー、何も期待しないで行ったけど、運命の出会いが待っていた! 彼女は本当に最高! 絶対結婚する!

「一見地味な感じの子なんすけどね、オレは流行りに疎いから、そういうもので着飾ってても誤魔化されないんです。厚化粧にきつい香水の女の子にゃこれっぽっちも惹かれませんけど、由香里さんは本物の美人さんですからね、雷に打たれたのかと思いましたよ」

新九郎には付属品の価値がわからないので、本体の良し悪ししか判断基準がない。あの子は付け焼き刃じゃなくて本当に洒落者だよ、なんて言われても、他の女の子との違いなんぞよくわからない。

「へへっ、新九郎が一目惚れかよ」
「オレだってまさかと思いましたよ。だけどあるんですね、こういうことって」
「ボインの方はどうなんだよ」
「それはどうでしたかね……? 夢中だったもんで、気にしてませんでした」
「バッカお前、それより大事なことがあるかよ」

新九郎はムッとして口をへの字に曲げたが、この頃は兄弟子たちの感覚の方が一般的だと言えるだろう。いい女とは、顔が美しくて小柄で胸が大きくて大人しい。それに勝るものはないのである。

しかし雷に打たれた新九郎はそんなことはどうでもよいという状態で、何とかして由香里と繋がりを持たねばと焦り、他の女の子には目もくれずに由香里に構い続け、職場の場所と、電話番号だけは聞き出した。次はどうにかしてデートを取り付けなければ。

「どういうところに行ったらいいんですかねえ」
「オレたちに聞いてどうする。競馬場って言ってほしいのか?」
「けいば……女の子って、動物好きですよね?」
「シマみてえなでっけえ犬は怖がるかもしれんぞ」
「いや、動物園はどうだろうかと思って」

清田家はとにかく犬が切れたことのない家だ。新九郎も生まれた時から犬と一緒。父親も同様。いつから犬が途切れない家になったのか――は清田家最大の謎となっている。現在の飼い犬シマは秋田犬に似た雑種で、とにかくでかい。名前の由来は島左近。

ともあれ、女の子はきっと可愛い動物が好きだろうから、最初のデートにはうってつけなんじゃないか? 新九郎はその思いつきに有頂天になった。動物園ならお互いそれほど緊張せずに楽しめるはずだ! 由香里さんも警戒しないに違いない!

「もしもし清田と申します由香里さんはご在宅でしょうか!」

思いついたら何も考えずに突っ走る新九郎は帰宅してすぐに三芳家に電話をかけた。由香里は父親が異常なまでに厳しいから電話はかけないで欲しいと言っていたけれど、そうしたらあとは職場で待ち伏せするか職場に電話をかけるしかない。

「かけないでくださいって言ったでしょう……!」
「大丈夫ですよ、由香里さんの会社の改築を請け負ってる工務店だって言えば」
「それがなんで新米社員の家に電話かけてくるんですか」
「連絡窓口が由香里さんになってて、どうしても急ぎ確認したいことがあるとでも言えば」
「今日は不在だからよかったけど、父はそんな口先の嘘に騙されてくれるような人じゃありません」

しかも昨日の今日で早速電話をかけてくるとは……由香里は母親が取り次いでくれた電話に出ると、しかめっ面に不機嫌そうな声を出して応対していた。

「じゃあどうやって連絡取ったらいいですかね。会社って私用電話――
「何か連絡取る必要があるんですか?」
「ありますよ! デートのお誘いをしようと思って!」
「はあ!?」

父親が面倒なので家の中では静かに過ごしている由香里だが、本人もいないし新九郎が突然そんなことを言うので、悲鳴にも似た声を上げた。三芳家では滅多に聞かれないそんな声に母が不安そうな顔をして覗いている。

「なっ、なんでそんなこと」
「ありゃ、だめですか? 由香里さん恋人探してるんじゃないんですか?」
「どうしてそんなことになってるんですか」
「だって昨日の集まりってそういうことでしょう」

由香里はバチンと額に手を打ち付けた。そりゃ名目はそうだけど!

「昨日は、先輩に誘われたんです。それで、断れなくて」
「あはは、オレもそんな感じです。あれっ、もしかして交際相手がいるんですか?」
「いっ、いませんけど!」
「じゃあどうですか? 動物園とか好きですか?」
「動物園!?」

あんまり突拍子もないので由香里は目眩がしてきた。

そういえば、最後に動物園に行ったのはいつのことだっただろう。もちろん父はそんなところには連れて行ってくれない。というか三芳家には子供ふたりを行楽地に連れて行く習慣はない。由香里が動物園に行ったのは、小学生の時に親戚に連れて行ってもらったのと、中学生の時の遠足だけだ。

それに、いい年して動物園どうですか、ってどうなの。なんだか豪快でガサツそうな人だとは思ったけど、女の子をデートに誘うのに動物園って。小学生じゃないのよ。

「なんで……動物園なんですか」
「えっ、女の子は動物とか好きかなあと思ったので。いきなり色っぽいところに誘うのも失礼でしょ」

あっけらかんとした新九郎の声に由香里は一瞬ぽかんとして止まった。新九郎の言う「色っぽいところ」がどんなところなのかはわからないけれど、一応そういう気遣いの上で動物園だったのか。

「オレ、車出しますよ! お迎えに上がりますし、暗くなる前に送り届けます」
……私、そういうの、したことがないのですけど」
「あらっ、じゃあお仲間だ! オレもないっす! あはは!」

新九郎はやかましいし、お調子者に見えるし、スマートにエスコートしてくれそうには見えなかったけれど、どうにもそのいやらしい下心の見えない声に、由香里は「父に与えてもらいたかった愛情」を重ねていた。こんな感じのお父さんが欲しかったなあ。

最初は動物園なんて、と思っていたのに、このお父さんみたいな青年に連れて行ってもらいたくなってきた。小学生がお父さんに動物園に連れて行ってもらうみたいに、デートとかそんな意識はせずに、部屋で静かにしているしかない休日よりは、このやかましい男の方が。

そういう気持ちが心の中にじわりと広がる由香里は、ぼそぼそと聞いた。

「昨日知り合ったばっかりなのに、いいんでしょうか、で、デート、なんて」

すると、電話の向こうの新九郎は少し鼻にかかった声で笑って、優しく答えた。

「動物園に行って、お昼ご飯食べて、また帰ってくるだけですよ。何もやましいことはありません」

例えば新九郎に途轍もない下心があったとして、しかしそれをちらりとも見せずに、徹底して紳士的に振る舞えるというのは頭の固い由香里にとってはかなり好感触だったと言っていい。動物園に行って帰ってくるだけ。その言葉に由香里の緊張が少し解れる。

……わかり、ました」
「ほんとですか! やった! ありがとうございます!」
……そんなにはしゃがないでください」
「無理ですよ! 楽しみにしてます!」

声は確かに大人の男の声なのだ。体が大きいからだろうか、低くて太い声なのに、受話器の向こうから聞こえてくるのは、まるで興奮した小学生が騒ぐ声のようだった。

口を開けば「正義」や「真理」の父親に取り憑かれ、重苦しくどんよりした三芳家で育った由香里がついぞ聞いたことのない、まるで太陽のような明るい声だった。それは間近で聞いていたらうんざりするかもしれないけれど、父の演説に比べたらよっぽどいい。

鬱々とした毎日だけれど、新九郎と動物園がいい気晴らしになるかもしれない。

この日の夜、三芳家は父親が深夜になるまで帰宅しなかったせいもあるが、姉がバーベキューで知り合った男性にデートに誘われたと聞いた妹の悲鳴が、清田家では興奮した新九郎が騒ぐので、父や叔父の「うるせえぞ新九郎!」という怒鳴り声がこだましていた。

動物園デートは日曜、由香里が慎重に調査して父親が朝から不在の日を選んだ。ちょうどなんだかいう集会があるらしく、父は朝から晩まで留守にする。当日、父親が出かけると、由香里は部屋の窓に白いハンカチを吊るしておく。父が在宅の間に新九郎が現れたら大変なことになるので、父が不在になったことを知らせる白旗であった。白旗がなかったら今しばらくお待ち下さい。

この日由香里は興奮した妹に「なんちゃってアイビールック」を着させられていた。キュロットにブレザーだが、どちらも由香里のものではなく、妹が仲良しの先輩から貰ったお下がりを手直ししたもの。

時代は既にニュートラディショナル、そして土地柄ゆえハマトラへと移行しつつあったけれど、神奈川に住む女の子が全員キタムラのバッグを買えるわけじゃない。近所で見繕える服を直したり工夫して、それっぽく。妹いわく「顔がいいから服はちょっと古くても気にならない」そうだ。

そして白旗を確かめた新九郎がチャイムを鳴らすと、妹が突進してきて一緒に玄関を出た。

「おはようございます! お迎えに上がりました!」

この時のことを、のちに妹は「ジャイアント馬場が現れたのかと思った」と言い、やっぱり遠くからこっそり覗き見していた母親も「巨人が由香里をさらいに来たと思った」と述懐している。

「ちゃんと暗くなる前にここまで送り届けますからね!」
「別に暗くなってからでもいいわよ! お父さん遅くまで帰らないんだし」
「あはは、最初からそんなことしたらオレの信用に関わりますよ」

緊張で普段のようにキビキビ喋れない由香里をよそに、社交的で雑な妹が喋りまくる。が、新九郎は動じない。由香里に言った「動物園に行って帰ってくるだけ」を違えるつもりはないらしい。

「そんじゃ、姉上をお借りいたします!」
「はいはい、気をつけていってらっしゃい!」

恋愛は私の方が先輩だからね、とニヤニヤしっぱなしだった妹に見送られ、由香里は新九郎の運転する車で自宅を後にした。三芳家は自家用車を持っておらず、車に乗る習慣のない由香里はそれだけで緊張している。しかも、助手席に乗るのは生まれて初めてだった。

「すいません、この車、借り物なもんで、タバコ臭くて」
……清田さんはタバコ吸わないんですか」
「オレ、高校の時は空手やってたんです。監督にタバコは心肺機能を下げるって言われてて」

由香里はタバコの臭いがあまり好きではなかった。しかし、世の男性は「タバコはかっこいいもの、大人の嗜み」という認識の人が多くて、家族にとって厄介者でしかない父親のせめて褒められるところは非喫煙者であること――だと思っていた。

父親の場合は単にタバコ銭惜しさなわけだが、このやたらと背の高い青年は「かっこよさ」より「恩師の教え」を選ぶのだなと思ったら、少し嬉しくなってきた。同様に就職した高校時代の友人が働き始めた途端タバコを吸い始めてげんなりしていた由香里はちょっとだけ頬が緩む。

そんな緩んだ頬を悟られないよう、あくまでこっそりと運転席を見てみると、新九郎はずいぶん楽しそうにニコニコしながら高校の空手部の思い出を喋っている。自分は主将だったが、ものすごく強い仲間がいて、かなり小柄だったのに勝てた試しがなかったと笑っている。

チャイムが鳴り、浮き立った妹に背中を押されて外へ出ると、パッと眩しい白が目に飛び込んできた。新九郎の着ていた白のポロシャツだ。日々肉体労働で鍛えられたきれいな逆三角形はポロシャツの上からでもはっきりとわかったし、身長が高いせいだけではない長い脚にジーンズがよく似合っていた。

やっぱりその足元が雪駄であるのが難点と言えるかもしれないが、きちんと洗ってあるらしい髪はテレビ俳優のようにベタついておらず、従って整髪料の匂いもせず、濃いめの顔を中和する役割を果たしていた。汚さがかっこよさというご時世だが、清潔感は完璧。

それを見た由香里は思わず、ちょっとかっこいいなと思ってしまった。

「ああ、清田さん、なんてかしこまらないでいいですからね」
……お会いするのはこれで2度目なんですけど」
「まあまあ、友達気分でいきましょうや。あれっ、オレ、名前言いましたっけね?」

友達気分――ああ、そのくらいだと気楽で助かる。由香里は妙な緊張と高揚感でいっぱいになっていた胸を押さえて、静かに息を吐きだす。大丈夫、動物園に、行って帰ってくるだけよ。

「じゃあ、新九郎さん」
「おお、では今日一日よろしくお願いします、由香里さん」

ハンドルを切りながら、ポロシャツのように白い歯の新九郎はニカッと笑った。

……えっ、ほんとに動物園に行って帰って来ただけ?」

その日の夕方、由香里は部屋で妹と差し向かいになり、こっくりと頷いた。

「動物園行って、動物見たの? で、お昼は?」
「園内の食堂」
「何食べたの」
「新九郎さんはカレー、私はスパゲティ」
「その後は? また動物見てたの? そう、それで見終わって、帰ってきた?」

腕組みの妹の尋問に由香里は赤べこのようにぺこぺこと頷いた。

……確か清田さんハタチで、お姉ちゃんは18よね? 絶望的に色気ないわね」

ずけずけと言い放つ妹に、また由香里はまた頭を垂れた。言われるまでもなく、色気なんぞ欠片もない。

本当に今日の「デート」は動物園に行って動物を眺め、お昼を食べてまた動物を見て、午後5時頃に帰りつけるよう退園、それだけだった。一緒にいた時間は長かったから、話はたくさんしたけれど、他には何も報告することがない。

何を期待していたのか妹は大きくため息を付き、首を振った。

「まあ別に交際することを前提にデートしたわけじゃないんだろうし、あの様子じゃ清田さんの方がお姉ちゃんにお熱なんだろうけど、それにしたってもう少しなんかあるでしょうよ。手を繋ぐとか、肩を抱かれるとか、そのくらいしたってバチは当たらないわよ!」

しかし何もなく終わってしまったもんは仕方ない。

「お姉ちゃんの方からそれとなくモーションかけるとか、無理だもんねえ……
「あんたは一体どこまで期待してたのよ」
「別に初日から口づけして来いとは思わないけど」
「くちっ……あんたねえ!」
「それは私の台詞! お姉ちゃん、清楚でおしとやか大和撫子も程度問題よ!」

父親がまだ帰宅しないので妹の声は高い。いきなり口づけとか言われたので、由香里は新九郎の真っ白な歯が覗く唇を思い出して慌てた。付き合うつもりもないのに、手を繋ぐだの口づけだの……

「ちょっと待って、あんたまさか」
「まさかって、口づけくらいとっくの昔に経験済みよ!」
「いつ!?」
「初めては中学の卒業式」

同じ姉妹でこうも違うものか……。由香里はため息を付きつつ肩を落とした。しかも中学生の頃ということは、高校に入ってからの付き合いであるトシオくん相手ではないということだ。

「そんなことはどうでもいいのよ! 結局どうなの、清田さんは」
「どうなのって……友達っていうくらいにしか」
「でもぉ、清田さんはお姉ちゃんのこと好きだと思うけど」
……そうかしら」

由香里の「そうかしら」は、照れてはにかむ「そうかしら」ではなかった。妹から視線を外し、少し伏せた目で吐き出すように言った「そうかしら」だった。

「悪い人ではないと思うけど……とんだお調子者だと思うわ」
「それの何が悪いの。愛があればいいの。愛がすべてよ。ジョン・レノンも言ってるわ!」
「そんな外国の人と一緒にされても困るわよ」

負けず嫌いだが反抗心は弱めである由香里は芸能関係はとことん疎い。妹は音楽が大好きで詳しいようだが、それを引き合いに出されてもいまいちピンと来ない。苦笑いの由香里に詰め寄った妹は、ニヤつきたそうな頬を隠しもせずに声を潜めた。

「でも、次の約束はしてきたんでしょうね?」

ぎくりと体を強張らせる由香里、妹はにやーっと目を細めた。

「ほらほら、もちろん清田さんは今回で終わらすつもりないでしょうからね?」
「そ、そういうことじゃ……
「どこ行くのよ。今度はもう少しロマンチックな――
「水族館」
「水族館!?」

妹はその場に倒れ、足をバタバタさせた。動物園の次は水族館!

「ひどい! 私だってもうそんなところ行かないっていうのに!」
「あっ、あんたと一緒にしないで! 新九郎さんもトシオくんとは違うもの!」
「いつの話をしてるのよ! 今はトシオじゃなくてマコト!」

普段はしんと静まり返っている日暮れ時の三芳家に、今度は由香里の悲鳴がこだました。