未完の恋物語

6

不意打ちで頬にキスをされた由香里は、その晩明け方まで眠れなかった。

全身の感覚がやけに鋭敏になり、心臓の音がいつもより大きく聞こえて、すぐに息が上がってしまう。喉は渇くし、頬は熱いし、動悸が治まらない。妹と母の前では何とか平静を装っていたけれど、部屋の明かりを消して布団をかぶっても、ちっとも落ち着かなかった。

どころか、新九郎の唇が頬に触れた時の感触がありありと蘇ってきて、余計に動悸が激しくなり、その前後のことまでがスローモーションで何度も何度も脳裏に再現されていく。

そして翌日は寝不足で真っ赤な目をして出勤、夜遊びしてたんじゃないだろうなと小言を言ってきた上司には、父親の帰りが遅かったので起きて待っていたと言っておいた。実際父親は深夜2時頃になってようやく帰ってきた。

だが、この眠れない一夜をきっかけに、由香里はある仮説を思いついた。

この不肖三芳由香里、まだたった19年の人生ではあるが、あまりに色恋に縁のない人生を送ってきた。だから、新九郎が好きかどうかが分からないのではなくて、好きだと思う感情そのものを、知らないのではないか!? 好意的な感情を持っていたのだとしても、気付かないのでは!?

そこに行き着いた由香里はしかし、もう2日ばかり気持ちを落ち着かせながら考え、そして腹を決めて職場からの帰り道で新九郎に連絡を入れた。遠い現場でなければだいたい6時頃には帰宅していると言っていたので、6時を待ってから電話をかける。

「連絡、もらえないかと思ってました……
「突然申し訳ありません、今からお時間ありますか?」
「えっ、今から!?」
「ご都合がよろしければ、少し出てきて頂けませんでしょうか。お話ししたいことがあります」

すぐさま由香里から連絡が来たのでホンワカしていたらしい新九郎が電話の向こうで慌てているのがわかる。しかし由香里は早めに自分の気持ちに決着を付けてしまいたかったのである。新九郎が狼狽えようが知ったことではない。

「えと、その、わかりました、どこに……
「では、駅前でお待ちしています」
「あっ、あの、今ちょっと風呂上がりでして、30分ほど」
「構いません、お願いします」

毅然とした態度の由香里はオロオロしている新九郎に構わず電話を切り、清田家の最寄り駅に向かう。ひとまず駅前の喫茶店に入るとレモンスカッシュと水を一気に飲み干し、電話を切ってから30分位のところで外へ出た。すると、駅前通りの向こうから背の高い男が自転車で爆走して来るのが見えた。

「チャリンコですんません……いつものあの車は先輩のを借りてるもので……
「いいえ、突然すみません。お話したいことがあります。移動してもいいですか」

まだオロオロしている新九郎はしかし、由香里が駅前通りを抜けたところにある公園がいいと言うのでさらに狼狽え、硬い表情の由香里を自転車の後ろに乗せて走り出した。

由香里の指定した公園は日が傾いたのでひと気がなく、それにしては早い時間なので、物陰でアベックがイチャついているなんていうこともなく、話をするにはぴったりだった。だが、新九郎は狼狽えているし、由香里は決闘前みたいな顔をしているしで、ロマンチックさの欠片もない。

ベンチにかけましょうかと促した新九郎だったが、由香里はそれを断って仁王立ち。

「私、この3日ほどじっくり考えてみたのですが」
「は、はい」
「新九郎さんのことをどう思っているのか分からない――のではなくて、私が不慣れなあまり、一体どれが『好き』で、どれが『好きではない』になるのかも、きっと判断できてないと思うんです!」

新九郎はまた目を真ん丸にしてポカンとしている。そう来たか。

「大変失礼なことを申し上げているのは重々承知しています」
「い、いえ、失礼だなんて」
「ですから、決めました」
「はっ、はいい」

由香里は思わず一歩踏み出し、胸の前でギュッと拳を作る。

「私には『挑戦』が足りません! 新九郎さん、私とお付き合いしてください!」
「は!?」

新九郎も思わず一歩下がって素っ頓狂な声を上げた。男女交際って挑戦なの!?

「由香里さん落ち着いて、それは意味合いが違いませんか」
「だけど、このままでは私は自分で判断できない人間のままです」
「でもそういうのって、無理矢理自覚するものではないでしょう」
「普通中学生やら高校生で自然と自覚するものなんでしょうけど、過ぎてしまいましたから」
「いやいや、それはまあ個人差もありますから」

新九郎は急展開に目を白黒させているが、由香里は大真面目だった。

「そういう動機では、いけませんか。私の中にもきっと可能性は眠ってると思います。だけど、自然と自覚が現れる時期を過ぎてしまったものは、叩き起こすしかないじゃないですか! 私、この間の夜、頬に口づけされて、もうわけがわからなくなっちゃったんです。だけど目が冴えて全然眠れなくて、ずーっと新九郎さんのこと考えてました。それって、『好き』ってやつに似てませんか!?」

何しろ由香里は石頭な上に、大変な負けず嫌いである。

好きという気持ちもわからない、頬にキスされて眠れなかったことの正体もわからない、わからないばかりで何も進まないし、このままいたずらに時間だけが過ぎていったら、年をとるだけ。それでは父親が死ぬまで三芳家に束縛されてしまう。それは嫌だ!

「に、似てますけど、あのー、オレでいいんですか?」
「失礼な言い方だったらごめんなさい、こんなお願い、新九郎さんにしか出来ないじゃないですか!」

他に誰に頼めっていうんだ、と鼻を鳴らした由香里は、直後にきつく抱き締められて息を呑んだ。

……付き合うって、こういうことですよ、いいんですか」
「は、はい、そのつもりで、来ました」
「由香里さんの自覚はまだでも、オレは全部自覚、してますよ」
「わ、わかってます」

腕が緩み、いつになく真面目な新九郎の声に顔を上げると、彼の目が迫っていた。ああこれが、キスっていうことなのか。由香里は頭の片隅の冷静なところで気付いて、目を閉じた。それを確かめた新九郎がそっと唇を寄せる。壊れ物にでも触れるような、優しいキスだった。

その瞬間、また由香里の心臓が天を衝くほどに跳ね上がった。

日中は仕事をしている都合もあり、さっさと話をするには夜に呼び出すしか方法がないとはいえ、平日の父親はほぼ毎日6時過ぎには帰宅している。残業がないからという理由で選んだ仕事場なので、そこは変わらない。そのため由香里は、今週から残業が入るかもしれないと嘘をついておいた。

すると父親は、残業代が出るなら家に入れる金額を増やすように、と命令してきた。残業代がどうなるのかは聞いていないけれど、勤続3年で少し昇給があるらしいと言うと、精々勤めるようにと言い渡された。嬉しそうだった。由香里の収入が上がれば自分の稼ぎをそれだけ家計費から引くことが出来る。

「そういうわけなので、21時頃までに帰れば充分です」
「由香里さん、ご飯は?」
「いいえ、会社を出た足でそのまま来たので」
「それじゃ、よかったらうちに来ませんか。ちょうど飯時なので」
「えっ!?」

薄暗い公園で由香里を抱き締めてふらふらと揺れていた新九郎は、これまでとは違って落ち着いた声でそんなことを言いだした。よし、これで新たな一歩が始まるぞと奮起していた由香里は面食らい、少し飛び上がった。恋人になった途端家族に紹介とは性急すぎやしないか。

しかし、恋人同士になったんだから早速モーテルでも行きましょう! と言われても困る。確か清田家は人数が多くて人の出入りが多いと聞いていたし、新九郎は一人部屋があると言っていたし、ご飯を頂いて帰るくらいなら、なんとでもなるか……と由香里は頷いた。

せっかく新九郎と交際するという決断に一歩踏み出したのだし、何でも挑戦してみるべきだ。由香里はまた自転車の後ろに乗り、新九郎のでっかい背中にしがみついて清田家まで運ばれていった。

「ず、ずいぶん大きなお宅なんですね……
「あっちが事務所になってるんですよ。増築増築で部屋も多いし、下宿屋みたいなもんで」
「お母様お忙しいのでは? 私がお夕飯なんか頂いたら……
「コース料理みたいな飯は出てこないので大丈夫ですよ」

新九郎は上機嫌だが、由香里は意味がわからなくて首を傾げた。コース料理が出てこなくても、普通人数分のお食事を作るものなんじゃないの。急にひとり分増やせと言われたら、困るんじゃないのかしら。そうしたら、飯時に遠慮なくやって来る図々しい女って思われないかしら――

玄関に近付くと、外まで騒がしい声が漏れ聞こえていた。男性の声がほとんどだが、たまに女性の声も混じっている。今日は何かお祝いでもあったんだろうか……とまた首を傾げていた由香里だったが、玄関に通されると驚いて爪先立ちになった。

荒っぽい男性の声が、それも酒を飲んで楽しくなってしまっている大人の男性の声が鳴り響いていた。そこに中年女性の怒鳴り声が混ざり、かと思えば新九郎と同世代くらいの若い男性の声も混じり、さながら昼時の大衆食堂のような賑わいだった。

「ここでちょっと待っててくださいね、先に女将に話してくるから」

この時由香里は初めて、新九郎はまだ若くてハンサムな男の人なのだと痛感した。姿は見えないけれど、廊下の向こうから聞こえてくる笑い声や喋り声に迫力がありすぎる。きっといかついおじさんがひしめき合っているに違いない。というか女将って?

「あっらやだ、まあー、何よ可愛らしいお嬢さんじゃないのォ」
「由香里さん、母です」

戻ってきた新九郎は、母だという女性を連れてきたのだが、由香里は面食らってすくみ上がった。

女将こと清田家の奥さんは、短く刈り込んだ髪にきついパーマをあてていて、色眼鏡、真っ赤な口紅、紫色のシャツにピンク色のズボンを履いていた。そして、廊下の向こうからタバコの匂いが這い出てきて、玄関を満たしていく。というか、その女将もタバコ臭い。

「や、夜分に申し訳ありません、み、三芳由香里と申します」
「あらまあ、ずいぶんちゃんとしたお嬢さんだこと。何、ご飯食べてくの?」
「と思って連れてきたんだ」
「あっそう、そんなら早く上がんなさい。帰りは送っていくんだろ」
「親父が車貸してくれればだけど」
「貸してくれんだろ。別に悪さしようってんじゃないんだし。ほらほら、上がんな」

照れくさそうな新九郎に促されて由香里は玄関を上がる。そして、バカ笑いとタバコの煙が充満する居間にとうとう足を踏み入れた。そこには、生まれて初めて見る「雑」な空間があった。

「うおっ、あんたアレかい、新九郎の!」
「こりゃまた本当に別嬪さんじゃねえか。この町にもこんな娘がいたんかね!?」
「お姉ちゃんこっちこっち、ここ来な! ここ座っておじさんに名前教えて」
「黙んな!!! この子は商売女じゃないんだよ! 指1本触ったらはっ倒すからね!」

強烈な洗礼を浴びた由香里はすくみ上がって何も言えずにいたのだが、新九郎より先に女将の怒号が居間に響き渡った。そして新九郎と女将に促されて、お勝手の近くに置かれているテーブルにつかされた。そこで由香里は突然夕飯がひとり分増えても大丈夫な理由を知る。

テーブルの上には食堂でしか見たことのないような大皿が5つも乗っていて、おそらくは山盛りに乗っていたであろうおかずの名残が端に寄せてある。さらに三芳家の一番大きな鍋の倍はありそうな鍋が3つ。中身は味噌汁とあら煮と煮物の模様。これならまだ5人くらい満腹になれる量だ。

「由香里さん、好き嫌いはないだろうね?」
「は、はい、ありません」
「うちはこういう家だからナイフとフォークでビフテキってわけにいかないけど」
「と、とんでもないです、お夕飯時に突然お邪魔し――あの、お手伝いします!」

物で溢れかえるお勝手、新九郎はすでに皿を引っ張り出したり箸を探したりしているので、背中に突き刺さるおっさんたちの視線が痛い。由香里は慌てて立ち上がると、すがりつくようにして女将に並び、新九郎とふたりぶんのご飯の用意を手伝った。

まるで場末の飲み屋の中にいるような喧騒の中、由香里はたっぷりのおかずと白いご飯、味噌汁に漬け物という晩餐を前に、少し耳が遠くなったような錯覚を覚えた。こんなにうるさい中にいるのは高校の文化祭以来なのではないだろうか。

新九郎が食べ始めたので追って箸をつけると、家の外で狼のような吠え声が聞こえてきた。そういえば清田家は犬の途切れない家だと新九郎の手紙に書いてあったな……と由香里は思い出した。

「由香里さん犬は大丈夫でしたよね」
「はい。隣の家の犬と仲良しで」
「ちょーっとうちの犬大きいんですけど、むやみに襲いかかったりはしないので」

声からして大型の犬であることは察しがつく。おそらく忠義心に厚く、主人以外の人間には尻尾を触らない犬に違いない。だから、こっちから手を出さない限り、噛まれることもあるまい。そう考えていた由香里の背後で、ざわめきがぴたりと止まった。

何事かと振り返ると、新九郎のように背が高く、厳しい顔をした男性が居間の入り口に立っていた。

……新九郎、飯食ったらオレの部屋に来い」

決して大きな声ではなかった。だが、その声は居間からお勝手を震わせるように響いた。由香里は瞬時に彼が新九郎の父親で、清田工務店の「親方」なのだとわかった。迫力がありすぎて喉が詰まる。親方が居間を出ていってしまったので顔を戻すと、新九郎が慌ててご飯をかき込んでいる。

「由香里ふぁん、ちょっと行ってくるろで、ゆっくり食べててくだはいね」

ご飯を目一杯詰め込んだ新九郎はそう言うと味噌汁で口の中のものを流し込み、慌てて席を立った。いや、ちょっと待って、私ひとりここに残されたら――と言葉もないまま真っ青になった由香里だったが、新九郎と入れ替わりに女将がやって来て、隣にどっかりと座った。

「悪いわね、あの子はお父ちゃん尊敬してるから」
「そ、そうなんですね」
「ねえ由香里さん、あの子、悪い子じゃないのよ」
「えっ?」
「こんなやかましい家の子だけど、仲良くしてやってちょうだいな」

女将はタバコを鼻から吐き出すと、にんまりと笑った。金の指輪がいくつも嵌った手には、真っ黒なコーヒーのカップ。しかし、爪は短く切り揃えられていた。由香里は女将をまっすぐに見つめて、しっかりと頷いた。驚きはしたけれど、悪い家じゃない。そう感じていた。

すると今度は新九郎があたふたと戻ってきて、ちょっと一緒に来てくれという。

「大丈夫よ、お父ちゃん顔は怖いし言葉も少ないけど、顔は生まれつきだし言葉が少ないのは単に喋るのが得意じゃないからなの。取って食ったりしないから、ちょっと行っておいで」

女将の言葉に何度も頷いた由香里は、新九郎に手を引かれて居間を出た。そして玄関のすぐ脇にある部屋へと入る。応接間のようだが、親方の書斎も兼ねているらしい。無教養で無骨な棟梁なのかと思いきや、レコードや本が多くて、由香里はまた少し面食らった。

……新九郎の父です。どうぞおかけなさい」
「はっ、初めまして、三芳由香里と申します」
「おいくつですか」
「じゅ、19になりました」
「お勤めされてるのですか」
「はい、A市にある、工業用の部品を扱う会社で」

由香里は目が回りそうになりながらも、早口で答えた。親方はそれはそれは丁寧に話しかけてくれているのだが、何しろ見た目が怖い。新九郎はあまり似ていない。というか女将にもあまり似ていない。親方と似ているのはその身長と、声だけだった。

その新九郎は黙ったままだし、由香里は親方の質問攻めに一生懸命答えた。確か新九郎に交際することにしませんかと言いに来ただけだったのに、なぜこんなことに――なんてことを考える余裕もない。

――B町……の三芳さん?」
「は、はい、B町の5丁目で」
「5丁目……私の記憶違いでなければ、お父さんに見積もりを頼まれたことがある」
「えっ?」

なんだか尋問みたいになってきたな……と由香里が冷や汗をかき出した頃、親方は少しだけ首を傾げ、指で顎を撫でながら天井を見上げた。

「確か、そう、庭に作業場が欲しいから、簡単な小屋を建てられないかという話だったな」
「作業場……?」
「見積もりを出しただけで流れましたがね。どこか他所に頼まれたかな」
「いえ、いいえ、小屋なんか建ってません。そんな話、初めて聞きました」
「そうですか。気が変わられたらいつでもお声掛けくださいと伝えてくれるかね」
「は、はい、わかりました」

もちろんそんなことを父親に伝えられるわけはないのだが、父がどんな人物かを話せばこの場で交際がご破算になってしまう。由香里はちょっと申し訳なく思いつつ、何度も頷いた。

だが、ほんの些細な記憶でも、どういう家の子なのかということが知られているのは話が早い。根掘り葉掘り質問はされたが、父親と自宅を知られているなら、怪しまれることもあるまい。三芳家は父の正体さえバレなければ、ありふれた慎ましやかな家である。

あらかた質問が終わると、親方は満足したらしく、ほんの少しだけ笑ったように見えた。

「こんな騒がしい家でよかったら、またいつでもいらっしゃい。息子をどうか、よろしく」

親方が新九郎は残れと言うので、由香里は体を半分に折り曲げて頭を下げると、またお勝手に戻った。すると先程まで宴会状態だったおじさんたちが半分以下に減っている。忍び足でその傍らを通り過ぎると、女将の背後に滑り込み、お手伝いしますと首を突っ込んだ。

「言うほど怖くなかったでしょう」
「は、はい。緊張はしましたが……。あの、みなさんどこかへ行かれたんですか」
「ああ、あれは独りもんの職人たちなのよ。ほっとくと酒しか飲まないから」

女将の話では、親方の師匠がやはり仕事が引けると酒ばかり飲んでいた人で、酒が抜けないまま屋根に登って転落、顔から上しか動けない状態になってしまったらしい。おかげで親方は若くして独立、そういう経緯があるので、雇いの職人たちにはきちんと食事を取らせたくて、毎晩のように自宅に招いているのだという。

「それではお母様は毎日あの量のお料理を……
「まあもう慣れたわよ。あたしも元々は横須賀の方で飲食店をやってたし」
「通りで……おかずがとても美味しかったです」
「あらやだ、褒めても何も出ないわよ。やあね、チョコレートかなんかあったかしら」

女将の片付けを手伝いながら、由香里はやっと気が緩んで笑った。

一方その頃書斎では、親方に引き止められた新九郎が、ブランデーを振る舞われていた。

「お、親父、これ、とっときのブランデーじゃないのか。氷は」
「今開けねえでいつ開けるんだよ。それから、本当に美味い酒に氷は入れねえんだ。覚えとけ」

親方は女将の言うように生まれつき怖い顔なので、いつでも怒っているように見えるけれど、要するに強面の男性にありがちな、ぶっきらぼうだけど照れ屋で口下手というタイプなのであり、それをよく知る息子には、父親の顔が喜びで綻んでいるように見えた。

新九郎は香り高いブランデーを口に含み、喉に広がるじんわりとした熱さを感じていた。物心ついた時から父親は自分にとっての憧れで、世界で一番かっこいい男だった。父に認めてもらいたい、父に喜んでもらいたい。それは子供の頃からブレたことがなかった。

そんな感慨に浸る新九郎に、親方はことさら低い声で言った。

「新九郎、お前は最高の女を見つけたな。あのお嬢さん、絶対に手放すんじゃねえぞ」

ブランデーの酔いだけではあるまい。新九郎は目の奥が少し、熱かった。