未完の恋物語

4

「あのなあ、女なんてモンは、襟首とっ捕まえてブチューッと熱いのを一発お見舞いすりゃ、それだけでトローンとなっちまうもんだよ。そんでトロンとなったところで、ヨッと押し倒せば、後は嫌よ嫌よも好きのうちってなもんだぜ。男なら強引に行かなくちゃ」

新九郎はそんな兄弟子の言葉を上の空で聞いていた。

やっぱり動物園行って帰って来ただけという報告が面白くない兄弟子はタバコをスパスパふかしながらニヤついているが、新九郎の頭には入っていかない。彼の頭の中にあるのは由香里の姿と声だけである。由香里さん何であんなにかわいいんだろう。鼻血出そう。

由香里の妹は「遅くなってもいいですよ」なんてニヤニヤしていたけれど、とんでもない。暗くなり始める前、夕方5時頃に送り届けるくらいが新九郎も限界だった。それ以上ふたりきりでいたら、本当に鼻血が出てしまうかもしれない。

何しろ由香里はひと目会ったその時から新九郎のハートをガッチリ鷲掴みにしてしまい、そろそろバーベキューからは1ヶ月が経過しようとしているが、ちっとも落ち着く気配がない。どころか思いは募るばかり。交際すっ飛ばしてプロポーズとかだめかなあ……

由香里は警戒しているというより、ひどく戸惑っているという感じで、歩き方もぎこちなかった。

新九郎の方は元々何かにビビるということが殆どないし、緊張が興奮に変わる性格なので、動物園デートも大いに楽しんだ。由香里の指先の爪が桜色で小さいなあと思っては嬉しくなり、食堂のカレーが美味かったのでまた嬉しくなり、トイレから出てきたところを「ちゃんと手を洗いました? ダメですよ!」と叱られては嬉しくなり、とにかく目一杯満喫した。

が、由香里は言葉を濁していたが、どうにも父君が異常に厳しいようで、彼女の日々は父親に怯えながら家を支えるために働いているという様子で、それがもう18年も続いているせいか、自分を閉じ込めているように見えた。我慢しすぎてそれが普通になってしまっている、そんな風に。

だからきっと自分のように動物園を楽しめないのでは……と考えた新九郎は、じゃあ今度は水族館どうですか? と誘ってみた。由香里は苦笑いだったけれど、出かけられそうな日を見つけたらこっちから連絡すると言ってくれた。

そして、よほどのことでない限り電話はかけてくるなときつく申し渡された。

だけど由香里さん、オレあなたに話したいことがいーっぱいあるんですよ。

兄弟子のタバコの煙に巻かれながら、新九郎は腕を組み、なんとかして由香里と連絡を取る方法はないかと首を捻った。しかしお喋りするために会社の電話は言語道断だろうし、夜間に由香里を公衆電話まで行かせるのも嫌だし……そしたらあとは手紙くらいしか……手紙!

「手紙!!!」
「うおっ、なんだよいきなり。手紙がどうした」
「あっ、いやいや、電話が出来ないから、手紙書こうかと」
「げえ〜、お前そんなでっかい図体してラブレターかよ、女学生じゃあるまいし」

兄弟子たちは苦笑い通り越して嫌そうな顔をしていたが、新九郎は目を輝かせ始めた。これなら何とかなるかもしれない! 通常、郵送物の配達は日中。三芳家で一番最初に帰宅するのは母親だという話だから、清田という名さえ母親の目に止まれば、父親に見つからないようにしてくれるに違いない。

新九郎は仕事が引けると急いで文具店へ走った。由香里よりちょっと幼い感じの女の子たちがひしめく便箋売り場に顔を突っ込み、「やだあ、何この人」と遠慮なく非難されながら、いかにも女の子が使いそうなピンク色や黄色の華やかな便箋と封筒のセットを選んだ。

普段から若い女の子ばかり相手に商売しているであろう店主の「あんたがこれ使うの」という訝しげな声には臆することなく「女性への手紙ですからね」と返した。彼はこうしたことを恥ずかしいと感じないタイプだ。鈍感と紙一重。

そして帰宅し、父親と叔父のあと、3番目に風呂を使い、ガツガツと飯を食い、その勢いでビールを流し込むと、部屋に直行。2年前、高校を卒業した時に学習机を処分してしまったので、手紙を書くのは床の上だ。最近清田家はもう何度目かになる増築を終えたばかりで、これまで弟と襖仕切りでしかなかった和室は板張りの6畳間になっていた。

新九郎はこれといった固定の趣味はないし、嬉々として仕事に精を出しているタイプなので、推定6畳間の部屋はがらんとしている。あぐらをかき、可愛らしい便箋を前に、新九郎は考える。

これなら、いつ由香里さんが嫁に来ても大丈夫。

そしてそのまま床に転がってのたうち回った。板張りの部屋になったので敷布団からベッドに変えたのだが、体が大きいので、新九郎はダブルベッドにした。サイズが変わっても縦幅は変わらないけれど、ちょっと斜めになるとぴったり。余った隙間には由香里も入る気がする。

由香里さんと一緒に寝るですと!!!

また床の上をゴロゴロと転げ回った新九郎は部屋を飛び出すと、台所まで駆け下りて、またビールをガブガブと飲み干した。とてもじゃないが、シラフでは手紙など書けそうになかった。というより、酒で余計な妄想が暴れ出さないようにしたかった。

妄想が溢れ出してしまうのはしょうがない。由香里に恋をしているのだし、いささか欲に任せた妄想、いや願望があるのは普通のことだ。しかし、それは由香里の気持ちを無視していい理由にはならない。彼女を征服したいわけじゃない。ただひたすら好きなだけ。

しかしそれを手紙に書くのは違う気がした。彼女に「好きだ」なんて言うのはまだ早い。デートを重ね、たくさん話をして、それでも由香里が「もう誘わないでください」と言わなかったら、その時初めて思いの丈を告白しようと思っていた。

だから、手紙には深刻なことは書くまい。会話の上ではねじ込みづらい「詳細な自己紹介」、これでいこう。決して自画自賛にならないように気をつけて、自分がどんな人間なのかをわかってもらえるように。少しでも好きになってもらえるように。

拝啓、三芳由香里様。

「男がピンクの便箋でラブレターとか暑っ苦しいわね……
「暑苦しいのは認めるわよ……
「住所が一発で頭に入るのは仕事柄かしらね……

三芳姉妹は部屋の真ん中に散らばるピンク色の便箋を前に正座で腕組みをしていた。

この日の夕方、仕事から戻った由香里の母親はポストを検めると、由香里宛ての手紙を見つけた。珍しいこともあるもんだ……と裏を返してみると、ただ「清田」とあった。あの巨人だ! と気付いた彼女はそれをポケットにしまい、後で帰宅した娘にこっそり手渡してきた。

妹はまたそれを聞いて大はしゃぎ。父親が帰宅しているので声は立てないよう静かにしているが、由香里は慌てて封を開いて読み、妹はそれをじりじりと待っていた。が、ざっと目を通した由香里は便箋をはらりと畳の上に広げ、「なんていうか、詳しい自己紹介だった」と呟いた。

「うーん、私の推理では、清田さん、電話ができないから手紙にしたんだと思う」
「電話も手紙もいらないわよ……
「だからあ、それは清田さん、少しでもお姉ちゃんに興味持ってもらいたくて」
「興味って言われてもねえ」
「ほんとに興味ないの? ほんとに? だったら何で2度目のデートの誘いに乗ったのよ」

妹の言葉に由香里は詰まる。それを言われると返す言葉がない。

「例えば清田さんがお金持ちのボンボンで、高級車に流行の服で現れて、おしゃれなレストランに連れて行ってくれて、なーんでも好きなもの買ってくれる、だけどお世辞にもハンサムとは言い難い……なんて人だったらわかるわよ。私は金だけ使わせて振り向かない小悪魔を気取るのもいいと思う。だけど、清田さんてそうじゃないでしょう。懐具合は知らないけど、真逆の人じゃない」

だが、由香里は何も恥ずかしいから本音を隠しているわけでもなかった。

「でも……別に私、あの人のこと好きだなあなんて、思ってないのよ。だって……
「当たり前じゃないの、そんなこと」
「はあ?」
「あのねえ、好きって気持ちは、育つものなのよ、お姉ちゃん!」

妹はピンクの便箋を除けると、正座のまま詰め寄った。

「だけど、お姉ちゃんが2度目のデートの誘いを断らなかったのは、好きになるかもしれない可能性があの人にあったからじゃないの? こんなろくでもない生活から連れ出してくれる人かもしれないって、思ったんじゃないの? だから2度目も受けてみようって思ったんじゃないの?」

由香里は半分伏せた目でピンク色の便箋を見下ろした。

拝啓、三芳由香里様。そう始まった手紙は新九郎の自己紹介に終止しており、何が好きで何が苦手で、こんな人生を生きてきた、そんなことばかりが書かれていた。動物園デートの時もそういう話はしたけれど、それをもっと掘り下げた内容になっていた。

妹の言うことくらいは、由香里にもわかる。新九郎はなぜか由香里のことを大層気に入っていて、出来れば男女交際にまで発展させたいと願っている。だから自分に興味を持ってほしくてこんな手紙を寄越した、そんなことは由香里でもわかる。

しかし、そういう新九郎の熱心さが、妹の言うこの「ろくでもない生活」を打ち破るとは思えないのだ。それに、確かに新九郎は今一番由香里をこの生活から救い出す可能性の高い人物だが、そのためだけに結婚や交際を考えるのはどうなんだろう。そんな迷いもあった。

由香里の中にはまず第一に「ろくでもない生活から救い出してくれる可能性のある人」という関門がある。それは新九郎という一個人を見ているのではなくて、この生活から抜け出す手段、踏み台としか考えていないのでは。そう思える。

正直なところ、由香里が二度目のデートを断る気にならなかったのは、あの動物園デートがとても良い「気晴らし」になったからだった。新九郎と一緒にいても胸が高鳴るようなことはなかった。けれど、自分の家のことを何も考えずにいられた数時間のおかげで、頭がものすごくすっきりした。

父親のいる生活など、3日もあればまた鬱屈した気持ちで一杯になる。水族館デートは、それをきれいさっぱり洗い流してくれるのではないだろうか。そう思ったのだ。

だから、こんな手紙をもらったところで、新九郎個人に興味が沸くわけがなかった。

「可能性を言い出したらキリがないわよ。それに、彼のことが父さんにばれたらと思うと怖くてたまらない。だけど、動物園に行ってた時は、父さんに怯えて息が詰まるような普段の生活から離れて、そういうの、忘れられたから――

父がくれなかったものを新九郎さんがくれただけ。

しかし妹は待ってましたとばかりにふんぞり返り、人差し指をチッチッと振った。

「そうでしょうとも。家から離れて息抜きができたわよね? 一緒にいるのは三芳家や職場とはなーんの関係もない人で、しかもお姉ちゃんのことが好きだから、なーんの気も使わなくていいし、気楽この上ないでしょうね。だけどよく考えてお姉ちゃん、それを、くれたのよ、あの清田さんが!」

わかりきったことを……と呆れたため息を付いた姉に、彼女はまた身を乗り出す。

「いいこと、彼を遠ざけたら、それがなくなるのよ。もう少し真面目に向き合った方がいいわ」

妹はピンクの便箋を指でつまみ上げると、ふんと鼻を鳴らした。

「暑苦しいけど、将来有望だと思うな、私。賭けてみる価値はあるはずよ」

その「賭け」が怖い。それが由香里の心の一番深いところにあって、全てのことの足枷になっていた。

水族館デートに行かれそうな日が現れたのは、動物園デートから1ヶ月以上経ってからだった。すっかり夏空になり、蝉の声がうるさい季節。由香里は会社からの帰り道で新九郎に電話を入れた。電話ボックスの中は蒸し風呂のようだ。

「あっ、そういえば手紙届きました?」
……あの便箋、自分で買ったんですか?」
「はい! 女の子に送るのにただの白じゃ味気ないかなあって」
……返事もせずに、すみません」
「いやいや! それはお気遣いなく! オレが勝手に送りつけてるだけですし!」

それはそれで問題じゃなかろうかと思う由香里だったが、そろそろ手の中の十円玉が尽きそうなので、さっさと切り上げて電話を切った。行かれそうな日を伝えるだけだし、話したいこともないし、小銭に限りはあるし、早く帰って母親の手伝いをしなきゃならないし。

蒸し暑い夏の風に吹かれながら、由香里は新九郎の声を聞いた瞬間に「少しでいいから会いたいな」と思ったことを否定しながら家路を急いだ。それは錯覚だ。相変わらず毎日父親の支配する家が息苦しいから、気晴らしをしたいと思ってしまうだけだ。

妹はどうやら恋多き女性のようだから、自分の尺度で姉を煽っているだけ。勘違いよ。

家に帰ると、母親が夕飯の支度は出来ているから、父親が帰るまではゆっくりしてていいよと言ってくれた。由香里は部屋に戻って服を脱ぎ、シャワーに入る。三芳家は父親が一番風呂でなければならないルールだが、シャワーならばれない。

三芳家にはクーラーもなく、夏場は窓から入る風か扇風機頼みなので、由香里はサマードレスに着替えて窓辺にぺたりと座る。手には新九郎からの手紙が3通。ほぼ1週間に1回くらいの割合で届く。ピンク、黄色、薄紫。花やレースの柄が可愛らしいが、中身は新九郎の自己紹介や近況である。

妹はアルバイトで21時頃にならないと帰らない。由香里は手紙を開いて、ぼんやりと眺める。

内容は正直どうでもいいことばかりで、これを読んだところで新九郎に対して好意的な気持ちが湧いてくるわけではなかった。新九郎が生まれてからの歴代の飼い犬を羅列されても、何とも思わない。三芳家は動物を飼うなどもってのほかだが、隣の家の犬とは兄弟同然に育った。その子の方が可愛い。

それでも無為な時間に手紙を読み返してしまうのは、こんな風に自由に自分をさらけ出せる新九郎が羨ましかったからだ。一目惚れした相手にも臆することなく積極的に近付いていき、手段が断たれれば手紙を綴ってでも気持ちを表そうとしている。

父親という「重し」に潰されそうになっている由香里には、出来ないことだった。出来ないというより、まず思いつかない。やろう、やりたいとすら思わないようなことだ。新九郎は手紙の中の文章ですら奔放で、自分もこんな風になれたら……という羨望でいっぱいになる。

これを読めば、勇気が湧いてくるかもしれない。そう思いながら、由香里は手紙を読み返すのだった。

2度目のデートも恙無く滞りなく終わった。水族館に行って他愛もないことを話し、お昼を食べてまた話しながら水槽を眺め、そして暗くなる前までに帰ってくる。妹はまた進展がないので面白くなさそうだったが、ほどよく息抜きができた由香里は満足だった。

そうやって日曜に新九郎と遊びに出かけると、毎日の鬱屈した気持ちがきれいに洗われ、3日間くらいはすっきりした気持ちでいられる。仕事も笑顔でこなせるし、ぐっすり眠れる気がした。

なので、由香里は新九郎の誘いに迷わなくなった。空いてる日を見つけたら電話します。

新九郎の方もそれで調子に乗るようなことはなく、何度デートをしても動物園デートの時の距離感を保っていた。手も繋がないし、寄り添うこともないけれど、彼はいつでも楽しそうだった。

「ナンセンスだわ……中学生じゃないのよ……
「もうほっといてよ。いいじゃない、遊びに行ってるだけなのよ」
「お姉ちゃんはそうかもしれないけど、清田さんは違うと思う」
「そう? いつも楽しそうだけど」

由香里が新九郎と遊びに出かけるようになって数ヶ月が過ぎた。秋になり、今まさに行楽シーズン、本日ふたりはピクニックである。父親の目を盗んで支度した由香里の手作り弁当付き。それを聞いた妹は身支度をする姉の背後でまた腕組みをしている。

「あのねえ、そんなの、お姉ちゃんに嫌われたくなくて我慢してるに決まってるでしょう」
「そうかなあ……むしろいつも向こうの方が楽しそうなんだけど」
「毎回車出してくれるんだし、手ぐらい繋いでやんなさいよ〜」
「手なんか繋いだって車の礼にはならないでしょ」
「それ以前に、今後も交際する気がないんなら、そろそろ潮時だと思うけど」
「どういう意味?」

髪をポニーテールにまとめていた由香里は、鏡の中で怖い顔をしている妹の目を見た。

「清田さんはお姉ちゃんと恋人同士になりたいと思ってる。だから嫌われないようにこんなガキっぽいデートでも文句ひとつ言わずに付き合ってくれてる。だけどもしお姉ちゃんが清田さんとは友達以上の関係になる気がないって言うんなら、きちんとそう言うべきじゃない? あなたとは今後一切手も繋がないしお付き合いもしないけど、こうして車で遊びに連れてってもらうのは楽しいから、いつまでもお友達でいましょうね、って。彼はお姉ちゃんの召使いじゃないのよ」

妹は自分の恋愛を基準にしてませたことしか言わないと思っていた由香里だったが、理屈で畳み掛けられて言葉に詰まった。新九郎の真意はともかく、もし妹の言うように彼が自分と恋仲になることを唯一の目的としてデートを繰り返しているのだとしたら、確かにこれは生殺しなのでは。

「それ以前に……もう何度もデートしてて彼がアリかナシかもわからないの?」
「だ、だって、そういう風に考えたことなかったんだもの」
「つまりそれって男性として意識してないってことでしょう。だったら無理なんじゃない?」
「そ、そんなに急ぐことじゃないんじゃない? まだ知り合って――
「付き合わないなら、振り向かない女に使う時間を浪費させてるってこと、覚えておきなよ」

当然そんなつもりはなかった由香里だが、妹の理屈は間違ってはいない。新九郎がアリだとかナシだとか、そんな風には考えて来なかったけれど、もし今後も新九郎に好意を抱くことがなかったら、お付き合いも結婚もしません、となったら、新九郎はたくさんの時間を無駄にしたことになる。

由香里はしょんぼりした顔で鏡の中を覗き込む。バーベキューの日に駅のトイレでリボンを結んだ時は完全に戦意を喪失していて、虚無感に襲われたものだった。今、由香里のポニーテールにはあの日と同じレースのリボンが結ばれているけれど、このリボンは楽しい日につけるものになっていた。

そして手のひらの中にある薄い色の口紅。ピンクとオレンジ色が混ざったような、健康的で明るい色だった。新九郎と出かける時だけ付けている。

だけどそれは新九郎の劣情を掻き立てたいからじゃない。楽しいことのしるしだった。

そうか、私、思わせぶりなのね――