未完の恋物語

2

清田新九郎は幼い頃から豪快な性格をしていた。近所ではガキ大将で通り、しかしそれは「いじめっ子」という意味ではなく、兄貴肌で年下に好かれ、正義感が強く、弱きを助け強きを挫くを地で行く少年だった。体も大きかったので、ちょっとくらい年上なら喧嘩も負けなし。

これには父親の「戦国武将好き」が大いに影響していて、数多の偉人たちの英雄譚を寝物語に聞かされ、ついでに父親のロマンがたっぷり詰まった情操教育を受けて育ったので、そういう立派な人物にならねばという意気込みの塊のような成長をしていった。

しかしそれは本人も大いに望んでのことで、生まれつきの性格にもぴったり合致して、新九郎は頼れる兄貴、ガキ大将のまま青年になっていった。

高校では空手部に所属し、そこでもやっぱり後輩に好かれる頼れる先輩として鳴らした。卒業の頃には身長が189センチに到達、町一番の大男となった新九郎はしかし、予定通り家業を継ぐために修行に入った。といっても何でも請け負う流儀の工務店、毎日の仕事が修行だった。

新九郎はよくあるように父親を尊敬し、また英雄視もしていて、とにかく父と同じ仕事に就いて同じ現場で働けることに最上の喜びを感じていた。子供の頃からの夢は一貫して「お父ちゃんのような大工になる」であり、それをちらりとでも迷ったことはなかった。

当時清田工務店は新九郎の父と、その弟のふたりが中心になって営まれていた。他にも従業員はいたけれど、そこに跡継ぎとして入ってきた新九郎は毎日嬉々として働き、雑な時代のこと、仕事が引けると父や仲間たちに酒を覚えさせられ、働いているか飲んでいるか寝ているかの日々だった。

当時の新九郎は流行からもそれほど外れないハンサムであったのだが、しかしとにかく身長が高すぎて怖がられることもしばしば。そして性格は豪快で繊細さの欠片もない。そういうわけで、モテそうでモテないを通してしまっていた。

厳密に言えば高校時代にひとり彼女がいたのだが、新九郎は放課後は空手部に入り浸っていたし、大した進展もないまま彼女は進学を選び、そのまま別れた。

そんな状態で家業に入ってしまったので、出会いもなければ、海でガールハント……なんてことにも興味がなかったので、彼女なしのまま彼は二十歳を迎えた。

その頃に出会ったのが由香里である。

新九郎が二十歳、由香里が18歳の初夏のことだった。新九郎は中学時代の先輩に誘われてバーベキューに出かけることになった。この頃地元には新九郎のように高卒で働き始めて出会いがないという若者が溢れていたそうで、いわゆる合同コンパ。ただし、日曜の真っ昼間から海の近くでバーベキュー。

「何も集団お見合いをしようってんじゃないんだぜ。気楽に構えろよ」
「だけどオレ、そういう集まりは慣れないもんで、どうにも」
「だからだろ! お前、図体はデカいくせして肝っ玉の小さいやつだな」

気乗りがしないのに気を使って――ということではなかったのだが、新九郎は少々不安を抱えていた。子供の頃からガキ大将、子分はみんな男、姉妹はなし、高校時代も空手部、卒業したらおっさんたちと仕事。そんな集まりに行っても、気の利いたお喋りができるとは思えなかった。

一緒に声をかけられた幼馴染のヘイさんこと康平も、そういう理由で誘いを断ってしまった。

だが、幸い新九郎は前向きで気楽な性格をしており、不安はあっても洒落た会話ができないことを恥じる気持ちはなかったし、一体そういう男女の集まりというものはどんな感じなのか見てやろう、という気になっていた。もし爪弾きにされたら肉をたらふく食って帰ればいいや。そんなくらいに。

「それよりお前、汚え格好はしてくるなよ。一張羅とは言わんけど、パリッとした服にしとけよ」
「それもよくわからんのですよね」
「手間のかかるやつだな、そこまで面倒見きれねえよ。服屋にでも聞いたらいいんじゃねえのか」
「はあ、わかりました」

とまあ、このくらい新九郎は野暮ったい青年ではあった。言われるままに駅前の服屋に行ったけれど新九郎の体に合うものはなく、流れ流れて横須賀まで足を伸ばしてやっと清潔そうな上下を手に入れた。

そして新九郎は、その真新しい上下に雪駄を履いていってしまうわけだが、集まった女の子たちに白い目で見られている暇はなかった。よく晴れた初夏の空の下、彼はコロッと恋に落ちるのである。

真っ黒な髪、真っ黒な瞳、きりりとした眉、小振りな鼻、ぷっくりとした唇、ツンと尖った顎。低めのポニーテールには白のレースのリボンが垂れていて、全体的に質素で、流行りの服装という感じではなかったけれど、どこか色気を感じさせる女の子に新九郎は目を奪われた。

瞬間、「あ、オレこの女と結婚する」そう思った。

男女に分かれての自己紹介、彼女はぎこちない笑顔で頭を下げた。

「三芳由香里、18歳です。事務員です。どうぞ、よろしく」

三芳由香里は物心ついた頃から父親に振り回されるばかりの人生を送ってきた。当然父親に良い感情はなかったし、父親の方も娘ふたりには愛情らしい愛情をかけたことがなかった。

由香里にとって父親は厄介者でしかなかった。しかし当時は現代よりさらに離婚のハードルは高く、由香里とその妹が「あんな父とは別れた方がいいのでは」と何度も母親に進言したけれど、彼女は「そんなこと出来るわけないでしょう」としか言わなかった。

由香里の父親は学生時代に偏った思想に取り憑かれ、将来を期待された頭脳を持ちながら、それを立身出世に活かそうという気はなく、当時としてはかなりの高学歴だというのに、学んだこととは一切関係ない地元の工場に就職した。残業のない職場だったからだ。

そうして日中は働き、夜になると同志と集まり、余暇はすべて思想活動のために費やされた。

しかしここがこの時代の厄介なところで、彼は「結婚すれば落ち着くだろう」という期待を込めて見合いを勧められ、自身も所帯を持って一人前という当時の「常識」から脱却するまでに至らなかったために、気が乗らないながらも遠い親戚筋の女性と結婚した。

いくら優秀な頭脳の持ち主でも、この辺りが彼の「ぬるい」ところで、結婚後は何の迷いもなく子供を設け、一応は家庭を持った。生まれたのは女の子がふたり。どちらも大変可愛らしい女の子だった。

だが、せめて彼が自分の家庭、そして子供にかけた期待といえば、自分が信ずる思想を受け継ぐ男の子だったのである。幼い頃から英才教育を施し、彼にとっては「正義」そして「真理」である思想を持って戦う戦士、それなら歓迎だった。女の子がふたりもだなんて、期待はずれもいいところ。

結果、結婚すれば落ち着くどころか、どうでもいいお荷物を背負い込んでしまった彼は、ますます思想活動に傾倒していった。幸い家長である自分が稼ぎの大半を思想活動につぎ込んだところで、嫁は文句を言える立場にはなかったし、それを働いて支えろと命令することも出来た。

そういう理不尽なことが見過ごされてしまう時代だったのである。

やがて彼は嫁と娘を働かせて生活を維持させつつ、自身の稼ぎの殆どを活動費に充てるようになり、また娘たちが高校生になると、自分の同志の若いのと結婚させようかと目論み始めた。うまいことに娘ふたりはどちらも美少女、誰に勧めても喜ばれそうだ。

「この間ふたりが話してるの聞いちゃったのよね。私たち、結婚させられるのかな」
「そんな。私、トシオくんじゃなきゃ嫌よ」
「そのこと知られないようにしなさいよ。バレたら引き離されるかもしれない」

由香里高校3年生、妹高校1年生の頃のこと、父親が美しく成長した娘を自分の思想活動のために利用しようと考えていることを聞きつけたふたりは、小さな部屋で身を寄せ合ってしかめっ面をしていた。

特に妹の方は高校に入学した直後からトシオくんというボーイフレンドに夢中で、なおかつ大変な音楽好きでもあり、由香里以上に自分の生活環境に倦んでいた。同級生たちのように青春を謳歌したいのに、アルバイトばかりさせられているのも気に入らない。

「私、いっそ駆け落ちしちゃおうかしら。どっちみち働くのには変わりないんだし」
「それも手かもしれないわね。トシオくんが頷いてくれるといいけど」
「大丈夫よ、彼とっても優しいし、音楽の趣味も合うし、きっと味方になってくれる」

高校1年生が駆け落ちなんて馬鹿らしい! となるのが普通なところだが、この姉妹に限っては、むしろその方が平和かもしれないという状態。高校生になった姉妹はそれぞれアルバイトをしているが、それはお小遣い稼ぎではなくて、学費や生活費の捻出のためである。

好き勝手に生きている父親の煽りを食って生きてきたふたりは、高校には行かれないかもしれないと考えていた。良くて夜間に通えるかどうか。だが、父親は高校には行けという。そして中卒よりは月給の良いところで働けと命令してきた。

そんなわけで一応高校生にはなったけれど、だからといって父親がきちんと生活費を収め、学費を出してくれるかと言えば、もちろんそんなことはない。学費の安い県立を選んで受験したけれど、それでもふたりの高校生活は度重なる出費との戦いであった。

「お姉ちゃんはどうなの。誰かいい人いないの? もう3年生じゃない」
「勉強とアルバイトでそれどころじゃないわよ……
「お姉ちゃんはそんな顔して頭が固いのよね……
「頭が固いってどういう意味よ」

由香里は階下の両親に聞こえないように妹の布団をバフッと叩いた。

「確かに私たち貧乏だから、流行りの服とか持ってないわよ。だけどその分ちょっと可愛く生まれてきたんだし、もう少しうまくやればボーイフレンドのひとりやふたり、すぐ出来ると思うのよ。だけどお姉ちゃんは勉強でもアルバイトでもしゃかりきになっちゃうでしょう」

由香里は返事に困って頬杖をついた。否定したい気持ちはあるが、ほぼ図星だ。

「だって……一生懸命働かなきゃ学費も出ないし、勉強を疎かにして落第でもしたら」
「そんなに神経質にならなくても落第なんてそう簡単にしないって」
「そうかもしれないけど、余裕ないのよ私。学校とアルバイトで精一杯なの」
「でも、ぼんやりしてたら待ってるのはあいつの仲間との結婚よ?」

妹は大変楽観的で要領もいい性格をしていたが、由香里は何事も真剣に取り組み、そのせいで余裕を持てず、適度なところで息を抜くということが大変下手くそであった。また逆に言えば、妹のように「どうしても我慢できなくなったら駆け落ちしてやる」というような思い切りのよさもなかった。

「どっちかって言うとお姉ちゃんの場合、こういう行き詰まった生活だけど負けるもんか、努力していればきっと道は開けるはずだって、そう思ってるでしょう。私、そんなの幻想だと思う。突然金持ちの王子様が現れでもしない限り、父親が生きてる限り私たちは奴隷なのよ」

また由香里は返事に困って俯いた。自分の人生を真剣勝負と思ってしまっている点に関しても、図星。要領はよくないし余裕もないけれど、彼女は妹に比べるととんでもない負けず嫌いだった。勝負は勝ってこそ意味がある。挑むからには勝たねばならない。

「夢とか希望がないって言ったらいいかしらね」
「そんなものどうやって抱けっていうのよ」
「だから、それが恋よ! トシオくんに出会って私の世界は変わったもの」
「そんな簡単に男の子ひとりでコロッと変わるもんかしら……

とにかく妹の毎日はトシオくん一色なので、恋をすれば万事解決だと信じているようだ。

「ねえ、どういう男の子がいいの?」
「そういうのも……なんか具体的には思いつかないわ。この生活から連れ出してくれる人かしら」
「んもう、そういうことじゃなくて!」
「しーっ、大きな声出さないでよ、聞こえるわよ」

時計を見ると、午後10時を回ったところだった。同級生たちの中には日付が変わるまで友達と長電話してしまった、なんてことを日常的にやっているのもいたけれど、由香里とその妹は仲の良い友人にも「出来るだけ電話はかけてこないでくれ」と言わねばならなかった。

万が一長電話をしている間に父の仲間から電話がかかってきて、後で「電話したけど話し中だった」などと言われようものなら、正座で2時間説教が待っている。

「でもねお姉ちゃん、人生一度きりなのよ。奴隷のままでいいはずがないでしょう」
「それはわかってるわよ。私だってなんとかしたいと思ってる」
「私は、その近道は恋愛だと思ってるわよ」

由香里はため息を付きながら布団に入り、掛け布団を目元まで引き上げてまたため息をつく。

妹の言う通り、自分たちはちょっとばかり可愛い顔をしているし、そのおかげで何も知らない男の子から好意を寄せられることも1度や2度ではなかった。しかし、歩いて通える近所の県立、三芳の父親は近所でも有名な危険思想の持ち主で、夜な夜な地下活動をしているらしいという噂はすぐに広まった。

わざわざ水を差すようなことは言わないが、妹が夢中になっているトシオくんもいずれそれを知るだろう。それが何だ、君と君の父親とは全く別の存在なのだから気にしない。トシオくんがそういう胆力のある男の子であることを祈るが、大抵は逃げていく。関わりたくない。

アルバイト先でも同じだ。どうして生活に困窮しているのかを話せば、結局「ろくでもない家の子」であることはすぐにバレる。妹の付き合いは高校の校舎と登下校の路上に限られているから破綻しないだけだ。そのうち彼女もそれを思い知るだろう。

しかし、妹の言う「努力していれば道は開ける、は幻想」というのは完全に正しいと思った。どれだけ努力したところで、自分たちには思想活動家の娘という看板がついて回るし、父親がある日突然消滅でもしない限りは母親もその呪縛から解き放たれることはない。

世の中はどんどん発展していくというのに、自分たちは父親が学生だった時代に無理矢理縛り付けられたまま、ただいたずらに年を取っていくだけなのではという恐怖がついて回る。

恋だの夢だの希望だの、ましてや結婚だの、そんなものはお伽噺でしかないような気がした。

こんな生活から救い出してくれるんなら、王子様でなくたって構わないわ――

しかし由香里は世界を変えるような恋に落ちることのないまま高校を卒業、卒業式の前後に「実は好きだった」とふたりばかり過去形の告白をされたが、どちらも都内の大学に進学するとかで、高卒で就職の由香里に「地元に残る君への置き土産に教えておいてあげよう」という思惑が見え隠れしていた。

ふん、あんたたちに思われてたことを大切に胸の中にしまってずっと生きていくわ……なんて私が思うと思ったら大間違いよ。お生憎様、私ほど「大卒のインテリ」ってものに嫌悪感を持ってる人間もいないのよ。自分でも行きたいとは思わないわ。

ともあれ由香里は県立高校を卒業、高校3年間の間アルバイトに勤しんだ近所の食堂も辞め、自転車で通える場所にある小さな会社で働き始めた。女子社員はろくな社会保障もなく、働くと言っても、その業務内容の殆どが掃除やお茶汲みや雑務、そういう会社だった。

その上飲み会と言うと女子社員は全員強制参加させられて、ホステスまがいの接待を仕込まれる始末。というか会社には18歳から22歳くらいの女子社員が6名いて、最年長の先輩に言わせると、自分たちなど専属のホステスみたいなもので、もう少ししたらお局・嫁き遅れ扱いをされて、居心地が悪いあまり辞める羽目になると聞かされた。

担任が勧めるからここに面接に来たのに……と由香里はがっかりして、しかし入社数ヶ月で退職しますなんて言える雰囲気ではなく、そもそも家の状況は変わらないので、こちらでも会社がひどいところだから辞める、なんて言えそうになかった。

由香里と妹が危惧していた「強制結婚」の件だけは父親の方がパタッと口にしなくなったので安心していたが、それでも相変わらず母子3人で働いて家計をやりくりしつつ、父親の影の怯えるようにして暮らしていた。

そんな頃のことである。由香里は職場の先輩女子社員に地元の若者が集まるというバーベキューに誘われた。聞けば高卒や中卒で働いている若者だけの集まりで、学生は禁止、もう見合いで結婚する時代は終わったという進歩的な親睦会なのだと聞かされた。

何しろ頭の固い由香里のこと、その「進歩的」という鼻持ちならない言葉は気に入らなかったのだが、先輩の誘いなので断るわけにも行かず、家族には「半分くらい仕事」だと言って出かけていった。

会場となった海に近い公園には同世代の男女が30人ほど集まっていて、由香里は少々気後れした。女の子たちは誰も彼も可愛らしく着飾っていて、お化粧もしていて、パーマをかけていたり、ハイヒールを履いていたり、やる気満々。

一方の由香里は先輩にお洒落してこいと言われたものの、そんな服は持っていない。しかし言いつけに逆らうことも出来ないので、こっそり買っておいたレースのリボンを駅のトイレで髪に結んだだけ。

鏡を覗き込んだ由香里は途端に意気消沈して、つい「何やってるんだろう……」と呟いた。

そんな集まりに行っても心から楽しめない気がしたし、口紅ひとつ買えない地味で貧乏くさい自分にも嫌気が差したし、そんな集まりにノコノコやってくる男性をいいなと思えるとは到底考えられなかった。どうせ流行りにも疎いし、テレビもろくに見られないし、妹みたいに気さくじゃないし。

割と好戦的な性格をしている由香里だが、この時の彼女は完全に戦意喪失、除け者にされたらただひたすら肉を食べて帰ろう。そう思っていた。そうしたら先輩も二度と誘わないに違いない。

しかし、彼女はこのバーベキューでひとりの青年と知り合う。

「初めまして、清田って言います!」

首をかなり曲げないと顔が見えないほどの長身に由香里はおののき、思わず一歩下がった。

彼はそんな大きな体でぐいぐいと由香里に詰め寄り、どこに住んでるのかだの、出身校はどこかだの、好きなものは嫌いなものは、趣味はありませんか、あれこれと質問攻めにしてきた。彼は体だけでなくて声もでかいし立ち振舞いも大袈裟で、由香里は目を白黒させるばかり。

そして思った。

こんなやかましい人とは絶対に関わり合いになりたくない!