未完の恋物語

9

新九郎たちは壊れた戸や家具の応急処置をし、戸締まりの出来る家に直してくれた。それにホッとしたのか、由香里の母が体調を崩して寝付いたけれど、由香里と妹は少し気力を持ち直していた。

また、柿田氏たちは任務中だと言うのに監視対象者の家の補修を手伝い、それが終わったら女将の差し入れをみんなで食べて、中には勧められるままにビールを飲んでしまった者までいて、それは後で上役の知るところとなり、彼らは減給の憂き目にあった。

だが、ひとまず妹は高校に通える状態になり、留年の危機を回避できそうな見通しになってきた。

急いで職安に行かねばと思っていた由香里だが、母は疲れ果てて寝込んでいるし、これはやはり妹が帰宅するのと入れ替わりで働ける水商売しかないのでは……と腕を組んでいた。が、そんなことを新九郎が許すはずがない。

清田工務店が家の応急処置に訪れてから10日ほど経った頃、相変わらず監視員が見守る三芳家に今度はひとりで新九郎がやってきた。いつものように小ざっぱりした服装に雪駄。

「由香里さん、デートしよう!」
……あのねえ、新九郎さん」
「お母さんは大丈夫。起き上がれないほどじゃないし、また女将から差し入れあるし」

本日の女将の差し入れは彼女の得意料理だというビーフシチュー。牛肉など到底手が届かない三芳家には夢のような大ご馳走だった。きっと妹が死ぬほど喜ぶに違いない。

「具合が悪くなったら監視員の誰かに声かけたらいいんだしさ」
「だからその監視員。着いてくるわよ」
「いいじゃないの。オレたちはそれを振り切ってとんずらするわけじゃないんだし」
「そうじゃなくて、デートしてるところをずっと見られているなんて」
「見せつけてやればいいじゃん」

由香里は肩でため息をついたが、もうずっと家の中にいる生活で、気持ちが腐りそうだった。どこに行くのか知らないが、広いところに行って新鮮な空気を目一杯吸い込みたい。この囚われの身のような生活から解放されたい。

「それに、監視が付いてるだけであって、由香里さんは自由に生きてていいんだからね」
「それはそうなんだけど……私、仕事も決まってないのに」
「妹ちゃんじゃないけど、ほんとに由香里さんは石頭」

しかしそう言う新九郎は由香里のこめかみを突っつき、にこにこと楽しそうだ。というかこれも玄関の戸を開けた状態での会話だ。一番近くにいる監視員には見えているし、何なら丸聞こえかもしれない。

「由香里さん、気分転換は、大事なんだよ」
「そのくらいわかってます」
「じゃあさっさと着替えて出かけますよ。おしゃれしておいで」

うまく乗せられた気がしないでもないが、由香里は新九郎を言い訳にすればいいのだと自分に言い聞かせながら、身支度を済ませた。新九郎と出かける時にだけつける、レースのリボン、そして口紅。口紅は新九郎が買ってくれるので、3本に増えていた。

おしゃれしておいで、と言ったところで由香里の手持ちの服などたかが知れている。その中でもせめて新しくきれいなものを選び、母には新九郎がどうしてもというので、と方便を使い、家を出た。外にはいつもの借り物の車、そしてその向こうで無表情の柿田氏が腕を組んでいる。

「柿田さんに言ったの?」
「一応ね」
「何か言ってた?」
「いんや、『わかりました』としか言わなかったよ」

しかし彼らはふたりを追って来るだろう。それが仕事だから。

「さあ由香里さん、すべてを忘れに行きましょう!」
「それが出来たら苦労しないわよ」

新九郎のおどけた声に笑いつつ、由香里は車の窓から吹き込む風に目を閉じた。

…………で、なんでここなの」

まずは甘いものを食べましょう! と新九郎は先輩に教えてもらったおいしいパフェのある喫茶店に由香里を連行。次に服を買いましょう! と町を連れ回され、由香里はワンピースとバッグを買ってもらった。その真新しいワンピースを着て、最終的にやって来たのが江ノ島だった。

怯む由香里の手を引き、新九郎は稚児ヶ淵までやって来ると、由香里の手を離した。

ここは、由香里の父親が追手を逃れて海に飛び込んだ場所なのである。

「由香里さんはお父さんのことに囚われ過ぎだから」
「そんなのしょうがないでしょう……
「少し妹ちゃんの気楽さを分けてもらった方がいいんじゃないの」
「こんなところに来たって、父がやらかしたことは覆らないじゃない」

由香里はちらちらと背後に目をやる。柿田氏を含む監視員が渋い顔をしている。そりゃあそうだろう、彼らが奮闘虚しく由香里の父を取り逃がした場所でもある。

平日の真昼間のせいか、人も少なく、新九郎の声は柿田氏らに丸聞こえだ。

「由香里さん、なんだかいう思想に取り憑かれて、挙げ句こんなところからドボンした人のことなんかもう忘れなよ。由香里さんを振り回して苦しめてきた人のこといつまでも覚えてても、時間の無駄、脳みそを使うだけ損だと思う」

妹がよくそんなようなことを言うので、由香里もそれがわからないわけではない。が、改めて新九郎から言われるとちょっとカチンと来る。それが出来たら苦労しないって言ってんだろ!

「そうは言いますけどね、こうやって実際監視はあるんだし、あの人のことは私に一生ついて回るのよ」
「それが由香里さんの思い込みだよ」
「いいえ、事実です」
「違います」

ふたりは向かい合って腰に手を当て、鼻息荒く言い合う。

「父が今そこからザバーッと現れて捕まらない限り、変わらないわよ」
「大丈夫、お父さんは海の神様が責任持って沈めておいてくれるから」
「はあ!? あのねえ、そういうことじゃなくて……
「だから、ねえ由香里さん、オレと結婚しよ」
「それが確定……は?」

由香里は腰に手を当てたまま首を突き出し、顔を歪めた。今なんつった?

「由香里さん、清田由香里になろう」
「ちょ、ちょっと待って、何をいきなり」
「いきなりじゃないよ、オレ、由香里さんを初めて見たときから結婚しようと思ってたし」
「今そんなことやってられる状況じゃないでしょ」

仮にもプロポーズだが、由香里は真剣に呆れていた。母は寝込んでいるし、妹はまだ学生だし、そのふたりを養っていくのは自分しかいないし、このどこにでもゾロゾロと着いてくる監視を引き連れて結婚しろって言うのか。清田家の前にあの人たちを置いとくつもりなのか。

だが、新九郎は事も無げに首を振る。

「由香里さんが今困っていることは、結婚すれば全部片付くでしょ」
……片付かないでしょ!?」
「お母さんと妹ちゃんくらい、オレが面倒見ます」
「な、何言って……
「由香里さんがオレの嫁さんになってくれたら、清田家は堂々とあなたたちを助けられると言ってるの」

由香里の脳裏に親方と女将の顔が浮かんだ。あのふたりなら頷きそうなことだ。

「や、やあね、そんな理由でプロポ――
「プロポーズの理由は由香里さんのことを世界で一番愛してるからだよ」

茶化して濁そうとした由香里に、新九郎は言い放つ。柿田氏たちも聞いているのに、と慌てた由香里だったが、新九郎はまったく気にしていないらしい。潮風に黒髪をなびかせながら、また鼻息が荒い。

「だいたいね由香里さん、オレはね、ほんとに世界で一番あなたのことを愛している男だよ。だから由香里さんはオレと結婚するのが一番幸せになれるんだからね。オレ以上に由香里さんを愛している男がいるってんなら、いつでも連れておいで。誰が来たって返り討ちにしてやるから」

自信たっぷりにそう言う新九郎に、由香里はポカンと口を開けて固まっていた。なんと強引な理屈。なんと由香里の気持ちを無視した理屈。

「オレも色々考えたんだけどね、やっぱりこれが一番丸く収まるんだよ。由香里さんは三芳家を出られる、オレと結婚したら由香里さんは跡取りの嫁、その母と妹をうちが助けるのは何の問題もない、部屋はある、あの連中が監視したきゃ駐車場はいくらでもあるし、うちの女将に言いくるめられるまで何日持つかな、というところだし、何よりオレは由香里さんを一生大事にしますよ」

いや、そうかもしれないけど……

確かに新九郎の言うように、母子3人清田家に転がり込めば話は早い。妹は高校卒業さえしてしまえば、監視の中でも好きに生きていくことだろう。母も元気を取り戻せるかもしれない。しかし、いくら愛しているからと言って、それを手荷物のようにして結婚するのはどうなんだろうか。

石頭の由香里は眉をひそめて考える。

それに、新九郎のことは好きだが、今こんな手荷物が重い状態でホイホイ結婚してしまっていいものだろうか。今はまだ好きだの愛してるだの、いくらでも言える。しかしそれが「一生」などとは、やはり信用ならない。浮気が男の甲斐性と言って正当化されている時代である。

「一生だなんて……それこそ思い込みじゃないの」
「いーや、オレは由香里さんにぞっこんなの。男に二言はない」
「ぞっ……そんなのなんとでも言えるわよ」
「なんで信じてくれないの。オレが他の女を褒めたことがある? ないでしょ!」
「そんなの私のいないところでいくらでも言えます」
「言ってないって! あのね由香里さん、一目惚れから1年以上、オレはずーっと」

由香里はチクチクと突っつくが、新九郎も引かない。柿田氏たちの視線が背中に痛い由香里は徐々にイライラしてきた。気分転換だっていうから来てみたら父親が飛び込んだ稚児ヶ淵だし、そんな縁起の悪い場所でプロポーズだし、よく見ればなんだか新九郎は手ぶらのようで指輪もなさそうだし、結局の所「オレの愛が一番!」という新九郎の理屈も色気がなさすぎて呆れる。

その呆れる気持ちが出てきたところで、由香里の燻っていた闘争心に火がついた。

そういえばこの人は最初のデートも動物園だった。しかも自分から動物園って言い出したのに、私がお子ちゃまなデートしか出来ない女みたいに言ってきたのだ。どん底の三芳家に颯爽と現れた時には胸がときめいたが、このときめきようのないプロポーズ、胸は違う意味で熱く燃えた。

わかったわよ、そこまで言うならやってやろうじゃないの。

……もしその約束を違えたら、どうなるかわかってるんでしょうね」
「望むところだ。由香里さんこそオレにいっぱい愛されて反省しなさい」
「反省って何よ!」
「石頭すぎるところをだよ!」

新九郎は呵呵と笑うと、人目も憚らずに由香里を抱き締めた。

……由香里、オレの嫁さんになったら、毎日楽しいよ」
……そうかしら」
「子供はいっぱい欲しいな。男の子も女の子もたくさん、家族は多い方がいい」
……痛い思いして産むのは私よ」
「その分オレはたくさん働いて、由香里が女将みたいになれるように、頑張るから」

由香里が好きな服を選び、好きな化粧をし、縛めから解放されて自由に生きるために。抱き締められた耳元でそう言われてやっと、由香里はイライラしていた心が緩んできた。なんでそれを言わないのよ、これがプロポーズでしょうよ。じんわりと目が熱くなる。

……約束よ」
「はい」
「一生かけて、今言ったこと、守ってちょうだい」
「もちろん」
「嘘だったら承知しないわよ」
「その時はここから海に放り投げてください」
「私が女将みたいに色眼鏡にきついパーマあててもいいのね?」
「もちろん、由香里ならきっときれいだよ」
……後悔しても、知らないから」

涙が溢れてきて声を詰まらせた由香里の頭を撫で、新九郎は囁いた。

「後悔してる暇があったら、君に愛してるって言うよ」

由香里の生活環境改善も理由のひとつだったはずだが、結局翌年までかかってふたりは結婚した。形ばかりの婚約状態になったことで由香里の気が緩み、しばし新九郎とのんびり恋人同士の時間を満喫したからだ。由香里20歳、新九郎22歳、ふたりは夫婦になった。

由香里の妹は無事に高校を卒業、新九郎の予想通り、寮が完備された東京の百貨店に就職していった。そのため、由香里は彼女の勧めで提灯のように膨らんだ袖のウェディングドレスを百貨店で買う羽目になり、後年黒歴史化されることになる。

また、結婚後から由香里は清田家で同居を開始した。親方は近くにアパートでも借りればと言ったのだが、警察の監視も依然継続中だし、日中ひとりになるのが怖いと由香里が言うので、彼女は今にも傾きそうな三芳家からそのまま清田家に嫁いだ。

しかし、これがきっかけとなって、みんなで協力して家族経営……といった状態だった清田工務店はやがて新九郎が実権を握る有限会社となっていく。由香里は公私共にそのサポートをするパートナーとなり、男の子3人を育てながら家と会社を守っていくことになった。

というのも、親方は生来体が丈夫なたちではなく、由香里が嫁いで6年ほどで癌を患い、親方として先頭に立てる状態ではなくなってしまった。なので新九郎は20代で会社を受け継がざるを得なくなり、さらに7年後に親方が亡くなると身内の従業員は清田工務店を後にして出ていった。

そのため血縁のない従業員が増えていくことになり、新九郎と由香里の慌ただしい毎日は加速するばかり。夫を亡くした女将は一時空気の抜けた風船のように気力をなくしたが、やがて幼馴染に手を引かれて外に遊びに出るようになり、おかげで由香里はひとりで清田の家を切り盛りしていた。

だが、そういう日々の中にあの思想活動に傾倒していた父親の影はなく、3年を過ぎたところで監視も終わり、その後は月に1度の柿田氏の訪問を残すのみとなった。気付けば由香里は派手な服とアクセサリーを好む自由な女性になっており、三芳家からはすっかり解放されたのだった。

約束通り新九郎は愛妻家で知られるようになり、逆三角の細マッチョだった体はガチムチの筋肉とビール腹で様変わりしたけれど、傍目には仲睦まじい夫婦であった。

忙しい日々が由香里の石頭をゆっくりと柔らかくしていき、そしていつかあの悲劇の日々は遠い記憶になっていった。今にも傾きそうだった三芳家はなく、現在はアパートが建っている。由香里が勤めていたハラスメントばかりの会社もいつの間にかなくなっていた。

そうして由香里は父親が失踪した時の年齢も越え、母を送り、孫も授かった。

そんな頃に、自分と夫の過去の話を嫁たちにすることになったのは偶然だった。自分の記憶をたどり、懐かしく思い出しながら全て話し終えたところで、インターホンが鳴る。珍しく静かな清田家に犬の吠え声が響き渡る。

由香里は玄関ドアを開け、真っ白な頭のスーツ姿の男性を迎え入れた。

「こんにちは。今日はずいぶん……静かなのですね」
「誰かが人払いをしてくれたのかしらね。嫁と甥っ子、あとは女将と犬だけよ。どうぞ」

由香里はそう言って男性を促した。

やって来たのはカキさん――柿田氏。この日は、最後のヒアリングであった。