昔日のフォーマルハウト

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3月、新居に引っ越した藤真は早くも練習に参加し、今月で引退するという前任の監督と一緒にミーティングを重ね、新3年生と新2年生の生徒たちとは積極的にコミュニケーションを取るようにしていた。

とは自宅の距離が開いてしまったけれど、とても順調。は27年間も「自分はコミュ障でかわいくない女」だと思い込んでいたのでスムーズにいかないことも多かったけれど、実に順調。

これと決めて目指してきた職ではなかったけれど、指導者という新たな道を手に入れたことだし、年齢はなんだかちょうどいい頃合いだし、とのことは大事に関係を育み、出来れば一生の関係を築ける間柄になれれば……と思い始めていた。もう二度と失いたくない。

そんな決意の春、藤真は玄関ドアを開けると、突然現れたに素っ頓狂な声を出した。

「今日来るって言ってた!?」
「言ってないけど来た」
「いや今日って木曜、仕事どうした。そろそろ締切だろ。てか何その荷物」

は大きなバッグを3つも抱えて部屋に入ってくると荷物を下ろし、くるりと振り返ると言った。

「仕事辞めた」
「辞めた!?」

実に順調なとの関係はそろそろ5ヶ月になる。少なくとも藤真にとっては順調極まりない甘い関係で、何でも話せる信頼関係もあり、恋愛感情以上のパートナーだと思っていた。辞めるなんて話聞いてなかったんですけど!?

「まさか何かひどいことされたとか、理不尽なことでクビになったとか」
「ううん、自分で辞めてきた。言わなかったのは辞められるかどうか分からなかったから」

目を白黒させている藤真はコンパクトなダイニングテーブルにと並んで腰掛ける。は3月末日で退職の願いを年明けに提出、今月は名前だけの有給休暇を消化という体で必要な画像データの撮影・作成のみをこなし、編集作業には関わらずに引き揚げてきたとのこと。

「去年、健司くんと再会してから色んな変化が一気に襲いかかってきて、何ひとつ予期しないことだったし、だけど自分の中でたくさんのことが整理整頓された気がしたし、もし辞めるなら今しかない、今やらなかったら一生出来ないと思ったから」

藤真と付き合い始めて2ヶ月、それを考え続けたはふたりで過ごした年末年始にそれを決意、仕事始めに退職願を叩きつけるに至った。退職の理由は「新しい人生に挑戦してみようと思っている」と言ったが、当然と言おうか、「そんな子供みたいな理由で辞めて、必ず後悔するよ」と返された。辞めて正解だったと思った。

「写真の仕事は、いいのか」
「今の仕事を続けてても、それは写真の仕事じゃなくなる気がしたし」
「そっかあ……。結婚する?」
「この辺で就活するからしばらく泊めて」
「スルー」
「生活費は入れるので居候の家賃だけ免除して」
「じゃあ同棲にしよっか」
「喧嘩したら健司くんが出ていってね」
「オレの部屋」
「私が来るから少し広めの部屋にしてもらったくせに」
「だから来たんでしょ。車、どうしたの」
「実家に置いてきた。仕事決まったら迎えに行く。置いてくるのつらかった」

そういうわけで藤真の新生活にはが増え、「気楽なひとり暮らしなんで遊びに来てくださいよ」と家飲みに誘った東桜高校の世代が近い先生たちに早々に頭を下げる羽目になった。

それでも新たな出発はこれも順調で、藤真が高校生だった頃にはインターハイ常連校であった東桜はここ数年インターハイはおろか、地区予選の成績も芳しくなく、若い監督の就任を機にチームを1から作り直していこうという前向きな機運が高まっていた。

一方で、の就活は順調とは言い難い状況が続いていた。

藤真と相談しつつの就活で、アパートは引き払ってしまったし、場合によっては本当に同棲でもよいという選択肢を含めていたのだが、面接してはご縁がありませんでしたの繰り返し。

「今どき面接でセクハラとか何考えてんだろう」
「何言われたの」
「28歳ですか、結婚とか妊娠の予定あります?」
「なんて答えたの」
「わかりません」
「で、ダメだこりゃって顔されたわけね」
「無人島ほしい」

面接帰りのは、7月の曇天の下で今日もダメだった報告を藤真にしていた。藤真の方は期末テスト期間中。今年も地区予選突破は叶わなかったけれど、予選ブロックの最終まで駒を進めることが出来たので、東桜復活の狼煙と高い評価を得ていた。

の方は進まない就活に腐ってばかりの日々だったが、藤真の方は事実上の同棲にご満悦で、どちらも厳格な節約生活には充分な経験があったので、慎ましくも安定した日々ではあった。

「今日はオレ遅くならないよ。暑いし、帰って休んでたら?」
「そうする。今日は……冷やし中華だっけ。準備しとく」
「ゆっくり休んでからでいいからな。帰る時また連絡入れるよ」

あくまでもはこの共同生活を「居候」と考えていて、家賃免除の分、家事などは自分が積極的に負担しようと思っているのだが、藤真の方が同棲、あるいは結婚準備期間だと考えてしまっている。本当に結婚したなら話は別だが、それでいいんだろうか。

というか藤真はを甘やかしがちで、今朝もが目覚めると、書き置きのメモとともにたまごサンドが用意されていた。今日は朝練行くので先に出ます、ちゃんと食べて頑張って、ハートマーク。

そういうテンションには少々気持ち悪さを感じないでもないのだが、まあ職を得るまでの間だけだ。そうしたらまた生活も変わってこよう。またひとり暮らしをしてもいいし、本当に藤真の部屋に住み込んでしまってもいいし。状況は変わる。

以前のなら、こんな風に誰かに寄りかかって就活など絶対許されないと焦り、不満を募らせ、酒を飲んでいただろう。だが、藤真と付き合い始めてからのは「時には楽観的になる」という方法を覚え始めていた。健司くん楽しそうだし、まあいいか。

他人との密接な関わりを拒んで生きてきたにとっては初めて知る「誰かを頼る」という感覚だった。人が楽観的に、気負わずに物事と向き合えるのは心を預けられる相手がいるからだったのだな。それが人と人との間で支え合うという、「社会」なのかもしれないと思い始めていた。

よし、気持ちを切り替えて今日はもう帰ろう。シャワーを浴びて休んだら冷やし中華の準備をして、時間があれば掃除とか作り置き常備菜とか、少しやっておこう。健司くん遅くならないって言ってたし、駅まで迎えに行ってもいいな。暑いけど、コンビニのカフェラテ飲みながら歩いて帰りたい。

――なんてことを考えていた時のことである。は視界の端に通り過ぎようとしていた店のショーウィンドウが引っかかり、つんのめるほどの勢いで足を止めた。ちょっと待った、今のってまさか!

「う、嘘でしょ……フォトクローム!?」

フォトクロームとは、日本に500台しか存在していないという幻のカメラだ。しかも事情があって市販されなかった品であり、なおかつ特殊なフィルムでないと撮影が出来ず、500台の中でもさらに限られた改造品しか実際に使えないという珍品だ。

コレクターの中でもそう価値が高いわけではないらしいが、そもそも絶対数が少ないので、手に入れようと思わなければ滅多にお目にかかれるものではなかった。は専門の夢見がちな実技の先生が紹介してくれたので知っていたのだが、実物を見るのは初めてだ。つい声を上げてしまった。

本物だあ、とショーウィンドウにへばりついて幻のフォトクロームを凝視していると、突然頭の上から声が聞こえてきたのでは飛び上がった。慌てて周囲を確認すると、どうやら「写真屋さん」らしい。店構えはなかなかに年季が入っていて、声をかけてきたのもおじいちゃんだった。

「お嬢さんそれ、知ってるの。キャメラに詳しいのかな」
「は、はい、あの、春まで写真の仕事を、してました」
「おや、そうでしたか。実物、見てみる?」

柔和な表情のおじいちゃんがドアを開いてくれるので、は何も考えずに返事をして店の中に入った。こんなこと、去年までの私だったら逃げ出してたのになあ。

「撮影は出来ないけど、飾っておくのにはいいでしょ。こうしてたまにキャメラが好きな人が引っかかるし。はいどうぞ、好きなようにいじっていいからね」

カメラとともに椅子を勧めてくれるのでは遠慮なく腰掛けてフォトクロームを手の中で転がす。使えるとか使えないとかいう以前に、なんだか個性的で可愛いカメラだなあ。標準的なものより扁平に作られていて、おもちゃっぽい印象を受ける。はついファインダーを覗き込んだ。

「女の子でキャメラマンとは珍しいですね。普通は写真に写る方が好きでしょう」
「小さい頃にフィルムカメラで写真を撮って以来、撮影する方が好きなんです」

女の子で、カメラマン、普通は。普段ならカチンと来そうな言葉だったが、カウンターの中でにこにこしているおじいちゃんが相当高齢の様子なので、は軽く受け流して顔を上げた。奥には撮影スタジオがあり、暗室らしきドアもあり、このおじいちゃんのように古い古い写真屋さんのようだ。

「キャメラマンの仕事、なんでやめちゃったの。大変だった?」
……私が撮らなくても、写真が好きじゃない人が撮っても、変わらない気がして」
「何の写真撮ってたの?」
「不動産物件の写真とか、病院の中とか、広告用の写真とか」
「最近はスマホで撮ってもそこそこきれいなのが撮れちゃうもんねえ」

おじいちゃんはにこにこしているが、疲れたようなため息を挟むと、椅子に腰掛けた。

「それじゃもう写真の仕事はやめちゃうのかい」
「そのつもりだったんですけど、次の仕事がなかなか決まらなくて」

するとおじいちゃんはニヒヒ、と笑って丸っこい指で空をちょいと差した。

「そりゃあ写真の仕事を辞めるべきじゃない、って神様に言われてるんだよ」
「そうでしょうか……
「次の仕事って言うけど、何の仕事をやるつもりなの」
「え、ええと……
「ほらご覧、キャメラはもう趣味でいいやって、思えてないんだろ」

おじいちゃんの指摘にもため息をついた。確かにフォトグラファーという自分への未練はある。編集部の仕事にもっとやりがいがあれば辞めたいとも思わなかったはずだ。

……最近、生まれてはじめて、彼氏が出来たんです」
「彼氏が写真なんかやめろって言ったの?」
「いいえ、むしろ写真を嫌いになりかけてた私を、引き戻してくれました」

ポンコツの相棒と狭い世界を駆けずり回るだけだったの生活は、藤真が現れたことで一変した。フォトグラファーという仕事を辞めはしたが、イルミネーションと藤真という会心の作は撮れたし、夜間撮影も楽しかったし、その藤真はちょっと鬱陶しいほど愛してくれる。

「でも、彼氏のこと、昔は嫌いだったんです。とてもかっこいい人なので、きっと色んな人にちやほやされて、嫌な人だろうって思ってたんですけど、今は1番の理解者なんです。なのでその、彼のことも、写真のことも、もう1回新しく始めてみたいと思って」

それには地縛霊のように地元に食い込んでいるあの編集部ではダメだと思った。またすぐに別の場所でフォトグラファーの仕事が手に入るならいいけれど、ありふれた職業でもなければ、の実績とキャリアは浅い。写真を仕事とすることは諦めるしかなかった。

よっ、と言いながら立ち上がったおじいちゃんは、の背後の壁に近寄ると、入り口ドアに近いところに飾ってあるモノクロ写真をちょん、と人差し指で触った。

「これ、この店が開店した時の写真」
「いつ頃なんですか」
「67年前」
「そんなに古いお店だったんですか……

フォトクロームをカウンターの上に置くと、も立ち上がって覗き込んでみる。黄色っぽいセピア写真に木造の小屋のような建物が写っていて、「寫眞館」という看板がかかっている。店の前は舗装されておらず、隣の店との間には広く隙間が開いていた。

「この頃はねえ、写真てのは今ほど気軽なものじゃなくて」
……そうですね」
「親父の残した金と借金で始めたんだけど、家族に怒られてねえ」
…………えっ!?」

はつい大きな声を出し、慌てて口元を覆った。いやおじいちゃんだとは思ってたけど、67年前に写真屋を開くような年だったの!?

「私、今90歳なんです」
「す、すごいですね、その、全然見えません……
「あっはっは、80歳くらいに見えますか?」

80歳と90歳の違いと言われてもよくわからないけれど、腰も曲がってないし、言葉は淀みないし、動きが鈍くないものだから、はもっと若いと思っていた。このセピア写真の写真館を建てた人の息子か何かで2代目なのかと。

キャリア67年の人の前にいると思うと、キャリア7年で写真を嫌いになりかけていた自分にはやっぱりフォトグラファーは向いていないのでは、と思えてきた。

だが、おじいちゃんは表情を曇らせて肩を落とした。

「そう、80。80歳になった時は、生涯現役だ、なんて意気込んでたんだけど、90になったらね、もっと自由に写真を撮りたくなっちゃってね。こういう写真屋なもんで人間ばかり撮ってきたし、残り少ない人生、今まで撮ったことのないものを自分の手で写真に収めてみたくなってきちゃって」

それもすごい話だ。もういい加減疲れたからやめたいとか、死ぬまでこの店は畳まない、とか言うならまだわかるが、90歳にして新境地を開拓したくなるとは。偉大な先達の言葉に、は思わず爪先を揃えて背筋を伸ばした。自分もこんな風に写真やカメラと付き合っていけるだろうか。

藤真に再会する直前までのは、生きながらに死んでいるような状態だった。毎日ファインダーを覗き、パソコンと格闘し、面白くないことがあると酒を飲んでいて、「こんな写真を撮ってみたい」なんていう意欲はとっくになくしていた。

「だからねお嬢さん、よかったらこの写真屋、引き受けてくれませんか」
………………は!?」

ベテランの昔語りだと思って聞いていたは、せっかく正した姿勢を崩して狼狽えた。久々に履いたパンプスのヒールでよろける。おじいちゃん何言ってんの!?

「あなたは写真をお仕事にするべきです。誰でも出来るようなことは他の人に任せなさい」
「で、でも、私……
「確かに大儲け出来る仕事じゃあない。だけど、いい仕事だよ。67年やってるんだから、保証する」

は冷や汗をかいてきた。これは大きなチャンスという気もするし、危険な賭けという気もする。おじいちゃんの67年は確かにいい時代だっただろうと思うが、これからの67年は厳しくなっていく一方なのではないのか。おじいちゃんはそんなの表情を読み取ったか、また微笑む。

「この間ね、中学生のひ孫がね、友達と喧嘩して、スマホに入ってた友達との写真を全部消したっていうんだよ。もうあの子とは友達をやめるから、全部消すんだって。つまり、ああいう写真は、それだけの価値しかないものなんだよ。形がなくて、一瞬で消えてしまう、用が済めば全部忘れるメモ書きみたいなもんだ。だけど僕たちの写真は違う。僕たちは他の人たちには見えない世界を見つけるプロなんだ」

の背中に鋭い痺れが走る。レンズの向こうの世界の住人には見えない世界を――

「僕たちは時を止める魔法を知っている、魔法使いなんだよ」

の息も止まった。

どんよりと曇った7月の午後、ちょっときつくなってしまったリクルートスーツに汗をかきながら、写真やカメラとは全く関係ない仕事にありつこうと頭を下げては「結婚と妊娠の予定は?」などと言われてきた。それは大好きな写真を、カメラを嫌いにならないため、自分と写真と藤真という世界を守るためだった。自分じゃない誰かがやっても同じ仕事を探して必死になっていた――

「跡継ぎはいないし、好きな写真を撮るために店を畳もうかと思って、機材やらを誰に譲ろうか、捨てようか、なんてことを考えてたところだったんだよ。そこにあなたが現れた。これはあなた、運命だよ」

おじいちゃんはまた人差し指で空をちょいと突っつくと、深く頷いた。

「あなたが引き受けてくれるなら、何もかも全てお譲りします。どうかな」