昔日のフォーマルハウト

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初めての夜間撮影は思った以上の成果を上げ、藤真とは敬語もなく名前で呼び合うようになり、は機嫌が良かった。たまごサンドを作ってもらう約束もしたし、親しく気軽な同年代が近くにいる楽しさを知った喜びもある。

さらに、余暇にそういう楽しみがあると、普段の仕事の些細なストレスは以前より簡単に捨てられるようになった気がする。したがって飲酒の回数も減り、気持ちが離れそうになっていた写真への愛着が戻りつつあった。今度は人物を撮るのもいいな、健司くんを実験台にしよう。

は藤真がシャッターを押した星空の写真をハガキサイズにプリントし、100円ショップの額に入れ、それを贈ろうと思って連絡を入れた。飲みでもご飯でも、たまごサンドでもいいよ!

だが、水曜の夕方、ミニバスで市民体育館の藤真はあまり時間が取れないという。

「今日、4年生の子がちょっと大きな怪我をしちゃって……
「えっ、大丈夫なの」
「練習中の事故なんだけど、ちょっと深刻で」
「じゃあまた今度でいいよ、忙しい時にごめん」

別に写真を渡したかっただけだし、とはすぐに通話を切ろうとしたのだが、藤真は引き止めた。

「でも深夜まで付き添う必要はないし、保護者の方と話したら出られると思う」
「いや無理しなくていいって」
「してないよ。ちょっと怖い思いしたから、ご飯付き合って」
「それならいいけど……

出られそうになったら連絡する、という藤真から駅前で待ってるとメッセージが来たのは21時になろうかという頃だった。はまたバスで駅前まで向かい、真っ青な顔をしている藤真を見つけると、騒がしい店を選んで連れ込んだ。

「久しぶりに冷や汗かいた。全身冷たくなってたよ」
「子供だから余計に怖くなっちゃったんじゃないの」
「鳴き声がめちゃくちゃ怖かったんだよ。死ぬんじゃないかって」

だけでなく、指導者がふたりもいる中での大きな事故に冷や汗が止まらなかった。自分は気まぐれに助っ人をしているだけのコーチだけど、監督と合わせて責任を取り、チームとは関わりを絶たなければならないかもしれない。あるいは管理責任を問われて訴えられたら。チーム自体が取り潰されたら。

「しかも練習中の衝突での事故だったから、自分のせいで怪我させたって思う子がいて」
「それどうしたの」
「実はそっちのケアで時間がかかったんだ。さっきまで親御さんと一緒に話してた」

ひとまず大怪我をした子のご両親は藤真たちを責める余裕もなく、子供たちのショックも大きいので週明けまで練習はお休み、と結論を先送りしてきたという。なので今あれこれと考えても仕方ないのだが、久しぶりに強い恐怖を味わったのでひとりになりたくなかった。

なので出来るだけどうでもいい雑談に興じ、お腹がいっぱいになったところで店を出た。明日は朝からバイトなので監督をひとりにしてしまうのが忍びない、と肩を落とす藤真に、はフォトフレームを差し出した。

「健司くんがシャッター押したやつ、けっこうきれいに撮れてたから」
「嘘、なにこれすご……こんなにきれいに撮れるの……

が多少補正をかけたが、色味などはあまりいじっていない。肉眼で見た空の色でもないけれど、そこには確かにこんな光を放つ空があったのだということを残したかった。藤真は街灯の明かりの下で写真を覗き込んで目を丸くしている。

写真っていいでしょ。はそんな言葉が口をついて出そうになって、グッと飲み込んだ。興味のないものを布教される苦痛は嫌というほど味わってきてるし、今の藤真との良い関係を壊さないためにも、余計なことは言うまい。

だが、藤真は不意に目を伏せると、ぼそりと言った。

「新居に、飾ろうかな」
「新居?」
「今まで言わなくてごめん、オレ、来年の春から、東京の高校で監督やるんだ」

夜になると涼やかな風が吹くようになった10月、は背中を撫でるひやりとした風に肌がキュッと萎縮するのを感じた。健司くん、ここからいなくなるのか。

「また……監督に戻るの」
「高校の時の経験なんか、役に立たないかもしれないけど」
「いつ、引っ越すの」
「たぶん、2月、かな。今のアパート、2月までの期限付きで借りてるから」

そうは言っても、東京まで新幹線で6時間かかるとかいう距離ではない。お隣さんだ。けれど、今日のように気軽に平日でも「ご飯食べない?」と言える関係ではなくなる。引き受けた以上は藤真は全力で高校生たちの指導に当たるだろう。休みの日は疲れて寝るだけの生活になるかもしれない。

は生まれて初めて、胸の真ん中を細いもので強く突かれたような感覚を得た。その痛みと同時に心臓がドキドキして、今日の藤真のように体が冷えて、首筋に汗を感じた。けれどその感覚の意味を考える前に、言ってしまった。

……すごいじゃん!」

その瞬間、藤真の目尻が緊張に攣ったのをは見てしまった。しまった、これは言わない方がいいことだったと気付いたけれど、後の祭りだ。

「またちゃんとバスケの仕事に戻れるなんて、やっぱり健司くんてすごい選手だったんだね」
「東桜高校って言って……東京の下の方だから遠くないんだけどね」
「実家? あ、新居か」
「実家でも通えないことはないんだけど、また良さそうな部屋を紹介して、もらえそうだから」

藤真は藤真で、既に決まっていたことを言わなかったのは、思いもよらぬ再会をしたとの関係性が想像だにしない形へと変わっていったからだ。再会した初日の居酒屋、それが最初で最後だと思っていたのは藤真も同じだった。

だが今日、未成年を預かる「責任者」としての心構えというものを思い知らされた。今日の件もどう進展するかわからないけれど、との楽しい日々の中で見ないふりをしていた一番近い将来というものを、まざまざと見せつけられた気がした。

いい加減、に言わなければ。そのためにも会いたかった。

「引っ越しの準備、手伝えることがあったら、言って」
「ありがとう。荷物少ないけど、掃除、手伝ってくれると嬉しい」
「いいよ、いつでも連絡して。あと、引っ越すまでにたまごサンドね」

藤真にもの頬が強張っているのが分かった。お互い、きっと相手は何か言おうとして言えないでいると気付いていたけれど、言い出せない自分を差し置いて白状しろとは思わなかった。

だが、藤真は高校生の時の自分を無理矢理呼び戻すと、にっこりと微笑んだ。

「いつでも作ってあげるよ。そのうち、おいで」

に笑顔はなかった。

しかしがたまごサンドを振る舞われることはなく、あの夜以来ふたりはぱったりと連絡も取らなくなり、気まずい空気だけ持ち帰ってしまった。

それでも社会人には日々のお勤めがあり、いつまでもベッドで悩んでもいられない。は締切が開けた月末、日曜に控えている市内のハロウィンイベントの練習のため、駅のペデストリアンデッキまでひとりでやってきた。

ハロウィンイベントは市内の大きな公園で行われ、公園の敷地内にはハロウィンの飾り付けが施され、たくさんのフォトスポットが用意され、各所に仮装をした市の職員がお菓子を持って待機しているという催しだ。さらに公園内の広場ではパンプキンパイやアイシングクッキーを販売、基本的には子供のためのイベントだが最近では大人の参加も多い。

で、そのイベントのカメラ係としてにも声がかかった。各フォトスポットは市内に3店ある写真館の店主が受け持つが、イベント全体の記録撮影の方をに任せたいという話だった。そして市の広報誌と情報誌でイベント報告記事を掲載する予定らしい。

夜間撮影ならこの間やってきたばかりだが、あれは夜空だったので、人工の光をよりよく撮影する練習をしておきたい……とイルミネーションが施されているペデストリアンデッキを選んだけれど、土曜の夜で辺りはカップルだらけ、ガチな一眼レフを首から下げたはなんだか不審者のようだ。

なのでこそこそと人のいない場所を見つけては調節を繰り返し、通報されないうちに帰ろうと思っていた。藤真とはなんだか今にも関係が切れそうだし、せっかく遠のいていた「憂さ晴らし飲み」をしたくなってしまっていた。酒飲んで酔っ払って漫画でも読んでそのまま寝てしまいたい。

人が多過ぎて練習になりそうもなくなってきたので、はやっぱり缶チューハイを買って帰ろう、という気になってきた。時間は20時、駅前のスーパーの惣菜コーナーにオフシールが増える頃だ。100円のチューハイを2本、たんぱく質の多いつまみをひとつ買って帰ろう。

そう考えて踵を返したはしかし、ピタッと足を止めた。ペデストリアンデッキの広場、ハロウィンのデコレーションがイルミネーションに囲まれている場所に、藤真がいたからだ。いつものラフなパーカーではなく、薄手のジャケットなど羽織っている。

そしてその藤真の向かいには、美しい栗色の巻毛の女性がいた。

藤真は生まれつき髪の色が薄いらしいが、ふたりの髪の色がイルミネーションの暖かな色に溶け込み、LEDライトの輝きに合わせてキラキラと光る。何かを話しては笑い、笑いながら女性は藤真の腕をポンと触り、藤真もその腕をポンポンと触り返してやっている。

それが特定の恋人でないことは、分かっている。この2ヶ月ほどの藤真の日々の中に、そういう人物が存在出来る隙間はなかった。ミニバスの監督も藤真は彼女いないもんな、などと言っていたし、だからあの巻毛の女性はのような友人や知人でしかないはずだ。

だが、はふたりの美しい立ち姿に思わずカメラを構え、シャッターを押した。

目線を落とすと、毎日の仕事で履きつぶしたスニーカーが目に入った。

酒でも飲んで寝てしまおうという不貞腐れた気持ちすらなくなってしまったは、そのまま小走りにデッキを出た。スーパーにも寄らずに俯いたまま駅を離れ、バスにも乗らず、自分が吐く息がやけに大きくて不快になりながらアパートまで戻った。

部屋の中は暗かった。目が眩むような美しいイルミネーションの明滅が目に残っているけれど、はそれを洗い流したくて水で顔を洗うと、そのままベッドに倒れ込んで布団を頭まで被った。

何の感情も湧いてこなかった。

ただ真っ暗な闇の中に溶けて消えてしまいたかった。

翌朝、あまりよく眠れずに早く目覚めてしまったはテーブルの上に置きっぱなしになっていたカメラを取り上げると、のろのろと記録メディアを取り出し、パソコンに取り込んでみた。朝の冷静な頭、穏やかな陽の光、生活感しかない部屋の中で、は昨夜の写真を凝視する。

会心の出来だった。

中央で笑い合う藤真と巻き髪の女性にぴったりとフォーカスが合い、背景や周囲のボケ具合、イルミネーションの光の浮き具合まで、これまで自分が撮影してきた全ての写真の中でも断トツに美しい作品に見えた。美しい景色、美しい男女、それをしっかり切り取って閉じ込めた魔法だった。

しかしそれに感激する気力はなかった。ずいぶんいいものを撮らせてもらっちゃったな……と思いながら、テーブルの上に置きっぱなしになっていた飲みかけのブレンド茶を啜った。強く吸い込まれたペットボトルがボコッと歪む音が大きく響く。

健司くんはやっぱり、「こっちの」世界の人、だよなあ……

そう思いながら、はベッドに寄りかかって天井を見上げ、長く息を吐いた。

この2ヶ月ばかり、なんだか旧知の友人のように過ごしてしまったせいで忘れていたけれど、元々彼はそういう人物だった。ひとつ先輩だった翔陽の頃、彼は校内では知らぬ者のいない有名人であり、アイドル並みに女子から好かれ、男子からも「いいやつ」として慕われていた。

だけでなく校外に出ても女の子がわらわらと寄ってきては写真撮影や握手を求められるという、特殊な人だった。そして今でもイルミネーションを背に女性と談笑しているだけでこれほど絵になる。

本人は褒められるとやたらと照れていたけれど、一般平均で言えば充分に背が高く、肩の線はまっすぐで服のラインを壊さず、顔は小さめながら28歳の男性としての凛々しさを感じさせる輪郭を持ち、薄茶色の髪はいつでもさらりと揺れていた。

この人が「必殺ウインナーのり弁」とか言っている方が、おかしいんだよな。

でもきっとそれは、アルバイトで収入が少ない「充電休養中」だからだ。休養が終わり、収入が増えればひとつ1000円する分厚い断面映えサンドイッチを買うようになるはずだ。

そしてこの巻き髪の女性のような人と笑い合う日々を過ごすだろう。

は今度はゆっくりと大きく息を吸い込む。もう胸の痛みはない。

この人は「健司くん」じゃない。「藤真先輩」だった。

17歳の私が嫌悪したキラキラ王子様で、バスケ部のエースで、プロ選手だった人で、誰にでも好かれ、愛され、どこにいても人を引きつける輝きを放つ人で、ファインダーの向こうに生きる人だ。

私は暗い場所からそれを覗き、シャッターを切る人だ。

先輩はレンズの向こうにいる。私は違う。

私が強い光を放つフォーマルハウトだとか、夢見てんのはそっちじゃん。それ自分じゃん。どれだけちやほやされても調子に乗りもせず、未だに厳しいおばあちゃんの教えとか心に留めてて、引退してすぐに指導者として必要されるなんて、そっちの方がよっぽどフォーマルハウトじゃん。

私の宇宙は光もなく暗闇があるだけの世界でしかない。

私は「地元」に蠢くしがらみと旧態依然の世界で、「情報」を撮影し続けるだけの人だ。こんな「作品」を残すような写真家にはなれそうもない。ポンコツの軽自動車と履きつぶしたスニーカーと缶チューハイに囲まれて、クローゼットの奥に隠した少女漫画をこそこそ読むしかない女だ。

バカだな、知ってたじゃん、そんなこと。

バーベキューもオタ活も自分磨きも興味ない。そりゃそうだよね、全部「ファインダーの向こうの世界」にあるものだったじゃん。その中に混ざれないし混ざりたくもないと思ってたけど、そもそも私の住む世界じゃなかったじゃん。

無理無理、ファインダーの向こうなんかで私は生きられない。苦しくて窒息する。

でも先輩はそういう世界が、似合うからね。

は鼻で笑って目を閉じた。