昔日のフォーマルハウト

8

約束通りミニバスチームのキッズたちは全員揃って広場に待機、監督が来るのを待った。藤真が連絡を入れると、既に監督や迎えに来た保護者と合流しているので、もう帰っていいよ、という。も一応編集長に連絡をしてみたが、こちらは既に子供と帰路についていた。

、うち、来ない?」
「えっ、明日バイトじゃないの」
「ううん、休み。今日朝からだったし、子守で疲れると思ったから休み入れてた」

まだ戸惑いの残ると違って、藤真は嬉しそうに目を細めている。

「時間だってまだ20時だよ。たまごサンド、作ってあげる」
「えっ」
「だから来て。一緒に食べよ」

言いながらの頭に頬ずりをしている。手のひらに落ちたキャンディに遠い記憶を掘り起こされて感情が爆発してしまっただったが、喉がゴロゴロ鳴りそうな藤真の猛攻に早くも負け気味だ。

「じゃ、じゃあ、パーキング、近くにあれば」
「あ、オレ運転するよ。泣いたから疲れただろ。たまご買っていきたいからスーパー寄っていい?」

藤真はサイドミラーにぶら下げていたカメラを取るとに手渡し、鍵を受け取るとドアを開ける。なんだかサービス過剰じゃないのかと思うだったが、藤真がそれはもう幸せそうに微笑んでいるので諦めた。確かに好きだとは思っているが、これはなかなか刺激が強い。

というかにとってはこれが「初恋」である。誰かと一緒にいたいと思ったことなどなかったし、人は口を開けば恋愛や結婚生活の愚痴しか言ってこないので、そこにはメリットも幸福も存在しないと思っていた。ので色々未体験の世界だが、それがいきなり藤真というハードモード。

「どした、まだしんどい?」
「いやその……ちょっと、早まったかも、と」
「は!?」
「ビギナーなので……健司くん甘すぎてつらい」

一瞬、悲痛な悲鳴を上げた藤真だったが、ドアに寄りかかって呻くにまた相好を崩す。そういやこの子マジでビギナーだった。おそらく手を繋いだのもこの間の夜間撮影の時のアレしか経験がないに違いない。精神的なことも、物理的なことも、何も知らないわけだ。

「ごめん、可哀想だけどビギナーに気を使って手加減してやる余裕はないかも」
……なにそのニヤニヤ顔」
「照れて戸惑う可愛くて無理〜」
「はあ……だから早まったかもって言ってんの……
「これは今さら遅いです。前言撤回は受け付けません。今日から君はオレの彼女」
「はあ……そういうことになりますね……

胃のあたりに感じるこの不快感は慣れない状況に足を突っ込んだことによるストレスだろうか、とため息を付いたの手を、信号で停車した藤真の手が絡め取る。顔はやっぱり目尻の垂れ下がった嬉しそうな顔だ。

「で、オレは今日から君の彼氏」
……そうですね」
「まあ、引っ越すって言っても、ほんとに神奈川をちょっと出たくらいだよ」

場所を聞いたは腹の不快感が少し和らいだ気がした。毎日「地元」の中で働いているにとっても、全く未知の土地というほどの距離ではなかった。藤真は忙しくなるだろうが、そもそもは休日はただ休んでいるタイプ、訪ねていくことは難しくない。

途中スーパーに立ち寄り、卵と食パンを買う。ついでに藤真はアルコール度数の低いアイスティーの缶チューハイを買ってくれた。車があるからと断ろうとしただったが、また運転して送り届けてあげるというので、まあいいかと頷いた。なんならバスでも帰れないことはない。

藤真の住むアパートは道路を挟んで向かいにコインパーキングという場所にあった。アパート自体にも駐車スペースはもちろんあるが、全部埋まっている。

「バイト生活て言う割に高そうなアパート」
「築年数浅いし、高いと思うよ。家主と知り合いなのと、ちょっと事情がね」
「事故物件とかそういうこと?」
「ここで亡くなったわけじゃないんだけど、中途半端な時期だったから、空かせておくよりはとね」

なので春まで身が空いているという藤真に家賃を割引くから住まないか、と言ってくれたそうだ。家主は翔陽時代のチームメイトの親御さんだそうで、話が早かった。だがにはまた別の緊張が襲いかかる。他人の家、それもひとり暮らしの誰かの部屋に入るのは初めてだった。

「たぶん、最後に他人の家に入ったのは、中学生」
「友達の家に遊びに行くのとはちょっと感覚が違うよな」
「それも……行きたくて行ったわけじゃなかったし」

は玄関から室内をキョロキョロと見回した。きれいな部屋。うちのアパートのボロさが際立つ。てか風呂トイレ別だし洗面所でかいし、キッチンはシンクとコンロの間にちゃんと作業スペースがある。収納たっぷりいいなあ。天井高っか。

って女の子の友達も少なかった……よな?」
「少なかったっていうか、いなかった」
「今バイトで一緒の子が翔陽でと2年の時同じクラスだったらしくて」
「えっ?」

聞けば、例のイルミネーションのデッキで藤真と談笑していたのはその同じクラスだったというナントカさんだったそうだ。名前を聞いても覚えていない。向こうはを覚えているそうだが、まるで記憶がない上に、がポツンとひとりで過ごしていたことを心配していたという。申し訳なし……

「ええーあの時近くにいたの。彼女結婚してるし子供もいるよ、ふたり」
……ふたりも子供いてあのキラキラ具合」
「普段はもっとざっくりしてるけど、彼女化粧品メーカーで働いてたらしいから」

キッチンに買ってきた食材を並べながら、藤真は振り返ってニヤリと目を細める。

「嫉妬してくれたの?」
「てわけでは、ない」
「ないのかよ……じゃ何」
「単に、住む世界が違うなあと思っただけ」

部屋に入ったはいいが、本人の言うように物が少なく、ベッドとテーブルとテレビしかない。どこに座ればいいのか、あるいは立ったまま話していればいいのかもわからなくてはソワソワしていた。それに気付いた藤真が招き寄せ、卵とボウルを差し出してきた。お手伝いらしい。

「実家行った帰りだったんだけど、オレがしょげてたからまた心配してくれて」
「しょげてた……何かあったの」
「そりゃに監督の件を話したら突き放されたから」
「そ、それは!」

たまごを割っていたは手が滑って殻を砕いた。ボウルを受け取った藤真は長い指で殻の欠片を取り除いてはシンクに引っ掛かっているゴミ受けに弾き飛ばす。

「もしが寂しくなるとか、それでも会えるよねとか、そういうことを言ってくれたら付き合ってほしいって言えるかなと思ってたんだけど、引っ越し手伝うよとか言われたから、こりゃもうダメだと思ってさ。やっぱりとはそういう関係になれない運命なんだなって」

藤真が卵を焼き始めたので、はパンの耳を切り落とす。それを捨てようとしたから耳を取り上げると、藤真は冷蔵庫から出したジップバッグに詰め込む。ジップバッグは既にパンの耳で半分ほど埋まっており、節約生活は口だけではない様子。

……もし、がオレのことを楽しく遊べる友達だと思ってて、そういうオレを失いたくないと思っていたとしたら、付き合ってくれなんて言い出したらの友達を奪うことになるし、実はオレの知らない10年の間に恋愛で嫌な思いしてたかもしれないし……って色々考えちゃってた」

焼き上がった卵を冷ましている間にパンにバターとマスタードを塗り、フライパンなどを洗って片付ける。藤真の指示では皿を出し、テーブルの上に飲み物を揃えておく。

「たぶんもう、は同年代の誰とでも仲良くなって、友達になれると思うよ」
「まさか」
「そういうことがどうしても出来なかったのは昔のだよ。今は違う」
「そうかなあ……仕事で色んな人と会うけど、親しくなれそうな人なんて」
「仕事で会う人はを編集部のカメラの子としか思ってないから」

切り分けたたまごサンドがテーブルの上に置かれる。出来たてでまだ少し湯気が出ているが、藤真がお弁当として持ってきたものよりふっくらとしていて柔らかそうだ。藤真は缶チューハイを開けるとグラスに注いでに差し出す。

「別に無理することはないけど、にだってそういう世界は開けてるよ」
……でも、しばらくは健司くんだけでいいや」
……いきなりそういうこと言わないでくれますか」
「えっ、どういう意味」
「たまごサンドどうぞお召し上がりくださいって意味」

なんだかよくわからないが、は笑ってたまごサンドに手を伸ばす。温かくて卵がプルプルしている。そっとかじりついているのに、柔らかな卵がはみ出してきてしまう。

「温かいの、どう?」
「おいしい。ほんとおいしい。なんかホッとする。嫌なこと全部忘れられる味」
「ははは、マジでに褒められるの慣れなくて泣きそうだわ」

はたまごサンドを完食、上機嫌で食器の片付けも手伝い、トイレも借りてすっきりした気持ちで戻った。すると、さっきまで明るい照明だった部屋がダウンライトに変わっていて、ベッドに腰掛けた藤真がが飲みかけの缶チューハイの缶を掲げていた。

「け、健司くん……?」
「ねえ、ほんとに彼女になってくれるの?」
「えっ!? そ、そう、思ってるけど、何このダウンライト」

恐る恐るが歩み寄ると、藤真は缶チューハイを一気に飲み干した。

…………ちょっ、健司くん、車!」

アルコール度数の低い缶チューハイとはいえ、酒は酒。運転して送ってくれると言うから飲んだのに、と慌てたの腕を藤真が引いてベッドに座らせた。

「これでもう、帰れないね。日曜だから終バスもう行っちゃったし」
……いつもこうやって女の子引き止めてんの」
「ごめんね、オレの場合、女の子はこんなことしなくても泊まってってくれるから」
「たまごサンドで釣れた女なんか私くらいだろうね」
「そういうが好きなんだよ」

ふわりとチューハイの甘い香りが漂う。さらりと藤真の前髪が揺れて、の額をくすぐる。

……フォーマルハウトみたいに、ずっと憧れてた。どうしてかの目には強い力が宿っているように見えて、オレのこと見てほしいって、そういう思いを捨てられなくて、プロやってる間にそういう気持ちは断ち切ったと思ってたのに、ダメだったよ。どうしても、の特別な人間になりたかった」

ゆっくり、ゆっくりと唇が重なり合う。はついぎゅっと目を閉じ、唇も引き結んでしまうが、藤真は辛抱強く背中と頭を撫でてくれる。

「ご、ごめ、こういうの、したこと、ないから、うまく、出来ない」
「うまくやる必要なんかないって。したことあってもなくても、そんなこと意味ないよ」
……ないの」
「ない。今こうしてるのがであれば、そんなことどうでもいいの」

ありきたりに安っぽいムード作りに見えるダウンライト、最初からこれを狙っていたとしか思えない缶チューハイ、たまごサンドで釣ったことも何もかも、どこかでまだ藤真を疑う気持ちがを惑わせようとしていた。ほら、先輩もやっぱり「そういう」男なんだよ。

だが、それを嫌悪して憎悪して拒絶した17歳のはもういない。

私と健司くんは付き合ってる。だからいいの、何も間違ってない、健司くんは私が好きなだけ。

18歳の藤真先輩はもういない。私も28歳の健司くんが、好きなだけだから。

……でもちょっと、やりすぎなんじゃないかなと、思うんだけど」
「無理〜。の唇すっごい気持ちいい、ずっとチューしてられる」
「明日これ私、松本清張みたいになってるんじゃないの」
「ルールその1、キスしてる時にそういう萎えるようなことを言ってはいけません」

わざとらしいムード作りに不安を覚えたのはほんの数分のことで、10年間どこかで諦めきれなかったと心が通じた藤真はさっきから20分くらいずっとキスし続けている。長い。ビギナーはさすがに飽きてきた。というか慣れないので藤真が一方的に楽しんでいるような状態。

「ルールか……そういうのある方が分かりやすいな」
「ルールその2、ベッドの上でイチャイチャしてる時に理屈っぽいこと言ってはいけません」
「健司くんが乙女なだけだと思う……
がドライなだけだと思う。そういうこと言うともうたまごサンド作ってあげないよ」
「ルールその3、服の中に手を突っ込みながら脅すようなこと言わない」

が緊張で身を縮めているので、藤真は慎重に辛抱強く少しずつ肌に触れている。言葉はドライで愛嬌がないけれど、頬は赤く、ぎゅっと藤真の服を掴んだままだ。そんな姿が余計に藤真のテンションを上げているわけだが、が気付くわけもない。

本人は否定するだろうが、10年前もはよく顔を赤くしていた。顔を理由に拒絶されていたことを藤真は分かっていたけれど、それでもしかめっ面のの頬が赤らむのを見るたびに可愛いと思い、愛しいと思っていた。気持ちはいつか伝わると思っていた。

、かわいい」
「え、ちょ、なに言っ……
「あの頃も今も、かわいくて、かわいくて」

繰り返されるキスの合間に、たまらず藤真は囁く。彼の中にあるへの思いの礎、それは彼女を可愛いと思うことだった。

「かわ、かわいくなんか、私」
「かわいいっていうのは、愛しいってこと、好きで幸せになれるって、意味だよ」

どうしてかずっと幸せそうに目を細めていた藤真は、言葉とは裏腹に前髪の影に表情を曇らせていた。

――

熱い息とともに降りてくるキスを受け止め、そしては両腕でしっかりと藤真の体を抱き締めた。自分が本当にかわいいかどうかなんてことも、もうどうでもよかった。藤真の体から溢れ出てくるその気持ちを全て飲み込みたかった。

この人を全部、私のものにしたい。そう思った。

翌朝、カーテンの隙間から差し込む薄日には目を覚ました。

肩が冷たくて違和感を感じたのだが、それもそのはず、服を着ていない。布団から肩が飛び出ていて、すっかり冷たくなっていた。だが、冷えているのはそこだけで、の体は藤真の腕にくるみ込まれていて温かい。

いやまさか先輩とこういうことになるとは。

正直な感想はそんなところだったし、朝の光と寝起きの頭に藤真と特別な関係になったことは現実感もなかったけれど、昨夜感じていた腹の不快感はすっかりなくなっていた。

痛みや恐怖感はあったけれど、藤真と肌を重ねているのは不思議と心地よかった。他人の体なのに、自分の肌に触れているような安心感があるし、これまでに感じたことのない愉悦が胸を疼かせる。

眠っている「彼氏」の前髪を指で払い除けてみる。

そっか、かわいいって、こういうことか。

愛しいということ、好きで幸せになれるということ。

健司くん、かわいい――