昔日のフォーマルハウト

3

一週間後、思ったより暑さが和らいだので、は安心して家を出た。ポンコツの相棒にカメラを積み込み、藤真のアパートの近くだというコンビニに向かう。

「おはよー。なんかすごい車乗ってんね……
「質実剛健と言ってもらえますか」
「マッチョだな〜」

そういう藤真は片手に保冷バッグをぶら下げていて、コンビニで色々買い込んでいく気だったは引き止められた。パーカーに眼鏡の藤真は、お昼作ってきたよ、という。

「マジすか……先輩乙女……
「節約って言ってくれない? てか必要なボリュームをコンビニで揃えるとなるとコストが」
「まあまだ引退してすぐですもんねえ」

なのでふたりは飲み物やお菓子だけ仕入れると、早速出発した。ポンコツの相棒は実にコンパクトな作りなので、藤真はちょっと狭そうだ。片足をシートの上に立てている。

「合宿ってこんな近くでやってたんですね」
「オレももう少し遠くでやるもんだと思ってたんだけど、合宿所、持ってたっていう」
「翔陽にそんな施設があったことすら知りませんでした」
「一部の運動部しか使ってなかったからなあ」

翔陽の「合宿所」は神奈川の山間部にあり、春夏冬に運動部の合宿に使われていたというが、文化部のは聞いたこともなかった。写真部にも一応合宿というか、夏休みに撮影旅行があったのだが、何しろ女子がひとり、しかもなんでもずけずけ言う堅物の女子だったので先輩たちは乗り気でなく、部活とは関係なく男子だけでキャンプに行っていたらしい。

「いや私だってあの先輩たちと合宿なんて、行きたかないですけどね」
「写真部なあ。確か花形が部長と同じクラスで、嫌がってた記憶がある」
「そりゃそうでしょうね、女子の運動部には積極的に写真撮りに行ってたし」

の一学年上にたまたまそういう不埒な部員が集中してしまい、文化祭の展示もアイドルやコスプレイヤーの写真だったため、校内では男女の別なく敬遠されていた。しかも一部の保護者からクレームが入るという汚点もついて、翌年から人物写真は翔陽生または先生のみという制限ができてしまった。

さんは何を展示してたの」
「近所の猫」
「じゃあさんのだけ人気あったんじゃないの」
「まず教室に入ってくる人がいないので」
「確かに入りたくなかった……

さっそくお菓子をボリボリ食べながら喋るふたりを乗せて、のポンコツ号は市街地を抜けていく。藤真によれば、合宿所の周辺は民家も少なく観光になるようなものもないので、集中して撮影が出来るのではないか、という。

「てか何これ、待受なんで戻ってんの」
「私の待受はロック画面が猫、ホーム画面は土星って決まってるんです」
「なにそのこだわり。てか土星ってあの輪っかのやつ? 好きなの?」
「可愛いじゃないですか、あの輪っか。なのにあの巨大さ」
「ごめん、全然わかんねえ」
「てか先輩、引退したのにそんなにお菓子ボリボリ食べて大丈夫なんですか」
「平気。ホムセン意外と大変」

ホームセンターのアルバイトも翔陽時代の知り合いの伝手だったそうだ。というかそもそも藤真の実家はもう少し離れた場所にあり、高校の頃は寮に入っていたが、2年生のインターハイで怪我をして以来実家に戻っていた。

経過観察が必要な状態だったとはいえ、実家に戻った息子は練習に戻れるようになると毎日5時起きでないと朝練に間に合わなくなり、彼の両親と叔父叔母は都合1年以上、毎日彼を翔陽まで送り届けていた。だが、彼らは藤真の活躍を大層喜んで応援していたのだそうで、感謝してもしきれないと言う。

「でも一番のファンだったのはオレのばあちゃん。スポーツ観戦が好きだったみたいで」
「自慢のお孫さんだったんじゃないですか」
「全然。ダメ出し8割」

は窓から吹き込むさわやかな風に声を上げて笑った。キラキラ王子様だと思っていた健司少年がおばあちゃんにくどくどとダメ出しされているところを想像すると可笑しい。

そしては気付く。声を出して笑ったのはいつ以来だろうか、覚えていない。覚えていないほど笑っていないことにも驚くが、自分の笑い声が自然と出てきたことにも驚いた。私ってこんな笑い方だっけ。仕事で愛想笑いしなきゃいけない時はもっと気持ち悪い笑い方をしている気がする。

「うちのばあちゃんもこの写真が待受だったんだぞ」
「あっ、ちょっと、変えないでください! ダメ!」
「いいじゃん今日くらい……て、もしかしてさん、これ土星じゃなくてセーラームーンか?」
「は!?」
「やっぱりそうか……

の素っ頓狂な声に藤真はニヤニヤしながら待受を戻してやった。土星ね、土星。

「ちちちち違いますなんですかそれ私は土星の輪っかが」
「セーラームーン好きな子多いよな。年代も幅広いし。なんだっけ土星って、ジュピターだっけ」
「それは木星です。てか先輩こそなんでセーラームーンとか知ってんですか」
「元カノが異常に好きでね……
「でも私は違いますからね。天体のファンです。カッシーニよ永遠に」
「そういうことにしておいてやろう」

自宅のクローゼットの一番奥に原作が全巻揃っていることは親でも知らない最大の秘密であるが、土星の待受からそれを嗅ぎ取った藤真は藤真で元カノの激アツセーラームーン語りを思い出してちょっとげんなりした。オレはジャンヌ派なんだよ。

そんなとりとめのない雑談をすること2時間、翔陽の合宿所があるという山間部にたどり着いたふたりだったが、なんと合宿所は閉鎖されていた。

「これ心霊スポットじゃないですか……窓が割れて中から木が生えてますけど」
「嘘だろ、たった10年でこんな変わり果てた姿に……

実のところこの合宿所は4年前に土砂災害に見舞われ、復旧作業の費用が莫大だったためにそのまま放置されてしまっている。たった4年で緑に飲み込まれそうになっているのは、あちこちに入り込んだ土砂から次々と植物が生え育ったからである。

そういうわけでふたりは写真撮影ができそうな場所を求めて移動し、予定よりは市街地に近いところに戻って落ち着いた。神社と無人のドライブインとドッグランが並んでいる場所に出たので、そこから少し散策してみることにした。

とは言ってもハイキングコースでもなければ、うっかりすると誰かの所有する地所であり、神社の周辺くらいしか撮影は出来そうになかった。幸い神社の周辺にはベンチがいくつか置いてあり、ドライブインと合わせて小休止には困らなそうだった。

「でもけっこう虫がいますね……虫は撮れないかなあ」
「カブトムシみたいな大きいのなら撮りやすそうだけどなあ」
「コスモスには早いし、ちょっと微妙な時期でしたねえ」

言いつつはシャッターを切っているが、視界に入るのはほとんどが雑草然とした混沌の自然だけ。むしろドッグラン内で猛ダッシュしている犬の方が被写体としては面白そうだ。勝手に撮るわけにはいかないけど。

「じゃあちょっと早いけど、お昼にしようか」
「運転しながら喋ってただけなのにお腹減りましたよね」

せっかくベンチがあるので藤真お手製のランチはそこで食べることにする。コンビニでも買ってきたけれど、ドライブインに並ぶ自販機で飲み物を買い、改めて広げるとなかなか豪華なランチだった。

「まあ、ほとんど自分で食べたいから用意してきたようなもので申し訳ないけど」
「これ全部手作りなんですか?」
「いやええと、冷凍とかもある。おにぎりとサンドイッチは作ったよ」
「それでもすごいですよ……私はコンビニで済ますとしか思ってなかった」

は早速たまごサンドに手を伸ばす。関東では珍しい卵焼きを挟んだやつだ。

「おいしい! えっ、先輩まじでおいしいですこれ」
「いいだろ。学生ん時に関西出身のやつに教えてもらったんだけど、以来こっちの方が好きで」
「大人になってから知った味って後引きますよね」

がたまごサンドを味わっている横で、藤真はハムサンドひとつを3口で平らげている。たしかにこれではコンビニだと高く付く。というかおにぎりはコンビニのものよりはるかに大きいものが5つ用意されていて、一体どういう配分のつもりだったのか。

「まあ、余ったら持って帰ってまた食べればいいかなと」
「じゃあ私がもらって帰ってあげます」
「そしたら夕飯用意しなくていいじゃんラッキー!」
「違いますよ」
「正直においしいのでくださいって言いなさい」
「おいしいのでください」
「素直になったねえ」

真顔のに藤真は苦笑いだ。というかは実家でも自分で管理するようになってからも、「今日食べるものが明日の体とコンディションを作る」という大前提があり、それを外れるのは先日のように外食で酒が入ったときくらいでしかなかった。なのでこの「おいしいから作った」だけのお弁当がやけに心を浮き立たせた。

「そうそう、体型維持にしろダイエットにしろ、意識して休む日を作った方が効果的だよ」
「やっぱりそうなんですか」
「そりゃそうでしょ。大学3年の時の監督がそういう主義で」

週に1日は「休練日」を作り、遊んだりバスケットと関係ないことをして過ごせと勧められていた。中には勝手に練習していた部員もいたそうだが、その年はとにかく順調で、怪我も少なかったという。

「どうにもそういう切り替えが下手くそで……
さんは真面目だからね」
「そうですかねえ。宝くじで12億当たったら独り占めして無人島を買いますけど」
「えー、寂しくない? オレ執事になってあげるよ」
「それで私を殺して12億を奪うつもりですね」

おにぎりをかじりながら、ふたりは大声で笑った。なんだか10年間も疎遠だったとは思えないほど気楽で、見栄を張ってかっこつけたりしようとも思わなかった。

ペットボトルの炭酸飲料を流し込んだ藤真はついげっぷをし、に蹴られた。食べたら眠くなりそうだと言いながらは大あくび、あくびは藤真にも伝染り、ふたりは車内でちょっとだけ仮眠を取ったが、ふたりとも隣に構わずに口を開けて寝ていた。

そうして日が傾き始める頃になって、朝集合したコンビニまで戻ってきた。今日はこれにて解散、藤真の手作り弁当はほとんど残らなかったのでは夕食をコンビニで調達し、藤真もビールをひとつ買った。改めて飲みに行ったりはしない。明日はもう仕事だ。

「先輩のお弁当の方がいいなあ。明日昼頃に届けてくださいよ」
「明日はオレも仕事です」
「お弁当作っていってるんですか?」
「毎回じゃないけど、その方が安いから」
「やーん藤真くん嫁にしたいー、って言われませんか」
「めっちゃ言われる」

最近担当部署の男性の先輩にまで「嫁と離婚して藤真くんと再婚する」と言われたそうで、藤真はちょっと不機嫌そうだ。食事の用意をしてくれるから君が好き! と言われても嬉しくないのは女も男も変わらない。というか節約しなくてもいいなら藤真だって弁当を作ったりはしない。

「確かに自炊は節約になるんですけど、疲れて気力が保たないんですよね」
「そういう時は必殺ウィンナーのり弁を作る」
「それでも作るんですか」
「ご飯入れて、海苔のせて、醤油かけて、レンチンしたウィンナーを、無理矢理埋め込む」
「でもそういうの意外に美味しいんじゃないですか」
「そう。意外と美味い」
「今度食べてあげますよ、それ」

へらへら笑いながら会計を済ませると、はまたポンコツ号に乗り込む。今日はずいぶん走ったので、明日は出勤前に給油をしていかねば。今日はもう疲れたので帰ってダラダラして寝る。

「今日はありがとうございました。リフレッシュ出来た気がします」
「オレもなんか気持ちよく疲れたよ。ぐっすり寝られそう」
「今日の写真、補正して仕上げたら送りますね」
「おお、ありがとう楽しみにしてるよ。またね」
「はい、おやすみなさい!」

そうしてふたりはそのまま自宅に帰り、シャワーで1日の疲れを洗い流し、のんびり食事をしたり酒を飲んだりして寛いだあと、早々に寝てしまった。藤真の言う気持ちのよい疲れはすぐにふたりを夢の中に誘い、どちらも携帯を手に載せたままぐっすりと眠り込んだ。

それから2週間くらい経った頃のことだ。

小学6年生が卒業して新体制のミニバスチームが練習試合を行うことになったので、藤真はに試合写真を撮ってもらえないかと考えていた。

プロの撮った写真は今も自分のバスケット人生への表彰のように思っているし、そういう心のこもった写真はきっと競技への自信をつけてくれるに違いないと思ったからだ。試合結果はどうでも、自分はこんなにかっこいいバスケット選手なんだと思えることは、きっとプラスになるはずだ。たぶんそういう写真は子供たちを支えている親御さんも喜んでくれるだろうし。

休みの日に申し訳ないかなと思ったけれど、は休日は基本休んでいると言っていたし、一応プロのフォトグラファーなのだから報酬は自分のポケットマネーで用意するつもりでいたし、なんならまた飲みに行っておごってもいいなと思っていた。

なので、土曜の夜で、締め切り前後でないと聞いていたので、いきなり電話してみた。すると――

「わかりました、行きます……
「えと、あれ、無理矢理だった? 気が乗らなければ無理には――
「いえ、そういうわけでは、すみません」
「大丈夫? 声、疲れてるよ」

先日の日帰り撮影旅行ですっかりリフレッシュしたの声ではなかった。喋るのも億劫だと言わんばかりの棒読み、低音、ため息。するとはひゅうっと音を立てて息を吸い込むと、ため息とともに一気に吐き出した。

「今日、例の地元の一族のバーベキュー大会に、連れて行かれて」
「うわ、そうだったのか……
「すいません、取り繕う余裕がないくらい、ストレスで、疲れてて」
「可哀想に……
「試合は大丈夫です、行けます。不機嫌な声でごめんなさい」
「いいって。キツいよな、そういうのって」

付き合いで笑いたくもないときに笑って、飲みたくもない酒を飲まねばならないときもある。それが世の習いだということは理解しているが、何度やっても楽しくなることなどなく、ただひたすら苦痛が続くだけだ。特にのようにどんちゃん騒ぎが苦手な性分だと余計に苦しい。

「そんなの忘れてさっさと寝ちゃえっていう人いるけど、無理だよな。腹も立つし」
「睡眠薬に依存しちゃう人の気持ちがわかります」
「ひとりだと、気持ちを宥めるのもしんどいからね」

それには藤真も覚えがある。つらいこと苦しいこと、自分ではコントロール出来ない負の感情をどう片付けるか、ということはまさに人生を学んでいる道半ばの大きな課題である。

すると、の声が突然跳ねた。

「先輩、飲みに行きませんか? 昼間も飲んだけど、だいぶ覚めちゃったので、飲んで忘れたい」

バーベキューは午前中から始まり、用意した酒が尽きた14時半頃にはほぼ終了、あとはいくつかのグループに分かれて河岸を変えるだの、誰それの自宅に移動するだのと散らばっていった。その間飲みたくもないビールを2缶飲まされたは軽く酔いが残る程度で、ほとんど素面だった。

は、藤真はすぐにOKしてくれると思っていたのだが、やけに低い声が返ってきた。

さん、そういう飲み方はしない方がいいよ。もっとつらくなるだけだと思う」
「そう、ですか……?」
「お酒は楽しんで飲むものにしておかないと、体にもよくないと思う」

お酒を飲むということに、そんな意義やら意味やら主義やら考えたことのなかったは「はあ」と間の抜けた返事をしたが、藤真は声のトーンを変えることはなかった。

「だから明日、お昼一緒に食べない? 駅前まで出てこられる?」
……外食より、先輩のお弁当がいいです」
「あはは、それはまた今度ね。明日は駅前のイタリアン。付き合ってくれる?」

ストレスで参っていたには、藤真のその優しい声もどこか白々しく聞こえていたのだが、この人は不機嫌を隠そうともしていない自分から逃げないのだな、と思ったら縋りたくなってしまった。

……わかりました、行きます」
「ありがとう。今日はもうお酒飲まないで、部屋を暗くして、休んで」
……はい、そうします」

電話を切ったはしかし、電話がかかってくるまでに感じていた強烈な怒りが和らいでいることに気付いた。酒でも飲んで藤真に愚痴をぶつければきっとスカッとするだろうと思っていたけれど、これなら眠れそうだ。シャワーも面倒くさくない。

なのではそのまま立ち上がるとシャワーを浴び、炭酸水を一気に飲み、部屋を暗くしてベッドに横たわった。今日のバーベキューで受けたたくさんの「嫌なこと」は終わる、今日の中に捨てていかれる気がした。明日にはもうあのムカつく人たちは存在しない。

明日は休み、そして昼には先輩とのランチがあるだけ。

本当は先輩のお弁当の方がいいけど――

そんなことを考えていたは、そのまま眠りに落ちた。