昔日のフォーマルハウト

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シャワーを出て顔に化粧水を叩き、乳液を塗っただけで寝てしまったは翌朝、自然乾燥の寝癖だらけの頭で目覚めた。なのでまたシャワーに入り直し、改めて髪を乾かす。普段の出勤のときも化粧は最低限なのだが、ストレスで愚痴ろうとした後輩に気を使ってくれる先輩に会うのに濃いメイクを施す気にならなかった。藤真にはそういう姿を見せなくとも、素顔なら充分知られているし。

というわけで休日のは髪も服も化粧も「ざっくり」という程度で済ますと、荷物も少なく家を出た。今日はカメラもなく、駅前はパーキングが割高なので車にも乗らない。バスなら往復440円で済む。これほど身ひとつで外出するのは久しぶりだ。

「ちゃんと寝られたっぽいな」
「なんだかぐっすり寝てしまって……
「そりゃオレのアドバイスがあったからじゃないか」

藤真もジーンズにTシャツ、特に新しいものでもなく、普段着だ。そんな藤真に連れられて、は駅前のオフィスビルの1階にあるイタリアンレストランに入った。

「なんか、私の偏見による『藤真先輩が女の子連れ込みそう』なお店ですね」
「まあ、今実際に女の子連れ込んでるしな」
「女の子連れ込んで愚痴を聞かされるんじゃ割に合わないですね」

は遠慮せずに言いたいことを言う。メニューを開き、ランチメニューに目を走らせる。普段、仕事中のの昼食はコンビニやスーパーで調達、あるいはファストフード、安価な麺類くらいなので、それらに比べると実に高価なランチになりそうだ。

だが、誰にも話せないと思っていた愚痴を聞いてもらえると思うと、高価なランチも嫌ではなかった。しかもちょっとした仕切りのある半個室、この駅前も充分地元で例の一族の関係者が潜んでいないとも限らないが、大声で個人名なんかを言わなければわかるまい。内容自体はごくありふれた愚痴だ。

だが、パスタランチのコースを食べながらが喋っていたのは愚痴というより、昨日のバーベキューでどんなことがあったか、という、ただの報告になっていた。昨夜藤真と話すまで全身を焼き尽くさんばかりに募っていた怒りはずいぶん治まっていた。ふぅん、酒を飲まなくてもなんとかなるのか。

「それにしても、そういう席でのセクハラってのは、深刻だよな……
「なんでおばちゃんたちはああいうの、はしゃげるんでしょうね」
「そういう風にいなしているのか、本当に楽しいのか」
「自分もあんな風になるのかと思うのが、一番気持ち悪くて」

の一番の恐怖は、自分で望まぬ世界に迎合することである。作り笑いを浮かべ、お世辞を言い、自分を偽って空気を読むので仲間にしてくださいと強者にすり寄っていくようになってしまわないか、それが一番不安だった。

「そうかな、そういうのって余程のことでもなければ変わらない気がするけど……
「だったらいいんですけど、いつかああいうセクハラに慣れて、なんとも思わなくなるのかなって」
……諦めて慣れてしまった人が、それを奨励するしね」

カチャリと音を立ててフォークを置いたは、ぼんやりと藤真を見つめた。あいつらがムカつくと喚き立てればすっきりする、臭いおじいちゃんなんか早くくたばれと罵れば気が済むと思っていたのに、こうして静かに語り合うと心の一番深いところにある憤りがなだらかになっていく気がした。

「実は現役の頃、新人は必ず後援会の婦人部と会食をしなきゃならないっていう習慣があって。普段はもちろん純粋に支援をしてくれる団体なんだけど、その、オレみたいなのは、すぐに餌食になるんだよな」

運の悪いことに藤真の同期は筋骨隆々で無骨なタイプだった。後援会のご婦人方は藤真に色めき立つ。

「マダムに食われちゃったんですか……
「違います。だけど、体をよく触られたよ。愛想笑いしてたけど、気持ち悪くて鳥肌立ってた」
「先輩も先輩に慣れた方がいいって言われたんですか」
「先輩っていうか、チームの事務方の人にね。ファンは大事にしなきゃいけないって」
「ものは言いようですねえ」

が淡々と相槌を打っていると、藤真はふっと相好を崩し、肘をついて手の甲に顎を乗せた。

「だけどオレはそれっきり。チームにいる間、観客席で応援してくれるファンの人たちには本当に良くしてもらったよ。そういう意味じゃ、オレは普通の社会人てものになったことがないんだ。今やっと初めてバイトをしてるくらいだし、それも人の紹介で、元プロ選手だって知られた状態で働き始めたし」

とはいえそれらは藤真自身の人徳に他ならず、アパートもアルバイトも高校時代の彼がそんな援助に値する人物だったからだろう。アスリートのセカンドキャリア問題は未だ明確な支援体制が整っていないけれど、過去の振る舞いが現状を助けるに違いない。

「だからきっとオレはこれから現実を知るんだと思う。さんたちが毎日必死で戦っている厳しい現実がどんなものかオレにはわからないけど、大変なことが待ってるはずだ、って痛感してる」

だが、はこうしてじっくり藤真と話すことで昨日の苦痛をゴミ箱にぽいっと捨てたような気になっていた。昨日のバーベキューで交わした会話は全て嫌悪感しか感じないものばかりだったが、藤真との会話は全て正常でマトモだという気がした。理性があり、悪意がなく、善良。

「そうだ、また、リフレッシュしに行かない?」

先日の日帰り撮影旅行は実にいきあたりばったりで、撮影した自然風景も陳腐なものばかりだった。けれど、また藤真の手作り弁当と他愛もない話があれば何もかも忘れてぐっすり眠れる気がした。なのではすぐに頷き、そしてフォークを唇の端に引っ掛けたたま言った。

「私、星空を撮ってみたいんですよね」

それは今いきなり思いついたことだった。夜間撮影自体ろくな経験がないけれど、藤真とふたり、星空を見上げながらもっと話をしたかった。星空の下でなら、どんなことも臆せず語れるような気がしたし、感情に任せたブチ撒け合いではなく、未だ自分でも知らぬ心の探索の旅に出られる気がした。

そうしたらきっと、あの漠然とした不安が消えるのではないか。そんな気がした。

「いいね、行こうよ。また弁当、作るからさ」

やっとは頬を緩めてにっこりと笑った。それが一番の楽しみになりそうだ。

しかし夜間撮影となると場所を探したり準備をしたりと手間がかかり、さっそく来週行きましょうとはいかなかった。なのでミニバスチームの試合の方が先になり、藤真は改めてをバスケットキッズたちに紹介した。最年長の子たちはかれこれ数年前から知っているが大人しく聞いている。

「お姉さんはプロの写真家で、みんなのかっこいいところを撮影してくれます」
「プレッシャー」
「でも、カメラに気を取られないようにね。試合に集中!」
「今まさに集中を乱すことを言っているのでは」
「お姉さんうるさい」

監督と子供たちはふたりのやりとりにニヤニヤしている。少なくとも藤真の方に彼女がいないということは全員知っているので、余計にニヤニヤする。

さん、お休みだったのにありがとうございます。親御さんたちも喜ぶと思います」
「監督も撮りますからね」
「えっ、いや僕は! 別に突っ立ってるだけだし!」
「奥様が待ち受けにしたいなと思うようなのを撮れるように頑張りますね」
「プレッシャー!」

でも気軽に話せる監督さんは善い人だが、普段はとにかくおっちょこちょいで、奥さんによく怒られるのだという。それを知ってるもニヤニヤする。

「結局先輩ってなんなんですか」
「なんなんですかってなに」
「監督は監督だし、先輩この子たちと何やってるんですか」
「うーん、コーチ? 下は小学2年生からいるし、指導は全部一緒というわけにもいかなくて」

無償のお手伝いで参加中の藤真コーチだが、キッズたちは全員男の子だし、監督よりだいぶ若くて大人というよりは「お兄さん」なので、慕われてもいるが、けっこう遊ばれている。今日はお姉さんがいるので遠慮しているらしいが、普段ならウンコとチンコが合言葉状態。

「これは高校の頃もちょっと思ってたんですけど、先輩って同性にもけっこう好かれますよね」
「まあオレもミニバスから始まって20年男社会だったからなあ」
「こういう顔した男って男に好かれないのかと思ってましたけど」
「はあ……どうしてもオレの基準は顔……

肩を落とす藤真の傍らではカメラの準備をする。今日のカメラは自前、仕事とは別に自分のためだけに買ったものだ。支払いはキツかったけれど、型が古くなっても大事にしたい可愛いヤツだ。顔のアップにも対応できるよう、レンズを変え、シャッタースピードを調節する。出来るだけ足が床から離れている瞬間を狙いたい。躍動感!

「はーい、先輩、こっち向いてくださーい」
「はい? ちょ、いきなり撮るな!」
「いきなり撮ってこの顔ですか……腹立つなも〜」
「顔はもういいじゃん、しょうがないだろ生まれつきなんだから」
「先輩の場合、この顔を活かせない性分に生まれたことが不幸ですよね」
「それはちょっと思ってる……

現役の頃、モデルやタレント活動を考えて将来的にうちと契約しませんか、と芸能事務所の人から名刺をもらったことがある。仲間たちからは囃し立てられたけれど、どうにも気乗りがしなかったし、例のダメ出し8割のおばあちゃんは「そんなチャラチャラした世界、健司を殺すだけだから絶対やったらいかん」と説教までしてきた。

しかしおばあちゃんは自分の好みで説教を垂れる人ではなかった。藤真が顔を武器にショウビジネスで成り上がれる性格なら「健司にはそういう世界が向いてる、頑張れ」と言ったはずだ。なので華やかな業界には興味がないが、向いてる性分なら顔があるだけ人よりも得だったはずだ。

そんな、ファンがゆえに厳しすぎるおばあちゃんの最後の言葉は「お前はまだ競技の何たるかがわかってない、選手の目線だけで考えるな」だった。おばあちゃん自身は特に運動が得意なわけでもなく、ただ観戦しているのが好きだっただけの人なので藤真はついどういう意味だと突っ込んだが、結局それが最後の教えになってしまった。一体ばあちゃんはオレの何を見てあんなことを言ったのやら。

「だからミニバスのコーチ始めたんですか?」
「きっかけは監督が声かけてくれたからだけど、確かに違う目線ではある」
「でも先輩って確か翔陽の時、監督でしたよね」
「監督、いなかったからね」

選手、監督、コーチ、様々な目線でバスケットと関わっているはずなのだが、それでもおばあちゃんの言葉の真意は理解しきれず、本当の意味に触れそうで触れないもどかしさは未だに心の片隅に引っかかっている。どうせ言うなら一発で意味が解るように言えよな。

それでもおばあちゃんの言葉は藤真の道標として未来にほんのりと光を投げかけている。それを立ち止まって眺めている時にと再会したことは、藤真にとっても良い節目だった。

「それじゃあ先輩にビシッと言ってくれる人、もういないんですね」
「そうだなあ。親とか叔父さんたちは褒めてくれるけど、厳しいことは言わないからなあ」
「それは良くないですよね。わかりました、私が言ってあげます」
さんのは指導じゃなくてツッコミだよね?」
「先輩、怒ってくれる人がいるうちが花ですよ」
「昭和〜昭和に染まってるよ〜」
「アーッ!」

だが藤真は、言われてみれば……と内心ちょっと納得をした。おばあちゃん亡き今、藤真がつい見て見ぬ振りをしてしまいがちな「痛いところ」をピンポイントで突いてくる人はいない気がする。両親は応援と同じくらい労ってくれるが、それだけに厳しい言葉は少ない。

それに、自分のことを微塵も理解していないくせに、さも正論だという口調で意見を押し付けてくるような人の言葉は腹が立つだけだが、にずけずけと言われるのは不思議と気にならなかった。

17歳のあどけないも、何でも思ったことをずけずけと言っていたし、それが他人を自分の思想で押しつぶして支配してやろうという意図のないものだと知っているから。

バイト先の先輩が「お前はタレントなんてやめた方がいい」と言い出したら「お前にオレの何がわかる」と思うだけだろうが、おばあちゃんやが言うなら「まあそうだよな」と納得できる。

なぜならおばあちゃんとの忌憚のないご意見は基本的に「お前それ自分でわかってるだろ」というツッコミだからだ。藤真が思いも寄らない新発見に導いてくれると言うよりは、目をそらしている彼の顔を掴んで元に戻してくれるような。

そう思うと、本人が言うようにのツッコミはありがたく頂戴しておいた方がいいような気がしてきた藤真は、やっぱり今日は酒をおごってやろうと決めた。

だが、試合後にそう申し出た藤真には「最近あまり酒は飲んでいない」と言ってきた。

「健康診断引っかかったの?」
「そんな年じゃないです。そうじゃなくて、なんか前ほどお酒に頼る気持ちがなくなってしまって」
「それはいいことじゃん」
「この間、先輩に言われた通り飲まずに寝たのに、次の日にイライラを持ち越さずに済んだので……

それまでの飲酒というものがほとんど「憂さ晴らし」だったことに気付いたの食生活は一転、体にいいものだけでなく、心にいいものも食べようという気になってきた。

「この間、5年ぶりに焼肉食べました」
「むしろなんで5年も遠ざかってたの」
「高いし、油と白米の組み合わせなんか罪悪だと思ってたので」
「でも食べたら美味しかったでしょ」
「大変でした。ご飯3杯食いました」

藤真はからからと笑い、それなら酒はなくてもいいからご飯食べに行こうと誘った。

「バイト生活の先輩にタカるのは気が引けるんですが……
「普段は節約してるから大丈夫だよ。てか年俸はばあちゃんの監視があってね……

とにかくおばあちゃんは孫が不埒な輩の歯牙に引っかかってやいないだろうかとやきもきしていたそうで、正座して通帳を見せなさいと手を出してくることもあったそうだ。

「ほんとにすごいおばあちゃんですね。私だったら反抗しそう……
「理不尽なことは言わない人だったから、なんかつい納得しちゃうんだよな」
「やっぱり先輩が道を踏み外しそうになったら私が罵倒してあげますね」
「罵倒はやだ!」

そんな話をミニバスの試合が終わったロビーで話していたものだから、やっぱり監督とキッズたちはニヤニヤしてそれを眺めていた。