昔日のフォーマルハウト

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星空を撮影すると言っても、本格的なスポットでの経験もなければ指導者が一緒なわけでもなく、は練習だからと知人に場所を紹介してもらうことにした。自分もプロの端くれだが、カメラ歴数十年の男性がひしめくような場所はハードルが高い。上手く撮れればラッキー、くらいの練習だ。

「それに、普通はもっと空気の澄んだ冬に撮影するので、きれいに撮れないかもしれないけど」
「初めてのチャレンジなんだからそれでいいんじゃない? 半分遊びくらいのつもりで」

準備に時間がかかったので、ふたりが夜間撮影に出かけたのは10月も半ばを過ぎていた。土日はガチ勢のおじさんがたくさんいるだろうし、も土曜は仕事のことが多いので、藤真がシフトを調整してくれて日曜から月曜にかけて出かけることにした。もちろん藤真のお弁当付き。

「今日は長丁場になるかと思っていっぱい作ってきた」
「たまごサンド楽しみにしてたんですよー!」
「えっ、今日はない」
「ないんですか!?」
「ご、ごめん、卵焼きならある……

今日も藤真のたまごサンドを食べられると思って昼からヨダレを垂らしていたはがっくりと肩を落としてハンドルにしがみついた。藤真は慌てて弁当のケースをこじ開け、卵焼きをひとつ取り出しての口に突っ込む。おいしかった。

「先輩、マジで金払うので今度たまごサンド作ってください」
「そんなに気に入ったの。いいよ、今度作ってあげるよ」
「今の卵おいしかったのでもう一個ください」
「だーめ、これは着いてから。てかこれ夕飯と夜食なんだから」

都市部では日中はまだ暖かい日が続いているが、日没を迎えると涼やかな風が吹くようになり、なのでこれから山間部に向かうふたりはすっかり長袖になり、後部座席にはクッションシートや厚手のジャンパーなどが積まれていた。だけでなく水筒には温かい飲み物も用意して、風邪を引かないよう備えた。

「ていうか今日カメラ多くない? 全部揃えるの高かったんじゃないの」
「これはレンタルです。さすがに全部買えるほどの稼ぎはないので」
「そうだよな……カメラって高そうなのにすごいなと思ってたんだよ」
「星空の撮影だと三脚とかも必要になるのでまとめて借りたんです」

少し時間に余裕を持って機材を借り受けたは何日かかけていじり、暗くても間違えずにセッティングできるように練習を繰り返した。今日の撮影スポットは不動産情報誌の仕事でよく顔を合わせる天体観測が趣味のおじさんに教えてもらった場所で、なおかつおじさんの親戚の地所であり、話をつけておいてあげるとのことなので、明かりを煌々と灯して準備しても大丈夫。

そのおじさんの親戚が見晴らしのいい場所で喫茶店をやっていたそうなのだが、数年前に閉店して以来放置になってるらしい。建物も駐車場もそのままになってるから流星群なんかを子供と見に行くんだとおじさんは言う。ただしトイレは使えないので、ちょっと離れたコンビニで絶対に済ますこと、と厳重に言い渡されている。

「そういうのはオレ、縁がないなあ」
「そりゃあれだけバスケ漬けじゃ仕方ないんじゃないですか」
「それを後悔はしてないけど、父親にはちょっと申し訳なかったかも」

両親は息子の活躍を心から応援しているのではなかったのか。の沈黙に藤真は鼻で笑った。

「ミニバスを始めた小2の時かな、連休に父親がキャッチボールしようって言ってくれたんだけどオレはもうバスケに夢中で、キャッチボールはいらないからバスケの練習がしたいって言っちゃったんだよな。今にして思うと、息子とキャッチボールしたかったんだろうにと思ってさ」

ちょっと自虐的な言い方だったけれど、はひょいと首を傾げた。

「今やればいいじゃないですか」
「それはちょっと恥ずかしくない……?」
「そうですか? お父さん、それで誘えなくなっちゃっただけなんじゃないのかな……

の呟きに藤真は髪をガリガリと掻きむしると、ため息をついた。

「そういうのって、子供の時より怖くない? 断られたらどうしよう、とか」
「それはまあ、ありますけど」
さんだったらどうする、そういう時」
……この間、先輩と再会した時がそうでした」

車内の空気がスッと冷えたように感じて、ふたりはつい肩をすくめた。そういえばつい先月に再会するまで10年も疎遠だった。それを思い出したからだ。そういう、遠い関係だったのに。

「まさかこんな頻繁に遊んだりするようになるとは思ってなかったし、高校の頃のことは後悔があったし、たまに思い出しては悪いことしたなと思って苦しくなってたり、したので、今しか謝るチャンスがないと思って。それは自分のためでしかなかったですけど」

二度目がないと思えばこそ、緊張や怖さよりも自分の黒歴史を払拭することをは選んだ。

……さんてさ、強いよね」
「そうですか?」
「強いって言い方おかしいか、ブレないっていうか、自分を持ってる」
「まさか。ここ数年はそういうのを保ててないような気がして不安になることも多いですよ」
「そういう時、どうするの」
「お酒、飲んでました」

飲みに出かけて酔っ払ってはしゃぐような席は苦手だし、そもそもそんな飲み方をする友達はいないし、フルーツ系の缶チューハイがおいしいなと思っていたのは20歳を過ぎてものの数ヶ月、就職して2ヶ月目には食事もせずに飲んで寝るということを覚えてしまっていた。

「でも、最近はお酒だけじゃなくて、他にも自分を宥める方法を探してます」
「何かいい方法はあった?」
「ここ3日間くらいは先輩のたまごサンドを楽しみに生きてきました」

藤真は仰け反って大笑い。どんだけたまごサンド好きなんだよ。

「それから、友達なんて面倒くさいだけだと思ってたんですけど、先輩と話すようになって、そういうことじゃないのかもと、思い始めました。ひとりで過ごすことも誰かと話すことも、どっちもいいものなんだなと。こうやって遊びに出かけるのが楽しいのも初めて知りました」

それは、が社会人になって17歳の自分を省みることが出来るようになったからでもある。17歳のなら、どれだけ藤真と話してもこんな風には思わなかったはずだ。自分を見失いそうな不安など欠片もなかった17歳の時には、ただの雑談は鬱陶しいものでしかなかったから。

ナビゲーションが表示されていた携帯が目的地付近を報せる。慎重に速度を落としたは、聞いていた喫茶店の店名を古びた看板で確かめると、ゆっくりと駐車場に乗り入れる。思ったより整っていて安全そうな場所だ。

車のエンジンが停止すると、藤真がちょっと照れくさそうな声でぼそりと言った。

「あのさ、もう高校生じゃないし、先輩とか敬語とか、やめない?」
「先輩がそれでいいなら、何でもいいですよ」
「なんか、それがあるといつまでも翔陽を引きずってる感じがするし」
「10代は遠いですしねえ……

ヘラヘラと笑うに、藤真は手を差し出す。

「改めてよろしく、
「おお、こちらこそ! じゃあ私は健司くんにしようかな」
「やばい、めっちゃ照れる」
「はあ? 自分で言いだしたんでしょうが」
「敬語がないとツッコミの鋭さが違うー!」

握手をしてぶんぶんと振り回したふたりはまた笑いながら車を降り、荷物を下ろしてから崖の際に近寄ってみた。きちんと補強された斜面に頑丈な柵が張り巡らせてあって、閉店した喫茶店は傷んでいるが、なるほど天体観測にはぴったりな場所のようだ。

「機材すげえ。それ全部使うの」
「そう。普段と違って撮影に時間がかかるから三脚必須だし」
「壊しそうで怖いな……。オレは弁当を準備するよ」
「お腹減った!」
「そうだよなあ、もう22時だ」

だが、何度も練習したはずのは明かりの少ない中でのセッティングにもたつき、準備が出来るとふたりの腹はぐうぐう鳴っていた。夕方にそれぞれ少量補給しただけで来たので、もう限界。セッティングしたカメラはそのままに、ふたりは弁当に手を伸ばした。

「天の川とかも撮れたりする?」
「天の川は夏。7月だったような気がする」
「ああそっか、星っていつでも同じものが見えるわけじゃないんだよな」
「私も付け焼き刃の知識しかないからよくわからないけど……

そもそもも天体が好きというわけではなく、ただ満天の星空を自分の手で写真に収めてみたかっただけ。今の季節夜空のどの場所になんていう星があるのか、なんてことは素人同然、冬のオリオンくらいしかわからない。

たまごサンドはなかったけれど、今日も藤真の弁当は良く言えばボリュームたっぷり、悪く言えば野菜が殆どない弁当であった。ほぼ肉とご飯とジャガイモとたまご。だがは上機嫌でおにぎりにかじりついた。おにぎりも具はなく、ふりかけが混ぜてあるだけだが、それが無性に美味い。

その上藤真はただのお湯を持参していて、カップ味噌汁まで作ってくれた。

「やばい、これ眠くなるやつじゃないの」
「腹八分目にしておきなよ。あとでまた食べられるんだし」
「じゃあそろそろ取り掛かるか」

は名残惜しそうに手を拭くと、三脚に乗ったカメラを覗き込んだ。普段はデジタル一眼レフだが、今日はミラーレス一眼を借りたのでちょっと勝手が違う。ちまちまと操作をしては空を見上げ、調節を繰り返す。

「てか普通に星が見えるな」
「肉眼でちらほらと見えるくらい晴れていれば、そこそこのが撮れるはずなんだけど」
「それビデオカメラ……じゃないのか」
「これは液晶で確認しながら撮る感じ……と言えばいいかな」
「いつものように覗き込んでシャッター押すのかと思ってた」
「それでも撮れるけど、なにぶん夜空はビギナーだし……よし、こんな感じでいいかな」

は手前にしゃがみ込むと、手に持ったリモコンのようなものを押した。藤真も隣にしゃがんで空を見上げてみる。なかなかきれいに晴れているが……

………………撮れたの?」
「えっ? ああ、1回に30秒かかるから」
「えっ、そんなにかかるの!?」
「長時間露光って言って、暗くて星の光が弱いから時間をかけて取り込まないと写らないんだよ」

なので1回撮っては微調整、30秒待つ。また調整して30秒、が何度も繰り返されるので、藤真は元の位置に戻ってまた弁当を食べ始めた。常に動き回る20年間だったので、こんな風に根気のいる作業は慣れない。は集中しているようだし、邪魔しない方がいい。

だが、それが10分20分と続くとちょっと飽きてきた。やることもない。

「写真の仕事って、思ったよりハードだよな」
「だからやっぱり好きじゃないと出来ないと思う」
はフォトグラファー、向いてたんだな」
「健司くんは芸能人向いてなくてよかったね」

液晶を覗き込みながらが鼻で笑うので、藤真はクッションシートに倒れ込む。ほんとに敬語がなくなったらツッコミの冴え渡ること!

「別にさ、顔がどうでもああいう職業の適性って関係なくない?」
「と思うけど、それが最低限の基準なんだろうしねえ」
だっていつも顔のことばっかり言うじゃん」
「私は健司くんの顔、超特別製って感じないけど、みんなが騒ぐからさ」
「えっ、そうなの!?」

甲高い声が上がったので、は藤真の方を向いて頷いた。

「まあ、かっこいいとは思うよ。不意打ちで撮影してもそれなりに整っちゃうし、骨格とか、目鼻立ちのバランスがいいんだろうなあとは思う。髪の色が薄いから肌の色もきれいに出るしね。でも健司くんて顔より声の方がいいような気がするんだけ……何やってんの」

クッションシートの上で正座した藤真が両手で顔を覆って俯いていた。

「無理……に何か褒められたの初めてで泣きそう……
「ちょっと待って、普段そんなに虐めてないはずだけど」
「いや、18の時けっこうボロボロになってた……
「それはごめんて!」

笑いながらはどさりとクッションシートの上に座ると、水筒から温かい紅茶を注いで少し口に含む。藤真はしばし「イヤイヤ」をしていたが、突然大きく息を吸ってまた倒れ込んだ。深夜に差し掛かり、星がさらによく見えるようになってきた。

……オレ星座とか全然詳しくないけど、ひとつ、好きな星があって」
「へえ、どんなの?」
「フォーマルハウト」

藤真は寝転がったまま左手を上げて、空を指差した。

「実際に見たことはないし、学生の時の友達に教えてもらっただけなんだけど、空に、ぽつんとひとつだけ浮かんでるんだよ。だけど、ものすごく強く光ってて、光の筋が長く見えて……

フォーマルハウトは深秋の南の空に見えるみなみのうお座にある恒星のことだ。目立つ星の少ない秋の夜空に煌々と輝く孤独の星で、秋のひとつ星とも呼ばれる。天体に詳しくないふたりには知る由もないが、もう1ヶ月もすれば実際に肉眼でも見ることが出来ただろう。

「周りに何もなくて、ひとりでポツンとしてるのに強烈な光を放ってる姿が、かっこいいなって」
「ひとりでポツンとしてるのが?」
……ひとりでも、強い光を失わないような人に、なりたくて」

ぱたりと倒れてきた藤真の左手が傍らに転がっていたので、はその指先に触れてみた。緩く握り返される彼の手は冷たくて、滑らかで、まるで人の肌のぬくもりはなかったけれど、彼が抱くフォーマルハウトへの憧れがより強く伝わってくるような気がした。

「団体競技だから、結果が伴わないことを他人のせいにしたくなったり、自分のイメージ通りにいかないことが納得できなかったり、そういう自分をコントロールするのが難しくて苦しい時期が、あって」

特に、何でも自分の采配でことを進めていた翔陽3年生から大学に進学してすぐはペースを取り戻すのに時間がかかった。そんな時に教えてもらったフォーマルハウトは、ひとりでも凛とした佇まいを崩さず、自分を失わず、誰がそばにいなくても強い眼差しを失わないを思い出させた。

「え、わ、私……?」
「先輩だからってずいぶん振り回したなって自覚はあったんだよ。だけどは自分を曲げなかった」
「でもそれは……
「自分が空っぽのような気がしてた時期だったし、そういう強さに憧れたんだよ」

こそ藤真は南の一等星のように光り輝く人だと思っていた。人を惹きつけ、他者の弱々しい光を霞ませ、揺るぎない存在感を示す。

……今でもまだそういうの、あるの?」
「今はそれほどない。競技から離れたのもあるけど、憧れと自分自身はまた別のものになった気がする」

は緩く繋がれている手を少し揺らすと、大きく息を吸い込んだ。

「健司くん、おばあちゃんの言葉って、それじゃないのかな」
「えっ?」
「言ってたでしょ、最後の言葉の意味がわからないって」

遠い日の憧れを思い出していた藤真は、話がおばあちゃんに急カーブを切ったので体を起こした。指先だけ繋いだまま、はその手を振って言う。

「おばあちゃんは主観と客観のことを言いたかったんじゃないのかな」
「選手の目線だけで、ってところ?」
「現役の頃は知らないけど、今健司くんがバスケの話をする時、いつも外側から見てる気がする」
……そうか」

それは当然現役を引退して、なおかつ今で言えばミニバスチームの指導員なので、プレイヤーとしての自身は意識しないからだ。これがチームの中心でプレイしていた頃ならもバスケットの話はついていけないことが多かっただろうが、外側からの話なので自然に受け取れていた。

「それに健司くんは普通の選手が経験しない監督をやってた時期もあって、選手でもあったし、だけど大学に入ったらまた視点が変わって、そういう変化に対応してきたことで、色んな『ものの見え方』みたいなものが混ざっちゃってたんじゃないのかな」

確かに……と藤真は顎を撫でた。いつでも状況に応じた「ものの見方」に変化していかなければならなかったけれど、それでもいつも自分の視点はコートの中にあった。

「それに、おばあちゃんは観戦専門、いつも鳥瞰でコートを見ていた」
「オレはコートの中から見える景色しか見ていなかった……
「その違いの中に何があるのかはわかんないけど、意味は近付いた気がしない?」

藤真は何度も頷く。おばあちゃんの真意は今となっては誰にも分からないけれど、ぼんやりとした輪郭がちょっとだけシャープになった気がする。指先だけ繋いでいたの手を掴むと、ギュッと握り締めた。やっぱりこの子の「ツッコミ」はおばあちゃんの言葉に似ている。

「今はそれで充分。ありがとう」

過ぎた日に強く憧れたフォーマルハウトの光、それをまたに感じて藤真は頭を下げた。