昔日のフォーマルハウト

2

「すごい、本当にカメラを仕事にしたんだね」
「そ、それは先輩も同じじゃないですか……

その日の夜、は地元駅近くの居酒屋で藤真と差し向かいになっていた。テーブルの上ではアボカドサラダとタコポン酢と刺し身と焼き鳥がハイボールに挟まれている。

襲いかかる黒歴史の記憶に溺れそうになっていたは、その黒歴史本人が突然目の前に現れるという衝撃にむしろテンションが行方不明になってしまい、藤真に「ほら、一学年上のさ、バスケ部でさ、藤真って言うんだけど覚えてない?」などと言わせていた。

が、一応仕事中だ。監督が助け舟を出してくれてざっと事情を説明すると、藤真は今プロ選手を引退したばかりの「充電休養中」なのだそうで、生まれて初めてのアルバイトの合間にこのチームの練習に顔を出しているらしい。黒歴史に苛まれていたと違い、再会が嬉しい様子。

すると彼は躍動感あふれる写真が取れるよう協力をしてくれて、さらに「10年ぶりの再会だし、ご飯でも行かない?」と誘ってきた。彼は確かに黒歴史そのものだったのだが、には10年間抱え続けてきた罪悪感がある。それを払拭できるかもしれない、と誘いを受けた。

それがご飯ではなく酒とつまみになってしまったのは、暑いからだ。

「ああ、あのライヴハウスのイベントか、懐かしいな」
「専門に通っている時にイベントの手伝いを頼まれて、その時に紹介してもらって」

が通っていた専門学校は1年目にグラフィック全般、2年目にカメラかDTPかWEBを専攻できるコースがあり、その2年目でカメラ専攻時代にイベントを主催している地域振興会の担当さんから勧められたのが今の職場だ。は二つ返事で紹介を受け、2年目の秋頃には同期一番乗りで内定を獲得した。

実のところ、の親はまさか本当にカメラを仕事に出来るとは思っておらず、1年目にグラフィック全般を満遍なく学ぶことと、2年目にはマスメディアや出版に関係した座学の授業がしっかり組まれているからカメラ専攻を許可したというのに、娘があっさりとフォトグラファーで就職を決めてきたので、しばらく狐につままれたような顔をしていた。

一方の藤真はこちらも子供の頃からの夢であったプロのバスケット選手になっていた。

「それももう、引退しちゃったけどね」
「引退……怪我とかですか」
「それもあるよ。ここ3年くらい、故障して治ったらまた故障て感じで」

藤真は苦笑いをしつつ、片手を上げてひらひらと動かした。よく見ると右手の小指が少し曲がっている。はそんな苦笑いの頬を見つめつつ、常に黒歴史とともにあった割には18歳の藤真の面影が記憶にないので驚いていた。

確かに目の前にいる人は藤真健司そのものなのだが、朧気な記憶の中の彼よりもずっと大人っぽくて、線が少し太くなって、体が大きくなったような気がする。いや、それは18歳と28歳なら当然の話なのではないのか。それでも18歳の時のキラキラ王子様っぽさがかなり軽減しているので、気後れしない。

「そう、この年でアルバイト初めてなんだよ。ホムセン。結構楽しい」
「まあそうですよね、バイトしてる暇もなかったですもんね」
「大学ならそういう機会もあるかなと思ったりしたんだけど、結局やらずじまいで」

中学を出てからというもの、バスケット以外の世界で過ごしたことがない藤真は、引退という節目に少しのんびり過ごしてみることにしたのだそうな。プロ時代の蓄えが少しあるので、基本週6でアルバイトをしつつ、翔陽時代の知人のコネでアパートを借り、ミニバスチームを手伝ったり、今まで出来なかったことをちょっとずつ体験してみる日々を送っているらしい。

先輩は人生の節目に新たな扉を開いて覗いてみたり、生きる時間のスピードを緩めてみたり、そういうことが出来る人なのか。それはちょっと羨ましい……と思ったは、勇気が挫けないうちに過去の精算をしてしまいたくなった。

「あの、先輩」
「ん?」
「10年前、高校生の頃、色々、すみませんでした」
「えっ?」

がペコッと頭を下げるので、ハイボールのジョッキを傾けていた藤真は目を丸くしている。

「今にして思えば、色々、良くして頂いたと思うんですけど、私はその、失礼なことばかり」
「いいのに、そんなこと。まだ17歳だったんだから」
……私はあの頃、先輩への偏見でいっぱいになってて、それが正しいと思い込むばかりで」

藤真は本当に過去のことは気にしていない様子だが、はせっかくのチャンスなので全部ぶち撒けることにした。たまたま偶然が重なって居酒屋で差し向かいになっているけれど、これを逃せば黒歴史は永遠に払拭されないまま自分を苦しめ続けるだろう。藤真には申し訳ないが、お聞きください。

「あの頃の私にとって先輩は女の子からちやほやされてる王子様キャラでしかなくて」
「まあ、実際そういう扱いはされてたよね……
「そういう人は純真な、天使のような笑顔で平気で嘘をついて人を傷つけると、信じてて」

事実藤真はそんな「天使の笑顔」が出せる18歳だったものだから、余計にの心は曇った。

「あのあと麗さんと永野先輩が付き合い始めましたよね。それで色々有耶無耶になって、先輩たちと会わなくなって、その時はそれでホッとしたんです。これでもうあの鬱陶しい集団から離れられる、私はああいうリア充の仲間みたいなところには入りたくないって、思って」

俯き気味のの視界の端には、頷く藤真の顎が見えた。

「専門はかなり忙しくて、バイトもしてたし、毎日バタバタしてるうちに過ぎてしまって、就職してまたホッとしてたんです。写真が仕事に出来たことも安心したし、地元なので気楽だし、だけどけっこう地味な職場だから、きっと自分のペースで頑張っていけると、思って」

藤真と疎遠になっていた10年間の間で言うと、一番黒歴史を思い出さなかった時期でもあった。編集長は専任の写真担当がいなかったので歓迎してくれたし、専門の先生も一番就活が心配だった生徒が一番乗りだったと喜んでくれた。緩やかに穏やかに質素に、自分に合う環境を手に入れたと思っていた。

「知らなかったとはいえ、そういう地域に密着した仕事というものを、舐めてました。うちのメインの情報誌、裏面はいつも同じ会社の広告が一面に載ってるんです。広告料も一番高くて、だけど毎回その会社なんです。うちの編集部も、この辺の地域も、全部その会社を経営している一族が支配しているような、感じだったんです。江戸時代から続く名家だって話で」

藤真の「ふぇっ」という間の抜けた声に顔を上げると、彼は「江戸時代て」としかめっ面をしている。つい口元が緩んだだったが、構わず続ける。本題です。聞いてください。

「編集部では飲み会とか滅多にないんですけど、その一族の集まりなんかになると、参加させられることが多くて、それだけじゃなくて、うちで発行してる4誌の中身の殆どが、その一族の関係者のお店だったり求人だったりで、とにかくその一族関係の仕事ばかりの毎日でした。いや、今もそうです」

その一族の息がかかっていない企業や店舗はないのかと思うほど、何かしら関係があったり、一族の者が勤めていたり、とにかく編集部はその輪の中から抜け出すことが出来ない状態になっている。当然「最大手のお得意様」でもあるので、それで食っているたちは絶対に逆らえない。

だが、そういうしがらみの中に放り込まれたは、気付いた。

「仕事でそういう人たちと話せば話すほど、先輩に対して持っていた私の考えは偏見で、思い込みで、実際に先輩がどういう人なのかということより、先輩の顔を理由に『実は嘘つきで人を馬鹿にするキラキラ王子様』だと思いたかったんだと気付きました」

未だに昭和を生きている人々の中で翻弄されているうちに、一体あの時どうして親切に接してくれる藤真に対してそんな思い込みがあったのだろうと分からなくなり、しかし遠く過ぎ去った過去のこと、今更後悔をしても謝ることも出来ないと思いながら生きてきた。

……本当にひどい人って、顔とか、仕事とか関係なくて、じゃあ顔でモテるタイプじゃない人はみんないい人なのかって言ったら、もちろんそんなことはなくて、というか顔とか以前に、一体社会にはマトモな人がこんなにも少ないのかと、だというのに、私は――

思い切って顔を上げると、真剣な眼差しの藤真がテーブルの上で手を揃えていた。は背筋を伸ばして息を吸い込むと、深々と頭を下げた。

「本当に、すみませんでした。先輩を、ひどい人だと思い込んでいましたが、それは私でした」
……そんなこと、ないよ」
「いえ、私は――
さんの言う通りだよ。オレは王子様キャラが長くて、それは自分でもよくわかってた」
「え」

今度はが目を丸くする番だった。藤真が勧めるので、冷えたハイボールを口に含む。

「そういう、バスケットと関係ないことで周囲の人たちが騒ぎ始めたのは中学に入ってからで、どうやら自分はかっこよくてモテるらしいと気付いてからはそういう評価に寄りかかってるようなところ、あったよ。謙遜して『そんなことないです、僕なんか』って言えばもっと効果がある。それは自分自身が一番よく分かってた。だけど――

言葉は淀みないが、藤真はしきりと頬杖をついた手で頬を撫でていた。あまり話したことがない感情なのかもしれない。藤真がかつての黒歴史の全てだということも忘れ、も深く頷く。

「だけど、だからって試合に勝てるわけじゃないじゃん。バスケットの世界の中ではオレの顔なんて何の役にも立たなかった。さんと知り合った頃、翔陽はインターハイを逃してドン底になってたけど、オレはまだちやほやされてた経験を引きずってて、さんに対しても自分には不足がない、どれだけアピールしても頷いてもらえないのはさんに理由があると思ってた。女の子は理解できない、どうすればいいんだろう、何をしてあげればさんは頷いてくれるんだろうって」

しかし当時は何をしてもされても藤真という人物を信用していなかったので、結局ふたりの歩み寄りは知り合って数ヶ月で断絶、その後は連絡を取り合うこともなかった。それ以前に連絡先も知らなかった。お互いの進路も、住む場所も、何もかも。

そうして藤真は本当に評価されたいバスケットで大敗した記憶と、にも振り向いてもらえなかった記憶を抱えて大学に進学した。するとそこにはまた彼の顔を見てはしゃぐ人々がひしめいていた。

「なんだか自分が空っぽのような気がしちゃって……大学1年目、鏡で自分の顔を見られなかった」

18歳の藤真はバスケットでの栄光と、を欲していた。それには自身の練習の成果と、生まれ持った容姿が有利に働くはずだった。けれどどちらも彼に微笑むことはなく、練習の成果と顔、その2つを自分の中から排除したら何も残らない気がしたのだ。

ただ、幸い彼の努力は自分自身を見捨てることがなかったので、プロの世界への道を拓くことになった。引退は度重なる故障と祖母の死、そして練習中に新人後輩の秘めた能力に自分の限界を感じたから、だったそうだ。それらがまとめて襲いかかってきたので、潮時なのだと思った。

「不思議なもんで、今ああして子供たちと練習してる時の方が、楽しくてさ。中学からバスケットは『競技』になっちゃったけど、今はただ好きでバスケが出来てる気がするんだよね」

はまたハイボールを流し込むと、大きく頷いた。なんてことだ、わかりすぎる。

「それ、すごくわかります。私も最近は、前ほど写真が好きだと、感じられなくて」
「えっ、そうなの? さっきは全然そんな感じしなかったけど……
…………自撮りとか、アプリ加工が、嫌いなんです」
……さんらしいね」

グラスの中の氷がカラリと音を立てる。藤真はを遮り、ハイボールをおかわりする。

「祖父がカメラが好きで、ほんの小さな頃にフィルムカメラを触らせてもらって、初めて写真を撮った時、魔法かと思ったんです。世界の一部を切り取って時間を止め、写真の中に閉じ込めることが出来る魔法だ、ってそんな風に思って、ずっと私にとって写真は特別なものでした。上手に写真を撮れる人はその魔法が上手な人で、世界を切り取り時間を止められるのは特別な人だけの魔法だと」

ところが、「写真」という文化そのものを根底から覆すデジタルデータの襲来、特別な者のみに許された魔法は誰にでも開かれてしまい、写真というものの価値が安っぽいものになってしまったとは感じていた。その象徴が手軽に盛れる加工アプリと自撮りだった。

「写真家は、フィルムなら1000分の1秒とか、デジタルなら8000分の1秒なんかの一瞬を捕まえます。人の顔を撮るのでさえ、そういう極小のタイミングを逃さない高い技術が必要です。写真は特別な時に特別な瞬間を捉えるものだと思っていたんですが、もう自己顕示欲を満たす手段でしかなくて、アプリ加工は修正や補正の粋を超えてて、嘘だとしか、思えなくて」

酒が入っているせいだろうか、は目の前にいるのが10年ぶりに再会した藤真だということも忘れてまくし立てた。おかわりのハイボールは早くも半分ほどなくなっている。

「今の職場に就職が決まった時には、好きを仕事に出来るなんて最高だと思ったんです。一生これで食っていこうと思ってました。でも、なんだか、写真が私の知っている写真ではなくなってしまって、好きが好きでなくなってきてしまって、気持ちを保てなくなってきて」

今まで誰にもブチ撒けたことのない本音を吐き出してしまったは、その勢いで焼き鳥を掴むと一気に食いちぎった。腹に溜め込んでいたものを外に出したので、体の真ん中に隙間が出来たような気がしたのだ。しかし運悪く掴んだ焼鳥は砂肝。噛み切れなくてゴリゴリやっているに藤真は声を上げて笑った。

そして、傍らに置いてあったスマホを取り上げると何やら操作をし、に差し出した。まだ砂肝をゴリゴリやっていただったが、そのまま覗き込む。そこには試合中と思われる写真が一枚。ボールを片手に飛び上がっている藤真が真ん中に収まり、その背後に浮き上がろうとしている数人の選手がくっきりと捉えられている。汗が飛び散る様まで見えてきそうだ。

「これね、プロ2年目の初戦の写真なんだけど、すごくいい写真だと思わない?」

はまだゴリゴリしながら何度も頷いた。これこれ、躍動感てこれだよ!

「でもみんな顔写ってないでしょ。それでボツになったらしいんだけど、これを撮影した人が、いい写真だと思うのにもったいないから、ってくれたんだ。オレも顔が写ってないのがすごく気に入ってて、こういういいプレイしてるところをブレずに撮ってもらったこと、なくて」

そう、だから「躍動感」なのだ。はやっと砂肝がなくなった口の中をハイボールで洗い流しながら、また何度も頷いた。この写真は藤真健司という人物にフォーカスが当たっているわけではなくて、藤真健司という「バスケット選手」の一瞬を捉えたものに見えるからだ。

「てかこれ内緒ね、現役時代にもらったプレゼントとかファンレターとか、引退した時に全部処分したんだけど、これだけは捨てられなくて。顔とか、試合の結果とかじゃなくて、全身余すところなくバスケットしてるところを切り取ってもらえたと思って。写真てすごいなと思ったよ」

まだ砂肝の余韻で喉が詰まっていたは泣きそうになってきた。先輩、それよ、それなんですよ、写真てそういうことなんですよ、すぐに流れて消えていく連続した時間の中の一瞬を捕まえ、その被写体の真実を引きずり出すものなんですよ、ハイボールおかわりしていいですか!

藤真は笑いながらおかわりをオーダーし、自分も刺し身を食べながら顔を突き出してきた。

「てかさ、さんほんとは何を撮るのが好きなの?」
「ええと、自然ですかね」
「そうなの? ちょっと意外」
「人工物は同じものを撮ろうと思えば、似たようなものが撮れますけど」
「そっか、自然はそうはいかないもんなあ」
「また上手い人って、信じられないくらい奇跡的な瞬間を撮ってくるんですよ……

就職して以来7年、人の顔や建物や料理ばかり撮ってきたにとって、自然現象や動物の一瞬を捕まえてくる写真家の作品を見るたびに、自分はフォトグラファーなのではなくて情報画像調達屋なのではと思えて落ち込んでいた。

だってうちの不動産情報誌、私の撮った写真と不動産屋さんが用意した写真と家主が撮影してきたものが入り混じってるけど、誰も違いなんか気にしてないし、それで契約成立に差が出ることもないし、それって私が撮る必要あるのか。

「あー、分かるなー。自分じゃなきゃダメな理由を考え出すとつらくなるよね……
「専門の時、実技の先生が割とロマンチストだったもんで、その影響もあって」
「わかる、なんで学校ってあんなに夢見てるんだろうね」
「卒業式でも君たちにしか撮れない写真で世界を変えてくださいとか言ってて」
「大袈裟ー!」

ハイボール3杯目で気持ちよくなってきたふたりは指を差し合いながらテーブルを叩いていた。20代後半、世間は未来ある若者と煽り立ててくるけれど、それほど自分たちに価値はないのだと思い知らされる頃だ。中古住宅の間取り写真でどうやって世界を変えるんだよー!

すると藤真は赤くなってきた顔をペロリと撫でると、両手でテーブルのへりを掴んで身を乗り出した。

「てかさん休みとかって決まってんの?」
「一応日曜は。あとは締切の都合で変わります」
「そんじゃ撮影行こうよ! 翔陽ん時の合宿所の辺り、めっちゃ自然あるよ」
「いいすね! 先輩も来てくれるんすか」
「行く行く。リフレッシュしに行こうよ!」
「リフレッシュー!」
「リフレッシュー!」

そうして22時半、ふたりはハイボール5杯で店を出て、「リフレッシュ!」という合言葉で別れた。

翌朝、二日酔いで痛む頭を抱えたがアパートの床を転げ回って悶えたのは言うまでもない。携帯を見ればしっかり連絡先も交換してある。というかなぜか例の藤真ベストショットが待受になっている。なんでだ。

でも、黒歴史、黒くなくなったな。

藤真との「撮影旅行」は次の日曜、らしい。