縒り

08

ふたつめの踊り場に続く階段の最下段、麗はそこに立ち竦んで動けなかった。あの夏の日に危ないと言われたような高いヒールのブーツの足は全く動かなくて、麗はその爪先をじっと見つめていた。

私が悪いわけじゃないのに、私は何もしてないのに、なんで顔を上げられないんだろう。もうずっと会ってなくて、連絡すら取れてなくて、そんなの付き合ってるって言わないんだし、別に久しぶりーって言ってじゃあねーって言えばいいだけじゃん。何でそれが出来ないの。

そんな考えだけで目一杯になっていた麗の目の前に、手が差し出される。

左手は包帯グルグル巻きだけれど、右手は問題ないようだ。驚いて顔を上げた麗の目の前には、あの頃と何も変わらない穏やかな永野の顔があった。頭にはふたりで過ごしたクリスマスに麗が贈ったニット帽が乗っている。

もう麗にはあまりはっきりした思考はなかった。差し出された手に静かに自分の手を重ねると、最後の一段を降りる。途端に永野の顔が遠くなる。手が離れ、ふたりの間には冷たくて淀んだ空気だけが漂っている。

「えーと、元気だった、よな」
……うん」
「ほら、前にSNSとか教えてもらってたから、たまに覗いたり、してたんだけど」

麗は情報収集も兼ねて一通りのSNSアカウントを持っている。頻繁に近況が綴られるのはそのうちのひとつかふたつくらいだが、それでもどのSNSにアクセスしてもある程度の情報を得られるようにはなっている。麗が遠征やらハルトたちと仲良くやっている様やらは筒抜けになっているわけだ。

「その、何かどうしても必要な用があるわけじゃないんだけど、この間の予選で怪我したし、少し休めることになったし、急に時間ができたもんだから、レイちゃん、どうしてるかなと」

だが、ここにきて麗の怒りに火がついた。

「どうしてるかなって、SNS見てて知ってるんでしょ」
「まあそうなんだけど」
「てか何、今更。最後に会ったのいつだと思ってんの?」
「相当前だよな」

永野がぼそぼそと返してくるので、麗はますます苛々してくる。他に言うこと、あるでしょ!?

「高野とかから聞いてないかな、その、だいぶのんびりしたとこに入っちゃって、1年の時からなんだかんだとオレが中心になっちゃって、ずっとかかりきりで――

それも一応知ってる。頑張ってはいるけど、どうもボンヤリしたチームで、翔陽出身の永野は入部時から頼りにされ期待され、まるで高校時代の藤真のようになってしまっている。それは高野から聞いている。だけどそれがなんなんだ。約束が違うだろう。

「私、大事にしてって、言ったよね!?」

こんなに放置して連絡すらないことが「大事」なわけがない。あんたの「大事」って何なの!?

「ごめん、とにかく時間がなかったし、レイちゃんは毎日楽しいみたいだったし、ついこんなに――
……別にいいけど。もうここまで来ちゃったんだし、自然消滅ってこういうこと――
「えっ? 自然消滅って、え? オレたち別れたの!?」
「はい?」

永野の声が裏返る。麗はつい顔を突き出して聞き返した。何だって?

「そ、そうなんだ、別れてたのか」
「いや何その知りませんでしたみたいな顔。この状況で付き合ってるわけないでしょうが」
「ごめん、付き合ってるんだと思ってた……
「ハァ!?」

色々ツッコミたいことはあるが、とりあえず何でだ! 麗の声も裏返る。

「ちょっと待って、もうあと3ヶ月くらいで私たち2年会ってなかったことになるんだけど?」
「それはごめん」
「いやごめんじゃなくて! それ付き合ってるって言わなくない?」
「まあ、確かに会ってなかったけど、オレまだレイちゃんのこと好きだし」
「そういう問題!?」

気まずさは全て吹っ飛び、麗はガンガン突っ込む。何言ってんだこいつ。

「クリスマスとかそういうの出来なかったのは本当に申し訳ないと思ってるけど――
「待て待て、それもとりあえず措いとこう、会わない電話しない連絡もなし、それって付き合ってんの?」
……オレは、そう思ってた」
「だから何で」
「別れようって言われたわけじゃなかったし、さっきも言ったけど、まだレイちゃんのこと好きだから」

麗は呆れてだらりと口を開けたままポカンとしていた。

……レイちゃんが別れたいって言うなら、そうするよ」
「あのさ、いくら部活忙しいからって、連絡ひとつ出来ないって、どういうこと?」
「ええとその、それはつい疲れてたもんで、レイちゃん楽しそうだったし」
「会いたいとか声が聞きたいとか思わなかったの?」
「そんなのいつも思ってたよ」
「だったらどうして!!」

つい大声を出した麗は口元を手で押さえて咳払いをする。

「だってほら、オレも時間なかったけど、レイちゃん色んな所行って忙しそうだったし」
「私のせいだっていうの」
「まさか。だからその、オレの都合で会いたいとか言ってもな、と」
「そうじゃなくて、連絡取り合って都合付けるとかするでしょ普通!」
「そんなのは別にレイちゃんの都合でいいのに」
「ハァ!?」

また声がひっくり返った。麗が目をひん剥いているので、永野は緩く微笑む。

「オレの予定なんて、別に」
「何それ私がこの日がいいって言えばそうするっていうの」
「そう」
「だけど忙しかったんでしょ」
「まあそうだけど、レイちゃんに言われれば何とかして空けるから」

付き合いだしたばかりの頃にもお前は奴隷か犬かと突っ込みたくなるようなことを言っていた永野だったが、今でもそれは変わらないらしい。永野はさも当たり前というような顔で答えている。

理解には苦しむが、永野の主張がわかると、麗はがっくりと肩を落とした。

「てか、SNS見てたんなら、私が何やってたのかなんて全部」
「まあ毎日必ず見てたわけじゃないけど」
「だとしても友達と飲んでるのとかライヴとか」
「おーレイちゃん今日もやってんなーと思ってたよ。オレは旅行とか行かれないから、見てるの楽しかった」
「嘘お」
「いや嘘じゃないけど。この間のとんこつラーメン美味そうだったな」

また麗は肩を落とす。どこまで下僕根性なんだよ。しかし、穏やかな顔で平然とそんなことを言う永野への怒りはもうなかった。彼氏との付き合いというものはこういうものなんだという、麗の常識にはまるで当てはまらなかった、それが永野だったということらしい。

そう思ったら、手放しで可愛がってくれる永野に目一杯甘えていた頃の気持ちが蘇ってきた。

「もしSNSに私が彼氏出来たとか書き込んでたらどうすんの」
「どうしたろうな、うーん、落ち込んだろうな」
「夜中に会いたいって言い出したらどうすんの」
「会いに行くけど」
「試合の日はキャンセルできないでしょ」
「それはそうだけど、一日中試合してるわけじゃないし」
「こんなに会わなかったのに、なんでまだ好きとか言えんの!?」

まるで駄々をこねる子供だ。けれど、どれだけ憎々しげにブチ撒けてみたところで、永野がまったく動じないどころか、割とにこやかに答えるものだから、麗はまた頭に血が上ってきた。

「なんでって言われてもなあ。好きなものは好きだし」
「他にも女いるでしょ!」
「なんでレイちゃんが好きなのに他の女に」
「だからなんで私なんか!」

そうまくし立てた麗の目の前で、急に永野の顔が厳しくなる。それを見た麗はウッと息を呑んで黙った。

「私なんかとか言うなよ。最初の頃、高野にはさんざん高野家の女は問題があるからやめとけとか、色々言われたけど、オレは別にレイちゃんに不満持ったことなんかないし、レイちゃんは割とすぐ自虐っぽいこと言うけど、そんなのレイちゃんが思ってるだけだし、何でっていうけど、しょうがないだろ、好きなんだから」

そして永野はニット帽に手をやり、指を引っ掛けると少し視線を外した。

「それも、レイちゃんが嫌なら、やめるから」

ニット帽がすこし下がって、永野の表情が見えなくなる。麗は一歩足を進めると、ゆっくりと言う。

「私が嫌って言ったら、やめられるの」

ほんの1秒間を置いて、永野は首を振った。

……無理、出来ない」
「ミツル」
「レイちゃんのこと好きなのやめるとか、無理だよ」
「だったら、だったらどうして、どうして会いに来てくれなかったの」

伸ばした麗の手が永野のダウンベストの裾を掴み、ふらふらと揺れる。

「ごめん。それは本当にごめん、だけど――
「私、私もう、ミツルのこと好きな気持まで失くしちゃったのに、もう好きな人もいらないや、ライヴだけあればいいや、レイちゃん好きとか言ってたくせにいつの間にかいなくなっちゃって、そういうもんなのかなって思えるようになってたのに、なんで、どうしてそんなこと言うの、なんでまだ好きとか、言えるの……!」

麗はダウンベストの裾を掴んだまま泣き出した。まるで子供のように上を向いてべそべそと泣き出した。その麗の体を引き寄せて、永野はそっと抱き締める。麗もまた、裾を掴んでいた手を離してギュッと抱き返した。

「私のこと好きなんだったら、私もミツルのこと好きでいられるようにしてよ、ミツルはそれでもいいかもしれないけど、私は会わないのも連絡取れないのも声が聞けないのも嫌だよ、私そんなに立派な人間じゃないよ、ねえ、クリスマスとかバレンタインとかそういう時だけじゃなくて、何もなくても一緒にいてよ、ねえ、私が好きなんだったら、他の男なんか見るなって、ライヴよりオレを選べって、近くにいろって、そう言ってよ……!」

ボスボスとダウンベストを叩く麗の手を取り、包み込む。永野はその手を引き上げて口元に寄せると、音もなくキスする。麗の手も永野の頬も、少し震えていた。

「オレが、好きになっちゃっただけだと思ってたから、そんな束縛みたいなこと」
「私も好きだって言ったよ。ミツルに好きって言ってもらって嬉しかったから、それで、私だって――

泣きべそをかきながら一生懸命話していた麗は、強く抱き寄せられて、そのまま唇を塞がれた。以前の永野とは思えないほど乱暴なキスだった。けれど麗は腕を伸ばして首に縋り付き、爪先立ってそのキスを受け入れた。

「レイちゃん、麗子、もう一回、もう一回だけオレにチャンスをくれないか」
「チャンスって何よ、なんで私が許可するかしないかみたいになってんの」
「だってそうだろ、長い時間放置しちゃったのはオレが悪いんだし」
「バカ言わないで、どれだけ時間無駄にしたと思ってんの、そんなことしてる時間、もったいないから!」
「そう、そうだよな、もったいないもんな」

あの夏の日、ほとんどノリと勢いで付き合うことになってしまった夜と同じ、上からふたつめの踊り場だった。急な階段とぼんやり灯る街灯、無機質なコンクリートの壁と手入れのされていない緑化に挟まれた踊り場で、麗と永野はもう一度始めることにした。

解けてしまった糸が、だけど縒り合わされていた時の記憶の残る糸がまた引き戻されていくように、ふたりは身を寄せ合い、11月の夜の下に佇んでいた。

「おう、丸く収まったか?」
……お前はデリカシーのない親父か」

高野がいるので構わないだろうと判断した麗は、永野を連れ帰った。まだ時間はそれほど遅くないし、父親が先に寝てしまえば泊まってもいいだろう。高野もいれば気持ちが逸ることもないはずだ。そう考えて帰宅した麗は、自室に入るなりそこにいた高野を見て顔をしかめた。

高野は麗の父親に借りたと思しき丈の足りていないスウェットを着て布団に横になり、少女漫画を積み上げ、缶チューハイと乾き物でリラックス、というひどい有様だった。仮にもここは二十歳の女の子の部屋である。

「永野、その手ほんとに大丈夫なんか」
「おいこら昭一、何か言うことあるんじゃないのか」
「あー、オレはやっぱり唯ちゃん派だな」
「ふしぎ遊戯から離れろ!!!」

イラつく麗を永野が宥め、とりあえず3人は高野が買い込んできていた缶チューハイで乾杯することになった。

「だから言ったろ麗、永野ってのは『満のMはドMのM』なんだよ」
「なんだそれ」
「お前らが付き合いだした頃に花形が言ってて、藤真が大喜びしてたネタ」
「あいつら……

呆れているが、あまり酒に強くない永野は既に頬がピンク色になっている。一方うわばみ2匹はほとんど素面。

「いやー、しかしこれでオレも安心だわ」
「何がよ」
「高野家子世代は全滅する予定だったけど、永野、高野家は任せた」
「昭一、あんた叩き出すよ」
「全滅て」

だが、それもあながち間違いではない。麗の姉美佳子を始め、高野家子世代女子は全員結婚願望がなく、唯一の男子昭一は他家へ出たがっている。またしかめっ面をしている麗だが、高野は上機嫌でへらへらしている。

「言ったろうが、高野家の女はちょっとアレ、って」
「いやそれは聞いたけど……

永野が大袈裟なという顔をしているので、座り直した麗と高野は指を折り折り挙げていく。

「まずばーちゃんが男子フィギュアだろ、ここんちの直美が歌舞伎、うちの母親が韓流、もうひとりの伯母が特撮、そこの姉妹の上が声優、下がJリーグ、オレの姉が洋楽、妹がアイドル、麗の姉が俳優、麗はビジュアル系――とまあざっとこんなもんだ」

ばーちゃんと直美は演歌歌手もだなどと話しているうわばみ2匹を見ながら、永野はポカンとしている。

「これも時代だよな、オレらの母親たちは決まり事みたいに結婚したけど、今は別になー」
「ちょっと重症なのもいるしね。どこもそーいうのは望み薄だよね」
「だから麗は奇跡みたいなもんだ。永野、ありがとよ。麗も含め、高野家の子世代女計6人は任せた」
……ああ、そういう、いやいやそれ絶対無理だからな。レイちゃん、嫁に来てください」

親戚5人が一生付いて回るのかと思った永野は震え上がり、何も考えずに麗に向かって頭を下げた。まさかこんなふざけた話の最中にそんなことを言われると思わなかった麗は缶チューハイを吹き出しかけ、余計なことを言った高野を蹴り、永野の頭もぴしゃりとやった。

「今この状況で言うようなことじゃないでしょうが!」
「いいじゃねえか、もうここまできたら。名前だって1文字しか変わらねえんだし」
「そういやそうだな。1文字変わって濁点が増えるだけだ」
「翔陽時代はどっちがどっちとかよく言われたもんだよなー」
「懐かしいなー」
「ふたりともいい加減にしろよ……

すっかり楽しくなってしまった永野と高野の間で、麗はチューハイの缶を握り潰した。だが、楽しくなってしまった高野は動じない。アルコール5%の缶チューハイで既にほろ酔いの永野もあまり聞いていない。

「そうか、オレたち親戚になっちゃうのか。うおー、よろしくな永野ォォ」
「うおお、そうかそうだよな、こちらこそよろしくなァァ」

もう突っ込む気力もない。が、従兄弟と彼氏が楽しそうに喋っている姿は悪くない。間に入りたいとは思わないが、眺めていたいとは思う。麗は高野と頭を下げ合っている永野の手をそっと握り、指を絡めた。

永野は、違う世界の人で、異分子で、混ざり合うことなどないはずの人だった。

それでも彼は麗がいいという。姉御キャラのくせにコンプレックスでいっぱいだった麗を可愛いと言い、好きだと言い、どれだけ離れても時間が経っても、それが変わることはないという。麗への気持ちを捨てることなど出来ないという。それに応えたいと麗は思った。

まっすぐに人を想うということは、もう永野に教えてもらったから。今度は自分でも出来るはずだ。

麗は下らないことでわいわい言っている永野と高野を眺めながら、静かに微笑んだ。

そして、永野の想いの原点がおっぱいであることを麗が知るのは、もう少し先のことである。

END