縒り

06

麗とハルトの「付き合い」というものは、けっして友達の範囲を出ないものだった。というかハルトの言う「友達ゼロ」は音楽業界を離れた場所でのことであり、ただのひとりも友達がいないわけじゃなかった。現役で学生になったのに中途半端に休学したので、復学したら友達と言える人がいなくなっていた、というのが正しい。

そんなものだから、美佳子の言うような「乗り換え」にはなりそうもなかった。それでも当面は音楽業界に用がないハルトはただの学生で、メジャー時代の貯蓄があるからバイトもしないという、恐ろしく時間を余らせている状態だったので、暇さえあれば麗に遊んで欲しがった。

麗もライヴやバイトなどで暇ではなかったけれど、何しろハルトは授業に出る他には何もしていない学生だ。バイトが終わったあとでもライヴのあとでも関係がない。翌日も朝練があるからとあまり遅くなれない永野と違い、ハルトは24時間いつでも都合がつく。麗とハルトが一緒に過ごす時間はどんどん増えていった。

やがて麗もハルトもそれぞれの学校の外での友達を紹介し合い、それは結局音楽関係の友人ということになるので、それが4〜5人のグループに落ち着くと、音楽を真ん中に置いてしょっちゅうつるむようになった。

従って、当然の結果として永野との時間は減り続け、麗の毎日の中から徐々に「彼氏との時間」というものが消えていった。それでも別れるという発想にはならなかったし、普段の生活が楽しい麗、バスケットに夢中で忙しい永野、どちらも時間が減り続けていることに不満は感じなかった。

「あれっ、麗って男いたんだっけ?」
「あーうん、一応ね」
「いやあんたら麗の彼氏見たら腰抜かすから」
「何で?」
「超デカいから」

麗とハルトの出会いから生まれた仲間内での飲み会である。これは暇さえあれば行われることになっていて、この日はライヴ帰りの麗とその友達に合わせて新宿で飲んでいた。翌日が土曜なので、今日はオールコースである。ハルトがメジャー時代によく使っていたこの店は朝の5時まで営業しているので、つい長居をしてしまう。

「超デカいってどんくらい?」
「あー、190とかそんな」
「すげーな。なんか運動とかしてたんか」
「バスケやってた、っていうか今もやってるけど。もっと大きいのもいたよ」
「ああ、なんだっけ、お前の高校バスケ強いんだっけ?」
「そうらしいね」

麗はグラスを傾けながら、ほとんど生返事である。この仲間とは永野たちや翔陽の話をしたくない。世界が違いすぎるし、くどくどと説明するようなことでもないし、伝わるものも伝わらない。それに、このところあまりに永野と疎遠になっていて、本当に自分たちが付き合っているのかどうかすら自信がなくなってきた。

もちろん永野のことは嫌いになったわけじゃない。ただあまりに時間が合わないので、実際に会う機会がほとんど持てないでいる。お互い高校時代のまま実家暮らしだというのに、家を出た高野の方がよく会っているという有様。彼は彼で初めての寮暮らしが疲れるので、たまに帰ってきては全てを投げ出して寝ている。

それに、永野との時間が減るのに比例して、ハルトを含む音楽仲間との時間は増えていくし、そもそもが麗はその世界の人間だし、こうして気の置けない仲間でわいわい飲んでいるのが本当に楽しかった。

最初に少しばかり期待した「向こう側」には今のところ行かれそうになかったけれど、ハルトたちと過ごすうちに、「関係者になってみたい」という願望も薄れてきていた。音楽業界で働きたいわけじゃないし、麗自身は、こうして音楽話が出来る仲間と集まり、好きなバンドのライヴに行かれさえすれば、それで気が済むらしかった。

その上、ハルトに紹介してもらった友人は片足だけ音楽業界に足を突っ込んでいるような人が多くて、得意ジャンルも様々、麗の音楽の世界はどんどん広がって行った。高校生まで邦楽一辺倒だったけれど、最近は洋楽にも触れる機会が増えて、麗の部屋のCDラックは崩落寸前だ。

繰り返すが、永野のことはもちろん好きだ。自分のことを好きだと言ってくれた唯一の人で、それは今でも感謝しているし、彼との関係を終わらせたいなどとは思っていない。

ただ、どうしても永野は「違う世界の人」だった。そして、会えない。時間が、合わない――

気が向くと帰省してくる高野だが、長期休暇でももちろん帰ってくる。インカレの予選も終わり、冬休みに入って疲労困憊で帰ってきた彼は、自宅がうるさいと言って麗の方の高野家に逃げてきた。この年末年始は麗と美佳子しかいない上に、その美佳子も日中は出かけているのでほぼ麗ひとりだ。静かでいい。

「てかお前もライヴかなんかじゃないのか」
「カウントダウンは行ったよ。けど今年は年明け何もないからなあ」
「いつもの仲間とかいうのはどうしたよ」
「みんな帰省してるよ。やっぱ正月は実家が楽なんだって」

それには同意だと言いたげな顔で、高野はこたつに顎を乗せている。

……永野はどうしてんだ」
「今年は田舎帰ってるはずだけど。ひいおばあちゃんが危なそうとか何とか」
「おいおい、付き合ってんのにずいぶん情報弱いんだな」

責めるような口調ではなかった。珍しいことを聞いて、それを面白がっている風でもある。

「時間、ないからね」
「まーなあ、まさか永野があんな風になるとは思ってなかったしな」

みかんを引き寄せた高野はニヤリと唇を歪める。高野もそうだが、永野の進学先もそれほどバスケットの強い大学ではなかった。藤真や花形が進学していった先に比べたら、部員数も少ない。だが、そのせいで永野は今やチームの中心、頼れるルーキー、期待の星。

そのせいもあって、永野は余計に忙しくなってしまったというわけだ。それほど上下関係にうるさくないチームのようで、仲もいいという話だし、彼も彼で部を離れても仲間たちと過ごす時間が多くなっていた。

「でも、たまには会ってるんだろ」
……もう全然会ってない」
……そうか」
「自然消滅って、こういうことなのかねー」

みかんをモソモソと食べている高野の方を見もせずに、麗はソファにひっくり返って携帯の画面を眺めていた。

「最後に電話したの、11月だもん」
「ま、そーいうこともあるさ」

高野はそう言って鼻で笑ったが、ふと顔を上げると、少しだけ遠い目をした。

「麗、永野ってやつはさ、まっすぐでさ、自分の目の前しか見えないようなやつなんだよな」
「そんなの、みんな同じじゃないの。私だって自分の見える範囲が精一杯――
「あいつは、オレたちと違って、よそ見できないんだよ」

少しだけ高野の声が低くなった気がして、麗は首を捻った。高野はまだみかんをモソモソ食べていて、表情はぼんやりしたまま。ただ目だけが遠くを見つめていた。

「どういう、意味よ――
「んー、オレもよくわかんねえ。ま、好きにしなよ。男は永野だけじゃないんだしな」

ずいぶん上から目線で物を言われたような気がして麗は少しカチンと来た。しかし、それを言い返すのは面倒くさかった。あれだけしょっちゅう一緒に過ごしていた高野や永野たち翔陽の仲間5人も、進学先がバラバラになり、今ではほとんど連絡を取っていないという。

程度の差こそあれ、今では全員「対戦相手」であり、乱暴な言葉を使えば「敵」なのだと高野は言う。

もちろん麗も、卒業してからもずーっと友達だよ! なんてことは限られた時期の「ノリ」であることはわかっている。だから高野の言うこともよくわかる。ただの友達より長い時間を一緒に過ごして団結して努力してきた彼らも、所属が変わればそれまで。今日の友は明日の敵。

時間とともに移り変わって、自然消滅していく――それが当たり前なんだ。

朱に交われば赤くなり、郷に入れば郷に従わなければならない。そうやって自分を変え、自分の環境を変えていかなければならない、社会で生きるとはそういうもの。麗はそんな現実を突き付けられたような気がしていた。

麗はまた携帯の画面を見てため息を付いた。

電話は11月から途絶えているが、一応メッセージのやり取りはある。しかしそれも、1日2日と隙間が長くなっていって、今麗が見ている履歴は12月27日のものだった。田舎に帰る、まさかとは思うけど、もしかしたら電波が届かないかもしれない――そこで途絶えている。

その前は、12月24日。12月20日に永野の祖母の容態が急変、永野家は予断を許さない待機状態に置かれることになり、麗は麗で22日の深夜にバイト先の仲間が集って家飲み中に一酸化炭素中毒で搬送され、ただでさえ年末で人が少ないところを直撃、どちらもクリスマスどころではなくなってしまった。

来年のクリスマスも絶対に一緒に過ごそう――そう思っていたのに。

ふたりともそれを「しょうがない」とした上で、麗は「行きたいレストランがあった」と悔し紛れに繰り返し、永野は「クリスマスじゃなくてもいいなら、時間ができたら行こう」と返した。けれど、今のところそんな予定はない。というか、お互いに相手の予定を把握していない。

少なくとも麗は永野に予定を聞いてからスケジュールを立てる、なんていうことはしていない。

永野も聞いてこないし、自分の予定を知らせてきたりもしない。気にしなくていいということか。気にならないってことだろうか。いつどこで麗が何をしていても、それはもう「しょうがないこと」で、つまりそれは「どうでもいいこと」なのかもしれない――

年が明け、ふたりが会えたのは、それから1ヶ月以上後のことだった。バレンタイン。だがそれもほんの2時間程度のことで、麗はライヴがあったし、永野は先輩に呼ばれていた。先輩には彼女がいることを話してあるので、半分邪魔のつもりらしいが、とにかくふたりは外で少し喋っただけで別れた。キスどころか、手も繋がなかった。

しかしその後、バレンタインがあったのだからホワイトデーも、とはいかず、とうとう祖母が亡くなった永野は田舎に行ってしまい、麗は普通にバイトをしていた。後日、葬儀から戻った永野がホワイトデーのお返しを渡したいと連絡してきたけれど、その時麗は春休みド真ん中で遠征中、この時は大阪にいた。

結局ホワイトデーのお返しはなぜか高野経由で麗のもとに届き、麗はまた高野から上から目線風に「手に余るならなんとかしろよ。オレを使うな」と言われてしまった。そんなことは永野に言ってくれと返したけれど、高野の顔をまっすぐ見られなかった。手に余ってるなんて、思いたくなかったからだ。

やがて新学期を迎え、麗たちは進級。また新しい年度が始まった。

相変わらず永野との時間は取れず、麗の日々というものはバイトとライヴとハルトたち音楽仲間で埋め尽くされており、ようやく寮生活に慣れてきた高野の帰省頻度も低下したせいで、ますます永野の影が薄くなっていった。

ハルトの存在がそうさせてるんじゃないの、と美佳子はニヤニヤしていたが、ハルトも最近彼女が出来たので、以前ほどは密な付き合いではなくなっていた。むしろ麗を永野から引き離していたのは、大学生になってから覚えた「遠征」である。

ビジュアル系だライヴだバンギャだと言っていても、高校生までの麗はきちんと学校に通い部活もし、それらはあくまでもその合間にあったものに過ぎなかった。ライヴも関東、それも東京神奈川千葉埼玉しか行ったことはなかった。けれど学生になり、アルバイトで金を得た麗は、関東を飛び出した。

高野家は女どもが好き放題「追っかけ」をしている家系なので、家族ごとや親族まとめての集まりというものは特になく、たまたま麗の方の高野家に落語という共通点があるくらいで、麗たちは旅行などの経験があまりなかった。それは昭一の方の高野も同じで、彼の場合はバスケットのせいで旅行など10年以上していない。

そんな麗にとって、まだ見ぬ街へ自分のアルバイト程度の金で旅立つということは、とても刺激的で興奮することだった。そのテンションを抱えたままライヴを観れば、余計に楽しい。ライヴの後に現地のグルメを楽しむのも、新幹線や飛行機の距離に友人ができるのも、全てエキサイティングだった。

自分の家族も、従兄弟も、地元も、翔陽も、そして永野も。それら全て狭い世界の些細なことに感じた。

従兄弟や彼氏は狭い体育館の中でボールを投げている。自分のスケジュールには日本全国の都市の名が踊る。友達が増える知り合いが増える経験がどんどん増えていく。経験値はイコール、人としての厚みである。どれだけ分厚くなっても困らない。それはプラス、成長、上昇、ステップアップ。

「向こう側」の人間だったはずのハルトすら、霞んで見えてきた。ハルトは彼女の実家の跡継ぎがいないと知り、結婚してそこを継ぎたいなどと漏らすようになっていた。

「実家って、何やってんの」
「旅館」
「旅館? 若旦那になるっての?」

元々ハルトは観光業界に興味があったとかで、バンドに熱中してしまう前は旅行代理店勤務を目指していたという。まあ、旅館なら多少は近いと言えなくもない。だが、麗は少し呆れた。彼女と言ってもまだ数ヶ月の付き合いだというのに、なんで婿入りする気になってんだ。ギターはもうどうでもいいのかよ。

「だから、オレ別にメジャー行きたくてギターやってたわけじゃないし」
「すっぱりやめちゃっても平気なん?」
「旅館で働いてたらギター弾いちゃいけない、ってわけじゃないだろ」

仲良くなるにつれてTwineの事情もだいぶ出てきた。ユータに見出されたTwineだが、ハルトともうひとりのメンバーによく相談もしないでデビューに頷いてしまったのは、例の海外にいるというボーカルだった。つまり、Twineはボーカルの独断でメジャー行きが決定してしまい、ハルトたちは渋々従っていただけだった。

ちなみにそのボーカル、所属事務所の役員の元アイドルの奥さんに手を出して海外逃亡中。現在地不明。

……楽しかったけど、ああいう世界は、速度が早くて」
「速度?」
「オレは海でも見ながらのんびりギター弾いてる方がいいよ」

まだ22かそこらで何を年寄りみたいなこと言ってんだ。麗はまた呆れ、しかし現役でないハルトのこと、就活もせずに身の振り方が決まるならそれでもいいのかもしれないと思った。

「麗は最近なんかアクティブだよな。ちゃんと家帰ってるのか?」
「普段は帰ってるよ、遠征ったって何泊もしてくるわけじゃないんだし」
「てか彼氏どうしてんだ」
「あー、なんか自然消滅したっぽい」

目の前に広大な世界が開けた麗は、とうとう永野を好きだと思う気持ちすら失くしつつあった。何しろもう数ヶ月会っていない。メッセージのやり取りもたまにしているけれど、会っていないのでとにかく用がない。共通の話題もない。近況報告と言っても、向こうはバスケ、こっちはライヴだ。報告する意味はない。

それをグズグズ言う気持ちもなかった。しかし、あっさりと言い放った麗に、ハルトは苦笑いを返してきた。

「麗あ、それちゃんと確認した?」
「確認ったって、ねえねえ私たち別れたの? って聞くかフツー」
「まあそうだけど、麗さん割と目の前のことに夢中になると走ってっちゃう人だから」

ハルトの「麗さん」という呼び名にぎくりとした麗だったが、高野のように上から目線ではっきりしない物言いをされた気がして、直後にカチンと来た。そりゃ3つほど年上だけど、なんで諭されなきゃいけないの。それが顔に出てしまったかもしれない。ハルトはまた苦笑いをして、短く息を吐いた。

「修復可能なら大事にした方がいいよ。そういうのって、望んで手に入るものじゃないんだから」

「大事にして」――また遠い日の記憶が蘇ってきた麗は、もう不愉快に感じていることも隠そうとしなくなった。そうだった。大事にしてって言ったのに、あいつはそれを放棄したんだ。ずっとずっと、私を放置して――

これ以降、麗はハルトともあまり会わなくなった。「向こう側」の世界の住人だったはずのハルトは狭い世界に閉じこもり、一時は毎週のように行われていた仲間同士の飲み会にも出てこなくなった。もちろん彼女を優先してるんだろう。それならそれでいい。

ほら、こうして全ては時間とともに移り変わって、自然消滅していく――それが当たり前なのだから。