縒り

02

それについては賛否両論あって然るべきだが、とりあえずのところ、永野少年は胸の大きな女性が好きだった。要するにおっぱいフェチである。それもガリ巨乳ではなく、全体的に肉々しいのがいいというタイプ。顔に関してはそれほどこだわりはない。女の子なら割と誰でも可愛く見えるという得な感性の持ち主だ。

そんな永野少年の前に突然現れたのが、チームメイトのいとこだという麗だった。

髪はロングのツーブロックで耳には穴がいっぱい開いているし、性格も姉御肌で気が強いが、何しろおっぱいである。その上肉付きも良く、顔から立ち振る舞いから声まで色っぽいというおまけつき。

その麗にチョークスリーパーをかけられて以来、永野が麗に惹かれているらしいことは、バスケット部3年スタメンの間ではよく知られていた。というか、チョークスリーパーをかけられた永野の顔を見て全員「落ちたな」と思った。何しろこの時後頭部とうなじにおっぱいである。

だが、誰も永野本人にはそのことを突っついたりはしていない。まさか「お前おっぱいが目的で麗が好きなんだろう」とは言えないし、けれど何がきっかけで好きになってしまうかなんて人それぞれだし、少しだけなら永野の気持ちもわかるので、生温く見守りたいと思っている。

そして影でこっそり「満のMはドMのM」と言うネタで喜んでいる。永野の名前はミツルという。

というところに降って湧いた送り騎士のお役目である。人よりおっぱいに魅力を感じる永野にとって、ショールを羽織っているとはいえ、ベアトップの麗さんなど放り出したら即拉致られてしまうんじゃないかと思える。本人は疑問に感じているようだが、その点は譲れない。

「もうちょっと頑張れスタメン」
「これが限界」
「そんなことじゃまた負けるぞ」

満員電車の中、永野は必死に腕をドアに突っ張って麗のために隙間を作っている。が、麗ひとりのために他の乗客に迷惑になるようなことも出来ない。極力麗には密着しないような距離を保っているが、それも限度がある。

麗は永野が頑張っているので、それが楽しいらしい。電車が揺れてぺたりとくっついては笑い、酔っ払ったオッサンにデケえだの邪魔だの言われては笑い、しかし永野の方も麗にからかわれても全く気にならないらしく、まさに「満のMはドMのM」になっている。

一駅乗ってすぐ下りたふたりは、改札へ向かって人の波に飲まれる。またベアトップの麗さんが心配でならない永野は、怒られたら離せばいいや、と手を取って繋いだ。麗は気にならないようで、むしろ永野を盾にして人の波を避けている。

「ここからはバス?」
「今日は歩き。自宅方面バスの最終が恐ろしく早いんだ」
「遠いのか?」
「そうでもないよ、15分位かな」

自宅を知られるのは嫌がられるかと思った永野だったが、麗はそれも気にならないらしい。麗は手を引いてくれる永野に大人しくついてくる。改札を出ると左を麗が指差し、永野はそのまま駅を出る。駅にひしめく乗降客は駅舎を出るとどこかに消えてしまったみたいに散らばっていく。

「帰り道覚えとかないとな」
「ここまででもいいのに。駅までは上り坂だから時間かかるよ」
「そのくらいで音を上げてたら翔陽でスタメンにはなれないよ」

あくまでも自宅まで送るつもりらしいので、麗はもう諦めた。送ってもらうのは嫌ではないし、話し相手がいるのは楽しいけれど、そんなことをしてもらう理由がないと思っていた。それでも本人がやりたいというのだから、もう突っ込まないでおこうと決めた。

麗の自宅はゆるい下り坂の駅前の通りを延々歩き、国道と交わるところでUターン、長い階段を降りた先にある。国道付近は住宅が少なく、薄暗い階段を降りて初めてびっしり詰まった家が立ち並ぶ地域に出る。自宅から駅に向かう時は階段が面倒くさいので、少し遠回りのバスに乗るのが普通だ。

そのバスがない時間は歩き。ゆるい下り坂なので楽だが、とにかくひと気がなくて暗いので、確かに麗のようなのは危機感も足りないし非常に不用心であると言える。だが、

「去年の話だけど、なんか暗そうなヒョロい男に抱きつかれたんだよね」
「えっ、大丈夫だったのか」
「それがライヴの帰りで、汗のせいで黒い涙に口の横から血糊たらしてて、向こうが悲鳴あげて逃げた」

永野も思わず吹き出す。深夜にそれでは、そりゃあ怖かっただろう。

「何日かして同じ所を通ったら『不審者出没注意』とか看板がかかってて、私かよ! っていうね」

襲われた方なのに不審者扱いしてんじゃねえと当時の麗は憤慨したものだ。だが、直後に現場写真付きでSNSに投稿したら友人たちに大好評だったので、すぐ機嫌が直った。

「そういう時はそれでいいかもしれないけど、今日みたいなのは危ないんじゃないの」
「んー、そうなのかなー。今まで何もなかったから気にしてなかったけど」
「親とかうるさく言わないのか」
「ま、そこはね。うちはみんな帰り遅いし、あんまりベタベタしない家だから」

というか高野家はだいたいどこもそんな感じなのである。永野はそれには思い至っていないけれど、従兄弟の昭一の方の家も割と個人主義というか、それぞれが好きなことをやっている家だ。

「永野ん家はどーなの。普段バスケばっかりで急に遅くなったりしたら怒られない?」
「怒られはしないけど……まあ今日はバスケ部と一緒だし、そもそも男だし」

と言葉を濁しているが、永野は遅くに出来た一粒種で、彼の両親はそれはもう一人息子を大事にしている。が、彼らは息子が高校生になったのを機に態度を急変させ、あくまでも大人として接している。最初は戸惑った永野も、今では両親の意図がわかってきたので、自覚を持って生活するよう心がけている。

「まあそーだよね、あんたたちを襲ってなんかしようとは普通思わないよね」

麗はショールをかきあわせてケタケタと笑った。今日の5人は藤真以外全員身長が190センチ以上ある。同様の体か格闘技の心得でも持っていない限り、1対1で挑もうとは思わないだろう。

緩く長く続く下り坂を歩いていたふたりは、国道に交わる手前で歩道を折れてUターンする。くるりと方向転換をすれば、踊り場をふたつ挟む急な階段がかなりの長さで続いている。しかも照明が少なくて暗い。

「おいおい、ここをひとりで帰ろうと思ってたのかよ。危ないな」
「しつこいな。これだけ急で長いから使う人も少ないんだけどね」

永野の感覚で言えば「超ハイヒール」のサンダルを履いている麗は余計な危なっかしく感じるが、「12センチヒールは普通」の麗はトントンと軽快に降りていく。永野は2段ほど先を行き、いつ麗が転んでもいいように少し手を浮かせていた。が、麗は足元も見ないのに結構なスピードで降りていく。

「自宅のすぐ近くなんだし、慣れてるからね」
「そうだけど、なんか怖いから。そのヒールと階段の組み合わせ」
「ま、実は一番下だけはちょっとアレなんだけどね」

最初の踊り場に降りる最下段に来たところで、麗は真横にずれて手すりに掴まり、スカートをたくし上げるとぴょんと飛び降りた。永野が改めて見てみると、確かに最下段だけそれまでより高さがある。

「だもんで、特に子供とかお年寄りは使わないんだ、ここ。途中ベンチとかあるから溜まり場になるんじゃないかなんて言われてたみたいだけど、真下に降りてすぐに交番あるしね」
「けど、横に引きずり込まれたら交番間に合わないだろ」

階段の片側はコンクリートの壁、反対側は斜面に沿って手入れの行き届いていない緑化の雑木林がある。それほど広いわけではなさそうだが、真っ暗で、永野の言うように引きずり込まれたら外からは見えない。

「こだわるねえ」
「こだわるっていうか、麗さん自覚ないみたいだから」
「自覚って?」
「え、いやその、つまり、充分危険な目に遭う可能性のある状態というか」

まさか「そのおっぱいでベアトップとか襲ってくださいって言ってるようなものだろ」とは言えない。

「そうかな。別に細くないし、顔も可愛いわけじゃないし、頭もこんなんだしねえ」

麗が挙げた理由は全て関係ないと思ったが、永野はこれも黙っておく。そして、それら全て、永野にとってはマイナス点にはならないのである。彼にもまだ「麗が好き」というほどの自覚はなかったのだが、彼女の言葉を否定したいという気持ちとともに、薄っすらとイメージが湧いてきた。

「ま、麗さんは可愛いというより綺麗だもんなあ」
……何も出ないけど」
「そういうつもりじゃないよ」

普段から姉御キャラの麗は、突然そんなことを言われたので面食らい、照れるより以前に不快に感じた。永野の方は言葉にしてしまったら気持ちが乗ってきてしまい、彼女のことを「うらら」と呼んでいるのが不思議に感じてきた。確か本当は麗子ちゃんだったはずだ。

「てか、なんで『うらら』なんだ? 名前、好きじゃないのか」
「あー、ええとそれはなんていうか、ペンネームみたいなもので」
「ペンネーム? 漫画描いてるとか?」
「いや描かないよ、ペンネームてのは例えで、芸名みたいなものというか」

つい立ち止まっていた踊り場を後にし、またふたりは階段を降りる。麗はライヴやイベントの際に本名をもじって「うらら」と名乗っていることをうまく説明できない。一応ライヴネームという表現は可能だが、それが永野には確実に伝わらない気がする。というかそれを具体的に説明するのはけっこう恥ずかしい。

「ふーん。じゃあみんな何かしらそういう名前で呼び合ってるのか」
「まーね。私なんか本名由来だし、地味な方だよ」

とは言え、最近は本名が既に中2臭いお嬢さんが増えていて、名前の定義が混沌としてきている。ただ、同世代の中でも「子」のつく名前が少ない麗にとって、本名の「麗子」は少しだけ古臭い名前だと感じていた。自分で自分を命名するセンスがないと思った麗は、「麗」の字が「うらら」と読めることを知ったその時から、ライヴネームを「うらら」と決めた。

さすがに親には麗と呼べとは言えないけれど、例えば姉や従兄弟の昭一はもうすっかり「うらら」呼びに慣れていて、親世代に突っ込まれると、あだ名なんだと適当に誤魔化した。

また最下段に到達した麗は手すりに手を伸ばそうとしたのだが、今度は目の前にスッと永野の手が出てきて止まった。先にふたつめの踊り場に降りていた永野はなんでもないという顔をして手を差し出している。

……大丈夫だってば」
「飛び降りたら危ないよ。靴も不安定だし、捻挫したら大変だから」
「慣れてるから平気だって。骨も太いし、平気平気」

その言葉がなんとなく面白くなかった永野は、一歩進み出るとさっと手を伸ばして麗の脇腹に手をかけ、持ち上げた。急に足元が浮いた麗は短い悲鳴を上げ、慌てて永野の肩をぎゅっと掴む。

「全然重くないじゃん、何言ってんだ」
「何言ってんのはあんたの方でしょ、重くなくないから降ろしてよ」
「大丈夫だって言ってんのに」

永野は麗を持ち上げたまま階段を離れ、踊り場のベンチの脇にある花壇の枠に彼女を乗せた。コンクリートの枠とヒールで、麗は永野を見下ろす高さになる。しかしまだ永野の手が脇腹にあって、なぜか無言で見詰め合っていて、麗は混乱してきた。

「麗さんは重くないし、可愛いし、本名も古臭くなんかないよ」
「ちょ、え、何言ってんの!?」
「だからこんな夜道、ひとりで歩いてたら絶対危ない。もう少し自覚持ちなよ」

少しだけ目や顔を逸らして見慣れた景色を見れば、自分の中に渦巻く混乱を振り払えるのはわかっていた。けれど麗はどうしても永野から目を逸らせなくて、その上、唇が震えてきた。耳に鼓動の音が響き、体中を巡る血液のスピードを感じるような気がする。

なんで私こんなドキドキしてんの、なんで何も言い返せないの、何か言わなきゃ、こんな気まずいのやだ、だって永野だよ、昭一の仲間の、バスケ馬鹿の、趣味なんかかすりもしない、そういうやつなのに――

じわじわと麗の顔が赤くなっていくのに気付いた永野は、距離を縮めて見上げる。

「麗さんもいいんだけど、その、レイちゃんて、呼んだら、ダメかな」

麗はまるでアニメのように髪の毛が逆立ったような気がした。頭の中には何言ってんだこいつという文字が飛び交っているのに、口から音になって出てこない。そんなの無理って言わなきゃいけないと思えば思うほど、唇は固く重く閉ざされて、うまく動かない。

「な、なん――
「えーと、つまりその、麗さんのこと、好きなんだよね」

さすがに照れくさかったらしい永野はつい目を逸らした。言葉で自覚が出たのは本当についさっきのことだったけれど、その気持ちが生まれたのはもうずいぶん前のような気がしている。

振られるかもしれないとか、罵倒されるかもしれないなんていうことは考えていなかった。というか今この状態にあっても、付き合って欲しいとまで思っていなかった。麗は可愛い、重くない、そんな麗が好きだから、本当の名前に近い「レイちゃん」て呼びたい。ただそれだけだった。

一方、麗の方は一瞬で思考が火花を散らして弾け飛んだ。初めて男の子に好きと言われたからだ。

永野なんてもちろん好みじゃなかった。麗の好みは長めの黒髪でベースかギター、構えが低くて職人気質のミュージシャンである。同い年の世界が狭いバスケット少年なんか、天地がひっくり返ってもありえないはずだった。けれど、ひっくり返ったのは天地ではなくて麗の方だった。

頭の中は真っ白、チカチカと火花が飛んでいる視界を強制的に閉じた麗は、照れている永野に飛びついた。本人的にはかなり勢いをつけて倒れこんだと思っていたが、永野はビクともせずに彼女を受け止め、少し間を置いてからぎゅっと抱き締め返してきた。

永野のことを好きだとは麗も思わなかった。だけど、好きだと言われたことが嬉しくて嬉しくて、そして薄いショール越しに触れた永野の肌が温かいのが気持よくて、言葉もないままくっついていた。

「レイちゃんて、呼んでも、いいかな」

耳のすぐ近くでそう言われた麗は全身に痺れが走り、すぐに頷く。なんと呼ばれようが、これっぽっちも好みじゃなかろうが、そういうのはとりあえずいいや。麗の思考はそんな状態になっていた。

……レイちゃん」

照れくさそうな嬉しそうな声でまた永野が囁くので、ぞくりと全身を震わせた麗は顔を上げた。ものすごく近くに永野の顔があった。やっぱり好みじゃない。かっこいいなんて思わない。今一番の推しメンの方がキュンキュン来る。なのに、ゆっくりと近付いていって、いつのまにかキスしていた。

麗のファーストキスは、本人認定によれば、幼稚園の時に同じクラスだった男の子である。だが、その次のキスは15歳の時に女の子相手だった。バイ・セクシャルでキス魔を自称する2歳年上の女の子で、ライヴで知り合う可愛い女の子の唇を片っ端から奪う趣味があった。

一応男の子相手のファーストキスは幼稚園の時に済んでいる。そう自分に言い聞かせた麗は、以降男女誰でもキス出来るようになった。けれど、その誰一人として好きではなかったし好きとも思われていなかった。

そうして今、理由なんかよくわからないけど、なぜか従兄弟の仲間が自分のことを好きだなんて言い出して、まったくもって好みなんかじゃないのに、キスをしている。しかし、幼稚園の件などをノーカンにしてもいいなら、これを一番最初のキスにしたいと思った。

自分のことを好きと言ってくれた人とのキスを、一番最初のキスの記憶にしたいと思った。

……永野って、名前、なんていうんだっけ」
「満」
「そっちで呼んでもいい?」
「なんでも好きなのでいいよ」
……ミツル」

言ってみたら途端に唇がムズムズして、カーッと頬が熱くなる。ただでさえ熱い夏の夜なのに、沸騰して溶けてしまいそうだ。それを持て余した麗がまた顔を近付けると、永野が静かにキスをしてくれる。花壇の枠から降りようと足を出せば、また抱き上げて下ろしてくれる。

「今度、こっち」

途端に永野を見上げる状態になった麗は両手を掲げて差し出した。いくら12センチヒールでも少し爪先立つ必要があったけれど、今度は上からキスが降ってきた。

「レイちゃん、ええとその、これって――
「そっちが言い出したんだからね」
「そりゃそうだけど、彼女になってくれんの」
「でなきゃチューなんかしないでしょ」
「そっか。……ありがとう」

ぎゅっと抱き締められるのも心地いい。麗は色んな意味で暴れたくなっていた。

「私、わがままだよ」
「そんな風に見えないけど」
「可愛くないし」
「オレは可愛いと思ってるよ」
……大事にしてよ」
「うん。大事にする」

もう一度首を伸ばした麗は静かなキスを受けながら、永野の温かい腕に包まれて、しばし全てのことを忘れた。学校や家族や友達やライヴや、受験のことすらも。