縒り

05

麗がビジュアル系に目覚めたのは、小学5年生の時だ。たまたまローカルチャンネルに回したらビジュアル系バンドのPVが流れていて、自分の生きる世界はここだと確信した。

とはいえ小学生の身では、ネットで動画を見てみたり、オフィシャルサイトを覗いてみるくらいが関の山だったし、友達にもビジュアル系バンドがいいなんて言い出す子はいなかった。だが中学に入学して数日、部活紹介のデモンストレーションで見た演劇部が、劇中音楽として麗が気になっていたバンドの曲を使っていた。

そんなわけで麗は迷わず演劇部を選び、そして既にどっぷりとビジュアル系バンドにハマっている先輩と、麗と同じように仲間を求めて入部してきた友達を手に入れることになった。そこから麗のビジュアル系ライフは加速していった。初めてホールのライヴに行ったのも、この3人でだった。

最初は何を着ていけばいいのかもわからず、必死で貯めた小遣いの中から何とかそれっぽい服やアクセサリーを見繕い、先輩と友達とオロオロしながら見に行った。けれど、ライヴが始まった瞬間、全ての緊張が興奮に変わり、気付いた時には終わっていた。耳が遠くなって、ぐわんぐわん鳴っていた。

この瞬間のために生まれてきたのだと思った。

その辺りから始めたSNSでも徐々に友達が出来、仲間がどんどん増えていく。先輩は大人しい人だったので、癒し系ポジションだった。友達はとても可愛い子だったので、姫ポジションだった。ここも女社会だが、自身の家も女系の麗は、自然と姉御ポジションに落ち着いた。

しかしその同中仲良しトリオは麗が翔陽に進学したあたりで破綻した。高校生になったのでライヴハウスに行くようになった可愛い姫ポジの友達が、さっそくどこかのバンドのメンバーと付き合いだしたからだ。

麗は、姫ポジの相手が裕福な家の学生だったので、いい加減な付き合いなんじゃないのかと心配して逆ギレされた。先輩は、嫉妬で豹変してしまった。そんなわけで仲良しトリオは分裂、友達は彼氏にベッタリ、先輩はヘソを曲げて連絡を絶った。けれど、ふたりがいなくても麗にはもう既にたくさんの友達ができていた。

以来姉御ポジのまま、麗はビジュアル系ライフを存分に満喫していたわけだ。だいたいいつも一緒にいる仲間は、元気な子と気弱な子の割合が4対6程度となっていて、麗の「姉御ポジ」もどんどん加速した。大胆で媚びなくてグズグズ言ったりしなくて、頼れるお姉さん。いつの間にかそういう女の子になっていた。

しかしそれは、あくまでも仲間内での「麗というキャラクター」だった。いつでも自信に満ち溢れているように振舞っていたけれど、自信なんかこれっぽっちもなかった。そこには中学時代のふたりの友人を失ったトラウマがあり、古臭いと感じていた名前があり、好きなバンドのメンバーより太い体があった。

それを全て取り払ってしまったのは、ほどんど異次元から現れたような永野だった。

永野は「レイちゃんは友達がたくさんいて大変だろうけど、そういうのは大事にした方がいいよな。オレ、バスケ離れたら友達少ないし」と言っては笑い、ふたりきりで盛り上がっている時は本当に幸せそうな声で「麗子」と呼び、麗を「可愛い」と言い、麗の体を「きれい」と繰り返した。

永野と比べると、麗の体は本当に小さかった。身長はもちろんのこと、手のひらだって子供と大人かと思うほど差があったし、何より永野は麗を軽々とお姫様抱っこしてしまったのである。永野の前では、という前提は付くけれど、もう麗が「姉御ポジ」でいる必要がなくなってしまった。

あまり理解の及ぶ感情ではなかったにせよ、とにかく永野が手放しで可愛がってくれるので、麗も思うまま甘えたし、ふたり一緒の時は卑屈な自分を全て忘れたし、永野を好きだと思うのと同じくらい自分のことも好きになれた気がしていた。

やがて麗の受験が終わり、ふたりは揃って春から県内の大学生になることが決まった。この頃の麗と永野はかなり仲の良いカップルで、自分たちでも相当ラブラブなんだと自覚できるほどになっていて、割と近い距離でそれを見ていた高野が苦笑いするしかないような状況だった。

それは翔陽を卒業しても、それぞれの進学先に入学しても、変わらなかった。少なくとも、最初の2ヶ月ほどは変わらなかった。そしてこの先もずっと変わらないのだと、この頃のふたりは信じていた。

別々の大学へ進学したと言っても、どちらも県内に実家から通うという点については翔陽時代と何も変わらなかったし、お互い忙しいのも今に始まったことではなかったし、日中の居場所が変わっただけで、目立った変化はなかった。強いて言えば、麗がアルバイトを始めたことくらいか。それもライヴ資金のためだ。

麗は学生をやりながらアルバイトをしてライヴに行き、永野は翔陽時代と変わらずにバスケットを頑張り、そんな生活の中で隙間を見つけてはどこかへ出かけたり、麗の部屋でのんびりしたり、そんな風に過ごしていた。だが、日々の生活の大半が全く異なる環境であることが、徐々にそんな時間を蝕み始めた。

日中はずっと学校にいる永野、夜はほとんどアルバイトの麗、休みの日もライヴやら試合やらでちらほらと潰れるし、お互いがお互いのために時間を作ろうとしなければ、隙間を見つけづらくなり始めていた。

それでも自分たちは仲の良いカップルだと思っていたし、深刻な喧嘩もなかったけれど、それは単に喧嘩になるほど一緒の時間を過ごしていないということでもあった。

そんな風に少しずつふたりの間に距離ができ始めていた初夏の頃のことである。麗はキャンパスでとんでもないものを見つけて、思わず全速力で走りだした。前年の秋にボーカルが留学すると言い出して解散したバンドのギタリストがふらふらと歩いていたのだ。

「あのっ、もしかしてTwineのハルトさんですか」
「えっ、お、オレのこと知ってんの」
「知ってます、ファンです。Twineはデビューからずっとライヴも行ってます」
「嘘、ほんとに!?」

Twineは外見だけなら割とライトなビジュアル系だが、サウンドの方があまりに的を得たビジュアルスタイルで、地味なメジャーワークではあったが、今でも2枚のアルバムとアルバム未収録の3枚のシングルを愛聴しているファンは多い。麗もそのひとりだ。

「今度はソロですか? 学祭とか……
「いや、それがそうじゃなくて……オレ、元々ここの学生なんだ」
「は!?」
「2年の終わり頃にデビューしちゃったもんだから休学してたんだけど、解散したからね」

目を白黒させている麗に、ハルトは苦笑いで応えた。

「それじゃもう、音楽はやらないんですか」
「そう決めたわけでもないけど、今のところ活動予定もないし、ちゃんと卒業したいから」
「そうなんですか……
「ははは、元々バンドマンになるつもりじゃなかったしね」

麗はしょんぼりしてしまったけれど、ハルトはにこやかに笑って首を傾げた。Twineはとにかくボーカルが作り物みたいな美少年だったけれど、このハルトも涼やかな目元の結構なイケメンである。Twineの音楽が好きだからファンなのだと主張しているタイプは大抵このハルトが好きだった。

「まあ、どうせ現役は外れちゃったんだし、充電期間、インプットの時期と思えばいいかなって」
「インプット……あの、ハルトさんてOutDogsとかって聞きますか……?」
「おお、好きだよ。OutDogsなんか聞くの、渋いね」
「チケット1枚余ってるんですけど、行きませんか?」
「え、マジで!?」

OutDogsはメンバーの平均年齢がそろそろ40オーバーに届こうかというラウド系のバンドである。麗はもちろんハルトも世代ではない。だが、玄人好みのバンドゆえに本職に愛され、それが元になり、ファンがファンを連れてくる形で人気が衰えない。ライヴも規模は小さいけれど、いつでもちゃんとソールドアウトさせている。

「あとから大きいところと被っちゃってキャンセル出ちゃったんです。譲渡先探してたので、よかったら」
「ほ、ほんとにいいの?」
「はい、まあその、タダでとはいきませんけども」
「あはは、そりゃもちろん。じゃあお願いしようかな」

渡りに船だった。麗は手帳に挟んであったチケットを引き抜いてハルトに差し出した。

「すげえ、オレOutDogsは見たことなかったからな」
「私もまだ2度目なんですけど、やっぱりすごくかっこいいですよ」
「うわ、ヤバい今からテンション上がる!」

ハルトは長い前髪の向こうで目を細める。そして、少し屈みこむ。

「てか一緒に行かない!? 待ち合わせ、どこがいい?」

もうすっかりツーブロックではなくなってしまった麗の黒髪が風にそよぎ、そして彼女はそんなハルトを見て、心臓が跳ねた。永野のことは、思い出さなかった。

「なんなのその都合のいい展開は」
「日頃の行いがいい人間にだけ舞い降りる奇跡?」
「ふざけんな」

麗の4歳年上の姉・美佳子は現在若手俳優の追っかけをしている。追っかけのために進学という選択肢を放棄し、さっさと職についた上に時間があればバイトもするという生活をしている。最近は観劇が多いらしく、今日も舞台を見てきたという。ふたりは地元駅でばったり行き会い、そのままこじんまりとした居酒屋で飲み始めた。

「てかオールスタンディングなのに一緒に行こうとか、なんなん。手ェ早すぎね?」
「そーいうつもりじゃないんじゃないの。なんかちょっとオドオドしてたし」
「そうかあ? メジャー経験してる21かそこらの男がファンと出かけるかな」
「考えすぎじゃないの。単にお礼のつもりなのかもしれないし」
「お礼〜? 無闇に餌をバラ撒いたらどんなことになるかくらい、わかりそうなもんだけど」

美佳子は最初、アイドルが入り口だった。だがすぐにバンドにシフト、しかし途中で急に芸人に行って、そこから若手俳優に落ち着いた人なので、芸能関係の男に対しては基本的に懐疑的なスタンスを崩さない。しかも芸人時代にバンドマンと付き合って酷い目にあったらしく、音楽関係には特に厳しい。

「ま、乗り換え先としては上々ではあるけどね」
「乗り換える?」
「餌撒きじゃなければだけど……昭一の友達よりはいいじゃん」

追いかける基準はいつでも「顔」である美佳子は、永野が妹の彼氏であることをあまり良く思っていない。恐らく藤真なら文句なしだったろうというくらいには、「顔至上主義」な人である。その上、芸能趣味一辺倒なので、いくら実績があってもスポーツ少年など「何がいいのかわからない」というタイプ。

「いや別に……Twineは好きだったけど、ハルトが好きで見に行ってたんでもないし」
「えー、ハルトより昭一の友達の方がいいの!?」

そして名前も覚えてない。美佳子はそういう人だ。だが、高野家の女は割とこういう傾向にあり、子世代唯一の男子である昭一が高野家を出たいと思う理由の一つでもある。麗と永野が付き合いだした時も、そういう意味で心配だったのだ。高野家の女はちょっとアレ、の言葉にはたくさんの含みがあった。

永野とハルトを天秤にかけて、どっちがいいのかなんてことはできれば考えたくない。麗はそのことについては適当に返事をし、乗り換えるとかそんなことは忘れようと自分に言い聞かせる。好きの種類が違う。ハルトはあくまでも「好きなバンドのメンバー」であり、永野は「彼氏」だ。

「ふぁー、眠くなってきたな、帰るか」
「今日は誰かいるんだっけ?」
「親父はいるだろな、平日だし。直美は伸江と一緒じゃなかったか」

直美は母親、伸江は祖母。ふたりもざっくりと言って「追っかけ」の人だ。母の直美は歌舞伎、祖母の伸江は男子フィギュアスケート。ふたり共通だと若手演歌歌手。今日はその演歌歌手のコンサートで遠征している。

つまり、高野家の女は、ほぼ全員そういう何らかの「追っかけ」をしている状態にあり、それは昭一の母と姉と妹も、もう一家族の方の母姉妹も同じ。ハマっているものは別だけれど、そうやって何かしら有名な男に夢中になる家柄になってしまっている。

麗と昭一の母親は高野の血筋ではないけれど、何しろ女系だし、姑が既にそういう状態にあったので、伝染った。そういう環境の中で育った子供たちはモロに影響を受け、昭一を除く男3人は揃いも揃って逆らう労力がもったいないタイプ。一応それで問題はない。昭一は不貞腐れているけれど、仲も悪くない。

麗は姉とふたり、駅からの道をダラダラ歩きながら、永野に送ってもらった時のことを思い出していた。残暑で蒸し暑い夜道、きっと半分以上はその場の勢いだったに違いない妙な告白、けれどそれが無性に嬉しくて、何も考えられなかったあの夜を思い出す。

そして姉の言葉とともに、改めて永野が自分の世界では「異分子」なのだということも、思い出した。

OutDogs2度目だって言ってたよね? 普段は何見てるの」
「基本はビジュアルですよ。OutDogsだって某バンドの某ドラマーが必ず行くって言うから行ってみたんです」
「でも行ってみたら本当にかっこよかった、と」
「そうやってアレコレ増えていくんですよねえ……

麗はハルトと一緒に都内にあるライヴハウスに向かっている。OutDogsのライヴである。元々本命ではないし、割と軽い気持ちで押さえたチケットだったし、その上ハルトと一緒に行くことになったので、服装は控えめ。化粧も常識的な範囲内で。ついでにハルトはあまり背が高くないので、久しぶりにぺったんこの靴を履いている。

永野が191センチもあるものだから、彼と一緒の時は高いヒールを履きたい放題だけれど、ファンをやっていたバンドの元メンバーだと思うと気を使ってしまう。姉の言うように乗り換えるつもりはないが、ある意味では「敬意を払う」というような感覚だった。失礼のないように、相手に合わせて。

「えっ、留学じゃなかったんですか!?」

だから、話もハルトに合わせる。ハルトは、Twine解散の原因となったボーカルの留学は嘘だったと言い出した。

「まあ、海外にいるのは事実なんだけどね」

そして、美佳子が特に嫌悪するのが、こういうところだ。自分から嘘だったと言い出しておきながら、真相については触れない。全て話すつもりがないなら入り口を開けるなと美佳子はよく怒る。そういうところから、彼女は「よく訓練された営業スマイルと丸暗記トークの方がよっぽどいい」という結論に至ったわけだ。

「別のボーカルとか探したりはしなかったんですか」
「そりゃ、Twineの顔はあいつだったわけだから、そこを変えちゃうとね」
「顔じゃなくて音楽が好きなファンもたくさんいたんですよう……
「それは有難いんだけど、それもオレたちが作ったわけじゃないし」
「は!?」

ライヴハウスの最寄り駅の改札を抜けたところで、麗は素っ頓狂な声を上げた。何だって!?

「あの狭い界隈で名盤とか言われてるのって、1stだろ。あれ、ほとんどユータさんの曲だから」

麗は言葉が出ない。ユータはそろそろ30代半ばのビジュアル系出身のミュージシャンであり、Twineを発掘・プロデュースした人だ。彼も自身のバンドが解散、以来プロデュースワークがメインになっているが、関わった仕事には必ず顔を出すのでこちらも細々とではあるがファンが途切れない。

「ね? これじゃ誰も業界に残らないだろ」
「そ、そうですねえ……
「楽しかったけど、今になってみるとちょっと早計だったかもなあ」
「え、どうしてですか?」

そうは言ってもTwineは幻の良バンドであり、他人の作でも作品は愛されているのに。そのほとんどがプロデューサーの作だったという1stアルバムの限定盤など、今から手に入れようと思ったら数万は覚悟しなきゃならないというのに。首を傾げる麗に、ハルトはくすっと音を立てて笑い、人差し指で眉を掻いた。

「バンドは解散、特に高収入だったわけでもないし、大学に戻ったら戻ったで、なんと友達ゼロ」

そして、からかうような目つきで麗を覗き込み、声を潜めた。

「麗、友達になってくれる?」

これが美佳子なら、鼻で笑って流しただろう。けれど、麗は出来なかった。永野に好きだと言われた時のように、嬉しくて、頭が真っ白になって、髪が逆立つような感じがして、そして、気付いた時にはこっくりと頷いていた。ハルトは「わーいありがとう」などと呑気なことを言って笑っていたが、麗はあまり聞いていなかった。

中学の時の仲良しトリオの姫ポジの子を思い出す。

高校生になり、わざわざ制服でライヴハウスに通った彼女は、当時ファンをしていたバンドのボーカルと付き合い始めた。ハルトのように学生で、聞くところによると、地方都市出身の裕福な家の育ちで、親の金で学生をしながら親の金で音楽をやっていた。そんな男、遊ばれちゃってるんじゃないの――と麗は心配になった。

だが、姫ポジの彼女はそれを聞いて逆上、電話越しに喚き散らした。

「あたしにアーティストの彼氏出来たからって僻まないでよ! ノアはそんな人じゃないし、あたしたちが付き合ってるのは好きだからで、ノアがアーティストだったのはたまたま! 名前も覚えてもらえないあんたみたいな追っかけと一緒にしないでくれる!?」

ツッコミどころが多過ぎて、何と返したものやら……。ちなみにノアというのがその彼氏。本名・野田。当時の麗はずっと仲良くしてきた友達の豹変にボーッとなってしまい、生返事しか出来なかった。それを言い負かした証と思ったか、彼女は少し鼻で笑い、低い声で畳み掛けた。

「あたしはもうそういう追っかけとかはやらないから。今度のライヴもパスで入るしね」

彼女イコール関係者のつもりになっているらしい。だが、お調子者で自尊心と我が強いノアなら、進んでそういう振る舞いをさせるかもしれない。そう思った麗は「じゃあね」と言って切れた電話をぼんやり眺めていた。

まあいいか、私は音楽が好きなんだし、彼氏が欲しくてライヴ見に行ってるわけじゃないし、例え付き合えるのだとしてもノアみたいなのなんかほんとに嫌だし、この子がいなくても、別に友達はいっぱいいるし――

それは嘘じゃない。その証拠に麗はビジュアル系のファンと言っても、OutDogsのようなバンドも好きだし、あまりおおっぴらには言わないけれど、パンクもメタルもオルタナもエモもプログレも、EDMもテクノも、何でも聞く。音楽は命だ。なかったら生きていかれない。

それでも、ハルトは麗にとって初めての、近しい「向こう側」の人間だった。

頼りない柵の向こう、そこには空気しかないのに、ステージとフロアを隔てる絶対的な壁、麗はフロアにひしめく名も無きファン、ハルトはステージ上の、向こう側の人だった。そしてさらにハルトの向こうには、友人が勘違いしたような、「関係者の領域」がちらほらと見え隠れしている。

バンドのファンという種類の人間になって早7年、逆らえるわけがなかった。