縒り

07

最後にふたりで会ったのは、バレンタインの時だった。以来、連絡を取り合う回数すら激減して、麗は学業とアルバイトとライヴ生活だけで目一杯になっていた。永野がいなくても麗の生活は充実していたし、彼を思い出すこともなくなっていた。高野もほとんど帰ってこなくなった。

そうして時は過ぎ、永野と一度も会わないまま、また年を越した。

麗たちは成人を迎えたけれど、遠征に忙しい麗のこと、祝日である成人の日はライヴが入っており、成人式にも行かなかったし、着物を着て写真も取らなかった。必要はないし、和装に興味もなかった。同い年のライヴ仲間たちはみんな同じで、地元の友達よりライヴ優先だよねと言って笑っていた。

だが、成人式のために帰省してきていた高野は、成人式の翌日に麗の方の高野家にやって来て挨拶を済ませると、麗の部屋でどっかりと胡座をかいて腕組みをした。なんだか顔が険しい。

「お前なあ、成人式くらい来いよ」
「えー、別に必要ないじゃん。あんたはそういうところ律儀だね」
「そういう問題かよ。――永野、来てたぞ」

なんだその話か。麗は途端に気が抜けてため息を付いた。

「あのさ、もう1年近く会ってないんだよ。それって付き合ってるっていうの?」
「言わないだろうな」
「でしょうが」
「あれでもあいつは苦楽を共にしたチームメイトだからな。ちゃんとけじめくらいつけてくれないか」

麗はつまらなそうに目を細めて首を傾げた。なんで私が。

「何か私が永野を蔑ろにして捨てたみたいな言い方」
「そうは言ってねえよ。だけど、変わったのはお前の方だ」
「だからさ、それって悪いことなの?」
「悪いなんて言ってないだろ。けじめつけてくれって言ってるだけだ」
「意味わからん。ちゃんと捨ててこいっていうの?」
「そうだ」

高野の顔は真剣だった。麗はまたため息。

「あんたが何言いたいのかわからないんだけど」
「もう永野が必要ないなら、お前から突き放してやるのが礼儀だ」
「ちょっと待って、なんでそんな深刻な話になってんの」

そこでやっと高野が緩み、帰省してきている時のボンヤリした顔になった。

「麗、今は敵だけど、言ってみりゃあいつは親友なんだよ」
「まあ、あんたらはそうだろうね」
「だから、頼んだぞ」
「は?」

高野はまた詳しく語らず、そのまま立ち上がって部屋を出て行った。後にはひとりポカンとしている麗だけが取り残された。従兄弟の言いたいことがさっぱりわからない。なぜ急にそんなことで責められているのかもわからない。永野との関係がこんな風になってしまったこと、それは言うなれば両方のせいであって、麗だけの責任ではないはずなのに。

というかそもそも、学生同士の恋愛模様、そんなに深刻になること?

私、なんかもうそういうの、どうでもよくなってる気がするんだけど――

それきり高野はしばらく帰ってこなかったし、麗もテストやバイトや春休みの予定やらで忙しくしていた。その上、3年生を目前にした麗は卒業後のことを考え始めていて、少々迷っていた。遠征のことを考えると、それに都合がいい職業・勤務形態の職に就きたいけれど、ここに来て高校時代に縁のあったライヴハウスから就職しないかと声がかかってしまった。例の高校生イベントをやったライヴハウスだ。

麗が参加していたのは高校生だけのイベントなので、高校を卒業してからはもちろんノータッチだった。だが、マネジメント班を何度かやる間に知り合いになったバンドの出演が決まると、たまに顔を出していた。

つい先日も例のイベントの頃から顔馴染みのバンドが解散するというのでラストライヴを覗きに行った。すると、全身タトゥーだらけのスタッフのお姉さんが年内に結婚して海外に行ってしまうとかで、店長がしょんぼりしていた。1年くらいならなんとか持ちこたえられると思うから、卒業したらどうよ? と言う。

麗は迷った。ライヴハウスと言っても母体は普通に株式会社だし、社会保障がないわけでも超薄給なわけでもない。ただ、業務形態が問題だ。勤務は午後から深夜までとなっていて、基本的には年中無休。世の中が休みになる時に絶対に休めない職場だ。遠征が難しくなるどころか、関東のライヴすら怪しくなってくる。

気心の知れたライヴハウスで働くというのも非常に魅力的だが、麗の音楽世界は途端に収縮して、この狭い地下のライヴハウスの中に閉じ込められてしまう。こうして必要とされることは嬉しかったけれど、夜に余暇が欲しい麗としては、あまり乗り気ではなかった。

必要とされることと、自分の世界を守ることは、どうしてひとつにならないんだろう。

終演後、麗はライヴハウスの外に出たところで静かにため息を付いた。あの夏の日、高校生だけのイベントに永野たちを招き、を引きずり込み、そしてなぜか帰り道には永野と付き合うことになった。

永野のことも、将来のことも、ライヴ生活のことも。麗の世界という一本の縒り合わせた糸にするには、どうしたらいいんだろう。ハルトは音楽業界に戻る気はないという。高野はけじめとして永野を捨てて来いという。

どうしてみんな手放すことしか考えないんだろう。どうして抱えたままではいけないんだろう。私からライヴや遠征を取ったら何も残らないし、そのために働いて、働いたせいでライヴや遠征にいけなくなったら意味がない。限られた時間の中でそれを両立させる方法はきっとあるはずだ。それを諦めたくない。

私にはライヴが全てなんだ。あの音で溢れた空間のために私は生きてる。それしかない。

麗は高いヒールのブーツの底をカンカンと鳴らしながら、夜道を歩く。あの夏の日を思い出したせいで、永野の言葉が蘇ってくる。こんな夜道、ひとりで歩いてたら絶対危ない。もう少し自覚持ちなよ――

それも遠い話だ。永野の気持ちは嬉しかったけれど、結局知らない間に遠ざかっていってしまった。

そりゃ、私は藤真やみたいに、きれいな顔はしてない。それでもいいっていう人はいたけど、私の日々はそれだけじゃなかったから。それでもいいという人はいつの間にかいなくなってたし、私も特に必要ないみたいだし、やっぱり高野家の女っていうのはどうしてもこうなるんだなあ。

そんなことを考えながら麗は長い階段を降りて、家に帰っていった。

だらだらと迷っている間に3年生になり、麗はそれでも変わらない日々を送っていた。学生をやりつつ遠征に出かけ、ハルトがあまり顔を出さなくなった仲間内の飲み会も細々と続いていたし、永野とは連絡すら取らないまま春が過ぎ、夏が過ぎ、秋も暮れて日増しに寒さが募ってきていた。

馴染みのライヴハウスからは、タトゥーのお姉さんの妊娠が発覚して退職が早まった、待遇や給与を上に掛け合うから大学中退して勤めてくれないかと言われたので、そこで一気に気持ちが冷めた。困ってるのはわかるけれど、中退してくれとは失礼千万な話だ。

やっぱり土日祝日休みをきちんと確保できる職でなければライヴ生活が続けられない。「向こう側」に憧れる気持ちはあったけれど、そのせいで客席に入れなくなったら余計につらいんだという覚悟が出来始めていた。私は客席でいい、「向こう側」には入りたくない。

そんな11月も末の土曜のことである。またふらりと麗の方の高野家に、昭一の方の高野がやってきた。今年もインカレの予選で敗退したので、ちょっと面倒くさくなって帰ってきたという。だけど家には母と姉と妹がいてやかましく、父は既にどこかへ逃亡しているので、止む無く麗のところに逃げてきた。

「いいんだけどさ、私がいなかったらどうすんの」
「別に美佳子じゃなきゃ誰でもいいからなあ」
「へえ。美佳子にそう言っとくわ」
「あ、すんませんやめて。ケーキおごるからやめて」

高野家子世代の中でも特に気が強いのが美佳子と高野の姉である。このふたりは見た目も似ているし、性格もほぼ同じで、姉が苦手な高野は美佳子も苦手、というわけだ。

「なんだよケーキって……あ、あれか、例の彼女の」
「まーな」
「でも別れたんでしょ」
「そりゃ、卒業したら結婚して実家に入ってとか言われりゃな」
「あんたって婿に入りたかったんじゃないの。何がダメだったわけよ」

高野にはここ1年ほど付き合っていた女の子がいたのだが、付き合いが半年を過ぎたあたりから結婚と実家の跡継ぎを強要されていて、ずいぶん辟易していたらしい。ハルトみたいなのもいるけど、こっちはそううまくいかなかったか、と麗はニヤニヤしている。

「無理だよ、神社だ」
「ちょ、それはまた……
「卒業してから資格取ってくれればいいとか言い出してさ。いくらなんでも急カーブがすぎるだろ」

彼女が本性を表す前に、地元でまあまあおいしいケーキを食べられる店はないかと尋ねられたので、麗はアルバイト先の近くにある個人経営のカフェを紹介したのだが、結局行かなかったとのこと。

「オレ別に嫁の姓になりたいだけで、跡継ぎになりたいわけじゃねーからな」
「まあそう都合良くはいかないもんだよな」

そう思うと、お互い彼氏も彼女もいない状態でそんなことを話しているのが可笑しくなってきた。麗も年末のライヴまでしばし予定がない。今年は1本もライヴが入らなかったので、またバイトのシフトを代わる羽目になるのかも、とクリスマスは既に若干諦めている。

「てかケーキ、行こうか。よく考えたらふたりで出かけたことなんかなかったよね」
「そーいやそうだな。寂しいモン同士、たまには遊びに行くか」
「寂しいとか言うな」

二十歳も過ぎて、ようやく麗と昭一は高野家子世代の中でも気が合う方で、その分気楽で、一番無難な相手だということがわかってきた。高野が美佳子を苦手なように、実は麗も高野の妹が苦手。だからここで適当に仲良くしておいた方が、後で楽だ。

そういう意味でも乗り気になったふたりは、またへらへらと笑いながら街へ出た。何しろ同い年でイトコ同士で高校は同じだし、会話が途切れても気まずくならない。その上美佳子と高野姉のように顔が似てるので、カップルにも間違われない。最高に気楽だ。

ケーキを食べ、甘いのを食べたらしょっぱいのが欲しくなったという高野の要望でプレッツェルを食べに行き、そのあたりでだいぶ楽しくなってきてしまったのでカラオケに行き、それがまた同世代のネタカラになってしまって楽しかったので、そのまま居酒屋になだれ込んだ。高野家は一族揃って酒に強い。

「えー、就活しなくて済むじゃん、もったいない」
「いや、中退を迫るとかそういう態度が気に入らない」

結局麗はライヴハウスの店長に中退の意思がないので他をあたってくれと返し、以後その話には返事をしていない。中退して馴染みのライヴハウスに勤めるために受験を頑張ったわけじゃない。麗は麗なりに学びたいこともあったし、その学費を出してくれた親にも申し訳ない。

「あんたはどうすんのよ」
「どうにかバスケ関係の仕事ができねえかなーとは思ってるんだけど」
「そっちもつらいね」

だが、進路の話を始めると辛気臭くなるばかりだ。早々に切り上げたふたりは身内の話で盛り上がり、ほろ酔い加減のところで店を出た。そのままそれぞれの家に帰ればいいのだが、駅に到着したあたりで、本日の昭一の方の高野家は無人、という一報が入ったので、美佳子が帰らないという麗の方の高野家に行くことになった。

「親父はいるみたいだけど、直美もいないんだよね」
「ま、別に飯食ったし、風呂入って寝られればそれでいいよ」
「てかどこで寝るんだ」
「お前の部屋」
「えええー」
「さっき思い出したんだけどオレ、ふしぎ遊戯途中なんだよな」
「それかよ」

ふたりも小さい頃はよくお互いの家に泊まりに行っていた。その感覚は大人になってしまってもあまり変わらない気がした。漫画が読みたいならそれもいいだろう。そこから少女漫画の話になってしまい、ふたりは延々その話でああだこうだ言いながら麗の方の高野家に向かって歩いていた。

そうして麗の自宅へ続くあの長い階段に差し掛かった。まだ少女漫画談義でわいわい言い合っていた麗と高野だったが、ふたつめの踊り場に差し掛かったあたりで、足を止め、言葉を失った。

踊り場のベンチに、永野がいたからだ。

「あれ? え? お前何してんのこんなとこで」
「いやその、予選終わったし、えーと、ちょっと時間出来たから」
「まあそりゃ俺らは予選落ちだけどもよ……びっくりした」

固まる麗を置いて高野は階段を降りきり、ベンチから腰を上げた永野の肩をポンと叩く。高野はにこやかだが、永野は少し気まずそうだ。無理もない。ここにいたということは麗が通りかからないかと待っていたんだろうし、そこに高野も一緒に現れるとは欠片も思っていなかったに違いない。

……おい、どうしたそれ」
「予選で」
「大丈夫なんだろうな」
「今のところ」
「だから来たのか」
「ていうより、時間が出来た」

まともにふたりの方を見られない麗の目の前で高野はしかめっ面をしている。永野の左手が包帯でグルグル巻きになっていたからだ。バスケットも球技とはいえ怪我の多い競技である。グルグル巻き自体珍しいことではないけれど――

……オレ、今日麗んち泊まりなんだ。おい麗、オレ先行ってるからな」
「いや、そういうつもりじゃ――
「なかったのか? こんなところで?」

また永野の肩をポンと叩いた高野は、軽い足取りで長い階段をさっさと降りて行ってしまった。

そうして青天の霹靂、11月の夜にふたりはぽつんと取り残された。