続・七姫物語 神編

07

「投げ矢、弓矢、馬上弓矢、馬術、馬術障害、全部優勝です」
「馬術おかしいだろ、なんで馬がおすわりするんだよ」

神は控室でぐったりとソファにひっくり返っていた。は参加する競技で次々と優勝をさらい、今や完全に時の人。特に馬術は故郷から連れてきた愛馬とともに出場し、賞牌授与の際に「おすわり」をさせたのでどちらも一躍大人気になってしまった。

ついでに毎度毎度貴賓席で涙と鼻水を垂らして応援する父上にも注目が集まり、彼もちょっとした人気者になった。聞けば高級静養地で有名な国の国王だというし、貴族はじめ富裕層がちらほらとすり寄り始めている。

「そういえば剣術は参加登録させてもらえなかったそうです」
「まあ、危険だからな」
「いいえ、参加資格審査の際に間違って男子の担当官を負かしたそうです」
「どっちにしろ危険じゃないか!」

もはやツッコミしか出てこない神だったが、を誇らしいと思うのとは別に、いきなり何日も会えない状態になってしまったので、そういう意味でちょっとばかり不貞腐れている。近いようで遠い競技場と観客席、の周りをウロウロしている審判に嫉妬心を抱いては自己嫌悪でのたうち回っていた。

……叔父上はどうなってるんだ」
「少し怪しいほど静かですね」
「ここでを負かしても無意味だと気付いてくれればいいんだけど」
「どちらも明後日の戦車競走を残すのみです」

大会最終日、戦車競走の勝者に賞牌と冠を授け、そのまま閉会の義である。戦車競走は人気があるだけでなく、勝者は歴史に名を残す英雄であり、競技自体が他とは一線を画した、いわば「神聖な」ものとされている。ここで優勝すると、例えば軍なら昇級に値するし、一般市民でも一部特権が与えられるほどだ。

なので参加者の意気込みもまた他の競技より強く、絶対に優勝してやるのだとギラギラしている選手がほとんどだ。しかも女性の参加登録はこれが史上初。というかあまりにもあり得ないことだったので、競技の規定に女性参加の可否の項目がなかった。一般市民ならともかく、もうすぐ王太子妃、そのまま受理された。

大会中人気が爆発したことで、競技場には前夜から入場待ちの行列が出現し、それを当て込んで屋台が乱立し、レース会場の周囲は例年にない異様な盛り上がりを見せていた。

当日は神や国王、の父も早めに会場入りし、閉会の義の準備もしつつ、場内に混乱が起きないよう人を回すなどしていた。あまりに人が多いので例外的に収容人数以上の入場を許可し、警備も増やしたので運営側はてんやわんや。とにかく事故のないようにと指示した国王だが、正直が気になって仕方ない様子。

「陛下、本当に姫は大丈夫なんですか」
「ええと……弓矢とか馬とかはだいぶ幼い頃から手ほどきを受けてますし」
「お国ではこういう競技会などはあったのですか」
「いえ、こんな盛大なものは。ただ、15くらいで師範と互角程度には」

陛下も青くなった。一方で父上はちらちらと神を見ていた。

「宗一郎殿、もしこれであの子に怪我なんかがあったとしたら……
「ご心配には及びません、それを理由に婚約を破棄したりはしません」
「もし顔に傷が残ったとしてもかい?」
「はい、そうです。の価値は顔だけではありませんから」

父上がホッとしたのを見て、その傍らの陛下も一緒にホッとしていた。何しろこの大会を無事に乗り切って反対派もなんとか宥めて、それでいい加減ちゃんと結婚を執り行いたかった。ただでさえ2年も延びているのだ。もう待つ理由は何もない。

まだ観客席には人々が詰めかけている途中だったが、全員が収容されるのを待っていたら日が暮れる。高らかに喇叭が鳴り響き、入場門から続々と出場選手が入場してきた。戦車競走は選手ふたりが規定。かつては御者と攻撃手だったが、現在は交代要員及び緊急時の補助役である。

は? 何番目?」
「陛下落ちますぞ、ああほら、あれではありませんか、おお、これはまた……
「あああ、かっこいいぞ

大盛り上がりの父ふたりとは少し離れた位置から神も競技場を覗き込む。続々と入場してくる参加者の中、ひときわ目立つ白い装束の御者がだ。きっと彼女に手を貸したお針子組がまたノリノリで作ったのだろう。そのお針子と思しき女性が一緒に出場しているが、既に車体に掴まって小さくなっている。

選手たちはだいたい誰でも膝丈の衣を被り、帯や胸当てなどで固定している。はあまり肌を露出できない事情もあって、足首までの白い衣を纏い、皮と金属でできた胸当てと右肩に肩当てをつけている。髪もきっちりと纏められ、手首は革製の小手で守られている。

そして、他の百戦錬磨の選手たちにまったく見劣りすることのない、気合に満ちた表情をしていた。しかし冷静な、落ち着いた目でしっかりを前を見据え、途中他の参加者に囃し立てられていたようだが、一切顔色を変えなかった。さて、各選手が位置につくと、陛下の出番である。鐘が打ち鳴らされ、場内は静まり返る。

競技の開始を宣言、そして今日は陛下が掲げた手を振り下ろすことで開始である。

陛下の手が落ちるのに合わせて再度鐘が鳴らされ、それを合図にチャリオットが一斉に駈け出した。場内は地響きが起こるほどの歓声、陛下ふたりと神もつい身を乗り出して競技の行方を目で追った。

「少し出遅れたな」
「そうとも限りません。まだ全員揃ってますから、焦って先頭集団に突っ込むと……ああいうことになります」

ついやきもきしてしまう神だったが、総隊長は淡々と解説している。彼の言うように経験が浅い御者だったのか、走り始めるなり飛び出していった先頭集団のうち2台が最初の角を曲がりきれなくて外側に転がり出ていった。片や車体が大破、片や乗車していたふたりが吹っ飛んでいった。

その上曲がりきったと思った1台も直線に入りきれずにどんどん反れていき、遠心力に負けた車体が回転して引きずられていった。競技中は場内のあちこちに運営員が控えているので、後続のチャリオットが無事に通り過ぎると急いで回収しに行く。特に乗員ふたりを早く回収しないと危ない。

はうまく進路取りをして脱落したチャリオットを避けて進んでいく。馬に執拗に鞭を入れて飛ばしていく先頭集団と違い、は特に速度を上げもせずに着いて行く。

神はそれを静かに見つめていたが、陛下ふたりは大変だ。

「ううう……!」
「ああまた一台転がって……大丈夫か姫、あんなことになったら」
「あああ様」

最後のはばあやだ。陛下がよいというので、特別にバルコニーに入れてもらっている。最初の一巡が終わり、先頭が一周回り終えたので、それを示すイルカの彫刻がくるりと半回転する。競技は全12周なので、6体のイルカが2度回転すれば走破である。

「一巡目でもう4台脱落か」
「まあ毎年そんなものですよ。意外と功を焦った軍人が吹っ飛ぶことが多いですね」
「叔父上はどうなってる? ええと……
様の少し前を行ってますね。というか様は明らかに速度を抑えていますね」
「後で巻き返す戦法はいいけど、先頭がだいぶ飛ばしてるからな」

曲線と直線2つで構成される楕円の競技場は規模に反してそれほど大きくない。曲線で振れた車体を立て直し、少し直線を走ったらすぐにまた曲線だ。直線で延々速度を上げて追い越すことが出来ない以上は、周回遅れになってしまうと巻き返しが難しくなってくる。

今のところ半周弱程度の遅れを保っている、その2台前を行くのが神の叔父だ。というかふたりの間に挟まっている2台はのように速度を抑えて位置を保っており、直線に入ってもそこから抜ける素振りが見えない。それを見ていた総隊長が神の傍らで低い声を出した。

「妨害されていますね」
……やっぱりそう思うか」
「兜で御者の顔がはっきりしませんが、あんなにやる気のない参加者はありえません」

何しろ昇級や特権が待っているし、一生優勝者の名誉が与えられる。普通の参加者であれば、追い抜ける好機をみすみす逃すことはしない。の父上が代理として出している選手もはお構いなしでどんどん突っ走っている。

「というか叔父上はあんなにブレブレで大丈夫なのか。は直線でほとんど動かないのに」
「そりゃあ様に比べたら馬の扱いなど素人同然でしょう」
「危なっかしいな……

しかし妨害をされていること以外では問題なく競技は進む。2巡、3巡と進んでいくが、様子が変わり始めたのは7巡を過ぎたあたりからだ。先頭をひた走っていた馬が突然速度を落として4頭の足並みが揃わなくなってきた。御者はそれを立て直そうと鞭を入れるが、効き目がない。無理に速度を上げたことによる疲労だ。

1番走りやすい進路の中心にいた先頭だが、徐々に制御ができなくなり、曲線に差し掛かったところで大きく膨らんで外周に飛び出していった。そこで体制を立て直してまた走り出したが、に直線一本分ほども遅れてしまった。しかも馬がもう速度が出ない。

この飛ばし過ぎによる配分をし損なった選手が10巡あたりで弾かれていくのもいつものことだ。わかっているのに毎年これをやって失速、ないしは弾かれてしまうという選手が出る。

その10巡を迎える頃になると、先頭集団は叔父上を含む3台、妨害車体が2台、その後続がという形になってきた。だが、は淡々と馬を走らせており、速度も上げない。前を行くチャリオットにぴったりくっついているが、それでも現状最下位だ。

だが、10巡を過ぎたことを報せる鐘が鳴った時、とんでもないことが起こった。叔父上を含む先頭集団の中の2台がもつれてその場ではじけ飛んだ。馬もひっくり返っている。難を逃れた叔父の馬車は外周に逃げて事なきを得たが、例の妨害2台がその大破した2台を避けきれずにそのまま突っ込んだ。

計4台が一度に脱落してしまったのと、叔父が慌てて戻ったとはいえ、それまで淡々と走り続けていたが突然2位に躍り出てきたので、競技場内はまた地響きを伴った凄まじい歓声で溢れる。しかしは事故車体を避けた際に発生した進路取りを丁寧に直していて、先頭を行く叔父上を追い越そうとはしていない。

「てか後続もまだ何台かいるんだよな」
「そうですね。どうも後続は安定しないし、進路を外れると修正しづらいのでは……

2位に躍り出ただが、安定した位置に入るとまた一定の速度を保ったまま走っている。それをきょろきょろと振り返りながら走っている叔父上の方がよろよろしてきた。そして11巡目の終わりが見えてきた時のことだった。最終周回12巡目に入った途端、のチャリオットが速度を上げ、叔父上に並んだ。直線に入った一瞬の間のことで、突然横に並ばれた叔父上は仰天してまたよろよろしだした。

「仕掛けてきた!」
「これを狙っていたのですかね」
「事故ってくれるなよ……!」

だが、叔父上も必死なので直線一本で抜けずに、曲線に差し掛かる。その時である。の車体が叔父上の車体ギリギリに近付き、曲線へ向かってどんどん追い詰めていった。驚いた叔父上は内周に向かって馬を寄せ、内周にある島の土台ギリギリを掠めて曲線に入らなければならなくなってしまった。

「うまい!」

神がそう唸った瞬間、事故になることを恐れた叔父上は手綱を引いて速度を落とし、それを確かめたは接触しない程度に膨らみ直すと、最高の進路に向かってきれいに曲線に入っていく。女性ふたりで軽い車体はブレることなく最後の直線にするりと入り込んだ。

がひときわ高く上げた声に馬は速度を上げ、後続をどんどん引き離して終点に滑り込んだ。

破鐘のような場内の歓声、どよめき、風を揺らすほどの拍手、足を踏み鳴らす人々のその鳴動の中、はゆっくりと競技場を回って行く。場内には花びらが舞い、人々は立ち上がって叫び、新たな英雄の誕生に狂おしいほどの歓喜を爆発させていた。

事情がどうであれ、競技に勝った者は「神聖なる英雄」である。身分は関係なく、試合を制するものが民の心を制する。中にはそれが女であることを問題視する向きもあったようだが、競技場内はの名を呼ぶ声で埋め尽くされ、王家観戦席近くの観客たちは国王や神にも惜しみない拍手を送った。

勝者はゆっくりと競技場内を一周し、開始位置へ戻ってくる。そして王家の観戦席近くまで上ることが許され、そこで純金の賞牌とオリーブの葉で出来た冠を授けられる。さて、が開始位置まで戻り、チャリオットを降りたその時である。

この時まだ競技場内のチャリオットの搬出をしていたのであるが、開始位置付近で呆然としていた叔父上がを目にして興奮し始め、真っ赤な顔で何やら怒鳴り始めた。は相手にせず神の元へ戻ろうとしたのだが、例の妨害選手4名と一緒になってその行く手を遮った。ばあやの悲鳴が響く。

「総隊長、おい、マズいぞ」
「いけません殿下、降りてはなりません」
「は!? 何言ってるんだよ!」
「あなたが降りれば余計に事態が混乱するのです!」

総隊長に一喝された神はしかしバルコニーの縁にしがみついて競技場内を覗き込んだ。じわりじわりとに歩み寄る反対派、観客からも悲鳴と罵声が上がるが、一応「神聖な」競技なので観客が競技場内に降りるのは犯罪行為であり、例えば選手同士の喧嘩だとしても観客は競技場に入ってはならない習慣がある。

運営はもちろん慌てて警備を差し向けたのだが、通用口は遠く、反対派との距離はもうほとんどない。すると、は数歩下がって自身のチャリオットの馬具に手をかけた。そして何やら手早く外すと、長い棒を持って振り向いた。馬具の一部を分解したらしい。

それを見た神とばあやと総隊長が歓声を上げた。

「ど、どういうことだ宗一郎、姫はあんな棒で何をするつもりなんだ」
「大丈夫です父上、は問題ありません」

父上の方は既に「叩きのめせ!」と絶叫している。おそらくはそちらが仕掛けてくるなら容赦しないと断りを入れていたんだろう。手のひらを向けて止めていたが、反対派はそれにも構わずににぐいぐいと詰め寄った。次の瞬間、前に出ていた3人が次々に仰け反って倒れた。

場内再び地響きのような歓声。は一発で倒れなかった男をもう一度払い除け、ドスドスと不格好な走り方で襲いかかってきたもうひとりも返り討ちにし、叔父上を残して全て片付けてしまった。無駄な動きはなく、まるで踊っているかのような棒捌きに神と総隊長はつい感嘆の声を上げた。

「まったく見事な腕前ですね……
「そうだろ。……あれで助けてくれたんだ」

2年前のことを思い出した神が目を細めていると、の棒術に腰を抜かした叔父上が何やら両手を振り回して喚いている。何を言っているかはあまりにうるさいので何も聞こえてこない。が、それを屈みこんで聞いていたはくるりと踵を返すと、中洲の島に飛び上がり、猛然と走り出した。

そのの行く先を皆が目で追っていくと、どうやら見張り台に向かっているらしい。ここから喇叭を鳴らしたり手旗で様々な指示を送ったりする場所だ。そこにいつの間にかポツンと人が立っている。男のようだが、彼はしゃがみこんで何やらごそごそやったかと思うと、すっと立ち上がり、弓を構えて矢をつがえた。

矢は、神の方を向いていた。

が見張り台まであと数段、というところで矢が放たれ、高さがほぼ同じの見張り台からバルコニーに向かって矢はまっすぐに飛んで来る。神がそれに気付いて体を起こし、手摺から手を離して足を一歩後ろに下げた時のことだ。彼の前に影がサッと入り込み、思わず目を閉じた神は直後に重いものがどさりと覆いかぶさってきたので、よろけて目を開いた。

神の目の前に総隊長の顔があった。そして、彼の肩からは矢が生えていた。再度ばあやの悲鳴が響く。

それとほぼ同時に見張り台に到達したは、矢を放った凶族を打ち倒した。見張り台は2方向に階段があるので、転がり落ちていった先で警備に捕まっている。

さて、この時のことを後に神は「奇跡」と称し、カイナンでは向こう数百年は確実に語り継がれるだろうと評されることになるのだが、見張り台の上に立つに変化が起こった。競技と大立ち回りで纏めていた髪が落ちてしまい、風に踊った。そして、ビリビリに破れた白の衣、背中の一部と袖が風に煽られて翻ったのである。

それはまるで、真っ白な羽を広げた天の使いのようであった。

近くで喋っている人の声も聞こえないくらいの騒ぎだったのだが、の髪と白い衣が風にたなびいた瞬間、競技場内は水を打ったように静まり返り、呆然とその姿を見ていた。ずるずると崩れ落ちた総隊長もまた、神にしがみついた状態でそれを見た。

「殿下、あれを、ご覧になりましたか、言ったでしょう、あの方は」
「総隊長喋るな、すぐに治療を始めるから、今すぐに病院へ運ぶから」
「殿下、いいですか、これは天から授かった好機です、余すことなく利用しなさい」
「わかった。わかってる。みんな拝んでるよ、利用しない手はない。もちろん有効利用するよ」

すぐに医療班を手配したけれど、何しろ今年は例外的に異常な観客数であり、今まさに現実なのか虚像なのかわからないものを目の当たりにしていて、皆行動が鈍い。射手をけしかけたであろう叔父上ですら、競技場の地面の上に尻餅をついてぼんやりとを見上げている。

神に抱きかかえられた総隊長は彼の頬に触れて、絞りだすように話している。

「殿下、様は本当に天が下さった授かりものかもしれません」
「ああそうだな、天に取り上げられないように大事にしないとな。だからもう喋るな」
「彼女がいれば何も怖いことはない、あなたは彼女が守ってくれる」
「何言ってるんだ、今オレを守ってくれたのは総隊長だろ」
「彼女を信頼しなさい、彼女の言葉に耳を傾けなさい、私がいなくても、様さえいれば」
「やめろ! 何を今にも死にそうなこと言ってるんだ、肩を怪我しただけだぞ! 余計なことを言うな!」

堪えきれなくてボロボロ泣きながら絶叫した神だが、総隊長は聞く耳を持たない。

「あなたはもうひとりではない、怖いことは何もない、もう、大丈夫……

神の叫び声がこだまする中、総隊長は意識を失ってガクリと頭を落とした。