続・七姫物語 神編

06

全員でくまなく館を探したけれど、はいなかった。の持ち物でなくなっているものはなさそうだったし、確かに前夜は一緒にベッドに入ったと神が証言しているし、寝室に誰かが押し込んで連れ去ったとは考えにくい。それ以前にここは王宮内、賊が侵入できるような場所ではないし、例え反対派が刺客を放ったのだとしても、王太子の館へ通じる通りは常に衛兵がいる。誰も何も見ていないという。

このことで1番騒いだのはばあやだったが、1番落ち込んでいるのは神である。もしが自分の意志で館を抜け出したのだとしたら、と考えると悪い考えばかりが頭に纏わりつく。ただでさえ結婚は見通しが立たないままだし、競技大会で代理戦争なんていう下らない事態にまで陥っている。まさか出奔?

「父上のところには行っていないようです。というか陛下を放置でどこかに出奔されるとは到底……
「だけどもう何もかも嫌になって、ということだったら」
「殿下、どうされました。そんな弱音を吐かれるなんて。何か心当たりでもおありなのですか」

少年時代から神は外面よく、しかし裏では淡々と分家を潰す計画を進めていたような人である。それが館の階段に夜着のまま腰を下ろしてがっくりと肩を落とし、そんなことを言うものだから、総隊長は正面にしゃがみこんで顔を覗き込んだ。顔色は真っ青なままだ。

「何もないよ、昨日も普通だった。ふたりでベッドに入って、疲れてたけどその……
「はい、わかります。その後にちゃんと休まれたんですね?」
「むしろ寝たのはの方が先だったんだ」

だから余計に悲観しているのか――と総隊長は頷く。神がに夢中であることは家臣一同、この2年間で嫌というほど思い知らされている。疲れていたけれどいつものように愛し合ってから休んだのに、は消えていた。それは神にとって途轍もない恐怖と不安を呼ぶ。総隊長は思わず神の手を取った。

「昨夜変わった様子はありませんでしたね? 会話が途切れるとか、普段なら平気なことを嫌がるとか」
「何も。いつものようにというのもおかしいけど、変わったことは何ひとつ」
「でしたら殿下、どうぞ様を信じて下さい」

神の手は白くなって微かに震えていた。総隊長はそれをしっかりと包み込んで、念を押す。

「以前にも申し上げましたが、様は信頼に値する方です。あなたがご自身で選び取った、この国の王妃に相応しい方です。お世辞ではありません、私も心からそう思っているのです。私たちはいつ倒されてもおかしくない日々を送ってきましたが、様がいたからこそ、こうして無事を得たのです。あの方は守り神です」

総隊長の言葉に神は顔を上げ、弱々しく手を握り返した。そう、神だけでなく、神陣営全員がに救われている。神を救うことは彼らをも救うことであり、槍一本で賊を蹴散らし、王太子の心を溶かし、結婚の意志を翻さなかったはまさに救世主だったのだ。

「不安でしょうが競技大会に姿を現さないわけにはいきません」
「わかってる、は体調不良で館に残ったことにする」
「我々が何としてでも様を探し出します。殿下は、殿下の戦を」

頷いた神は立ち上がると震えを振り払って不安を飲み込み、ばあやを呼んだ。略式の正装をして行かねばならない。これがひとりでは着付けが難しいので、神にしろにしろ、誰かに手伝ってもらう必要がある。

「若、先にお部屋へ。今日はおふたりが観戦に出かけるだけの予定でしたから常勤以外は自宅に帰っていますし、お針子組も捜索に駆り出されてしまったらしくて、いないんですの。少しお待ちを」

ヒィヒィと悲嘆に暮れた声を上げてばかりだったばあやだったが、彼女も王宮で40年近く働いてきた人である。てきぱきと指示を出すと、駆け出していった。

……総隊長、だけどもしこのことが反対派に起因するものであったら、私は叔父上といえど絶対に許さぬ。その時は王位継承権を捨ててでも報いを受けさせる。いいな」

階段の数段上に立つ神に総隊長は深々と頭を垂れた。その時は神陣営、誰ひとりそれを止めはしないだろう。

が行方不明だと発覚してから約2時間、今度は競技大会の会場である町の外にある競技場から早馬が来て、陛下が急ぎ来るよう仰っているという伝令が来た。神と総隊長は眉間に皺を寄せた。陛下ってどっち?

しかしもしの件で何かあるのだとしたら、グズグズはしていられない。後を部下たちに任せた神と総隊長はどうしてもと言って聞かないばあやも連れて館を出た。馬車を飛ばして王宮を出て、少し離れた丘陵地帯の根本にある競技場へ向かう。大会のために100年以上前からある競技場だ。

古代文明の都市を想起させる巨大で何万人も収容できる闘技場、競技場、海戦を模した競技のための人工湖、ととにかく城下町を上回る規模だ。周囲は砂の多い地域なので、石造りの競技場がより荘厳に見える。

年に一度とはいえ毎年訪れている神は馬車で急いで乗り付け、王族専用の通路から開会式が行われる闘技場に入ってきた。すでに闘技場は人で埋まりつつあり、開会の儀が始まる頃にでも現れればいいやと考えていた神は慌てて階段を駆け上がる。「陛下」ふたりは既に到着しているらしく、さっさとふたりのところに行かねば開会の義が始まってしまう。そうしたら話ができない。

「父上、陛下、大変遅くなりまして申し訳ありません、実は――
「そう、その姫のことなんだが」
「宗一郎殿、噂は本当なのかい」
「は? 噂?」

の体調不良で遅れたが彼女は問題ないと言おうとした神はふたりに遮られて目を丸くした。

「えっ、何も聞いてない? いやまあ僕もここに来る道すがら聞いただけなんだけど」
「いや私もそんなようなものだけど、民がわいわいと騒いでいるから」
「だから何なのです、その噂って――

陛下ふたりがモタモタしているのでつい苛ついた声を上げてしまった神だったが、その声に被って喇叭が一斉に鳴り響いた。開会の義が始まってしまった。話の途中だが、開会の宣言をするのは国王、その傍らに控えるのは王太子と決まっている。ふたりは慌ただしく引っ張られていった。

観客席の中でも特別に仕切られた国王の席から少しずれると、闘技場の真ん中に張り出したバルコニーに出る。国王と王太子が現れると、場内の歓声がひときわ高くなる。そして開会の宣言ののち、陛下の手にある白い鳥が解き放たれると、いよいよ競技大会の開始である。

陛下の手の白い鳥が解き放たれるのに合わせて数十羽の白い鳥が放たれ、競技場の空に舞う。それを合図に、競技場には大会に参加する選手が入場してくる。参加資格に制限はないが、一応貴族や軍でも高い地位にあるものはチャリオットと呼ばれる古代の戦闘用馬車で入場、一般人は徒歩、というのが慣例になっている。

チャリオットが続々と入場してくるとまた場内は大歓声。軍の方にはこの競技大会での活躍が目立つ兵士が多くいるので、一般市民にも人気が高い。見栄えのする選手は余計に騒がれる。心ここにあらずであることを一生懸命隠しながら、神は大盛り上がりの選手入場をぼんやり眺めていた。

すると、入場門のあたりから雷鳴のような歓声が上がり、やがてそれは全体に広まっていく。人気の選手でも出てきたか……とちらりと目をやった神は、思わず駈け出してバルコニーの手摺にぶつかり、転落するのではないかというほど身を乗り出した。

慌てて追いかけてきて神の服を掴んだ総隊長も神の視線の先に目をやると、息を呑んだ。

貴族軍人枠の最後にチャリオットで入場してきたのは、誰であろう、だった。

「一体どうなってるの! なんでが!」
「どうして受理されたんだ、参加種目は何だ!?」
「今すぐお止めしないと万が一のことがあったら大変です、もし妊娠でもされていたら」
妊娠してたの!?」
「妊娠!? いつわかったんだ!」
「皆さん落ち着いて!!!」

緊急事態なので、国王以下関係者は一旦王家用の控室に閉じこもった。競技場はどの施設もだいたい屋根がないので、観戦以外ではこの控室でのんびりしていることが多い。城からそう遠い距離ではないが、いわばこの競技大会はお祭りなので、宿泊もできるようになっていて、神も子供の頃は何度か泊まったことがある。

国王とその家族用の控室なのでかなり広く豪華に造られているが、その真ん中の部屋で関係者はひと塊になって騒いでいた。特に陛下ふたりとばあやの混乱が激しいので、神もつい大声を上げた。がカイナンに来てから既に2ヶ月半、妊娠の可能性は充分あるけれど、今のところその兆候はない。

「えっ、してないの?」
「ばあやは『もししていたら』と言っただけです。昨夜までに何かしらの変化はありませんでした」
「ちょっと待て宗一郎、もしかしてお前も今回のこと知らなかったのか」

陛下ふたりに詰め寄られた神はつい逃げ腰になったが、総隊長が素早く傍らに進み出て説明を買って出た。

「おそらく様のご一存だと思います。宗一郎様も含め、誰ひとりこのことを知らされてはいませんでした。今朝方宗一郎様がお目覚めになった時、様がいらっしゃらないので館中を探しまわっていたところでした。ご無事が確認されて何よりですが、どうされますか。参加規定が……

総隊長の落ち着いた声に興奮を宥められた陛下ふたりとばあやはしょんぼりと肩を落とした。この競技大会は数十年前に参加規定大会規定が法で改められ、観客は例え国王であっても一切の口出しが出来ない。これを王太子の婚約者だからと言って捻じ曲げてしまうと、前例を作ることになってしまう。

さらに、開催期間中競技に参加する選手は競技場敷地内の宿舎に入らねばならず、また、参加登録をしている競技が終わって宿舎を出るまでは外部との接触は禁止。つまり神たちはと話すことも出来ない。

がっくり来た陛下ふたりがソファに腰を下ろし、ばあやがお茶を淹れに行ったので、総隊長は神の腕を引いて別の部屋に入る。控室とは言うものの、全8部屋、風呂もあれば台所もあるし、広いベランダもある。ちなみにこのベランダからは人工湖が見えるようになっている。

「どうした」
「先ほどの入場の際、様と一緒にチャリオットに乗っていたの、あれお針子です」
「え!?」

また大声を出してしまった神は慌てて口を塞ぐ。幸い陛下ふたりは何やら喋っていて聞こえていない模様。

「お針子? 競技出来るような連中じゃないだろ」
「私の憶測ですが、様がカイナンに来て以来、家臣の中で1番長く一緒にいたのはお針子組です」
「まあ、そうなるな。ドレスの仕立てが続いたから」
「つまり彼らが参加登録や館を出る手引をしたのかもしれません」
……ということは」
様がご自身の意志で大会への参加を望まれたのでしょうね」

総隊長は淡々としている。を責める気持ちはないようだ。

……この間、負けない、って話をしたんだ」
「負けない、ですか」
「色々障害が多かっただろ。今でもまだ片付いてない。だけど、負けないって、お互いに」
「元々腕に覚えのある方ですしね」

そこで神はハッと顔を上げて目を剥いた。が文武両道の王女であることを忘れていた。もちろん自分が襲われた時に助けてくれたことは忘れていない。しかしあれは火事場の馬鹿力か何かのように記憶がすり替わってしまっていた。このところ館に帰れば毎日恋人気分だったせいだ。

「確かあいつは、槍術から棒術、弓、馬、ナイフ投げるのもやたらと正確だったな」
「一時剣術も習われていたと」
……殆どの競技に出られるじゃないか」
「そうですね。出来ないのは格闘と団体競技くらいですか」
「総隊長、あいつ何の競技に出るんだ」
「今調べに行かせていますが、出場している以上はいち選手、誰が何の競技に参加していていつ試合なのかということまで素早く情報が出てくるかどうかは……

陛下ふたりに聞こえないようにこそこそ話していた神と総隊長は、の出場競技を調べに行かせていた部下が戻ると、一旦外に出た。というか陛下ふたりの耳があるところでは不都合が多すぎるので、別の王家用の控室を開けさせようかと話していたところだった。

「すみません、選手ひとり分の情報をまとめろと言われてもすぐには無理だと……
「まあそうだろうな。毎年1000人以上が参加するんだし」
「その代わり、叔父君の息がかかった者の参加競技がわかりました。言いふらしてます」

ふたりは側近の差し出した紙を覗き込んだ。が自分の意志で「負けない」ことを証明しに行ったのだとしたら、そこと勝負しなければ意味がない。

「元々叔父君は競技大会熱心ですから……かなり手を付けてるようですね」
……総隊長、これ、どういうことだ」
「大会最終日の戦車競走ですか、えっ、叔父君が自ら!?」

大会最終日に行われる大会一番人気の種目が「馬4頭立て戦車競走」である。さきほどのチャリオットを使い、巨大な楕円形の競技場を12周する過酷な競技である。それに叔父上が参加登録しているらしい。

「こちらも戦車競走には参加させていますが、まさかご本人が出るとは……
「さっき言いふらしてたと言ったな」
「はい。北町の一部ではもうずっと前から知れたことだったそうです」
「それを耳にしたのかもしれないな」

神は全てが腑に落ちて深く頷いた。だが、参加規定がある以上はもう誰もを止められない。闘技場にチャリオットで入ってきたは、神が見たこともない厳しい顔をしていた。おそらくに加担したお針子組が仕立てたと思われる服を着て、背筋を真っすぐ伸ばしていた。

ふいに神は彼女を案じる心が少し軽くなったような気がした。

もちろん彼女が怪我をしたらどうしようかという心配はある。けれど、命を落とさなければいいのだ。もしが怪我をして腕や足を失ったとしても、例え顔に大きな傷が残ろうとも、自分の気持ちは変わらないような気がしたからだ。やがて妻になる彼女の戦いを受け入れたくなったのだ。

「総隊長、運営にこの情報を持って行って審判の際に気をつけるよう伝えてくれ。警備上の問題で、選手を傷つけるおそれがあることを匂わせておいてくれ。あとは見守ろう」
……よいのですか」
「オレはを信じるし、何があっても一緒にいると、決めたんだ」

総隊長もまたしっかり頷くと、一礼をしてそのまま立ち去った。

後に残った神は陛下ふたりに説明に上る前に深呼吸をして目を閉じる。昨夜触れたばかりのの肌の感触がありありと蘇る。神の好きな匂いすらも思い出せる気がする。大丈夫、オレたちはもう離ればなれになることはない。それが例え王太子と王女でなくたって構わない――

大会初日は格闘技の種目が中心で、そこにの出番はなかった。神は全ての競技に監視をつけ、が現れたら報せろと指示をして、新たに開けさせた王家用の控室でじっとしていた。

そこにどうやらが出場するらしい、という第一報が入ってきたのは大会3日目のことであった。種目は投げ矢。飛距離を競うのではなく、軽量で短い矢に似た棒を的に当てる競技だ。丸の的ではなく、人間の形をした板であるところがかつての競技大会の名残だ。当てた場所により点数が異なる。

「女性部門も盛んな競技ですね」
「まあそうだな。矢は軽いし的も比較的大きいから、確か子供の部も人気あるよな」

神と総隊長は王家用の席で悠々と競技場を見下ろしていた。既に予選が始まっており、男女両方の選手が8つある的に代わる代わる矢を投げていく。ひとり6投、点数順で勝ち抜け方式。そこへが現れた。場内は大歓声、そもそも南町の人口は北町の数倍はあるし、地方からも観客が訪れるし、ここでもは大人気だ。

……ずいぶんお顔が変わられますね」
……髪をきつく纏めてるせいもあるだろうけど、目が吊り上がってるな」

ちょっと怖い。ばあやは置いてきて正解だった。

慣例に従って大会規則遵守の誓いを立てたは、位置につく。そして観客のざわめきの中、矢を構えると、素早く投げる。矢は真っすぐ飛び、的に突き刺さる。瞬間、場内は大歓声。の矢は1番点数の高い「頭」の真ん中に刺さっていた。

……あいつほんとすごいな」
……位置的に頭というより、額です。一体何を習われていたんでしょう」

実際にの腕を目の当たりにしたことがあるのは神だけだ。それも襲撃犯に押さえつけられた状態でちらちらと見ていた程度。なのでふたりとも少し顔が青い。すると貴賓席の向こうから聞き慣れた声の絶叫が響いてきた。娘が参加していることを聞きつけて飛んできた父上である。

「そういえば陛下はが襲撃犯撃退した時、すごく喜んでたんだよな」
様は彼の娘と息子を同時に引き受けていらっしゃるのかもしれませんね」

一体「病弱」とは何だったのかと言うほど、の父は大声を上げ手を振り振り、娘を応援した。その娘は予選を高得点で軽々突破、本戦へと進んでも集中力を切らすことなく矢を投げ続け、なんと優勝してしまった。矢は基本的に全部同じ所に刺さっていた。神と総隊長は背中が冷たい。

この「王太子の婚約者が投げ矢でブッちぎりで優勝した」という報は競技場全体をあっという間に駆け巡り、翌日からが参加している競技は大勢の人が詰めかけて入れない者が外に溢れるという事態を招いた。

腕に覚えがあると知っていた神と総隊長ですらドン引きするほどの強さではどんどん勝ち進む。それに対して反対派が焦り出すほど彼女は強かった。強すぎた。このままでは負ける――そう思わせるのには充分な活躍であった。が、それはもちろん、良い方向には働かなかった。