約束の海に

7

一応プロポーズは済んだわけだが、何しろシーズン開幕直前であった。信長は人気投票1位という看板を掲げて2年目のシーズンに突入、しばし結婚どころの話ではなくなってしまった。

しかし準備万端整えたい由香里はホッとしていて、準備期間が長く取れるのはいいことだ、と2年目のシーズン開幕に集中している信長を放置でとあれこれ準備の準備を始めていた。

順序としては、まずは清田家2階の部屋を片付けてふたりの生活スペースを確保する、が引っ越してくる、入籍、結婚式、の流れだ。というか最初のと信長の部屋を整える段階で既に新九郎が張り切りまくっているので、しばし清田家は慌ただしい日々が続くようだ。

結婚式に関しても、チームの方から全員呼ばなくてもいいと言ってもらえたので、そこそここじんまりとした挙式披露宴の方向で準備が始まり、信長の所属チームやの職場からは本当に最低限の招待にとどめ、友人知人が中心のセレモニーとなりそうだ。

そんな中、しょんぼりと肩を落としたのは沢嶋サムライである。

「ふたりが結婚するのは嬉しいけど、ちょっと寂しい気もする。気軽に会えなくなるし」

シーズン中でもオフになるとのアパートにやって来てはスイーツ食って帰るサムライと化している沢嶋選手は、最近では信長がいなくても遊びに来る。彼はエンジュのように女性化願望はないのだが、エンジュとは違って女性への性的興味はゼロなのだそうで、問題はない。

「そんなことないです、また遊びに来てくださいよ」
「それはちょっと……信長の実家なんだろ? それ以前に新婚なんだし」
「清田家はいつも他人で溢れかえってるので大丈夫ですよ。一度バーベキュー来てください」

慎ましい母子家庭育ちである沢嶋選手は清田家のあの怒涛の雑さ加減がピンと来ないようである。なぜチームの中でもピンポイントで彼と親しいのか説明するのは面倒だが、そもそも由香里がサムライのファンだし、本人が平気そうなら、というところだ。

「というか、私も何かと言えば清田の家に行きますし、新婚家庭という感じは……
「自分から旦那の実家で同居したいなんて、ちゃんも変わってるよね」
「それが最終目標だったりするので」
「きっと居心地のいいお宅なんだろうね」
「だいぶ騒がしくて雑ですが……

母子家庭育ちでひとりっ子なので、きっと彼も最初は戸惑うだろう。拒否反応が出て足が遠のく可能性も高い。しかし、清田家は様々な生活スタイルを持つ人々の坩堝である。沢嶋選手が現れれば騒ぐだろうが、ずっとひとりだけを真ん中に置いておくようなこともあるまい。みんなフリーダムだから。

「ご両親がいるんだっけ?」
「はい、今のところ信長の両親と、兄ふたりと、おばあちゃんと、犬4匹」
「えっ、全員一緒!?」
「そうです。次兄なんか私が嫁に来たら戻るとずっと言ってたので」
「えっ、そ、それは危なくないのか」
「家族が大好きな人なんですよ。あと長兄は家業に入ってるので、そのせいもあります」

きっと沢嶋選手の脳内にある「信長の実家」、それはちょっと大きいかなという程度の、新婚夫婦の部屋がひとつ余計にあるくらいの家を想像しているに違いない。しかし現在の状態で言っても、清田家は10LDKである。元々大人数で住むことを想定して作られた家だ。

「じゅ、10LDK!?」
「昔は信長の祖父母とか、叔父とか叔母とかもいて、やっぱり大家族だったらしくて」
……こんな個人主義が正義みたいな時代に珍しいね」
「そこに毎日他人も入ってきますからね。未だに初めてお会いする人もいるくらい」

それでもはこの1年位の間にずいぶん顔を売ってきた。神奈川を去るまでの間に知り合った人もいるけれど、「おや、誰の彼女?」と声をかけられるたびに「信長のです」と応え、「お嫁においでよ」と言われれば元気よく「はい! その予定です」と返してきた。

そういうわけで、清田家に出入りする人々はを「ノブの嫁」として記憶し始めている。

こうしたの、結婚を機に婚家へ入っていこうという姿勢はどこでも訝しがられる。それは容易に想像がつくのでわざわざ自分から言い出したりはしないけれど、どうしても必要があって言っても、真顔で「やめた方がいい」と言われることも少なくない。それもわかる。

しかし、珍しいことが悪ではないのである。清田家の嫁となることはの夢なのだ。

「そりゃあ、鬱陶しいこともありますよ。初対面の女性に『あんた料理なんか出来ないでしょう』とかいきなり言われることもあります。だけど清田家って、ちゃんと言ってくれるんです。そんなことない、うちの嫁にそんなこと言わないでって。みんな、家族の味方なんです。いつも他人だらけの家だけど、そうやって言ってくれる家なんです」

沢嶋選手は顔をほころばせると、唇についたクリームを拭って笑った。

「思い出すなあ、オレの母親がそういう人だった」
「それが何人もいるだけなんです」
「そっかあ。じゃあ、心配ないね」
「はい、やっと夢が叶います」

その年の年末、清田家2階の新婚夫婦入居予定の部屋のリフォームが終了、元々信長が使っていた部屋、空いていた1番大きな部屋、そして納戸がひとつにまとめられてが引っ越してきた。それを追いかけるように翌年の春には尊も帰ってきて、清田家は7人と4匹家族となった。

「困った……
「これはいずれどうにかしないとならんな……
「どうして今回まとめてやらなかったのかしら……
「全然考えてなかったな……

尊が帰ってきて数日、がひとりシーズン閉幕直後の挙式に向けて忙しくしている頃、清田家リビングでは新九郎と由香里と頼朝が腕組みで俯いて唸っていた。

と尊が増えた清田家、圧倒的に水周りが足りていないのである。

まず風呂。大人7人が夜に一斉に風呂に入ろうとすると、どうしても無理が出てくる。今のところ尊の帰宅が遅いことと、信長が地方遠征で不在が多いのでなんとかなっているが、それでなくとも時間のかかるおばあちゃんも抱えているので、大人7人風呂ひとつでは回らなくなりそうだ。

次に洗濯機。元々先代のものを犬用として庭に置いてあり、新九郎が現場などでひどく汚してきた作業着などはそこで洗ってきたが、大人7人全員の服を1台で洗おうと思うと、早朝から3度回してやっと終わるという状態。雨が続くと1日かけてコインランドリーということもある。

さらにキッチン。元々大家族前提で大きなキッチンではあったのだが、それでも大人7人の朝食、夕食、新九郎との弁当、由香里と頼朝とおばあちゃんの昼食……となると3口コンロではどう考えても足りない。しかも清田家この時点でも男が4人、全員背が高くて体が大きいのでよく食べる。

それを由香里がほぼひとりで管理しているのだ。は嫁には来たが、まだ働いているし、もっともらしく腕組みしている頼朝は何もしないし、おばあちゃんも手伝ってくれるが御年78歳、寸胴抱え上げて煮炊きは出来ない。

がやっと嫁に来るというのでみんな舞い上がってしまい、2階の新婚部屋のことばかり気にしていて、「全員で生活する家」ということを何も考えていなかった。一応トイレは2階にもあるが、それだけだ。おかげで朝の洗面所は戦争状態、身支度の手間数が多いは2階と1階を行ったり来たりで朝から疲れている。

「ふたりの部屋を防音にするとかいう余計な世話をしてる余裕があったら洗面所作ればよかったのに」
「しょうがないだろ、早く孫見たいんだもん」
「催促するような真似するなよ。そういうの、女性にはものすごくプレッシャーなんだからな」
「あんたもそう思ってたんだったら先に言いなさいよね」
「水周り事情なんてオレは管轄外だからわかるわけないだろ。母さんこそ早く言えよ」

親子3人は責任のなすりつけあいをしているが、そういうわけで新婚部屋は防音だし、結婚祝いだとか言って尊がAVシステムを整えたりと、妙に豪華になっている。倹約生活の長いはもったいないを繰り返していたが、どちらにせよ挙式披露宴で大枚が飛ぶ予定だ。

「しかし実際に子供が出来たら、これじゃどうにもならんぞ。リフォーム、考えないとな」
「水周りを増やすんだな?」
「そうだなあ。てかそんなら事務所も一緒に直すか。そしたら応接間とか和室とか、もういらんだろう」
「新築は無理よ。その間全員で仮住まいに引っ越すのは現実的じゃないわよ」
「子供が出来たらプール欲しいな。なあ由香里」
「そういうのは後にしろよ! 耐震とかの方が先だろ!」

この大きな家のように、全て打ち壊して骨組みまですっかり作り変えてしまうのは現実的じゃない。けれど、という新しい家族が増えたことで、この家もこれからますます変わっていく。また時が来れば家族も増えよう、そうなればさらに他人も増えよう、それを受け入れられる家にしなければ。

「本職の家がガタガタじゃ話にならないのよ! 頼んだからね、お父さん、お兄ちゃん」

今が1番忙しいであろう由香里は、そう言って夫と長男の肩をバチンと叩いた。

「無理しなくてよかったのに」
「男の約束なんだよ。おじいちゃんならわかるでしょ」
「元町で買ったバッグがやっと日の目を見るわよ」

挙式披露宴の2日前、約束通り自宅までハイヤーで迎えに来てもらったの祖父母は、これまた約束通りグリーン車で東京駅までやってきて、に出迎えられていた。ふたりは現在70代半ば、持病はあれど大きな病はなく、相変わらず慎ましく暮らしているという。

「だけど本当にいいのかしら、結婚式の時は忙しいでしょうに」
「おじいちゃんたちは大変だからいいの。お客さんなんだから遠慮しないでね」
「まあ、清田さんちは家が大きいからなあ」

新幹線の距離に住むの祖父母は清田家に宿泊するのである。例の和室で過ごしてもらう予定だ。というか挙式披露宴はやるけれど、おそらくその前々日にあたる今日から酒盛りになるに違いない。おじいちゃんとおばあちゃんも酒好き、ちょうどいい。

「お母さんは結局どうしたんだ」
「あれ、聞いてないの。一応来るけど、日帰りだって。ナイトくん大変みたいよ」
はそれでよかったの」
「平気平気。私とお母さんの生きる道は同じじゃなかった、それだけだもん」

アユルは昨年末無事に男児を出産したが、大方の予想通り既に育児に倦み疲れており、の母がつきっきりでサポートしているらしい。娘の挙式披露宴ということで彼女も近くない距離をやって来るわけだが、その間アユルをひとりで残しておけず、やむなく婿が休むことになったとか。

そしての祖父母と言えば信長である。彼は4歳までに両祖父を亡くしているので、の祖父を好いており、今日も東京駅まで車を出すと言って聞かなかった。

「おじいちゃんおばあちゃん、お久しぶりです!」
「おー、信長くん久しぶり! なんだい、明後日結婚式だっていうのに変わらんなあ」
「ハイヤーもグリーン車もありがとうね、快適でした」

鎌倉観光を一緒に楽しんで以来のおじいちゃんおばあちゃんに信長は上機嫌だ。ふたりの荷物をさっさと受け取るとトランクに詰め、また新九郎に借りてきたアウディにふたりを乗せる。

「しかしまあ、孫の結婚式に出られようとはね」
「あれ? ユウタくん結婚してなかった?」
「してるけど、別におじいちゃんたちは呼ばれないよ。式はハワイだったらしいし」

の母方の従兄弟は既婚のはずだが、まあ彼らは元々この祖父母とは親しく付き合っていない事情もある。今回も伯父家族には招待の打診すらしていない。祖父の家にいる頃から仲は良くなかった。それに、父方の親戚も誰にも声はかけていない。現在付き合いはないからだ。

「ねえねえ信長くん、みなさんはお元気でお変わりない?」
「これからお宅にお邪魔するんだから、すぐわかるだろ」
「おかげさまでみんな変わりないですよ。そうそう、オレの兄たちは初めてですよね」
「そうよ、例のお兄ちゃんたち、初めてお目にかかるわ」
「信長くんのご両親には本当に世話になったからなあ……

おじいちゃんはアウディの窓の外を流れていく首都高の景色に目をやりながら、ゆったりと微笑んだ。地味で質素な昭和の男であるおじいちゃんは、「結婚のお願いに行きたい」と言う信長を止めて、それはもう済んでるからと言って取り合わなかった。

一緒の時間を過ごしたのはたった1日の鎌倉観光だったけれど、おじいちゃんの信長に対する信頼もまた強く、シーズン中だし、そんなことに時間を使うのはもったいないから気にするなと呵呵と笑った。

……、おじいちゃんとおばあちゃんな、ちょっと考えてることがあるんだ」
「えっ、何、どうしたの」
「今の家を処分して、それぞれ生まれた町に帰ろうかと思ってるんだ」

それぞれ? と信長はおじいちゃんの声に一瞬息を止めた。

「と言っても、おじいちゃんとおばあちゃんは川ひとつ挟んだ隣町の出身で、年は違うけど高校も同じでね。最近、そういう同郷の馴染みたちが続々と生まれた町に帰ってきてるんだ。夫婦で来る人もいるし、離婚してくる人もいるし」

2日後に挙式披露宴を控えて和やかだった車内が少しだけ張り詰める。孫が結婚するという時になぜそんな話を……と信長は思ったけれど、おじいちゃんはこのタイミングを選んで話しているようにも聞こえる。

「そういう昔馴染みたちと話してるとね、子供の頃の自分に帰ったような気がするんだ。親とか、夫とか、職場での自分とか、そういうものが何もない、ただの『自分』に戻りたいなあって、思うようになって。生まれ育った町で、一番最初の自分に返って余生を過ごしたい、ってね」

がちらりとバックミラーを覗くと、おばあちゃんも頷いている。

「だけどそれはおばあちゃんとの生活が嫌だからじゃない。おばあちゃんも、自分に戻りたいんだ。だからオレたちは離婚しないけれど、それぞれ川ひとつ挟んだ距離に住んで、もっと自分らしい生活をしたらどうかって話をしてるんだ。離婚でなくて、卒婚てやつだな」

離婚でなくて卒婚――実際の離婚の場合にも使う表現だが、確かにおじいちゃんの説明では卒婚というのがぴったり来る。夫や妻や親や、そういう立場から卒業して、ただひとりの「自分」として生きていきたいというのだろう。

「おじいちゃんとおばあちゃんは何十年という結婚生活を務め上げて、全うしたんだ。もうやることは残ってない。仕事は終わったんだよ。もうお家へ帰ってご飯を食べて、お風呂に入って寝る準備をする頃合いだ。そういう、そんな結婚の形もあるってことを、頭のどこかに置いておいてくれたらと思う」

しんみりしたおじいちゃんの声に、ふふっと軽やかなおばあちゃんの笑い声が重なる。

「中にはね、オレの故郷で余生を送るぞ、お前も来い! っていう人もいるのよ。なんであんたの故郷であたしが残りの人生を過ごさなきゃいけないのよって思うでしょう。私の故郷は別にあるもの、共に頑張ってきた者同士、そこは尊重して自分の古巣に帰ろうじゃないかって話なの」

おばあちゃんの声は楽しそうだった。本当の自分に戻るのが楽しみで仕方ない――そんな声だった。

「最初は寂しいかもしれないけど、たぶんねえ、いい友達になれるんじゃないかと思うのよ」
「おうとも、飲み友達だな」

おじいちゃんの合いの手に、やっとと信長も笑った。

「まあ、見合い結婚だったおじいちゃんたちと違って、お前たちは好いて好かれての結婚だから意味合いは違うだろうけど、そういう風に、色んな形があるんだ。どんな人にも人生があって、生き方があって、意志がある。そういうのを忘れずに、ただ、後悔のないようにな」

結婚の挨拶を断った代わりの、餞の言葉だったのかもしれない。新九郎のアウディを静かに走らせている信長はとちらりと目を合わせると、バックミラーにもちらりと目をやって微笑んだ。

「じゃあオレとも友達になってくれます?」
「いいねえ。一回女抜きで飲もうじゃないか」
「あら、またそういうかっこつけたことを言って。じゃあ私はと由香里さんと飲もうかしら」

また車内に楽しげな笑い声が戻ってきた。

は思い出す。挨拶に行かなければと言う信長に「来なくていいと言え」とおじいちゃんは突っぱねた。シーズン中に余計なこと考えるんじゃない、とちょっとお冠だった。父の代わりに聞いてやってもらえないかとは言ったのだが、自分はの父親になったつもりはないから、だったら父親の墓の前で言ってこいと聞かなかった。

そして渋々了解したには、こっそり付け加えていた。

「あのな。おじいちゃんはもう鎌倉旅行の時には信長くんていう男をすっかり信用しちゃったんだよ。お前にはわかりきったことだろうけど、彼は本当にいい男だよ。だってそうだろう、信長くんは『絶対すごい選手になってハイヤーとグリーン車を出す』って言ったんだ。本当にその約束を守ったじゃないか。彼を選んだお前の判断は正しい。結婚は大事な人生の決断だけど、お前は100点満点の答えを掴んだんだよ。それはおじいちゃんが保証する。だから余計なこと考えなくていいから、毎日を一生懸命生きなさい」

父が生きていたら同じことを言ってくれただろうか。そういう不毛なことをちらりと考えたはしかし、迷った時はこの祖父の言葉を道標に生きていこうと思った。私の決断は100点満点の答えなのだ。それをあとで愚痴愚痴言ったりすまい。

そして祖父母のように、後悔のない生き方ができたら。信長と一緒に。