約束の海に

3

「コーチが突然来てマリエまで着いてきてチームの手前強く出られなくて」
「あの女何年も前に散々釘刺しておいたのに今頃になって現れてあんなこと」
「わかったわかった」

高校生チームとの交流試合があったその日の夜、は自宅で両側から信長とエンジュにすがりつかれてげんなりしていた。ドラマや漫画ならドキドキキュンキュンのハーレムシチュ……というところだが、ただでさえ狭い部屋の中、実に鬱陶しい。

「お前がはっきり言わないからいけないんだろ。コーチって言ったって今は無関係じゃないか」
「無関係じゃないんだよ監督の遠縁にあたるとか何とかで」
「だけど別にのことをきちんと説明して困ることなんかないだろ」
「オレはちゃんと言ったのにあの兄妹理解できねえんだよ」
「うるさい、ちょっとふたりともどいて」

はギャンギャン言い合いをしている信長とエンジュの間から這い出ると、大きく伸びをする。優しく包み込んでくれるならいいけれど、大の大人の男ふたりが体重かけて寄りかかってきたら重いだけだ。背中がパキン、と音を立てる。

「どうするのエンジュ、明日仕事でしょ」
……もちろん帰るよ。彼には連絡入れてあるから大丈夫」
「今の彼氏、思ってた以上にずいぶんオトナだよな」
「まあ実際ひとまわり年上だからね」

現在のエンジュのパートナーは、元々同性愛者ではなかったそうだ。ただエンジュ自身が言うところによると、「ノンケの方が落としやすい。同業者は色々難しいんだよ」だそうで、エンジュとしては過去最長の交際期間になる相手だ。

まだ学生だった頃のエンジュと交際を始め、そのまま彼を自身の会社で雇い、さらには自宅に住まわせている彼氏は、信長によると「よく出来たオトナ」という印象だったそうだ。突然訪ねてきた信長に嫌な顔ひとつせず、帰りはタクシーを呼んであげるから飲んでいったらどうだと進めてくれたという。

……でももう少しここにいたい。〜」
「あーもう、ご飯の用意するからくっつかないで! 信長、これどうにかして!」

マリエの件に関して、はほとんど気にならない様子で、打ちひしがれるエンジュを自宅に連れて帰ったと信長に連絡を入れたところ、こちらもコーチとマリエの襲撃でストレスマッハになって飛んで帰ってきた。高校生相手の交流会だったので、早々に抜け出せたらしい。

「というか仮にも婚約者が別の男に抱きつかれてて平気なのあんた」
「別の男って、エンジュだし」
「信長ー! ようやくそういう気持ちになってくれたんだね! いいよ、今日オレ泊まっていくから」
「じゃあ私清田家に行くからあんたらふたりでイチャコラしてなさい」
「ちょっと待てそれは無理! ! 行かないで!」

グズる男ふたりをよそに、は淡々と食事の用意をする。と言ってもエンジュの来訪は予定になかったことなので、備蓄食材だけで簡単に済ませる。長い貯金生活から抜け出してひとり暮らしを満喫中だが、染み付いた倹約生活は簡単に変わらない。パスタ茹でて市販のソースを混ぜるだけ。

「エンジュ、帰りは電車と歩きだよね? じゃあ飲んでいいよ」
「ねえ、今度ちゃんと泊まりに来ていい? オレがご飯作るから」
「へえ、エンジュ、料理するの。何作るんだよ」
「その前に泊まりはダメとか出てこないのか」
「だってエンジュだし」

度々文句を言いつつも、もその「エンジュだし」という感覚しかない。何かというとすぐ3人で結婚だの3Pだのと言うけれど、まず第一に彼は親友である信長を案じているのであり、そのパートナーであるを信頼してくれているから、好きなだけ軽口が叩けるのである。

それに、信長にもにも遠慮なくスキンシップをはかるけれど、それはふたりにとってもはや、触り癖のある兄か弟か……というくらいにしか感じていない。特には異性だが、それでもエンジュには男を感じなかったし、しかし女だとも思わなかった。

性別を超えた存在……などという高尚なものでもなかった。ただエンジュは大好きな友人であった。いつも自分たちのことを気にかけてくれて、助けてくれて、優しい声と柔らかい笑顔で励ましてくれた人。そういう、「大事な他人」だった。

市販のソースに茹でたパスタ混ぜただけの、材料費一人前約90円程度のディナーだったが、パスタと言えば普段2000円前後のものしか食べていないであろうエンジュはきれいに平らげ、その上「ご馳走になったんだから洗い物はオレがやるね」と言ってキッチンに立った。

、オレ試合後にパスタ1人前じゃ足りない」
「あとでね」
「エンジュ泊まるのはいいけどオレのいない時はダメだからな」
「いちいち真に受けないでよ」

背中にへばりつく信長をあしらいつつ、しかしはこのカップルの間に平気で入り込んできている友人に、清田家を思い出していた。一応清田さんのおうちだが、いつでも他人がいっぱい、どこかのおじさんがリビングでお茶を啜っているのは珍しいことではない。

それは最初、小さな棘が肌を刺すような違和感があり、少し気持ち悪かった。しかし、いつしかその違和感は妙な快感に変わり、気持ちよさを感じるようになり、今では信長がいる時にエンジュがお泊りというのも楽しいかもしれないとさえ思うようになった。

さすがに3Pは無理だ。そういう意味ではない。ただ家族のように過ごす時間はきっと楽しいだろうと思った。酒を飲みながら語り合い、テレビでも映画でも、ああでもないこうでもないと言いながら無為な時間を浪費する。それは取りも直さず、結婚までにしか出来ないことだから。

食器を洗い終えたエンジュは、今度はさっさと帰り支度を始めた。東京の住まいまでは電車でも1時間以上かかる。現在22時、最寄り駅までも20分ほどかかるし、頃合いだ。

「駅まで送っていこうか? それともタクシー呼ぶ?」
「いいよ、ふたりに送ってもらったら帰りたくなくなるし、タクシーは待つ時間がもったいない」
「何言ってんだ、スイートハートが待ってんだろ?」

狭い玄関で靴を履いたエンジュは、音もなく振り返ると、珍しく苦笑いをした。

……最近、あんまりうまくいってないんだ」
「えっ?」

エンジュの口から自身の恋愛事情についての話が出てくるのは初めてだ。信長が目を真ん丸にして首を突き出す。というか相手はあんな「出来たオトナ」の彼氏だって言うのに、一体どうした。

「エンジュ、大丈夫……?」
「だから、今日、がああ言ってくれて、嬉しかった。ほんとに」

詳しく話を聞いていない信長が何言ったんだと突っつくので、はこそこそと今まで世話になりっぱなしだったから今度はエンジュのことを助けたいと言ったのだと説明した。

「それは、うん、そうだよな。エンジュ、なんか困ったら言えよ」
「私たちに出来ることなんかたかが知れてると思うけど、何でも言ってね」

エンジュはふにゃりと笑うと、ふたりまとめて抱き締めた。ふたりも抱き返してやる。

……ねえ信長、、お願いがあるんだけど」
「おお、どうしたよ」
「一度だけでいいから、ふたりとキスしたい」

エンジュらしい余裕が感じられない声に、と信長は真顔で言葉を失った。いつもの冗談めかしたふざけた調子でもなくて、それは少しだけ不安な気持ちにさせる。

「エンジュ……なんかつらいの? 話、聞くよ」
「無理するなよ、しんどかったら――
「ダメ、それ以上甘やかさないで。立ち直れなくなるから」

無理をして言っているようには聞こえなかった。は信長の方をちらりと見てから声を落とす。

「でもエンジュ、今、私たちに甘えてるんでしょ? 違う?」
「そうだよ。だから……キスしてって、おねだりしてる」

信長が細くため息を付き、の背中にそっと手を触れた。

、こいつにキスしていい? エンジュ、がいいって言ったらするわ」

信長は真剣な顔をしていた。はまたちらりとエンジュを見て、信長に視線を戻して、ゆっくりと頷いた。信長の腕に触れて、するりと撫でる。彼の気持ちは100パーセント分かるような気がした。

「私もしていいって言うなら、していいよ」

信長は頷くと、今にも泣き出しそうなエンジュを抱き寄せキスをして、強く抱き締めた。背中をポンポンと叩き、強めに撫でる。そしてすぐに解放すると、エンジュの背を推しての方へと促す。

「エンジュ、無理、しないでね。無理しても、何もいいことないからね」
……大丈夫、オレ、ここ最近の中で、今が1番幸せ。だから平気」

そう言うエンジュの笑顔はあまりに幸せそうだった。は腕を伸ばして爪先立ち、エンジュの頭を抱きかかえるようにしてキスした。エンジュの両腕がの体をぎゅっと締め付ける。

「ひとりで、帰れる?」
「大丈夫、ひとりで帰りたい。ありがとう。信長もありがとう」

そう言うとエンジュはひらひらと手を振ってすぐに出ていってしまった。

……大丈夫かな」
「あんな風なエンジュ、初めて見たから」
「ひとまわり年上で、社長さんで、プライベートでは恋人……大変なことも、あるよね」

エンジュが出ていったドアの鍵を閉めたは、そのまま信長に寄りかかって抱きついた。

……信長、私たちも、キス、しよっか」
「エンジュは大丈夫だって。落ち込むなよ」
「うん……
「てかオレ飯あれじゃ足りないし、風呂も入ってねーし、キスだけじゃ嫌なんだけど!」

が顔を上げると、見慣れたにんまり顔があった。落ちていた気持ちがふわっと浮き上がる。

「あんた明日休みだろうけど、私は普通に仕事なんだよね」
「じゃあ朝送っていって、帰りも迎えに行く。そのまま飯行く」
「よーし、交渉成立。じゃ、なんか作ろっか」

信長の言うとおり、これ以後、エンジュはまた自身のプライベートなことを漏らしたりはしなくなった。余裕があって、いたずらっぽくて、言いたいことは遠慮せずに言う。強引な男の子に目がなくて、だけどやっぱりいつでも信長とのことを案じていた。

そういう彼が困ったときには助けになりたい。助けを求められる存在でありたい。

と信長、ふたりがまた新たに心に決めた「覚悟」であった。

この頃、信長の兄である頼朝が30歳を機に修行先を退社、実家に戻って役員に就任した。新九郎がひとりで社長と親方を務めていた清田工務店は一級建築士がいるというどエライ看板を掲げることになり、にわかに慌ただしくなっていた。

「それがさあ、が嫁に来たら尊も帰ってきたいって言ってるのよ」
「言われた。いつお嫁に来るの? グズグズするなよ、って最近よく聞かれる」

清田家リビング、信長とその母由香里である。

「別にいいんじゃないの、帰ってきても。尊なら仕事とかで遅いだろうし――
「一応新婚なのよ、いいの、お兄ちゃんたちと並んだ部屋で」
「今更だろ。てか納戸ももらうことになってたじゃないか」
「それはいいんだけど、悩ましいわね、一緒に暮らしたいけど新婚なのに可哀想な気もするし」

清田家は大きい。縦長というか横長というか、とにかく長方形をしており、工務店の事務所と繋がった作りになっている。建物はブロック塀で囲まれていて、敷地の正面側はずらりと駐車スペースになっているし、庭も広い。裏側には敷地の半分ほどの建材資材置き場もある。

この住居兼事務所は信長の祖父がまだ親方兼社長だったころに建てられたもので、その頃も一緒に暮らしている人数が多かったので、元から部屋数も多かった。途中風呂やキッチンを新しくしたり、畳敷きの和室しかなかった2階の各部屋をフローリングに直すなどのリフォームは行ってきたが、それでもこの家は当時のままである。

そういうわけで、住居の方の2階には納戸を含め7つ部屋がある。が清田家に嫁した暁にはプライベートの確保の意味も含め、信長が使っていた部屋だけでなく、1番大きな部屋と納戸を解放する予定になっていた。これらは建物の端、南西に全て位置していて、ひとまとめにできる。

「ていうか来週籍入れます引っ越しますなんていう慌ただしいのはやめてよ」
「お、おう……
「一番大きい部屋は確かに空いてるし使っていいけど空っぽじゃないんだもの」
「まあ、家具とか新しくするかもしれないし」
「そういうのは好きにしなさい。てか結婚式はどうするのよ」
「え、いや何も考えてないけど……
「ないの!?」

由香里は大きな宝石がついた指輪の嵌まる手で額をバチンと叩いた。

「ちょっと待って予定ではいつ頃結婚する気でいるのよ」
「いやそれも具体的な時期とかそういうのは……
「考えてないの!?」

久々に由香里の怒鳴り声が炸裂した。

「なっ、そんなの好きな時でいいだろうが!」
「これだから男は!!! 結婚てのはじゃあ明日ね〜、で済むことじゃないのよ!」
「そのくらいわかってるよ!」
「わかってない! あんたの職業柄席を設けないわけにいかないでしょ!?」
「だからそれはその時に決めれば――
「出席してくださる方の殆どが社会人なのよ! 来週末やりま〜す! で済むと思ってんの!? だいたい、来週結婚式したいです予約させてくださ〜い、で借りられる場所がどこにあるのよ! ドレスは!? 食事は!? 引き出物は!? 招待状は!? 遠方の方の宿泊は!? 当日のうちの犬は!? そういうたくさんのことを決めていかなきゃいけないのよ!!! 」

来週末やりま〜す! で済むとは思っていなかったが、確かに言われてみれば。信長は由香里の勢いに反論できなくて黙った。そう言われると、結婚とひとくちに言ってもなんだか随分大変そうだ。というかそういえばの祖父にハイヤーで迎えを出してグリーン車をリザーブしておくと言ってしまった。言っちゃったもんはやらねばならんだろうが……脳裏に万札がひらひらと舞い飛ぶ。

あれっ、もしかして、結婚って、けっこう面倒くさい? オレはと一緒にいたいだけなんだけど。

しかし面倒くさいあまりの祖父との約束を破るのは嫌だったし、まさかに「面倒くさいからドレス着るのやめようぜ」とは言えない。

に聞いておきます……

しかしどうだろうか、そうした現実問題の結婚とは別に、にはあの約束の海でもう一度プロポーズをする約束になっている。それは忘れていない。ふたりの、ふたりだけの約束だ。そこに招待客だの引き出物だのは、どうしても無関係な気がしてしまってならない。

さらに、約束は忘れていないし、いつかあの海でに手を差し伸べたいと思っているけれど、タイミングに関しては完全に見失っている気がした。何かきっかけがなければ不自然な気もするし、かといって何がきっかけとして適切なのかはと自分では感覚が違うだろうし。

との結婚、それはが今のアパートを引き払い、清田家の2階の空き部屋に大きなダブルベッドを置けば終わるくらいの気になってしまっていた。

言われてみれば、はともかく自分の立場では監督やらキャプテンやらを招いて一席設けるくらいのことはしなければならない。例えば結婚式をやるのだとして、一体誰を呼べばいいと言うんだ。まさかチーム全員呼ぶのか? 大学の時のチームメイトは? 海南の仲間はさすがにいいよな?

そしてサッと背筋が冷たくなった。

のおふくろさんどうするんだよ――