約束の海に

4

「どうかなあ、アユルが妊娠中だし」
「え!?」

後日、信長は由香里にガミガミ言われたことを含め、しかしプロポーズはまだなので、もし結婚式するならお前の方の家族どうするんだ、と聞いてみたらとんでもない情報が出てきた。

「あれ? 言ってなかったっけ」
「聞いてねえよ……
「ああそうだ、みこっさんに言ったんだった」
「なぜオレを通り過ぎて尊」

それはたまたまだが、とにかくの義理の妹であるアユルは半年ほど前に入籍、早々に子供を授かり、年内に出産予定だという。だが、信長の首がかくりと傾く。

「結婚式とかやらんかったのか?」
「やったんじゃない? アユルだよ?」
「お前、行ってないよな」
「ご祝儀は送ったけど、別に行く必要もないし」

一応家族だが、アユルとアユルの父親は他人である。は神奈川に帰還することを選んだのだし、母親自身に何かあるならともかく、アユルはその程度と決めている。

「面白いよ、相手ね、ヤギさんの店で働いてる人でね、ヤギさんの弟子みたいな人なの」
「何が面白いんだ」
「だって、婿入りしたんだよ。ヤギさんの執念て感じだよね」

信長は苦笑いだ。アユルの父親、通称ヤギさんは娘を手元に置いておくためなら何でもするという人で、大学を出たアユルに仕事に邁進されては困るだろうし、自分の愛弟子をあてがったと考えるのは想像に難くない。結果、弟子は娘と結婚して婿入り、跡継ぎも確保できた。

「だからどうだろうね? 予定日はまだ先だけど、それを含めても1年くらいは忙しいんじゃない?」
……来てほしいとかほしくないとか、あるか?」
「うーん、普通にしてくれるならいてもいいけど」

が神奈川に帰ることを最後まで認めなかったような人である。しかしの決意は固い。

「お父さんが死んで、お母さんがちょっとおかしくなっちゃった時点で、なんか普通の、ご両家が揃って感動的なお手紙と花束贈呈があって……みたいな結婚式の方が現実的じゃない気がするんだ。気持ち的には信長とふたりでもいいくらいなんだけど」

それは信長も同じだ。何ならに美しいドレスを着せて、あの海で誓いのキスをするだけだっていい。信長はひょいと腕を伸ばしてを抱き寄せ、髪を撫でた。

……ねえ、だけどさ、エンジュとか、来てもらいたいと思わない?」
「うん、思う」
「結婚できたよ、ありがとう、って、言いたい人、結構いてさ」
「そうなんだよな。ぶーとか、お祖父ちゃんとか、水戸とか」

言い出せばきりがない。はゆっくりと息を吐きながら信長の腕を抱き締める。

「この間、エンジュ、ちょっとつらそうだったでしょ。改めて、いつでも助けてあげられるようになりたいし、エンジュが私たちに興味なくならない限り友達でいたいし、それはぶーちんとかチュカも同じなんだけど、そうすると、信長と『ふたりきり』っていうのが、違和感感じてきて」

父を亡くしたことで母との関係が歪み、結果として離反するしかなかったには、これまで本当の意味での拠り所は信長しかいなかった。信長という存在と共にあるために何でも耐えてきた。信長と一緒に生きるために生きてきた。

しかしどうだろうか、それはもう目の前に現実として見え始めている未来だ。

そんなの周りには、信長だけでなく、たくさんの繋がりが生まれていた。友人、恩人、新たに家族となる人々――それは無視できない存在で、例えば信長と結婚という契約を交わして夫婦になるのだとしても、決して「無関係」な人々ではなくなってしまった。

確かに結婚相手は清田信長ひとりだ。エンジュの軽口のようにみんなでワイワイ結婚するわけじゃない。しかし、それは同時に、信長本人だけでなく、彼の抱えている世界とも繋がるということを意味する。彼の家族、職業、過去も未来も――

「そう思うと、高校生の頃思ってたみたいな、結婚してあの家に住む、それだけじゃないんだなって」

特にの場合、信長と結婚して清田になり、あの家に住むことが夢のうちだった。それは信長が考えていたように、アパートを引き払って引っ越せばOKというものではない。

「実際、面倒くさいよな」
「うん、面倒くさいよね」
……やめる?」
「やめたいって、思ってる?」

聞き返された信長はの体をぎゅっと締め上げて、髪に顔を埋めた。

……思ってない。それはやだ」
……そういう面倒くさいことも全部、抱えて、行くんだろうなって、思ってる」

楽しいだけの気楽なカップルでいられたはずのあの夏、が遠くへ引っ越してしまうということを知った信長は、を攫ってどこかへ消えてしまいたいと思った。ふたりだけでいられる場所、誰にも邪魔されないで愛し合っていられるところならどこだっていい。そう思っていた。

7年の時が過ぎ、いつしかそんな思いは形を変え、自分たちの生きる世界の片隅にふたりの居場所を作り、その中で生きていきたいと思うようになっていた。逃げ出して隠れて世界にたったふたりきり、ではなくて、大事な人たちと共に生きていきたかった。

「そういうのを、ふたりでやっていけたらなって」

またひとつ、ふたりに芽生えた「覚悟」だった。

人気投票が始まり、熱心なファンが投票先を表明したり、それをSNSなどで集計しておおよその予想を立てる人が出始めたりしていた頃のことである。尊の元カノで現在は友人であるミチカに誘われたは仕事の後によく行くダイニングバーに立ち寄った。

ミチカはこのところ合コン通いが続いていて、しかし成果が上がらず、順調に揉めているらしいマユとモエすら羨むようになっていた。が、今日はなんだか目が爛々と光っている。望み通りの彼氏が出来たんだろうか? そう考えたがミチカに近付くと、急に腕を掴まれた。

「ちょっと、あんた信長と別れたの!?」
……はあ?」

というか声が大きい。何しろ地元だし、信長という名は珍しいし、そんなこと大声で言うんじゃない。は慌てて唇に指を立て、ミチカの手を押し戻した。何でそんなことになってんだ。

……別れてないけど、何それ」
「だって最近ファンの間であいつの例の彼女だって噂になってる女がいて」

はそのままテーブルに肘をついて額を押さえた。マリエだ。

ミチカは信長がきっかけで地元のチームのファンになり、の近しい人々の中では1番熱心に試合を観戦したりしてくれている人だ。勢いファンネットワークにも近くなり、SNSなどでの繋がりも増える。そういうところから聞こえてきた噂なのだろうが……

「まさか本人のことが漏れたのかなと思って探ってみたら、全然違う人じゃん!」
「え、ちょっと待って、違う人、ってなんか本人が顔出したりとかしてるわけ?」
「ううん、そうじゃないけど、試合の時の観客席撮った画像とかそういうのが拡散されてて」

狭いネットワークの中とはいえ、不鮮明な拡大画像に丸印と矢印が書き加えられたものが広まってしまっていて、はっきりと人相が判別できる状態ではないそうだが、明らかにではなかったのだという。そりゃあそうだろう。マリエは髪型から服装までガーリー趣味だ。

「そしたら、あいつと同じ大学だって言う人が、知ってる、バスケ部にいた人の妹だとか、一時期付き合ってたことあったとか、なんか色々憶測で言ってるのが拾われちゃってて、なんかすっかりじゃない女が彼女みたいになってて」

ミチカは心配しながら憤慨しているようだ。それ自体はありがたいが、さてなんと言ったものか。

「ええと……一応別れたりとかはなくて、特に変化はないんだけど」
「じゃあ何、あの女が勝手に言いふらしてるの?」
「ていうのともちょっと違って、たぶん誤解が独り歩きしてるんだと……
「ちょっと待って、あんたはいいのそれで!?」

ミチカも一応と信長がどんな経緯で婚約にまで至ったかということは知っている。が、何しろが神奈川に戻ってきてからの付き合いだ。ふたりがこれまでに積み重ねてきた覚悟の程は、知らないことの方が多い。

「いいっていうか、だってそれどう揉み消せっていうの?」
「だからそれはほら、ノブにちゃんと訂正してもらうとか」
「今のところ公式アカウントの許可はおりてないんだよ」

チームに所属しているからといって、SNSをやってはいけないわけではない。学生時代からそのまま顔も氏名も出した個人アカウントを運用している選手もいる。だが、とりあえずのところ信長は学生時代の繋がりでフェイスブックアカウントを所持しているだけで、ろくに使っていない。

そういう人物なので、新規にチームの選手としてアカウントを開設するのはもう少し待たないかと指導されているという。この辺はプリンスやサムライと違って親しみやすいキャラクターであることが災いしている。選手として開設するなら、もう少し人気のほどの様子を見てからにしよう。

「なんでよ。親しみやすいならいいじゃん」
「いや、逆に遠慮がないの。まだ1年目終わったばっかりだし、ファンの人が上から目線ていうか」
「あー……まあ、おっさんとかファン歴長いおねーさんとかはそーいう人いるけど……
「だから、匿名で個人でやる分にはいいけど、選手としてはもう少し様子見てみようって」
「で、でもほら、チームの公式アカウントもあるじゃん!」
「それを1年目の選手がプライベートなことで使うわけには」
「ちょっと待て、あんた違う女が彼女だって思われたままでいいの!?」

ミチカのお怒りはごもっとも。そう思ってくれるのは本当に感謝している。

「でもさ、うちら実際ぼちぼち結婚のことも考えてるような段階でさ、それって愛してるよ愛してるわって話じゃなくてさ、もっと事務的な、現実的な話になっていくし、この誤解のせいでそれが中止になるとは思えないし、実際、噂の域を出てないわけでしょ?」

エンジュの話によれば、確かにマリエ自身が「私が清田選手の婚約者です」と名乗りを上げたわけではないらしい。ただ、もしかして清田選手が隠しもしないで左手に指輪つけてる例の彼女なんですか? と言いたげなファンに対し、思わせぶりな返答だけで否定をしなかったそうだ。

ここからはエンジュと信長本人の憶測になるが、もしマリエがそういう状況を楽しんでいるのだとしたら、積極的にファンの中に入り込み、誤解を広げているかもしれない。噂のあの人、肯定はしないけど、最近よく顔出すよね、もしかして結婚近いのかな――

突然出てきたので信長は面食らったし、エンジュも頭にきてしまったけれど、しかし落ち着いてみると、モンスターとしては実に小物だ。はそれをミチカにどう伝えたものかと考える。

「例えその人が彼女だって思われてても、信長と結婚するのは私なわけだし」
「それはそうなんだけど……なんか悔しいじゃん」
「チュカがそう思ってくれるのは嬉しい。ありがとね」

エンジュほどではないがミチカもスキンシップが好きなので、は彼女の頬に触れてするりと撫でた。少し年上だが、彼女もまた大事にしていきたい存在だった。

「いいよ、そんな人。放置しとこ」
「ううう〜ノブ、ホームの試合でサプライズプロポーズしないかなあ」
「ごめん、それ絶対やだ。そんなことしたら本当に別れる」
「えええ〜! なんでよおー!」

ひょんなことから親しくなり、高校時代から公的に派手な清田信長という人物と恋に落ちたであるが、本人は派手に振る舞うのは苦手なタイプ。小学生の頃に将来の夢を発表しなければならなくなり、ただ働いてそのうち結婚ていう程度じゃだめな空気に押されてやむなく「キャリアウーマン」と言ってしまったくらいには、目立って華々しい人間になりたがらないタイプだ。

コートの上でスポットライトを浴びた信長がマイクを持ち、扇情的な音楽が大音量で流れる中、何の用意もなく普段着のが客席から引きずり降ろされてプロポーズ! 狼狽える本人より観客の方が目を潤ませる……なんてのは容易に想像がつく。

そういうのはいらないのだ。あの海でもう一度約束をしたい。立会人はユキだけでいい。

「でもそっか……とノブが結婚かあ……
「まだ何も決まってないよ」
「うえええ〜あたしも結婚したいいいい〜」

塚田美千花、27歳。結婚したくて合コン三昧、現在12連敗。

がミチカに呼び出されている頃、信長は練習を終えて体育館を出たところでサムライこと沢嶋選手に行き会った。悪い人ではないのだが、サムライと言われるだけのことはあって、寡黙でとっつきにくい人物ではある。信長は頭を下げてお疲れ様ですと挨拶をした。

「おう、お疲れ。――ああそうだ信長」
「ふぇっ」

そんなサムライであるから、余計な会話はほとんどしたことがない。だと言うのに突然呼び止められたので、信長は背筋をビシッと伸ばして肩をすくめた。まるで頼朝に名を呼ばれたユキだ。

「この間少し耳に挟んだんだけど……なんか騒がれてるらしいな。大丈夫か?」
「騒がれて……なんのことすか」
「あれ、知らないのか? お前の彼女らしい女性がファンの間で噂になってるとか」
「え!?」
「知らなかったのか」

きょとんとした顔のサムライだが、信長の方は冷や汗がドッと出てきた。それはもしや……

「オレもきちんと確認したわけではないんだけど、イベントの時に撮影された写真があって、そこに写ってる女性が彼女らしくて、学生時代の同期だとか、元カノだとか、なんかそんな話だったような……知らなかったのか。けど、ということは本人には何も被害はないんだな?」

概ねミチカと同じ情報量のサムライだが、どうやらのことを心配してくれているらしい。しかしおそらくその噂になっている女性は十中八九マリエだ。信長は伸びていた背筋が緩み、肩を落とす。

「ええと、どこから話せばよいものやら……
……時間あるなら聞いておこうか」
「は、はい」

先程ロッカーで着替えをしている時に確認してみたところ、はミチカに呼び出されて帰宅が遅くなるとのこと。ミチカに捕まったら帰宅が日付変更ギリギリということもありうるので、そういう時は信長も大人しく自宅へ帰る。問題なし。

だが、一緒に体育館を出て行くサムライは駅方面や駐車場には向かわず、体育館の裏手にある緑地公園に入っていく。あのー、真っ暗ですけど……

途中自販で飲み物を買い、薄暗いベンチに腰掛ける。なんだか落ち着かないロケーションだ。

「ここなら誰の耳もないだろ」
「は、はあ……
「別にオレが話聞いたからって、監督やキャプテンに報告したりしないから」

どうやら気を遣ってこんな薄暗い公園にやって来たらしい。とにかく表情がなくて喋らない人なので掴みどころのない先輩だったが、もしかしたらとても不器用な人なのかもしれない。信長はそう考えて腹を括り、隣に腰を下ろした。

「ええとその、そんなに深刻な話ではないんですが……
「話せることだけでいいんだぞ」
「は、はい、ええとですね、たぶん、その噂の女性ってのは、彼女じゃないです」
「別の人ってことか? なんでそんな誤解が――
「だけどおそらく、大学ん時の同期で、古橋さんの妹さんです」

古橋さんは先輩コーチのことだ。サムライの目が丸くなる。

「そういえばこの間高校生との交流試合に来てくれてたよな、古橋」
「実際それほど親しくはないんですけど、なんというか、妹さんがオレをですね」

自分の口から言うのはなんとも気恥ずかしい。信長は口を尖らせてしどろもどろになっていた。マリエの片思い……というのも甘酸っぱい表現過ぎる気がしてしまうし、との結婚について古橋兄妹はあれこれ言うけれど、本気なのか茶化しているのかもわからないし、わざわざそれを確かめるために接触は持ちたくない。

「なるほどな。まあ本物の彼女さんに害がないならいいんだ。お前は目立つから」
「す、すんません」
「悪い意味じゃないよ。今度の人気投票楽しみだな。きっと上位に入るぞ」
「まさか。オレ、沢嶋さんとかみたいなタイプじゃないですよ」

高校生の頃のオレだったら、もちろんです上位に入るに決まってますしたぶん1位ですよ、とか言ってカラカラと笑っただろうな。そういう自分の中の天真爛漫さが少し薄れているのを感じて、信長は寂寥感を覚える。今でもそういう気持ちはなくなってないけど、言う気にならないんだよな……

「それじゃあこの件は様子見だな。当人に問いただすのもお門違いのようだし」
「友人が何度も釘を差してくれたんですが、あまり真剣に受け止めてくれなくて」
「なのに噂じゃ結婚間近ってことになってるしなあ」
「あ、えーと、そこは間違ってないです」
「え!」

珍しく笑顔の沢嶋サムライだったが、真顔で信長にそう言われると声がひっくり返った。

「それは……だったらやっぱり噂は否定しておいた方がいいんじゃないか。彼女さんのためにも」
「いえ、それが、本人がまったく気に留めてないらしく、むしろ友人の方が憤慨してて」
「ははは、いい友達を持ってるな。そんなに心配してくれるなんて」
「はい、大学の同期なんですけど、この間も彼女と観戦に来てくれて」
「なんだ、友達って女の子なのか」
「いえ、男です」
「それが彼女と? ああ、彼女も大学同じだったのか」
「いえ違います、ええとですね、なんて言えばいいかな」

いくら友達でも男に彼女を預けるってのは不自然なのか? 相手がそもそもエンジュなのでそういう意識をしたことがない信長はまたしどろもどろ。後輩とかマリエとか微妙なケースはあったけど、女取っ替え引っ替えしてたタイプじゃないんすよ!

しかし嘘をついて取り繕っても意味がないし、隠すようなことでもない。

「えーと、そいつゲイなんすよ。彼女とも仲いいんで、そういう心配とかは、はい」

だが、信長が言うなりサムライは黙ってしまった。昨今耳タコで当たり前のようにも思える差別意識をなくしていこうという働きかけとは裏腹に、未だ否定的な人が存在するのも事実である。サムライがそういう人だったとは残念だけど、やべえ、地雷だったか……とまた信長が冷や汗をかいていると、

「えーと、お前ってそういうの、気にしないタイプなのか」
「気にしないっていうか、友達なもんで……気にするようなことすかね?」
「彼女さんも、そういう人なのか」
「ええまあ、色々助けてもらってる人だったりもしますんで……

批判的に来られてもやんわりと受け流せるようにしよう、そう身構えていた。すると、サムライは大きく肩で息をついて、薄暗いベンチで背中を丸めた。

「そうか、羨ましいな」
「え?」
「オレも、ゲイだから」

信長の手からペットボトルが落ちて、暗がりの中にコロコロと転がっていった。