約束の海に

2

「先輩、オレ婚約してるって言いましたよね?」
「婚約ったって、何か法的に拘束力があるわけでもないだろ」
「それはそうすけど、それでも結婚は確定してるんですよ」
「え、何、本気の話だったの?」
「何だと思ってたんですか!」

浮ついたバカップルのキラキラ発言だと思っていたらしい。

もちろん信長はコーチの妹と過ちを犯したわけではない。昨夜コーチとふたりベロベロに酔っ払って終電もなくし、仕方ないのでコーチの部屋に転がり込んだ。そして今朝方たまたま用があって電話をかけてきた妹は、信長がいるとわかると、すっ飛んできて布団の中に潜り込んだ――ということらしい。

このコーチというのがとにかく妹を可愛がっていて、そのせいで当時大学1年生だった信長は先輩の手前彼女の誘いを断れず、何度か「お出かけ」に随伴したことがある。コーチの妹――マリエにとってはデートだったらしいが、信長は「荷物持ち」だと主張している。

何が良かったのかマリエは信長を気に入り、よくちょっかいをかけていた。エンジュが間に入ってくれて逃げられるようになると途端に疎遠になったけれど、恐ろしいことに今でも信長のことが好きな様子。慌てた信長はパンツいっちょのまま先輩をバスルームに引きずり込んで声を潜めていた。

「先輩がマリエを可愛がってるのはよく知ってます。だけどオレは応えられませんよ」
「いやいや……お前まだ24じゃん……結婚とかマジで言ってんの?」
「マジですって。ていうか彼女とはもう8年の付き合いです。既に家族みたいなもんで」
「信長、悪いこと言わない、それもう少し後にした方がいいって」
「は!?」

マリエに聞かれないよう一応声を潜めてくれている先輩だったが、彼も恐ろしいことを言い出した。

「DQNじゃあるまいし、まあ女は若いうちに結婚して子供産んどいた方が何かと楽なのかもしれないけど、男が24で結婚とか、それはもう時代に合わないだろ。昔は結婚してる方が社会的信用があるって言われたけど、今むしろ逆だろ。その年で結婚て逆に判断力を疑われるって」

絶句。妹が妹なら兄も兄だ。

「ていうかお前まだプロ2年目だろ? 最近テレビとか出たりもしてるし、なんで地元の女で済まそうとしてんの。付き合い長いからきっかけもないんだろうけど、それ結婚後すぐに倦怠期来て浮気フラグじゃん。子供とか出来たらマッハで嫁に興味なくなるよ、いいの、それで」

なんと言えばいいものか、信長は言葉を失った。意味がわからない。

「オレは別にマリエと付き合ってやれとは言わないよ? でも、結婚は軽率すぎじゃないか?」

頭がガンガン痛むのは二日酔いではなかろう。信長は息苦しさすら覚えながら、それでも左手の薬指に感じる重みにを抱き締めた時の感触を思い出しながら、声を振り絞った。

「オレの、両親は、22と20で結婚してます、でも、今でも、仲がいいです」

なんでそんなことを言い出したのか、自分でもわからない。だが、地元の女と結婚してすぐに子供を授かる――というのは自分の父親そのもので、自分はそういう両親のもとに生まれ、育ち、そしてに出会った。それをバカにされたような気がした。

ほんの数日前、エンジュに言ったことは事実だ。信長は暇さえあればに抱きついて服をむしり取るくらいには彼女のことを愛している。5年も遠く離れて過ごしたのだから、もう二度と失いたくない。そう思って毎日を生き、を抱いている。

それが、軽率だって?

「オレも、そうなりたいと、ずっと思ってます。誰がどう思おうと、関係ありません」

新九郎と由香里、信長にとっては「雑で気楽な親」でしかなかった。新九郎は何かというと手が出たし、由香里は何かというと怒鳴るし、それを鬱陶しく感じたことも少なくない。だがそれでも、もう何十年も先輩の夫婦だと思うと、新九郎と由香里は理想的だった。

あまり詳しくは聞いていないが、新九郎の方が由香里に惚れて猛アタック、その末に江ノ島でプロポーズして結婚するに至った。新九郎は未だにその時の気持ちを忘れていないのだという。確かにどちらかと言えば新九郎の方が由香里を追い回していることが多い。

それを由香里が鬱陶しがっていることもある。だが、それを嫌悪したりはしていない。うちのお父さんは甘ったれだから。そんな風に言いながら、ちょっと嬉しそうで、得意げ。

自分とがオッサンとオバサンになったら、ああいう感じがいい。先輩コーチのひどい言われように、信長はそう思った。とふたり、新九郎と由香里みたいな夫婦になっていきたい。子供を愛して家族を愛して、雑でも鬱陶しくてもいいから、いつまでも仲良くしていたい。

「オレは、と、結婚します」

痛む頭を支えて立ち上がり、バスルームを出る。途端にマリエがまとわりついてくるが、彼女の鼻にかかったような舌っ足らずの声も耳に入らなかった。先輩コーチのベッドルームの床に散らばる服をかき集めて着込み、スタスタと玄関に向かう。

靴を履き、振り返った信長は体を折り曲げて頭を下げた。また頭がズキズキと痛む。

「ご迷惑をおかけして申し訳ありません。お世話になりました。失礼します」

そうして先輩コーチの部屋を出た信長は走った。いつかのように、夢中で走った。頭が痛むので視界がぼやけてきて、すぐに息が上がってしまうけれど、それでも走った。走って走って、いつかのように、エンジュの家に飛び込んだ。

エンジュの現在のパートナーは外国製の高価なテーブルウェアを主に扱う会社を経営しており、都内に店舗ふたつとオフィスを持っている。エンジュは物腰柔らかで丁寧、清潔そうな外見を見込まれて店舗スタッフとして働いている。

この会社に就職したのは社長である彼氏と付き合い始めたからであり、つまりコネだ。エンジュが大学を卒業してすぐに兄とその彼女が結婚したので、彼らとの同居をやめ、現在の彼氏の家に転がり込んだ。東京タワーが見える超高層マンション。

日曜の朝っぱらから走って飛び込んできた信長を、エンジュの彼氏は早く入れてやれと急かしたそうだ。ヨロヨロの信長が謝りながら入ってきた時も、自分は書斎にいるからゆっくりしていけと言ってくれた。どうやらエンジュの好みのタイプド真ん中らしい。

「ちょっと待って、それ別にオレのところに飛び込むほどのことじゃないだろ」

以前にもこうして走ってエンジュの住まいに突撃したことがある。後輩の女の子に一方的にキスをされたことで理性を失い、自分から後輩を押し倒して唇を貪ってしまった。我に返った信長はの泣き顔を思い出してその場から逃走、エンジュに助けを求めたものだった。

だが、今回はパンツいっちょで先輩の家で爆睡してしまっただけ。マリエはそこに勝手に潜り込んできただけ。エンジュはぐったりしている信長を慰める気になれない。てかなんでまた走ってきたんだ。

「マリエが未だにお前のこと好きなのは確かに驚くけど……
「でもオレがいるって、ちゃんと言ったはずだよな?」
「まあそれも4年くらい前の話なんだけどね」

信長はいかにも高級そうなソファにぐったりと身を沈めて額にバチンと手のひらを打ち付けた。昔の話だと思われていたらどうしよう。自分にはへの揺るがぬ思いがあるけれど、余計な波風を立てたくないのだ。関わりたくない。

「ていうか、がいるって言ったの信長じゃなくて……オレだよね?」
「覚えてないー」
「まあその後パタッと現れなくなったから忘れたんだろ」

3歳年上の兄と同じ大学に進学してきたマリエは信長に数ヶ月まとわりついたのち、信長と急に親しくなったエンジュという壁に阻まれ、さらにエンジュから「信長に彼女いるの知らなかったの? もう4年くらい付き合ってる彼女いるから、無理だと思うよ」と言われて突然姿を消した。

その頃先輩も卒業、以後信長はエンジュや部の仲間たちと過ごし、余計な誘惑に惑わされることなく無事に遠恋を完遂、神奈川に戻ってきたを両腕を広げて迎え入れることが出来た。

ただそれだけの、遠い過去の一瞬の出来事だと思っていたのに。

「まあいるよな、こっちはとっくに終わった話、疎遠になった関係だと思ってたのに、何年も前のテンションのまんまで来るやつって。あの兄妹、そういうタイプだったんだね」

エンジュの読みは正しい。喘ぐようにして自分は婚約者とそのまま結婚しますと宣言した後輩を間近で見ているというのに、先輩コーチは「結婚前に合コンとか行っといた方がいいんじゃないの。来週末また出てこいよ」とメッセージを寄越してきた。さすがにエンジュも眉をひそめる。

「信長、信長が早まってるんじゃなくて、この人が幼稚なだけだとオレは思うよ」
……幼稚?」
「まだ学生気分て感じ。一応もう社会人同士のはずだけど、そういう意識がないんじゃない?」

隣に腰を下ろしたエンジュは、ゆったりと信長の肩を抱き、そして頭を撫でてやる。最初はこうしたエンジュのスキンシップに戸惑った信長だったが、エンジュは誰にでもこれをやるのだ。なので遠慮なく頭を預けて撫でられるままになっている。

「まあ君らはスーツ着てネクタイ締めて……っていうお仕事ではないけど、それでももう学生じゃないし、それをちゃんとわかってたら後輩のパートナーを貶して合コンに誘うなんてガキみたいな真似、出来ないと思うけど。成人した大人のまともな振る舞いじゃないよ」

エンジュの言葉に気が抜けた信長は、そのままぼそぼそと先輩に言い放ってきたことを繰り返した。

「ふふん、信長の気持ちはそうやって少しずつと家族になる準備を始めてるんだね」
「そう、なのかな」
「前にも言ったろ、正解は自分で決めればいい。他人がどうこう言うことじゃない」

エンジュは信長の頭を抱き寄せて、クセのある髪にそっと唇を寄せる。

「いいじゃないか、両親みたいな雑で鬱陶しい夫婦になりたい、お前ららしいよ」
「雑で鬱陶しくなりたいとは言ってねーよ」
「大丈夫大丈夫、きっと雑で鬱陶しくなるから。オレ、そういう信長とも好きだよ」

エンジュに撫でてもらってやっと落ち着いた信長は、今日はまっすぐのところに帰りなよと言われて彼の住まいを出た。まだ昼にもなっていなかったが、疲れ切っていた。家に帰りたい、に会いたい、あの騒がしい清田の家で、と一緒にいたい――

それはさながら、ホームシックのようであった。

後日、オフシーズンにあたる季節ならではのイベントが開催された。信長の所属するチーム対地元高校生の選抜チームの交流試合である。当然信長の出身校である海南大附属からも参加がある。マリエの件で傷ついていた信長はこれを目標に気持ちを立て直していた。

「地元の高校生対プロになった信長……なんても感慨深いんじゃないの」
「うん、感慨深すぎるよ……。私の通ってた高校の子もいるからね」

普段ならこの手のイベントは由香里やぶーちん、またはミチカあたりと見に来るのだが、本日はエンジュと来ている。先日の一件で信長を心配したエンジュが珍しく見に行きたいと連絡を寄越した。

もちろんエンジュは先輩宅で何があったかをにチクりに来たわけではない。ただ、最近コーチとして母校に戻った先輩の妹が昔信長にちょっかいをかけていたことがあって、おかしな話だが兄妹揃って信長を取り込もうとしているようだと報告した。

さすがに5年間も遠恋していただけあって、は動じない。だからエンジュも報告するわけなのだが、問題はそんなものにと信長が揺らぐわけがないということだ。時期は決まっていないけれど、が清田家に嫁に入るのは現在「予定」ではなく「決定事項」だからだ。

「常識で考えてそこまで話が進んでたら邪魔しないと思うじゃん」
「だけどどうもその先輩と妹さんが変、と」
「たぶんだけど、20代半ばで結婚ていうのを非常識に感じてるんじゃないのかなと」
「別にそんなの珍しくもなくない……?」

だが、20代の未婚率は年々増加の一途で、もしかしたらコーチ兄妹は20代で結婚したという人を知らないのかもしれない。しかしそれにしてもエンジュの言うように仮にも社会人同士、失礼が過ぎる。

眼下のコートでは試合前だというのにインタビューが始まっており、先輩後輩対決になる信長がさっそくペラペラと喋っている。対する高校生たちも先輩の胸を借りるつもりで……などと殊勝なことは言わない。プロに勝って今年の神奈川の強さを見せつけたいですと来たもんだ。

「あーあ、熱くなっちゃって」
「そういう意味では信長もまだお子様っぽいところあるけど……あいつは覚悟、出来てるからね」
「覚悟?」

ホイッスルの音に会場がどよめき、信長の声がなにやら響き渡っている。だがはエンジュの方を向いて首を傾げた。覚悟って、何の話?

……あの頃、信長を1番苦しめたのは覚悟がないことだった。みんなテキトーに深く考えずに浅く広く雑に恋愛してるけど、自分は遠くにいるだけを思っているから迷いはないって、それこそサムライみたいに腹が据わってないことに1番苦しんでた」

言葉ではなんとでも言える。けれど、誘惑してくる後輩の唇に理性は簡単に吹き飛んだ。

「そりゃあ……半分はまだ10代だったんだし、無理もないと思う」
はもう覚悟、しちゃってたもんね」
「そう、なのかな……
に比べて覚悟が足りないって、ずっと思ってたんだよな、あいつ」

だからエンジュ、オレがおかしなことしそうになったら、止めてくれ。他にこんなことを頼める人がいなかったとはいえ、そういう覚悟が育たない状態の信長をずっと近くで見てきたエンジュはの手を取ってゆるりと繋ぐ。

「だけどもう、覚悟、できたんだよ」
「覚悟って、何の?」
と家族になるっていう、覚悟」

の耳から体育館の喧騒が一瞬で遠ざかる。

結婚は確かにもう決定事項だ。具体的な日時が決まっていないと言うだけのことで、何なら新九郎や由香里はひとり暮らしなんざどうでもいいから大学出たらすぐに嫁に来い、という勢いだった。しかし、「の嫁入り」と「信長との結婚」は同じようで意味合いが異なる。

の夢は確かに信長と結婚して清田家に入ることだった。けれど、は清田家と結婚するわけではない。清田信長と結婚するのだ。義理の家族との同居云々以前に、信長というパートナーと所帯を持つということなわけだ。

は出来てた?」
……私にとっては、それは、夢だったから」
「もうすぐ叶うよ。あそこで喚き散らしてる王子様がプロポーズさえ、してくれればね!」

エンジュの白くてほっそりした指が差す先には、高校生とガルガル言い合いをしている信長の姿があった。は声を上げて笑いながら、繋いだ手を抱き寄せてエンジュに寄りかかった。高校生の頃の信長を思い出して、涙が出てきそうだった。

「うん、待ってる。プロポーズ、待ってる」

幸せな気持ちで交流試合を観戦していたとエンジュは、しっかりと手を繋いだままロビーに出てきた。本日チームと高校生の交流がメインのため、観客は試合が終わったらそれまでである。だが、どうにもロビーが騒がしい。ふたりは人の波を避けて体育館を出ようとしていた。

だが、そのふたりの横を中学生くらいの男の子が駆け抜けていった。

「マジで? ほんとにあの清田の彼女来てんの!?」
「ほんとらしいよ。向こうにいるって今先輩から連絡きた」

そんなことを言いながら。はたと止まるとエンジュ。

「清田の彼女って、だよね?」
「ええと、そのはずだけど」
って君だよね?」
「いかにも」
「じゃあ誰だ、それ」

真顔でそんなことを言い合っていたふたりだったが、ふいにエンジュが覚醒、今までが見たこともない怖い顔になって、全身をぶるりと震わせた。

「まさか、マリエ!」
「えっ、誰?」

エンジュはそのままくるりと向きを変えると駆け出した。は止めようとしたのだが、間に合わなかった。も慌てて追いかけるのだが、なにぶん身長差があるし、それだけ足の長さも差がある。しかもエンジュの美脚ダッシュは思いの外早い。

エンジュを追いかけて体育館のロビーを駆け抜けたは、選手控室に通じるゲートの辺りで足を止めた。本日更衣室へ通じる廊下は関係者以外進入禁止。警備員が簡易的にゲートを作っている。その傍らに白っぽい服装の女性が佇んでいる。

「えっ、あれがー? 前にコーナーでネタにされてたやつでしょ?」
「うわー、なんか守ってあげたくなる女の子って感じだねー」
「公式試合には来ないようにしてたんかね? 健気〜!」

の周りをそんな言葉たちが通り過ぎていく。ショックは――ない。

いやいやあんたら何言ってんの?こちら近所の公式試合なら毎回必ず自腹で見てますが!

幸いは心がざわついて切なくなって悲しくなってしまうようなタイプではないので、ツッコミしか出てこない。それにしてもエンジュはどこだ……と顔を巡らせていたら、人混みをかき分けて本人が飛び出していった。おいおい、何をするつもりだ!

「マリエ!」
「えっ、あー、なんでいるのー。あんたこそストーカーなんじゃないの」
「マリエ、信長の彼女だって名乗ったのか?」
「そんなことしてませんー。大学の同期でいいお友達だって言っただけだもん」
「だけどお前が彼女らしいって、それでこんな人だかりが出来てるんだぞ」
「言わせておけば? 私が頼んで騒ぎにしたわけじゃないもん」

エンジュは能面のような無表情でマリエに詰め寄り、肩を掴んだ。

「いったーい、何すんの、やめてくれない」
……信長には結婚控えてる彼女がいるの、知ってるだろ」
「やだ、あんたもそれ真に受けてんの? 年考えなよね。ゲイで夢見がちとか救いようがないね」

マリエはエンジュの手を払いのけると、鼻で笑った。エンジュは無表情のままマリエを見下ろしていたが、遠くに自分を呼ぶの声を聞きつけて、「来るな」と大声を出した。

「ちょっと何、そんな大声出して、迷惑なんですけど」
「マリエ、身の程を知れよ」
「はあ? どういう――
「お前たちがどんなつもりでいるのか知らないけど、信長はなびかないからな」
「何言ってんの? 別に私そんなつもりは」
「ないのか?」

エンジュはスリムな体型で顔も小さいし、色白でとても柔和な人物である。彼と親しい者であれば、彼がいわゆる「受け」であり、女装や女言葉は使わずとも女性的な振る舞いを好む人だとよく知っている。だが、それでも彼は176センチの身長に男性の体を持っている。

そして、いつでも優しげな微笑みを湛えた表情の裏には、たとえそれが親友の信長でも明かさない苦悩や暗い過去を隠している。そんなエンジュの深層からどす黒いものが溢れてきたかのようだった。

低い声でマリエを一喝したエンジュは一歩下がり、静かに息を吐く。

「信長もオレも、夢なんか見てないんだよ。見てるのは自分自身の現実だけだ。その中に、信長の現実の中にお前は入ってない。信長の人生の中にお前っていう可能性はない」

なんであんたがそんなこと、と言いつつ、マリエは口をパクパクさせてすくみ上がっている。エンジュは控室に通じる廊下の方をちらりと見ると、踵を返してその場を立ち去る。廊下の向こうから聞き覚えのある話し声が聞こえたからだ。

そして人混みの中に飛び込み、の腕を掴んで外へ出た。混乱するだったが、その目には、ゲートから男性と連れ立って出てきた信長と、彼にぎゅっと抱きつく件の女性の姿が見えていた。

「え、エンジュ、どうなってんのあれ」
、見るな」

体育館の外に出たは、エンジュのしなやかな腕に強く抱き締められて止まった。

、大丈夫、信長が愛してるのはだけだから」
……エンジュ」
「あいつはもう覚悟してる。もう二度と揺らがないから」

マリエの前では眉ひとつ動かさなかったエンジュだが、力任せにを締め上げていて、その声はやけに苦しそうだった。はそんなエンジュの背中を両手で撫でて、しっかりと抱き返してやる。

「エンジュ、嫌な思いさせてごめん。私、何も心配してないから大丈夫」
――
「心配、してくれてるんだよね、ずっと。信長に私のことを聞いたあの時から、今でも」

、と呼ぶエンジュの声が涙声に変わる。

「私たち、いつも自分たちのことばっかりエンジュに当たり散らして来たよね」
「そ、そんな、こと」
「ごめん、エンジュにずっと甘えてた。ほんとにごめん」
……

腕を緩めたエンジュは赤い目をしていて、苦しそうに息を吐きながらにもたれかかった。

「今度は私たちがエンジュのこと助けられるようにならないとね」
……やっぱりオレと3人で結婚してよ」
「あはは、そしたらみこっさんの弟だよ」
「それはやだ〜」

エンジュの頭を撫でてやりつつ、はそっとため息を付いた。なんだかまた面倒なモンスターが現れたのではないかという気がしたからだ。面倒くさい。実に面倒くさい。自分たちの生活は大事なものを両手で抱えて走っていくので精一杯だと言うのに、厄介事ばかり増やしやがって。

だがもうそれに怯むようなヤワな女ではないのだ。尊や頼朝によろめき、軽率にあっちに行ったりこっちに行ったりしていた10代の頃のはもういない。何しろあの清田家に嫁に入り、由香里の後を継ぎたいと考えているくらいだ。腹の据わり方が違う。

やれるものならやってみろ。私も信長も、梃子でも動かないからな。