約束の海に

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その時の見るも無残なポカン顔はカメラにバッチリ捕らえられ、以後何かというと信長をイジる際に使いまわされるわけだが、とにかくパネルの1位の欄に自分の名を見つけた彼は口をだらりと開けて、固まっていた。チームメイトも観客も大騒ぎの中、彼だけがポカンとしていた。

ともあれコーナーはあくまでもスポーツ番組の中の一角、尺の都合というものもあるので、結果の分析などはスタジオで、と締めるアナウンサーにマイクを向けられた信長とサムライがそれぞれ礼を述べたところでカットがかかった。

しかし場内がおさまるわけもなし。カメラが止まったのでアナウンサーが興奮気味にまくし立てた。

「なんかすごい結果になりましたね!? あっ、これこれ、後日スタジオで解説予定の投票の解析なんですけど、見てくださいこれ、あ、お客さんたちごめんなさいね、これ有効票の男女比とか年齢分布の資料なんですけど、清田選手ね、子供票がブッ千切りなんですよ!!!」

それを見せられてなおポカンとしている信長の後ろではチームメイトたちが大騒ぎだ。全体の子供票、12歳以下がなんと8割も信長に投票されていた。以後13歳から18歳の中高生でも票が多く、そこから20代30代40代と減少するが、50代、そして60代以上でまた盛り返していた。

「これは……地元票って感じ、しますね、清田選手?」
「そ、そうすね……
「先日の高校生との交流試合でも積極的にコミュニケーションをはかってましたもんね」

アナウンサーは優しい声色でそう語りかけてくれるが、そんなこと意図してやったことじゃなかった。昔から子供とか年寄りとか動物とか得意で、斜に構えた大人だけはちょっと苦手で、ぶーちんとだぁの子供と上手に遊んでいても、「信長は子供っぽいから」と言われてしまうだけで、まさかそれがこんなところで返ってくるとは。

「清田選手どうですか、未来を担う子どもたちからの熱い支持を得て」
「えと、ちょっとまだ信じられないんすけど……なんと言えばいいか」

つい先程まで脳内を駆け巡っていた弱気な発言が抜けきらなくて、信長はしきりと口元を擦っていた。どうですかって何だよ、どうにもこうにもこんな結果になるなんて予想してなかったし、なんかまだ嬉しいとかそういうの、出てこないんだけど。

信長の反応が鈍いので、アナウンサーは観客席の子どもたちを煽る。清田選手、好きですかー!?

小さな手が無数に伸びて、はーい! という大合唱が聞こえてきた。

その瞬間の背筋の震えを、信長は一生忘れないと思った。思ったし、それから一生彼はこの時のことを何度も何度も話してはウザがられるということを繰り返すようになるわけだが、ともかくその時やっと、嬉しいという気持ちが湧いてきた。勢い、深々と頭を下げる。

下げた瞬間、新九郎と由香里の顔が出てきた。オレ、1番になったよ。そう言いたくなった。

しかし、顔を上げたところで肩にサムライの腕がガシッとのしかかってきた。なんだ?

「これで堂々とプロポーズ、出来るな?」
「えっ!?」
「えっ、プロポーズですか!? とうとうしますか!?」

おそらくわざとだったんだろう。サムライの不自然に大きな声をアナウンサーの耳が拾い、彼の声はマイクを通して会場中に響き渡った。また大歓声。サムライがちらりと目をやると、古橋兄妹が盛り上がるファンの視線の中で青い顔をしている。

アナウンサーはマイクを外し、もしかして彼女ここに来てるんですか? もしや公開プロポーズOKだったりします? などと興奮気味だ。

この時、信長の頭の中でポンと何かが弾けた。

瞬間、場内のどよめきが遠ざかり、あの約束の海の波の音が聞こえてきた。

愛しい、いつもあの海で泣いていた、最初に君を好きだと思ったのはいつのことだったんだろう、もうそれは遠くかすかにゆらめく曖昧な記憶でしかないけれど、それから今までの間に、何度君のことを好きだと思ったんだろう、何百、何千でも足りない気がする。

きっとこれから先も君のことを好きだなと思いながら生きていくんじゃないか、そんな気がする。

人は信長の派手な来歴とを比べ、プロ選手と一般人女性という言葉で片付けるだろう。けれど、信長にとってはずっと特別だった。最初からずっとずっと、特別な女性だったのだ。その感覚の前には、自分の方が不釣り合いなのではと思うこともあった。

頼朝のように学業が優秀で、尊のように容姿が端麗で、エンジュのように優しく、サムライのようにピュアな、もっともっと高品質な男の方がいいのでは? そう思ったことは1度や2度ではなかった。そのたびに頭を振り、オレが好きなんだからいいんだよ! と否定はしてきたが……

燦然と輝く1位。という特別な存在に見合う、勝利のしるしだった。

「えと、彼女は、来てないっす。あと、公開とかそういうのも、ちょっと」
「あ、そうですか、そうですよね、でもこれをきっかけにしちゃいます?」
……マイク、お借りして、いいですか」

局を上げてサポートしている地元チームの人気選手の公開プロポーズという可能性に浮き立っていたアナウンサーだったが、まあ一般人女性である。快くマイクを預けてくれた。傍らにサムライとキャプテン、マイクを手にした信長に、観客席はしんと静まり返る。

「ええと、この度は、信じられない結果なんすけど、1位、ありがとうございました。投票してくれたみんな、本当にありがとう! こういうかっこいい先輩たちがいっぱいいるからオレはランクに入らないと思ってたけど、だけど投票してくれたみんながバスケって楽しい、バスケって面白いって、もっともっとそう思ってくれるように、頑張ります。約束します!」

もう大人は見えていなかった。手を振る子どもたちひとりひとりを抱き上げて抱き締めて礼を言いたいくらいだった。頭を下げる信長に子どもたちの歓声が沸き起こる。

「それで、まさかこんな、1位なんてすごい結果になると思ってなかったんすけど、たぶん今、オレ、人生で1番『オレすごいだろ!』って言っていい日だと思うんです。試合に勝つのも大事なことなんだけど、こんな風に応援してもらってること、それを自慢できる日だと思うんです」

割れんばかりの拍手。そうとも、子供票でもこれは誇っていいことだ。

「それで、オレには今、『オレすごいだろ!』って言いたい人がいます。隠したりしなかったんで聞いたことある人も多いと思うんですけど、オレの彼女です」

いよいよ観客の視線は古橋兄妹に集中、本人たちは蒼白だ。

……彼女とは、高校生の時に知り合いました。高校1年の時に、付き合うようになりました。だけど、その時、彼女のお父さんが亡くなって、彼女は遠くに引っ越すことになりました」

一転、場内は水を打ったように静まり返る。古橋兄妹を見ていた観客も、息を呑んでコート上の信長を見つめている。彼女って、大学の同期とかいうこのふわふわした女の子じゃないの……

「それから5年間、遠くに離れていました。高校と、大学、彼女とは一緒にいられませんでした。いわゆる遠恋てやつです。みんなに遠恋なんてうまくいかないって言われました。だけど、彼女は、神奈川に帰ってきてくれたんです。5年間おしゃれもせずに勉強して働いて、自分の力で神奈川に戻ってきて、今、やっと普通に会えるようになりました」

このことは、チームの中でもサムライしか知らないことで、仲間たちも監督も神妙な顔つきになっていた。子供票で1位を獲得するのもさもありなん、清田選手は明るくてよく喋ってよくふざけてよく笑う、そういうおバカキャラじゃなかったのか。

「そういうことがあったので、もう、離れたくないので、今こうして、1位っていうすごいことになったので、それを、彼女に言って、オレ1位になったから結婚してくださいって、言ってもいいですか? みんなに応援してもらった結果を、そういう風に、使ってもいいでしょうか」

マイクが下がり、静寂が流れる。すると、傍らのサムライがパチパチと拍手をし始めた。それにつられるようにして、場内はまた耳にうるさいほどの拍手で満たされ、そして主に女性の声で「おめでとう」とか「プロポーズしてあげて」という声が飛んできた。

それを全身で受け止めていた信長の手のマイクをサムライが奪う。

「信長、今から行って来い。彼女今日の抽選外れて家にいるんだろ?」

まさかの流れにまた場内大歓声。今から!? という顔をしている信長の背をチームメイトたちの手がぐいぐいと押し出す。監督も行って来いと言う。信長はサムライの持つマイクに向かって一言叫ぶ。

「あざす!!! 行ってきます!!!」

頑張れーとか、しっかりやれよ、なんていう大歓声の中、サムライに付き添われた信長はコートを走って出ていく。今からとは言うが、着替えてに連絡を入れてあの浜まで行かねばならない。

「マジすか沢嶋さん」
「マジだよ、まさかお前が1位だとは思ってなかったけど、最高のきっかけじゃないか」
「それはそうなんすけど」
ちゃんにはオレがそれとなく連絡としといてやるよ。指輪、あるんだろうな?」

頼もしい先輩の頼もしい声に、信長はしっかりと頷く。

……あります。最初の年俸入った時に、買いました」
「お前はほんとにすごいやつだよ。だから堂々とプロポーズ、しておいで」
「あざす!!!」

信長は慌てて更衣室の方へ駆け出していった。

公開収録に外れたのが面白くないは、しかし収録が終わったらとっとと帰ってこいと信長に言っておいたので、洗濯や掃除を済ませると、キッチンに立って1週間の作り置きおかずを作ったり、ケーキを焼いたりしていた。お菓子作りはまだ始めたばかりだが、沢嶋選手に食べてもらいたくて練習中。

するとその沢嶋選手から着信があり、は慌ててそれに応じた。

いわく、収録の都合で外に出たから、撮影してるところ見られるよ、とのことだった。しかも聞けば場所はあの約束の海! 何をするのかははっきり聞いてないと沢嶋選手は言うが、観客を連れて収録するわけではないそうなので、堂々と通りすがればOK!

彼氏の所属しているチームだからというのはもちろんだが、それはそれで心から応援しているサポーターなのである。はいそいそと着替える。通りすがって見学しちゃいましたを装うけれど、沢嶋選手が連絡をくれたということは、挨拶の必要があるかもしれない。身だしなみを整えていかねば。

髪も整え、濃すぎない程度に化粧もし、なぜその連絡が信長ではなく沢嶋選手から来たのかということも疑問に感じないまま、浮かれたはバタバタと出かけていった。

なので、あの約束の海を望む浜に信長がひとりでポツンとしているのを目にしたは、一瞬首を傾げたけれど、まさか、ということに気付くと足が震えだした。

「急にごめん」
「さ、沢嶋さんから電話きて、それで……
、これ、見て」

佇む信長の隣に並び、そして向き合ったは、何やら四つ折りになった紙切れを差し出されたので、震える手で受け取って開いた。薄いインクで印刷した事務的な資料、そんな感じのA4の紙が数枚。はそれをガサガサと開いて覗き込み、そして息を呑んだ。

ファン人気投票、1位の欄に見慣れた名前があった。

チームの方の資料なので、全員分の順位が表記されている。そうそうたるメンバー、ルーキーも最長老もみんなひっくるめた人気投票、プリンスもキャプテンも、サムライさえも押さえつけて、普段自分の狭いアパートに転がり込んで来ては擦り寄ってくる彼氏の名前があった。

……2枚目に書いてあるけど、子供票、だったんだって。12歳以下の支持率8割もあんの」

のろのろと顔をあげると、少しだけ恥ずかしそうな、照れた信長の顔があった。潮風に吹かれている信長は、今でもやっぱり長い髪をしていて、真っ黒で少し癖のある髪がなびいている。

の瞼の裏に、高校生の頃の信長の記憶が弾ける。あの頃も真っ黒で少し癖があって長い髪をなびかせていた。飼い犬を亡くした時、尊と頼朝とこじれてしまった時、父も亡くして離れ離れにならざるをえなかった時――いつでも信長はこの海で髪をなびかせていた。

そして、いつでもを大事に思い、愛してくれていた。

「あとは50代以上の票が多かったんだって。なんか、地元票って感じで、オレらしいと思わない?」

思う。はしかしそれが声にならなくて、頷いた。

、オレ、1位になった」
「う、ん」
「だから今日だけは、オレってすげーだろ! って言っていいと思うんだ」
「そう、だね」

声を出すのでやっとのの目の前で、信長は膝を折って跪いた。またの喉が詰まる。瞼が焼けるように熱い。頬が震える。足も震えている。

、オレってすげーだろ! だから、オレと結婚しよう!」

あの頃の、高校生の頃の信長が重なる。手には約束通りのダイヤとプラチナの指輪。が震える手を伸ばすと、信長は素早く左手の薬指に嵌める。いつかの夏に買った波のような刻みのある指輪と重なってダイヤがきらめく。

立ち上がり、の両手をそっと下からすくい上げた信長は、声を落とす。

さん、オレのお嫁さんにになってくれませんか」

は繋いだ手を頼りに飛びつき、きつく締め上げた。

「こんな、1位になったのに、私でいいの、本当にいいの」
「当たり前じゃんか、が好きなんだよ、が大好きなの」
「わた、私も好きだよ、ずっとずっと、信長のこと大好きだよ」
、結婚しよ、家族になろ」

はぎゅっと抱きついたまま何度も頷き、喘ぐように囁いた。

「うん、結婚して、家族になって、ずっと一緒にいようね」

17歳の時、が思い描いた「将来の夢」が今、とうとう叶ったのである。ぴったりと抱き合うふたりは潮風に吹かれながらふらふらと揺れていた。

「ほんとは、ユキも連れてきたかったんだけど、無理させられなくて」
「じゃあ、ユキとおじさんと、ゆかりんに報告に行かないとね」
「沢嶋さんが今から行って来いって送り出してくれたんだ」
「みんなに、お礼、言わないとだね」

あの遠い夏の日、街で偶然出会い、そのまま知り合うことになったふたりだが、一応の方は中学生の頃に試合を観戦していて信長を見ている。一体あの時、その人物と約10年後に結婚することになろうとは夢にも思わなかった。

その頃は無気力な中学生であり、信長はやんちゃで無礼者の中学生でしかなかった。

それから10年、ふたりの前には幾多の壁が立ちはだかり、それは自分たちでは乗り越えることも壊すことも出来ないものであったことも多々ある。そのたびに悩み、傷つき、苦しみながら、手を貸してくれる人々ともに通り過ぎてきた。

ふたりの恋は、ふたりだけのものではなかった。

ふたりがこの恋を育て慈しみ、そしてここに結婚を決意するまでには、多くの人々の善意があり、それなくしてはここまでたどり着けたどうかもわからない。と信長は、ここしばらくというもの、それを改めて感じる日々を送っていた。

新九郎、由香里、頼朝と尊、ぶーちんとだぁ、の祖父母、エンジュ、ミチカを始めとした尊の元カノたち、水戸、そして沢嶋選手。みんなみんなと信長の行く末を案じて、手を差し伸べてくれた。どうかふたりが離れ離れになりませんようにと心を砕いてくれた。

つらかったけれどしんどかったけれど、そういうものに支えられて今があるのだということを痛いほど感じていた。おまけにまさかのファン人気投票で1位。子どもたちに愛されてブッ千切りの1位だなんて、本当に信長らしいじゃないか。

そういうものを、今度は返せるようになりたい。心をもらったから、心を返していきたい。


「はい」

「なんですか、信長くん」

何か言いたいことがあるわけではなかった。万感の思いを胸に、信長は顔を落としてキスをする。

……もう一回、約束、する」
「えっ、何を」
、もう二度と離れないからな」

海に、風に、空に、君にもう一度約束を。

「今も昔も、これから先もずっと、、愛してるよ」

それは誓い。日曜の海に同じ言葉を繰り返し、は目を閉じた。