恋愛エクスペリエンス

08

年が明け、新学期が始まったその初日。寒い中白い息を吐きながら登校してきたは、教室のドアに差し掛かったところで腕を強く引かれ、そのまま廊下に引きずり出された。緒方だった。緒方はきょろきょろと辺りを見回すと、舌打ちをしてを階段の踊り場まで連行した。

「緒方くん、こんなところ連れてきて何するつもりなの!?」
「アナソフィアにいる以上私にそれはシャレにならんからな」
「うん、自分で言っててマズいと思ったよ」

緒方はまだ廊下の方を確認して人が来ないか確認している。

「てか、よかったねえ、龍っちゃんの件。なんだか私も嬉しいよ〜」
「そうそう、それなんだけど」
「何があったのか今度教えてよね。冬休みの間話せなかったしさ」
「おう、任せろ。じゃなくて、あのさ、教えて欲しいんだけど、たちって初めての時どうしたの!?」
「またその話!? 生々しい話は嫌だってば!」

緒方は真剣なのだが、は仰け反ってげんなりした。いくら仲の良い友達でも話したくない。

「いやそーじゃなくてさ、場所!」
「場所?」
「場所も時間もないんだもん! 春には家出ちゃうんだし」
「あー……

具体的な説明を求められたのだと思ったは逃げ腰になっていたのだが、緒方の困りきった顔を見て踏みとどまった。そのくらいなら話してやってもいいが、参考になるかどうかは怪しい。

「向こうの家だよ。親いなくて」
「泊まり?」
「そう、法事だとかで2日くらい留守にしてて、帰れる時間だったけど、まあその、ね」
「法事で親不在か〜そんな都合のいい機会がそう簡単に出てくるわけないよな〜」

緒方によれば、まず弟。彼が中学で所属する体操部は弱小で練習も週3回、部活がなければ16時頃には帰宅している。次に母親。平日はパートだが、15時までで、これも遅くとも17時には帰宅。最後は父親。製造業だという話だが、職場は歩いても通える場所にあり、しかもたまに早上がりするらしい。

「それじゃあ龍っちゃん家は不可能に近いんじゃないの」
「かと言って私の家も無理だし」

緒方家は家族で工務店を営んでおり、自宅と事務所はドア一枚で繋がっている。その上母親が専業主婦なので、家には必ず家族がいる。これも不可能だ。も唸る。

「かと言って、私アナソフィアにいる間は軽率なことしたくないし」
「そりゃそうだよ。あっ、でも、もうすぐ自由登校になるじゃん」
「私が暇じゃないもん。部活あるし」

アナソフィア生である以上、外に場所を求めるのもリスクが大きすぎる。その上緒方は来年度のメインシナリオがやっと決定したアナソフィア演劇部を率いる部長でもある。そういう意味でもあまり時間はない。

「3月末には入寮しちゃうらしいしさ、別にやらなきゃだめってこともないだろうけど、でもさ……
「うん……そう、だよね」
「私も3年になったら地区が終わるまでは遊んでられないし」

うんうん唸っている緒方を眺めていたは、自然と頬が緩み、笑顔になる。

「ねえねえ緒方、なんか急に可愛くなったね」
「は!? それはちょっと困るんだけど……
「ちょ、それは演技力でカバーしなよ。ここじゃイケメンとか言われてるけど、いい感じで女の子だ」
「年末年始はけっこう一緒にいたから女の子が残ってるのかも。マズいな」
「なんでよ! いいじゃん女の子なんだから!」

は楽しそうに笑っていたが、今年は県大会を突破して関東大会に出たい演劇部の部長としては憂慮すべき事態である。少し寂しいが青田が近くにいないのは都合がよかったかもしれない。

「でもまだ2ヶ月以上あるんだから、焦らないでチャンスを待ったら?」
「実際それしかないんだけどね」
「2ヶ月かあ……あ、そうだ、ねえ緒方――

3月半ば、気温がなかなか上がらず、桜はまだ少し時間がかかりそうな空の下、緒方とはテスト休みだというのに制服を着てぼんやりと空を見上げていた。

「春休みに入ったらすぐ、だっけ?」
「そう。奇跡的に弟くんと修了式が同じ日だったからね」
「よかったね、時間取れて」
「そっちは?」
「引越しは4月になってから。だから今月はまあ、今まで通り」

青田母が送迎会のビンゴでテーマパークのペアチケットを獲得したのは、つい1週間ほど前のことだった。青田弟は大喜び、母は長男が家を出ることだし、いっそみんなで一泊しながら行こうかという気になった。だが、長男は家族とテーマパークなどとんでもない。当たり前だが家族と行く暇があるなら彼女と行きたい。

意外にもそれを察して母を取り成したのは父であった。次男も子供ではないので、父方の従兄弟の方を連れて行けばいいじゃないかという話に纏まった。修了式の後そのまま移動して一泊、翌日遊んで深夜に帰宅予定。そんなわけで、奇跡的にも、青田家が一晩空くことになったのだ。

どうも青田父は何やら感づいているようでもあったが、地元を離れるんだから友達とゆっくり過ごしたらどうだ、と小遣いまで渡してくれた。鈍いたちらしい母は、何言ってるのよ時枝ちゃんと遊べばいいでしょ、と呆れていたが、青田は父に向かって黙って頭を下げた。

一方のは三井が寮ではなく部屋を借りることになったので、都合が合えばいつでもふたりきりになれる空間が確保できている。それに引越しはまだ先なので、春休みの間は一緒に過ごせる。

「しかし、これ、ほんとによかったの」
「うーん、怒られる前提だけどね」
「私はひとりだからいいけどさ、あんたは下手したら」
「3人……龍っちゃんが入ったら4人だね」

ふたりが空を見上げているのは、湘北高校の正門前。今日は卒業式なのである。

「最初で最後なんだからいいじゃん。制服で一緒に帰ってみたかったんだもん」

気持ちはわからないでもないが、アナソフィアの制服というものは少々異常なまでに特別視される存在であり、なおかつまだ冬に等しい気温下、これまた特徴的なコートを着たふたりは相当目立つ。ここに来るまでにも2度ほど声をかけられた。緒方はむしろの付き添いというつもりだった。

しばらくすると、昇降口のあたりが騒がしくなり、保護者らしき人がぱらぱらと出てくる。高校の卒業ともなれば、顔は出しても先に帰るというケースも多い。少々ヤンチャな生徒も多い県立に子供を通わせている保護者の皆さんは、正門の前に佇むアナソフィアの制服にぎょっとして、振り返りつつ去って行く。

その頃、式次第と最後のHRを追えて騒がしい3年6組の教室では、卒業式当日だというのにバイトだから急いで帰るという男子がぜいぜい言いながら戻ってきた。そして教室に飛び込むと、木暮の肩を掴んだ。

「おい、お前いとこがアナソフィアだって言ってたよな?」
「えっ、ああ、そうだけどなんだよ急に」
「正門のところにアナソフィアがふたりいるんだけど」

面倒くさいのでのことはだいたいいとこで片付けている木暮のみならず、横にいた赤木までサッと顔色が変わった。赤木がそのふたりの人相風体を聞くと、ひとりはで間違いなさそうだ。

「何やってんだあいつらは」
「もうひとりの方はもしかしてあれか? 青田の……
「あー! そうだ、ええっと、緒方だ、時枝さん」

だが、緒方の名前を思い出している場合じゃない。木暮と赤木はため息をひとつつくと、教室を飛び出した。

「オレ三井呼んでくるから!」
「おう、青田は任せろ。正門で落ち合おう」

卒業証書片手にふたりは校舎を駆け抜ける。なんでオレたちがこんなこと!

青田も三井も未練たらしく部室や道場にいたので思いのほか時間がかかってしまったが、木暮も赤木もなんとかふたりをピックアップして正門に急いだ。もう下校が始まって20分くらいは経つ。アナソフィアの制服というだけで目立つのに、中身があのふたりではあまり楽観視は出来ない。

先に正門に到着した三井と木暮は、正門の向こうを確かめるとがっくりと肩を落とした。案の定囲まれている。だが、ふたりより先にその囲みを崩しに入ったのがいた。堀田である。アナソフィアの制服がいるらしいぜと昇降口で耳にした彼は嫌な予感がしてすっ飛んできた。だとわかると、遠慮せずに突っ込んでいく。

「あー! 徳男くん久しぶり! うわ、どうしよ1年半ぶりくらい?」
「何をのんきなこと言ってんだ! ちゃんと連絡してあるのか?」
「ううん、どっちにもしてない」

囲みは少し崩れたが、徳男もまた肩を落としてため息をついた。そこへ三井と木暮も突っ込んできた。

! お前あれほど制服でここに来るなと……
「公ちゃん! 最初で最後なんだからこのくらい大目に見てよ。寿くんボタン取られてないよね?」
「ボタン取りに来たのかよ!?」
「いやそういうわけじゃないけど」

少し離れて残る囲みは今見ている景色が現実のものと思えなくて戦慄した。どうやら木暮の方は親戚のような感じだけれど、なぜあのアナソフィアの制服を着た可愛い女の子は三井と手を繋いでいるんだろう。そりゃ今は更生したかもしれないけど、あいつ確かそこそこ激しくグレてたはずなのに。

そして少し遅れて赤木と青田がやってきた。赤木はともかく青田は真っ青な顔をしている。

「あっ、龍っちゃん! ひさしぶりー!」
「やっぱりお前か! 時枝さん大丈夫でしたか」
「全然大丈夫ですよ。うん、こっちもボタン無事だ」

緒方がにたりと笑うと、とふたりで突然青田と三井の第2ボタンをむしり取った。

「残ってなかったら赤木くんに殴ってもらおうかと思ってたんだよ」
「ボタンごときでお前な」
、オレのボタンもあげようか?」
「えっ、だめだよ公ちゃん、その制服小父さんが着るって言ってたもん」
「何考えてんだあの人たちは!!!」

せっかく徳男が散らした囲みだったが、いつのまにか増えている。そしてまた戦慄が走り抜ける。まあそうは言っても三井はまだわかる。だが、なんだか顔が小さくて背が高くてモデルみたいなアナソフィアの制服が、こともあろうに柔道一直線の青田の腕に抱きついている。一体どんな魔法を使えばこんなことになるんだ?

実際のところ、青田も三井も何か特別なことをしたわけではない。ただそれに惚れてしまった緒方とがアナソフィア女子としては少々特殊だったというだけだ。

「てか本当にボタン目当てじゃないなら何しに来たんだよ」
「一緒に帰ろうと思って」
…………それだけ?」

三井の問いにさらっと答えたを、木暮が今にも笑い出しそうな歪んだ顔で見ている。

「それだけって何よ。もう寿くん二度と制服着ないんだよ。一度くらい制服同士で帰りたかったんだもん」
「だったら前もって連絡しとけよ……
、一緒に帰れればいいんだろ。実は今日、みんなでHeaven's Door行くんだよ」
「もちろん。私も行きたーい、なんていうふざけたことは言いません。今日は私もロダンだし」
「どうせ19時オープンなんだろ。帰りくらい、付き合ってやったらどうだ」

赤木にまで突付かれた三井は少しため息をついて、だけどほんの少しだけ嬉しげな表情を覗かせた。

青田は緒方の手を取り、何も言わずにふたりでや三井たちが騒いでいるのを眺めていた。幼馴染だとか部活が同じだとか、色々な繋がりのある集まりなので、なんとなく口を出しづらい。

「青田さんも行くんですか、Heaven's Door
「いや、行きません。木暮は誘ってくれたんですが、断りました」
「柔道部の方で集まるんですか?」
「いえ、今日は家族と過ごします。そのくらいはしておかないと……

たちの方を静かに見ている青田の横顔は、緒方にはいつかのようにとても頼もしく見えた。初めて会った時はもっと浮ついた顔をしていた気がする。しかも緊張のせいか落ち着きもなかった。それから約9ヶ月、緒方の変化球にうろたえるばかりだった青田は、些細なことには動じない胆力というものを身に付けたらしい。

「来週、無事に出かけてくれないと困りますからね」
……そうですね」
「ええとその、変な意味じゃなくて、楽しみにしてます」
「変な意味でもいいんですよ」
「時枝さんはどーしてそうあからさまなんですか」

照れている青田の横顔を見上げて、緒方はくすくすと笑う。ほぼ24時間ずっと一緒にいるのだから、変な意味になっても仕方あるまい。本当はもっと早くそういう機会を作れたらよかったのだろうけれど、それも仕方ない。だからせめてその24時間だけは何も邪魔が入らないようにしたい。

「そうだ、時枝さん、その日、メシ作ってくださいよ」
「えっ、私料理なんてできませんよ」
「え!?」
「アナソフィア女子が何でも出来ると思ったら大間違いですよ。を基準に考えちゃだめですよ〜」

とまるで同じとは思っていなかったけれど、アナソフィアの女の子はそつなく何でも器用にこなすようなイメージがあったことは否めない。緒方の手料理を食べたいと思っていた青田は逆に失礼なことを聞いた気がして、久しぶりに慌てた。

「むしろ私が青田さんの男の手料理食べたいです」
「マジすか。オレ、なんか作れたかな」

緒方も青田が料理を出来るとは思っていない。しかし、そう返してもこんな風に前向きに考える彼の姿勢が好きだった。それに満足した緒方は腕に抱きつきなおすと、にんまりと笑った。

「じゃあ一緒にマズい料理でも作りませんか」
「はは、そうですね、そうしましょう。でもマズくてもオレ時枝さんのなら食いますよ」
「青田さん、その台詞忘れないでくださいね」

ふたりが笑い合っていると、がぴょこんと顔を出した。

「なんか楽しそうだねふたりとも。そろそろ帰るけど、どうする?」
「どうもこうも、時枝さん制服だし送って帰るよ」
「ねー、龍っちゃん」
「あ?」

が相手だと、青田は途端にだらだらと喋りだす。木暮に赤木に青田は本当にの兄のようだ。

「緒方のこと、よろしくね」
「ちょ、何言って……
「大事にしてあげてね。泣かせたりしたらやだよ」
……ああ、約束するよ。、ありがとう、時枝さんに会わせてくれて」

ギュッと強く握られる手に、緒方は目がじわりと熱くなる。泣かすなと言っているの前で泣きたくなんかない。だけど、と青田の言葉が嬉しくて、気を付けないと涙が出てきてしまう。

はにっこりと笑うと、それ以上は何も言わずに三井のもとへ戻って行った。まだ照れの取れない様子の三井だが、の手を取って木暮たちに手を上げると、衆人環視の中をふたり寄り添って帰って行った。の苦しむ姿を見てきた緒方には、感慨深い光景でもあった。

それを見送ったふたりも、木暮や赤木に挨拶をしてその場を離れる。三井たちのようにじろじろと見られていたのだろうが、あまり気にならなかった。湘北から少し離れ、人が少なくなると、緒方は青田の袖を引いて爪先立つ。

「青田さん、私も大事にしますからね」
「時枝さんはそんなこと考えなくていいんですよ。大事にするのは男の役目です」
「えー、なんかそういうの前時代的ですよー」
「オレはそういう男なんです。知りませんでしたか?」

にやりと口元を歪める青田に、緒方もまたにやりと笑って繋いだ手をぶんぶんと振り回した。

「知ってましたー。になんで未だに敬語で喋ってんだって言われましたー」
「なんて言ったんですか」
「明治のインテリ夫婦みたいでいいだろーって言いました」

ちょっと自慢げに胸を反らした緒方に、青田は小さく吹き出した。なるほどな、上手い言い方もあったもんだ。

「最初は引け目があったからですけど、今は時枝さんは大事な人なんです。敬語くらい使わせて欲しいなあ」
「私今のままで全然いいんですよ、敬語でも気にしません。レトロでいいじゃないですか」
「あー、だけど時枝さん、ひとつだけ」

青田は立ち止まって少し屈み、緒方に目線を合わせる。

「やっぱりオレも名前で呼んで欲しいです」
「ええっと、龍っちゃん、ですか」
「それはどれでも時枝さんの好きなのでいいですよ」

そう言われると迷う。緒方はまた歩き出した青田に手を引かれながら、ああでもないこうでもないと考え、途中ふざけた候補なんかを言ってみたりしつつ、駅につく頃になって突然心を決めた。

「奇をてらうことはありませんね。龍彦さんにします」

言ってから、緒方も青田も急に恥ずかしくなって、駅のホームの端で身を寄せ合いながら照れた。

「本当にオレたちは経験がないというか、中学生みたいですね」
「そりゃそうですよー、いきなり手馴れたように振舞うのなんて無理です。少しずつ覚えていきましょうね」

そもそもはの思いつきというだいぶ雑な始まりだったふたりだが、それにしてはうまくいっている。緒方に男ができたことで取り巻きはこの世の終わりが来たような恐慌をきたしたが、それが落ち着くと妨害をし始めた。3ヶ月もったらいい方だよ、そのくらいすると喧嘩増えるよ、と、緒方に刷り込みを試みた。

しかし残念ながらクリスマスイヴを基点とすれば、以後3ヶ月は緒方が部活で忙しく、青田も新生活の準備でぼんやりしている暇はなかった。ふたりで会える時間を作っても、喧嘩している余裕などなかった。取り巻きのお嬢さんたちは青田が不在になる来年度が勝負といったところか。

「まあ、て言っても未だになんだかよくわかんないんですけどね」
「いいんじゃないですか。人と同じにする必要があるわけでなし、時枝さんは時枝さんで」
「あっだけど、あお――龍彦さんのこと好きなのは本当ですからね」

そんなことをこんな場所で言うんじゃないと思ったが、青田はそう言い返す気にならなくて、つい笑った。真面目腐った顔で言う緒方に、同じことを言いたくなったからだ。こんなバカップルみたいなこと、浮ついた精神鍛錬の足りない軟弱者のすることだと思っていたけれど、そうじゃない。本当にそう思っているから。

「オレもですよ。春から少し離れますけど、好きなのは時枝さんだけですからね」

そんな風に青田が戸惑いもせずに言うものだから、緒方は珍しく顔を真っ赤にして俯いた。いつか緒方に一方的にキスされてうろたえていた時のことを思い出した青田は顔を近付けて、緒方の耳元で囁いた。このくらいで参ってもらっては困る。来週はそれどころではないはずなのだから。

「時枝さんも慣れましょうね」

珍しくやりこめられた緒方は、顔を赤くしたまま青田の腕をバチンとひっぱたいた。

END