恋愛エクスペリエンス

04

案の定、新学期のアナソフィア高等部2年の一部では緒方との噂が飛び交っていた。まだそれぞれのクラス周辺程度で済んでいるが、これが数日経ち部活が始まると一気に拡散する。部活が始まって2日目にもなると、今度は1年3年にも伝播して、今回の場合は確実に緒方の取り巻きが恐慌状態に陥るはずだ。

〜、ちゃんと言っておいてくれないと〜」
「えっ、何が?」

始業式から3日間は部活が禁止のアナソフィアだが、緒方とと岡崎は放課後の演劇部の部室でおやつを食べていた。はバイト、岡崎は部員と衣装探し、緒方は青田と市営のジムに行く予定になっている。

「晴子さんとかいう人のこと」
「えっ、ちょっ、なんでそれを」
「本人が急にブチ撒けてきてさ。黙ってりゃわからないのにねえ」

緒方が気にしていない様子なのが救いだが、はおでこに手をバチンと打ち付けた。

「ごめん緒方〜隠すつもりじゃなかったんだよ」
「いやいや、わかってるから平気だよ」
「って、龍っちゃん何だって?」
「お前ら話が全然見えませんが私がいるの忘れてるんじゃないのか」

岡崎が泣きそうになっているので、緒方はのフォローも受けつつ、青田との顛末を説明した。夏祭りで見かけただけの岡崎はともかく、は今度はテーブルに両手をついて額を打ち付けた。

「マジごめん緒方……龍ちゃんがそこまで頭固いとは思ってなくて」
「てか、お試しってあんたそれでいいの?」
「うん。だって私もそんな言うほど好きでもないしさあ、いいじゃんだめならだめで」

あっけらかんとしている緒方に岡崎ばかりかまで点と線で出来たような顔になる。この感覚はいくら革命児でも特殊嗜好でも理解できない。本人たちがそれでいいなら構わないけれど、というところだが、不安が残る。

「それでやっぱり向こうがいいですって言われたら悲しくない?」
「んー、それはフツーに付き合ってても同じことじゃない? 誰がどんな本音隠してるかわからないじゃん」
「それはそうかもしれないけど……なんかすっきりしない」
「岡崎ちゃんはそーいう性格だからなー。それがいいところなんだから、いいんだよモヤってて」

緒方は岡崎の頭をくりくりと撫でてにんまりと微笑む。

「まあ、緒方と龍っちゃんが後悔しないならそれでいいけど……
「ははは、しかし、お試しとはいえどっちも湘北彼氏になっちゃったねえ」
「そ、そうだね……てか緒方、なんでそんなに楽しそうなのさ」

も岡崎も困ったような苦しいような顔をしているというのに、緒方ひとりだけにこにこしている。

「そりゃあ、新しいことを始めるのは超楽しいからだよ! それに、これは勝負だからね!」

緒方はふたりに向かってピースサインをして見せると、またニカッと笑った。

秋のデスレースとは言うものの、去年一度経験している上に部活も忙しかった緒方の場合、2年目である今年はむしろ余裕がある。緒方周辺の青田ショックも落ち着いてきて、それでも諦めない取り巻きが復活していたし、普段どおり、という日々が続いていた。

ただ、学校が始まってしまうと部活がある以上は時間が取りづらくなってくるし、緒方の場合、県大会と文化祭という演劇部2大イベントが短い期間に纏まっているだけに、そういう意味では1年の中でも一番忙しい時期だった。

結果的に青田と会う時間はどんどん少なくなっていって、部活帰りに送っていってもらうのですら、途切れがちになってきていた。青田の方は最近は部から追い出され気味で暇だというが、デスレース真っ最中の緒方はとにかく時間がない。

そんな中、三井が推薦で大学がほぼ決まったといって、が嬉しいような悲しいような、複雑な状態に陥っていた。進路が決まったのは嬉しいけれど、大学は東京なので、バスケットに集中したい三井は家を出ることになりそうなのだという。

やっと安定して付き合えるようになったのはいいのだが、どうも夏からこっち、は三井のこととなると少々冷静さを欠く。それが中1の頃からをよく見てきた緒方や岡崎にはよくわかる。一時的なものだろうとは思うが、はあまり正常な状態になかった。

その話を青田にすると、彼も大きくため息をついた。部活帰りである。

「三井もそうなんですが、隣の家の幼馴染も進学で家を出るらしいんです」
「隣の家のって、あのメガネのお兄ちゃんですか」
「そうです。だから余計に不安なんでしょう。兄にも等しい幼馴染も彼氏も、両方一気にですからね」

なるほど、と緒方は頷いた。三井のことだけではなかったのか。

「あれ、青田さんはどうするんですか。やっぱりひとり暮らしするんですか?」
「寮に入ります。実は自宅からでも通えないことはないんですが、集中できる環境の方がいいのではと……

ほんの一瞬、緒方の胸にざらついた風が吹き抜ける。あれっ、私、寂しいの? それに違和感を覚えたけれど、改めて考えてみるとそうでもない気がする。というのも、自分もおそらく進学で家を出ることになりそうだからだ。じゃあ、今のは何だったんだろう。緒方は時間を確かめると、青田の袖をつんつんと引いた。

……青田さん、時間ありますか?」
「え、はあ、大丈夫ですが」
「もうすぐのバイトが終わります。ちょっと顔、出しませんか」

出してどうするんだという顔をしていた青田だが、緒方の思いつきに付き合ってくれることになった。ふたりは途中下車をして大きな駅のロータリーを抜け、のアルバイト先の喫茶店に向かった。

……すごいところですね」
「今日は三井さんが来られないって言っていたので、ちょうどよかった」
「え、毎回迎えに来てるんですか?」
「毎回ではないらしいんですが、もあの通りなので危なっかしいんですよね」

ふたりはコッテコテのレトロ喫茶の前でを待った。21時までの営業らしく、20時50分頃には表の灯りが落ちて、窓にはロールスクリーンが引かれる。21時を過ぎてすぐ、帽子に眼鏡にマスクという不審者状態でが出てきて、ふたりを見つけるなり飛び上がって悲鳴を上げた。

「キャーってなによ。あんたの方が不審者じゃないの、どう見ても」
「しょうがないでしょ、龍っちゃん怖いよ!」
「わ、悪かったな!」

青田がいれば不審者でいる必要もない。はひょいひょいとマスクと眼鏡を外した。

「てかどうしたの、こんな時間にふたり揃って」
「いやちょっとあんたのことが気になったから。青田さんは私がお願いして来てもらったんだよ」
「気になった、って……
「三井さんが進路決まってから、あんたおかしいもん」

遠慮なく言った緒方の言葉に、はウッと喉を詰まらせ、泣き出しそうな顔をした。

……龍っちゃん、その荷物緒方のだよね。緒方、練習着とか入ってる?」
「衣装も入ってるよ」
「ふたりとも、ちょっと悪いこと付き合ってくれる?」

の口から出てくる言葉とは思えないふたりは思わず顔を見合わせた。だが、をよく知るふたりは、本当に悪いことなどしないのをよくわかっている。青田に影になってもらい、緒方は衣装と練習着で私服を取り繕う。着替えた緒方と元々私服の青田を連れたは、少し歩いたところにあるビルの前で足を止めた。

地下に降りる階段の脇にスポットライトを浴びている看板があり、「Cafe&Bar Heaven's Door」と書かれている。

……、酒なら付き合わないぞ」
「違うよ。ここ、さっきの喫茶店の支店みたいなところで、マスターをよく知ってるの」

青田も推薦が決まっている。迂闊に外で飲酒などしてそれが飛ぶのはご免蒙りたい。緒方共々あまり気乗りはしなかったが、を信用して着いていくことにした。急な階段を降り、ドアを開けると埃とタバコの香りが漂う。

きょろきょろしているふたりを置いて、はまっすぐにカウンターへ向かう。オールバックにヒゲのすらりとした店主らしき男がカウンターから出てきて、を抱き締め、頭を撫でている。それもふたりにはなんだか不愉快な眺めだった。三井のいないところで他の男に抱き締められているなんて――

に手招かれたふたりは、店の中でも特に暗い一角に通された。

、あんた――
「いらっしゃい。何にする?」

を問い詰めようとした緒方は、横から差し出されたメニューにびくりと身を引くと、思わず隣に座っていた青田の手を掴んだ。青田もすぐに握り返してくれて、緒方の代わりにメニューを受け取った。だが、警戒心むき出しのふたりがメニューに目を落とすと、そこにはカフェメニューだけが記されており、酒類はひとつも書かれていなかった。

「あれ、飲む気でいたの? だめだよ、そういうのは」
「い、いえ、そういうわけでは」
「いきなりこんな店に連れてこられたら、驚くよな。胡散臭かったろ。オレはちゃんと兄弟弟子みたいなもんでね、この子を悪いことには絶対に引きずり込まないから、安心して」

話が見えないが、またもはこうして人に好かれているのだということはよくわかった。ふたりはコーヒーを頼むと、ため息をつき、揃っての方へ向き直った。

「そんな怖い顔しないでよ。昔ここのマスターもさっきの喫茶店でバイトしてて、この店は元々寿くんの溜まり場」
「だからって何でこんなところ」
「何か話をしなきゃいけないような時は、ここをよく借りるの。公ちゃんも来たことあるよ」

こんな店に入り浸っているのかとを責めたい緒方だったが、上手く言葉にならない。すると、青田が少し身を乗り出して口を開いた。緒方と手を繋いだまま、その手に少し力を込める。

「まあ、お前のことだから、ここで悪いことをしてるわけじゃないんだろうし、マスターも分別があるようだから、それはいい。だけど、オレたちを連れてくるような場所じゃないだろう。時枝さんのことも考えろ。今回はいいけど、お前、少し判断力をなくしてるんじゃないのか」

は青田にそう言われるとかくりと頭を落とした。

「木暮と三井のことも、しょうがないだろ。寂しいのはわかるが、お前がそんなことでしょげてたら、あいつらは不安で家を出られなくなっちゃうじゃないか。三井なんか国体でスカウトされたんだろ、期待されて必要とされて行くのに、お前が邪魔するようなことしてどうするんだよ」

暗くてよくわからないが、が鼻を鳴らした。緒方は青田の言うことがもっともで付け加える隙もないので、その横顔をそっと見上げる。お試しで付き合うということになってから、青田は髪を下ろすようになってきていた。今日もセンター分けになっている。それが急に頼もしく見えてきて、緒方は何度も瞬きをする。

、お前あの話、誰に聞いたんだ」
……晴子ちゃん」

ため息混じりに問いかけた青田に、は涙声で答える。突然出てきた青田の思い人の名前に緒方もぎくりとする。が、今はその話ではない。あの話ってなんだろう。コーヒーが来たので話が途切れたが、マスターが帰ると、青田が説明しだした。

「あ、時枝さんすみません。最近、どうやら湘北で三井人気が高まってるらしいんです」
「はあ。まあ三井さん目つき悪いけど顔は悪くないですもんね」
「ヤンキーが更生してバスケットでは全国クラスの舞台で活躍ですからね。特に3年の女子が騒いでるらしくて」

なんだよ嫉妬かよ、と緒方は呆れたのだが、口には出さないでおく。それが「普通の恋愛感情」なら、自分にはわからなくて当然だから。三井のことが大好きなにとっては泣きべそをかくほどつらいことなんだろう。

「湘北は受験の人間は少ないんです。就職と専門がほとんどで、専門ももう少しすれば片付きます。三井も推薦が決まったので、ギリギリまでバスケ部続けて、その後は時間が出来ます。それを狙ってる女子が多いという話で……なんで晴子ちゃんもそんな話を」

それももっともだ。学校が違う彼女にわざわざ言うことじゃない。

「それが、赤木兄妹は私たちのこと知らなかったらしくて。赤木くん引退しちゃったし、話す理由もないから」
「まあ、三井に木暮じゃそうなるか……
「国体、公ちゃんと一緒に見に行ったの。そこでそんな話が出て、公ちゃん慌てて説明してた」

それからずっと不安で仕方ないとは言う。その上東京の大学からスカウトが来て、三井はそれを受けてしまった。文句を言うようなことではない、だけど離れてしまうのが怖い。その上女の子が騒ぎ出したなどと聞かされて、一気に落ち込んだようだ。緒方は疑問に思ったことを正直に言ってみることにした。

「あのさあ、どれだけ他の女が騒いだって、あんたがいて浮気とか乗り換えるとか、あるのかなそんなこと」

緒方の感覚で言えば、アナソフィアで容姿端麗成績優秀で誰にでも好かれるを差し置いて他の女に目移りするなど有り得ない。というか、そんなことになったらこっちから振ってやりゃあいいじゃないか、である。だが、はのろのろと首を振る。

「そんなのわからないじゃん」
「オレも三井がそんなことをするとは思わないけど、こればっかりはな……

緒方はその青田の言葉に強く頭を殴られたような気がした。浮気だの二股だのという話でないから気付かなかったが、今の青田がまさにその状態じゃないか。付き合ってないだけで、天然ゆるトロ美少女とアナソフィア女子の間で悩んでいる。そうか、有り得るのか、傍目には完全無欠に見えるですら――

緒方にはそれが衝撃で、岡崎のようにすっきりしないモヤった頭を掻き毟った。

「時枝さ――
「もー、イライラするなそういうの。三井さんにちゃんと言ったの、それ」
「言うわけないでしょ、そんなこと。怒られるよ」
「なんで怒るの? 不安だって、怖いんだって言って何が悪いの」
「やっと手に入れたバスケ続けられる進路なんだよ、それを応援できない私が悪いだけだもん」
「バスケとあんたは関係ないでしょうが!」
「だからだよ! 関係ないからそのことには私は口出しできないんだよ!」

ついヒートアップしてしまったふたりを青田が慌てて宥める。この手の問題の場合、どちらも間違っていないし、起こってもいない事態に不安を抱いて焦燥感に苛まれているだけなので、どれだけ話しても解決しない。青田がちらりと時間を確かめると、だいぶ遅くなっていた。そろそろ切り上げないと。

、何もかもブチ撒けることはないけど、少し三井に話してみたらどうだ。離れるのはつらいって、そのくらいなら構わないだろ。もし万が一、彼女だからって余計な口出しするなとか言うようなら木暮とオレと赤木に言え。泣くまで説教してやるから」

鼻をぐずぐず言わせていただったが、青田のその言葉に小さく吹き出した。緒方も頬が緩む。には3人の兄がいて、これでは三井もやり辛かろう。そう考えると、さっき話に出てきた晴子さんも3人の兄というくらいに考えてるんじゃないのかなとは思う。まだ青田は気持ちが決まらないようだが……

Heaven's Doorを出て、不審者セットがあるからひとりで帰れるというと駅で別れたふたりは、なんとなく疲れて、言葉少なに帰路に着いた。遅いから自宅まで送ってくれるという青田と並んで歩きつつ、緒方はまだモヤモヤしていた。

恋愛ってよくわかんないよ!