恋愛エクスペリエンス

03

青田の腕をぐいぐい引いた緒方は、これまた三井の腕を引いているの元へ向かった。

ー! 来てたの! ねえもしかして」
「そうそう、これが噂の寿くん」
「噂!?」

緒方は初めて見る三井にはしゃいだ。確かに目つきはあんまりよろしくない。が、言われなければ元ヤンとは思わないかもしれない。青田ほどではないにせよ背が高く、手足が長いバスケット選手らしい体をしていた。彼はの言葉にひっくり返った声を上げた。そりゃあ一部ではだいぶ噂になってますよ、

「アナソフィアの至宝、を泣かしたともっぱらの噂ですが」

緒方の言葉に三井はがっくりとうな垂れた。初対面の人間からそんなネタが出てくるとは思っていなかっただろう。だが、と繋いだ手は離さない。の沈んだ顔ばかり見てきた緒方は、体の真ん中がポッと暖かくなるような気がする。一部で噂の寿くん、どうやら悪い人じゃなさそうだ。

「まあまあ、いいんだってそんなことは〜。龍っちゃん、よかったねえ、デートしてもらえて」
「してもらえて、ってお前な」

は上機嫌だ。表情が硬い青田を突っつくと、緒方の手を引いてその場を離れた。

「どうなの、龍っちゃん、いい感じなの? 悪い人じゃないでしょ」
「うん、可愛いね。優しいよ」
「可愛い……! 緒方さすがすぎ」

は口元に手を当てて弾けんばかりの笑顔だ。

こそ、なによその顔。デレデレじゃん」
「えっ、そんな顔してる!?」
……よかったね。ずっと暗い顔してたから、なんか私も嬉しいよ」

緒方はの頬を指で突いた。は照れて肩をすくめる。このを落とした寿くんとやら、どんな男かと思ってたけれど、想像以上にを大事にしてくれているようで、緒方はそれが嬉しかった。

「あんたがそんな顔するなんて、よっぽど好きなんだね、あの人のこと」
「お、おかしいかな……
「まさか! そういうの、少し羨ましいよ」

緒方はいつもの調子で言ったのだが、は目を丸くして黙った。

「えっ、何、おかしい?」
「違う違う、おかしくない。ええと、余計なお世話なんだけど、龍っちゃんはどう?」
「うーん、いい人だよ。いい人なんだけど……まだわからないかな」
「そっか。あ、でも私に気を使ってとか、そういうのはしないでよ」
「私がそういうのするような人だとでも」
「そうでした」

ふたりはにやりと笑い合うと、それぞれの相手のところへ戻り、ぺたりと腕に飛びついた。また青田がうろたえているが、それを哀れんでいるのは三井だけだ。じゃあまたね、というところだったのだが、今度は突然黄色い歓声に襲われた。やたらと濃いメイクの女の子が十数人、緒方とに飛びついている。

ー! 緒方も一緒か! てかお前らずるいぞほんとにいい!」

アナソフィアダンス部ご一行様であった。これには青田も三井も成す術がない。いじられるまま、緒方やにフォローしてもらうので精一杯だった。ダンス部とたちと別れると、青田は見るからに憔悴した様子で深呼吸をした。緒方ひとりでも緊張するのに、一気に大量のアナソフィア女子は体に悪い。

「ごめんなさい、うるさかったですよね」
「えっ、いやそんなことは決して! こういうの、慣れないもんですから」
「お疲れだったら帰りましょうか」

岡崎率いるダンス部の黄色い声十数人分では疲れても仕方ない。心配になった緒方は青田の腕に手を添えた。すると、青田は何も言わずにその手を取った。しかしそのまま繋ぐわけでなし、緒方は首を傾げる。なんだか青田の様子がおかしい。

「青田さん?」
……はっ、す、すみません! あの、その」

我に返った青田は慌てて手を離した。別に繋いでたっていいじゃない、今日はもうずっと繋いでたでしょ。青田がよくわからなくなってきた緒方は、宙に浮いている手を掴んで引き寄せ、また繋いだ。どうしたものかと狼狽している青田に構わず指を絡ませて、腕に寄り添うと、青田の方を見ずにさらりと付け加える。

「お疲れでなかったら、花火も見て行きませんか。もうそれだけで充分なので」
「あ、あの、時枝さん……
「それから途中まで送って下さい。それだけ、お願いします」

青田は返す言葉が見つからないらしい。緒方も、もう何も言わなかった。

花火を見終えたふたりは、あまり言葉も交わさずに駅へ向かう人の波の中を歩いていた。この状態では駅も電車も殺人的な混み具合になるのはわかっているので、駅から線路沿いを歩くことになっている。予想通り花火会場から一番近い駅は人で溢れ返っている。駅舎に近付くこともできない。

ロータリーに入らず、少し手前で折れたふたりは緒方の地元駅方面に向かって歩く。

と三井に遭遇してからというもの、青田の様子が少しおかしい。それに気付いた緒方だったが、自分が何か失礼を働いた心当たりはまったくない。しかもあの時緒方はと喋っていたので、と三井を前に余計なことを言ったわけでもない。とすれば、三井と何か喋ったせいか。

緒方としては、今日の夏祭りはとても楽しかった。青田は優しいし、4年ぶりの夏祭りだし、一緒にいるのが青田なのでナンパもない。追試の勉強に付き合ったといっても大した労力ではなかったのに、逆に私の方が得しちゃってるなあと思っていた。

だから、様子のおかしい青田には触らないでおくことにした。は少し期待の篭った目で見ていたけれど、今はまだ青田のことが好きというほどでもない。だから、もうこれっきりだというなら、それでも構わなかった。ただ一応浴衣なので地元駅のバス停くらいまでは付き合って欲しい、それだけだ。

花火帰りの客を目いっぱい乗せた電車が遠ざかっていく線路沿いを、ふたりは黙々と歩いた。そうして1時間ほどで、緒方の地元駅までやってきた。もうすぐ駅舎が見えてくるという頃になって、緒方は繋いでいた手を引かれて、顔を上げた。青田が神妙な顔をして見下ろしている。

「どうかしま――
「時枝さん、少し、お話があります」
「はあ」

青田があまりにも真剣な顔をしているので、緒方は自分でもわかるほどポカンとしている。そんな緒方の手を引いて、青田は既に閉店している店舗の軒先にやってくると、手を離して距離を取った。

なんだか告白でも来そうな雰囲気だが、今日のこの流れで付き合ってくださいは有り得ないなと緒方は考えている。それも少し期待しないではなかったが、まあいい。おそらくはさっきから様子がおかしいことに関わる何かを話そうというのだろう。緒方は巾着を両手で持って、青田を見上げた。

「実はオレ、ずっと好きな人がいます」
「へ?」

青田が突然核心から入ったので、緒方は間の抜けた声を上げた。あらら、そうだったの。それならちゃんとに断ればよかったのに、と緒方は少し呆れた。まあ夏祭り行かれたからよしとしようか。

「親友の妹で、今湘北にいて、もよく知ってます」

それならはこのことを知っていたはずじゃないのか。大好きな友人だが、への不信感が少し生まれた緒方は、深呼吸してそれを振り払った。がそれを言ってこなかったのなら、それには何か理由があるはずだから。青田だけを焚きつけて丸投げをするはずがない。

「小学校の頃からで……だけど、正直言って、まったく相手にされてません。昔馴染みなので普通に接してはくれますが、それだけです。たぶん、はそれをわかってて、時枝さんに紹介してくれたんだろうと思います」

なるほどなー。緒方は小さく頷いて、大きく納得した。まあ、この手のゴッツイのが好きという女子高生は多くはない。しかも小学校の頃から兄の親友なら、もうひとりの兄というくらいにしか思われていないんだろう。それは想像に難くない。で?

「未練がましいようですが、今でも彼女のことが好きなんです。完全に諦めきれてません。なのに今日、こうして夏祭りご一緒してしまいました。追試の時も時枝さんしか頼れる人がいなくて、晴子ちゃんのことを諦めていないくせに、あんなお願いを……

青田は体の両脇に腕をビシッと貼り付けて、少し俯いて訥々と話している。だんだん話が見えてきた。晴子ちゃんというのが親友の妹で、その晴子ちゃんへの片思いはまだしっかり残っているのに、別の女と勉強したり夏祭りに行ったことを後ろめたく思っているというわけか。

固い! 固すぎる!

別にいいじゃないかそれくらい。というかこんな風に言わなきゃバレないのに、わざわざ告白する必要があるか。脈のない本命の子に未練があったって、別の女と遊んじゃいけない理由にはならないだろうに。だいたい、付き合ってるならともかく、片思いなんだし……

「失礼なことをして、本当にすみません……
「あのう、青田さん」
「こんなことはもう――はい?」
「それ、いけないことなんでしょうか」

思ったままを口にした緒方に、青田はきょとんとしている。いや、だめだろう、という顔だ。

「お友達の妹さんとも、私とも、付き合ってるわけじゃないんだし、そんなに思い詰めることはないんじゃないでしょうか。私、今日本当に楽しかったです。4年ぶりの夏祭り、青田さんのおかげで満喫できました。それは青田さんに好きな人がいてもいなくても変わりませんよ」

恋愛前提に考えがちなのはまあ、仕方ない。それに、義理堅いのも悪いことじゃない。だが、青田は首を振った。

から聞いてるかもしれませんが、そんなわけでオレ、今まで誰とも付き合ったことありません。小学生の頃からずっと柔道ばっかりで、女の子に慣れてません。だから、こんな風にして時枝さんと一緒いると、コロッと惚れてしまうかもしれません。晴子ちゃんを好きなまま、好きになってしまうかもしれません」

これまたド直球で来たなと思いつつ、こうまで正直に気持ちをさらけ出せるのはすごいなと緒方は思う。

「昔から好きな子はそのまま好きで、だけどこんな素敵な方を紹介してもらったからって、その間でどっちがいいかなと選り好みするような、そんなのは卑怯だし、あなたにも晴子ちゃんにも失礼だ」

だからそれは黙ってりゃわからないというのに。緒方は吹き出してしまいそうになるのを堪えつつ、ひとつ深く息を吸い込むと、腕を伸ばして青田の手を取った。驚いて顔を上げた青田のことを、以前よりもずっと好きだなと思う。恋というほどではない気がするが、好きと普通と嫌いしかなかったら、普通よりは好きだ。

「私、そういうの気になりませんけど」
「は!?」
「私も誰かと付き合ったことないので、よくわかりませんけど……試してみます?」
「な、何をですか」
「私と一緒にいて、私を好きになっちゃうかどうか。晴子さんを忘れられるかどうか」

青田の喉が鳴る。緒方の変化球を食らって口の中がカラカラに乾いているに違いない。

「そういうの、プライドに障りますか?」
「し、しかし、時枝さん、そんな気軽にお試しみたいな――
「いいじゃないですか、気軽にお試し。だめだったらそれでいいんじゃないかなと思いますが」
「いえあの、ですから、その、それ以前に時枝さんはオレなんかでいいんですか!?」

よく見ると顔が赤くなっている。可愛い。緒方は笑ってしまわないように気を付けて微笑む。

「はい、もちろん。オレなんかって言いますけど、青田さんは素敵な方ですよ」

青田の頭がぐらりと傾く。緒方が自覚ゼロというわけでもないのだが、仮にもアナソフィア女子であり、その中でもさらに目立つスペックの女の子にそんなことを言われてしまったら、眩暈のひとつやふたつは仕方ない。

「あんまり堅苦しく考えずに、ちょっと親しい友達くらいに思ったらどうですか」
「そ、それはそうですけども――
「急に彼女面したりしませんから、大丈夫ですよ」
「いやっ、そんな、それこそそんなもったいない時枝さんのような人がその」

パニックを起こしている。緒方は手を取ったまま近付いていって、そっと寄り添った。また青田が硬直しているのがわかるけれど、これも慣れだ。緒方か晴子かを決めることができたとしても、こんなことでは先が思いやられる。固まったままの青田の体に両腕を回した緒方は、少し可笑しくなって、こっそり笑った。

お試しとはいえ、ああ、私も湘北彼氏、出来ちゃったんだ。とお揃いだ。

けっこうな間があったが、緒方は青田の両腕に抱きすくめられるのを感じて、また頬を緩めた。初めて男の人に抱き締められたけど、何なんだろう、この幸せ感。もっとムチムチしたマッチョが好きだったはずなんだけど、これはこれで、なんだか気持ちいい。ちょっと癖になりそう。

わけもなく楽しくなってきてしまった緒方は、少し顔を上げると、弾んだ声で囁く。

「チューもしますか?」

青田の意識が大爆発したのを感じ取った緒方は、声を上げて笑った。

一応「お試し」で付き合うということになった緒方と青田だったが、取り立てて変化がない。引退してしまった青田だが、夏休みの間もしつこく部には顔を出していたし、緒方も部活だし、あまり吹聴も出来ないし、付き合うことにしたからといって、何かが大きく変わるわけじゃなかった。

ただ、それでは試すことにならないので、緒方はちょくちょく連絡を入れては部活帰りに送って帰ってもらうことにした。緒方にとっては幸いなことに休みの間の部活の行き帰りは荷物が多く、そういうところ青田は気が利くので、荷物を持ってもらえるのも有難い緒方は上機嫌だ。

「今日はまたいつにも増して重いですね……
「今日はCDがたくさん入ってるんです。劇中で使う音楽をみんなで手分けして選ぶので」

アナソフィア演劇部は、県大会とは別に文化祭での演目も同時進行で進めており、3年生が主体の県大会用に対して文化祭用は2年生が中心になって進めている。今年2年の緒方はその中でも監督的な役割を担っていて、新学期に入り忙しくなる前に下準備を済ませておきたかった。

「アナソフィア秋のデスレース、でしたっけ」
「そうです。合唱祭、スポーツ交流会、文化祭、生徒会選挙、その間にはテストが入るし、みんなぐったり」
「た、大変ですね……

デスレースの話が出たところで緒方はにやりと口元を歪めた。つい先日、ようやく全ての謎が解けたらしいから三井との顛末をまとめて聞き出したばかりだ。アナソフィアとしては桁外れの内容で、岡崎とふたりでの家まで行って一晩泊まって聞いてきた甲斐があった。

「何ニヤニヤしてるんですか」
「この間、と三井さんの話を全部聞いてきたんです。それを思い出して」
「アナソフィアでは異常事態だったでしょうね」

もっともらしく頷いている青田の顔に、緒方は吹き出した。

「何言ってるんですかあ、そんなこと言ったら私たちだって異常事態ですよー」

途端に青田は慌てるが、もう遅い。

「夏祭りの時にダンス部に見られてますしね。2学期入ったらさらに話が広がってると思いますよ」

イマイチ覚悟が足りてない様子の青田だが、緒方はその様を想像してまたニヤついた。さて、緒方と青田、と三井という2組のカップルを見てしまったアナソフィアはいったいどうなっていることやら。