恋愛エクスペリエンス

05

何がわからないって全部わからないのだが、とりわけ緒方には誰かを思ってぐずぐず泣きべそをかくという感覚がさっぱりわからなかった。泣いたって事態が収束するわけでなし、ましてや未来のことなどどうにもならない。隣を歩く青田と一応付き合っているはずなのだが、その辺りの感覚は未知の領域だ。

「青田さんはわかるんですか、ああいうの感情とか」
「いや、わかりません。わかるような気はするんですが、実感したことないので……

そう、フィジカル重視の緒方や青田の場合、自分で体験していないことはわからないのが普通だ。想像だけでわかったように気になっているのは愚かしいことという感覚で、性に合わない。また、今回のようにわかってやりたいと思うと、余計に遠く感じてモヤモヤする。

「これじゃなんだか私たち、お子様みたいですね」
「なにぶん経験値が少ないですからね。偉そうに説教してしまいましたけど、自分でも空々しかったです」
「おかしなものですね、お試しとはいえ、一応私たちだって付き合ってるのに」
「そっ、そうですよねえ……

夜の街道沿いを歩きながら、青田は照れる。夏祭りからそろそろ2ヶ月が経つというのに、青田はまだ何かというとどぎまぎして照れたりうろたえたりすることが多い。緒方はそんな青田を見ながら、考える。たちと私たち、何が違うんだろう。同じである必要もないけど、の感情が異常ということもないのだから、少しくらいわかってやれると思うのに。

「時間て関係あるんですかね」
「時間、ですか……

青田は黙ってしまった。言ってから緒方も面倒な言い方をしてしまったと後悔したが、手遅れだ。きっと青田は自分が子供の頃から晴子を思っていたという記憶でいっぱいになっているだろう。どうせなら勝負に勝ちたいと思っていた緒方だが、なかなかに道は険しい。時間が相手では成す術がない。

特殊な状態とはいえ、青田と付き合うようになってから、緒方は顔も見たことのない晴子に対抗意識が芽生えているのを感じていた。それは嫉妬とか憎いとかではなくて、やるからには負けたくないという緒方なりの闘争心だった。青田が晴子を選ぶと言ってくるまでは、可能な限り努力をしたい。

それで負けたのなら後悔しないだろう。だけど、何もしないで負けてしまっては、プライドが傷つく。

「確かに私たち、こうやって並んで歩いてるだけですもんね」
「えっ、その、何か行きたいところとかやりたいこととかあるんですか」

部活帰りの送りばかりでデートできないのは緒方が忙しいからなのだが、青田はそれを不満に思われていると受け取ったらしい。また少しうろたえた。女の子をどんなところへ連れて行ったら喜んでもらえるのかなんてわからないという顔をしている。

「ああ、ええと、そういうことではなくて。……手を繋いだことしかないですもんね」

言いながら緒方が手を繋ぐと、青田はまたぎくりと体を強張らせた。

「と、ととと時枝さん、あのですね、あまりそういうことをされますとですね」
「青田さんはこういうの、嫌ですか」
「そういうことじゃないです。恐れ多いくらいです。ですがその、オレも一応男なもので――

何かというと青田は緒方が格上だというようなことを理由にして遠慮し、自分を卑下し、そして結果的には距離を作る。それが面白くない緒方は道端の街路樹に向かって青田を突き飛ばした。不意打ちを食らった青田は木を背にして目をまん丸にしている。

一応男だなんて言ったので、拒否の意味で突き飛ばされたならまだわかる。だが、緒方は突き飛ばした青田に向かってずんずん歩いてくる。ちょっと怖い。

「あの、時枝さん?」
「嫌ならどうぞ、止めてください。力では青田さんに敵わないですからね」
「は!?」

正面から寄り添った緒方は、青田の顔を両手で掴んで力任せに引き寄せた。そこで力で止める猶予を与えるつもりで手を止めた。だが、青田は目を泳がせているばかりで、何もしてこない。じゃあいいんだな。腹を決めた緒方は、爪先立つと、唇を押し付けた。

ちゅっ、と軽くキスしただけだったが、青田はガチガチに固まっており、唇が離れると一気に力が抜けてがっくりと肩を落とした。緒方はそんな青田にするりと抱きつき、肩に頬を摺り寄せた。夏祭りの夜、抱き締められた時みたいだった。やっぱりちょっと幸せで、癖になりそうだ。うん、キスも悪くない。

「時枝さん、どうしてこんなことを……
「してみたいと思ったからです。こんな付き合い方でも、青田さんは、彼氏なので」

青田の両腕が伸びてきて、緒方の背中をくるみこむ。緒方は嬉しくなって小さく鼻を鳴らす。

「キスは、いけませんでしたか」
……いいえ、そうじゃありません、けど」

力ずくで止めに来なかった。だから緒方はキスした。けれど、青田は困りきった顔で呟いた。

「これでよかったんでしょうか」

2ヶ月かかったけれど、ようやくキスできた緒方は機嫌がよかった。これで1歩前進した。なんだかゴチャゴチャと考えてる様子だったけれど、青田は自分を拒絶しなかった。それは「お試し」が良い方向へ向かっている証拠であり、緒方の勝利への道筋だ。

一方、これもゴチャゴチャとグズっていたも、三井とちゃんと話が出来たらしく、ある日を境にいきなり元に戻った。あまり具体的な話はしないけれど、おそらくはの不安が払拭できるだけのことを言ってもらえたのだろう。単純だなあと思いつつ、緒方はにこにこ顔のを眺めていた。

「デスレース中なんだし、早めにリカバリ出来てよかったね」
「岡崎ちゃん、よかったねって顔してないよ」
「いやあ、人の恋バナ好きだけど、どっちも順調だとそれはそれで面白くない」

正直でよろしい。は苦笑いだが、緒方は吹き出した。

「笑い事か。でも、考えようによっちゃ、ひとり暮らしって都合いいんじゃないの」
「それが、寮かもしれないって言うんだよね」
「あー、そっかあーそれじゃなあーうーん」
「青田さんも寮だっつってたな。でも外に出られないわけじゃないんだし」

自分も進学の際は女子寮がいいと考えていた緒方は、パックジュースを啜りながらへらへらと笑った。だが、はまた苦笑いを浮かべ、岡崎はまた点と線で出来たような顔になった。そんな顔をされる覚えがない緒方は首を傾げる。私何か変なこと言った?

「いやほら、寮だと入れないかもしれないじゃん?」
「寮なんて入れなくたっていいじゃん、別に」
「入れないとお金かかるじゃん?」
「何が?」

言葉を濁していた岡崎だが、緒方がまだ気付かないので、盛大なため息とともに付け加えた。

「エッチしたい時困るでしょ」
「それかよ! しかしそうか、我らの姫君は嫁入り前だというのに生娘ではなくなってしまったのだな」
「変な言い方しないでよ!」

他人事なので緒方は適当に茶化してあしらったけれど、何のために進学すると思ってるんだと呆れた。その上、頑として翔陽プリンス群になびかなかった孤高の高嶺の花であるが既に三井のお手つきだと思うと、それも何だか安っぽく感じてしまって、違和感を感じる。

「緒方と龍っちゃんだってもう2ヶ月くらい経つじゃん!」
「お試しだって言ったでしょうが。ていうか時間の問題か?」

耳を真っ赤に染めて反論するの頬を突付きながら、緒方はにやりと口元を歪めた。余裕の緒方には頬まで赤くなりながら、もごもごと言い返した。

「龍っちゃんが緒方を選べばどうせ緒方だってそうなるんだから!」
「選べば、でしょ。てかエッチってそんなにいいもん? どーいう風にしてるの?」
「岡崎ちゃん私もうやだー!」

涙目で抱きついてきたを、岡崎はよしよしと撫でながら、緒方をまた点と線で出来たような顔でじっとりと見ていた。緒方は笑って誤魔化したが、意地悪をしたつもりはないのだ。本当に疑問に思ったから聞いてみただけだ。しかしそうは言ってもあまり実感のない例え話、想像すらも上手に出来なかった。

何しろ青田は2ヶ月が経過しても心情の変化については何も言って来なかったし、けれど緒方との時間がつまらないわけでもないようだし、果たして彼がどんな決断をするのかはまったく見えなかった。勝負には勝ちたいけれど、青田が自分を選ぶという結末もうまく思い描けない。

今頃になって緒方は、青田が自分を選んだ場合のことをまったく考えていなかったと気付いた。何も結婚するわけでなし、ノープランでいいのだが、の言うように、「お試し」が終われば世間並みのお付き合いが待っているということだ。

緒方は少し背中が冷たくなった。やばい、そうなったらマジで右も左もわからないぞ――

アナソフィア秋のデスレースも大詰め、県大会は敗退、文化祭は一応問題なく終了、後は生徒会選挙と期末を残すのみとなった緒方は抜け殻のようになっていた。バテるのには早いのだが、3年生が文化祭で引退したので緒方は既に部長に就任しており、新体制の本格始動までの間は少し休みたかった。

公式な大会も公演もないので焦ることはないのだが、伝統的に3年生が引退した後の12月には来年度のメインシナリオの選考を始めることになっている。地区大会が毎年春なので、進級してから準備を進めるのでは間に合わないからだ。それも少々荷が重かった。

あまりに忙しかったので、青田ともしばらく会っていない。メールもメッセージツールも苦手というふたりなので、お互いがどういう状態なのかもほとんど把握していない。

寂しくて会いたい、とは思わなかった。ただ、そうしている間に青田の心に変化が生じ、負けてしまうのではないかと思うと、面白くない。恋愛を最優先するつもりはないので、それについては後悔がないけれど、なかなかに誤算だったなと緒方は心の中で舌打ちをした。

とはいえ、生徒会選挙には関係がない緒方はやっと時間が出来る。期末も近いが、それは湘北も同じ。また一緒に勉強してもいいなと考えていた。推薦が決まっている青田はきっと怠けてしまうだろうから、せめて赤点が出ない程度には助けてやりたい。

アナソフィアがテスト期間に入ると、緒方はさっそく青田に連絡をした。

「そうですね、期末ですね……
「推薦決まってるから別にいいやとか思ってました?」
「ははは、思ってましたすみません」

青田はなんだか楽しそうに笑っているが、学業の面では模範的なアナソフィア女子である緒方にとっては笑い事じゃない。三井がとうとう引退して時間が出来たけれど、三井の母親に懇願されて同じように勉強の面倒を見ているというは、学校でまで湘北の教科書にかじりついていた。彼氏がバカだと大変だ。

どこで勉強しようかと言う話になり、色々検討した結果、どちらも問題がなさそうだということで、ふたりは互いの家に行くことを決めた。毎回カフェではバイトをしていない緒方は厳しい。正直助かった。青田はまた何やらどぎまぎしているが、イチャコラするのが目的じゃないだろうと緒方は意に介さなかった。

初日は青田の家。普通の住宅街の普通の家。家族4人暮らしのどこにでもありそうな家だった。ただ、玄関からして青田の体格を考えると小さい家に見えるので、緒方はこっそり吹き出した。一応の彼女を家に呼ぶのは青田も覚悟の上だったらしい、家に入ると、興味津々の弟が飛び出てきた。ご両親は共働きだという。

子供の頃から柔道一筋で、線は太いわ顔は濃いわ性格も割と濃いという一般的にあまりモテる要素のない兄が彼女を連れてくるというので、中学2年生の弟はどんな物好きな女がやってくるのかと、昨晩はよく眠れなかったそうだ。しかし、やってきたのは緒方である。弟は引きつった顔をして壁にへばりついた。

「お、お姉さんその制服ってもしかして」
「よく知ってるね、アナソフィアだよ」

この辺りでアナソフィアの制服を知らない中高生というのは相当に稀だ。特に男子なら絶対に知っている。

「うわマジか兄ちゃん、なんで湘北の柔道部が」
「柔道は関係ねえだろうが。期末の準備なんだから邪魔するなよ」

だが、中学では体操部だという弟は兄の部屋の前を何度もうろうろし、時には靴下でシャーッと滑っていたりで、緒方は声を上げて笑わないようにするので精一杯だった。自分の弟が皮肉屋で可愛くないので、緒方は青田の弟を気に入ってしまった。

それからしばらくして、床に教科書を配置して対策を練っていたふたりのところに、帰宅した青田母が飛び込んできた。川崎出身の青田の母は制服を見るなり戦くということはなかったけれど、モデルみたいな女の子がちょこんと正座しているのを見ると、幻でも見たと思ったか、目を擦っていた。

そしてとどめは青田父である。母からこっそり連絡を受けると、仕事を切り上げて帰ってきてしまった父は、地元生まれ地元育ち、中学は息子たちと同じ北村中。そんな父なので、自分の家にアナソフィアの制服がいるのを目にした瞬間、軽く頭が爆発してしまったようだ。

家族が騒ぐので期末の準備がちっとも進まない。なんとか3人を追い出した青田は、ぺこぺこと頭を下げた。

「すみません騒がしい家族で」
「えー、楽しいご家族じゃないですか。テストの前じゃなかったらなあ」

青田は恐縮しているが、緒方は青田と弟と3人で遊びたいと思っていた。緒方の弟は今のところ姉の方が背が高いことを僻んでいるらしく、とにかく口を開けば文句・罵倒ばかり。それに比べて、兄の彼女が気になって部屋の前をうろうろしている青田弟が可愛くて仕方なかった。

「それに、アナソフィアに在学中はどうしてもこうなります。みんな慣れてるので平気ですよ」
「そういうものですか」
「はい。三井さんのお母さんは眩暈起こしたらしいですよ」

息子の方がグレにグレまくっていただけに、トップ・オブ・アナソフィアのご登場では無理もない。青田は声を上げて笑った。この日はあまり準備を進められなかったふたりだが、なんだか楽しかった。がっちり勉強するつもりだった緒方も、少しくらいならいいかという気になっていた。

そのせいもあって、少し遅くなってしまった。青田が送って行ってくれると言うので、緒方は荷物を片付け始めた。12月が近くなって寒さが増してきたが、体温が高いという青田がずいぶんと薄着で、緒方はまた吹き出した。

「寒くないんですか、それ」
「このくらいの寒さなら平気ですよ。時枝さんは細いですからねえ、ちゃんと着てくださいね」

真面目な顔で青田が言うので、また緒方は笑った。なんだか今日は楽しくて、こんなちょっとのことでもすぐ笑いたくなってくる。色気がないなあと思うが、それが目的じゃない。と三井辺りはイチャコラしながら勉強しているかもしれないが、それはそれ。

だが、そんなことを考えたせいで、ちょっと欲が出た。今日はもう帰るんだし、まあいいか。緒方は財布を探している青田をベッドに突き飛ばすと、またパニック寸前になっている青田の膝に跨った。仮にも家族が全員いる自宅なので、青田は目を白黒させている。

「青田さん」
「は、はい!」
「このくらい、もうそろそろ慣れてくださいよー」
「ですがその、下に家族もおりますか――

声を潜めてあわあわしている青田の顔を両手で捕まえると、緒方はまたちゅっとキスして、そして抱きつく。また少し間を置くと青田が静かに抱き締めてくれるので、幸せ補充が出来た緒方は、また嬉しくて鼻を鳴らした。

「青田さん、期末、頑張りましょうねー」
「は、はい……

たっぷり充電できた緒方は満足そうに目を閉じた。だが、そんな緒方の体をそっと抱き締めていた青田は、苦しそうに顔を歪めて、緒方に気付かれないように細く息を吐いた。