恋愛エクスペリエンス

06

翌日は青田が緒方家に行く番である。緒方家ではさすがに青田家のような事態にはならなかったが、ひとつだけ緒方の想定外のことが起こった。こちらも弟だ。

姉の方が3センチばかり背が高いのが面白くない弟だったが、受験のための塾から帰宅すると、187センチで筋骨隆々の青田が姉の部屋で小さくなっていた。女の子にはモテなくても「男子」にはモテるのが青田である。緒方の弟は、姉ちゃんの彼氏やべえ超かっけえと一瞬で青田に懐いた。

弟が急に愛想良く部屋に乱入してきたので、緒方は追い払おうとしたのだが、彼は食い下がった。どうやったらそんな体になるんすか、何食べてんすか、柔道って背伸びるんすか、と青田を質問攻めにした。

緒方の弟は細面の理知的な顔をしたいかにもなイケメンで、緒方家の生まれでなかったら単なるチャラ男になりそうな感じだった。それにきらきらと輝く目でかっこいいっすなどと言われてしまった青田は舞い上がった。女の子を基準に考えるとかっこいいのは確実に弟の方だ。それに褒められれば気分がいい。

弟はウザいが、自分に対して青田がすぐ自虐的な物言いをするのが気に入らない緒方は、もっと言えと思っていた。さすがにこの日は襲い掛からなかった緒方だったが、帰り際には自宅前で青田の手を取ってそっと寄りかかった。出来るだけ動揺しないように青田が耐えているのがわかる。

「だから言ったじゃないですか、青田さんは素敵な人なんですよ」
「いやそんな、おだてても何も出ませんよ」

嬉しそうに笑っているが、青田は本気にしていない。緒方はそれに気付くと、少し苛ついた。どうもこの青田という人は、自虐ネタばかりのくせに、あまり真剣に話を聞いてくれていない気がする。緒方が何を言っても、その言葉は青田の体をすり抜けてどこかへ飛んでいってしまっているみたいだった。

「お試し」が始まって3ヶ月以上が過ぎている。期限は設けなかったけれど、3ヶ月も付き合ってれば何かしらの変化があってもおかしくないだろうに。緒方はそれにも少し苛ついていた。いつまで「お試し」する気なんだろう。三井やのお兄ちゃんみたいに、来年はもう家を出るのに、まだどちらか決められないんだろうか。

しかしここではっきりしろなどと催促をするのは負けだと思っている。そんな風に緒方が言ったが最後、青田は晴子のことを忘れられなくても、緒方にすると言い出すかもしれない。それは嫌だ。ここまで来たら、青田自身にちゃんと決着を付けてほしかった。

晴子が好きなのでもいい、自分が好きなのでもいい、どっちもやめるというならそれもひとつの選択肢だ。とにかくだらだらしていないで決めてほしかった。しかしなにぶんテスト前だ。苛ついた心を慎重に隠して、緒方は青田を見送った。

ちゃんと勉強したおかげで、青田はカンニングを疑われたほど点数が上がってしまった。が、たまたま担任にそれを突っつかれているところに木暮が通りかかってくれて、自分のいとこがアナソフィア生で一緒に勉強したのだと話をでっちあげてくれた。アナソフィアと聞いて、担任はすぐに納得した。さすがにアナソフィアは強い。

「すまん木暮、助かった」
「いやいや、からなんとなく聞いておいてよかったよ。あいつら教えるの上手いよな〜」
「しかも今年はインターハイのためにろくに勉強してなかったから余計にな」

現在受験生である木暮は少し疲れているようだ。笑いつつも、目が眠そうだ。

「そういや、の機嫌、直ったのか?」
「まあなんとかな。三井が時間かけて宥めてくれたから、オレは楽だったけど」
「ふたりとも一気にだからなあ……も少し可哀想だけど」
「大丈夫大丈夫、グズグズ言ってても要領いいからあいつ。喧嘩もしないみたいだし、心配ないよ」

生まれた時から一緒のお兄ちゃんはさすがに余裕だ。苦笑いの青田の肩を木暮はぽーんと叩いた。

「お前こそどうするんだよ。あんまり詳しく聞いてないけど、時間、あんまりないじゃないか」
「まあ、そうなんだけど」
「あっ、そうだ。一応言っておこうかな。お前、クリスマス空いてるか?」

「クリスマスですか? 25日なら午後は学校です。ミサに出る習慣なので」

2学期も残すところあと僅かとなったある日の夜、テスト休み中の緒方は青田からの着信に台本を眺めながら応じていた。来年度のメインシナリオの選考が遅々として進まない。自分がメインで男役を張るものがいいのだが、どうもぴったり来るものがない。

「えっ、時枝さんてクリスチャンだったんですか」
「いえ、違います。実はアナソフィアの教会の建設に高祖父が関わってまして」
「こうそ……?」
「ひいおじいちゃんの親です。うちの先祖、棟梁だったんです。なもので、子孫代表です」

そういう関わりのあった緒方家にようやくアナソフィアに入学できる頭脳の女子が誕生した。それが教会建設に関わった棟梁の玄孫にあたる緒方時枝である。実に100年近い時を経てのことなので、現在工務店を営む父と祖父も時枝を自慢にしている。なので弟は余計に臍を曲げているというわけだ。

「クリスマス、何かありましたか?」
「ええとその、あのですね」

ちなみに12月24日は岡崎部長率いるダンス部の大会で、と見に来いと言われていたのだが、そのが三井を優先したので、敢えなくポシャッた。まあそれは仕方ない。口ごもる青田だったが、緒方は話を引き出してやろうとはしなかった。誘いたいなら、ちゃんと自分の言葉で言って欲しい。

だが、緒方の予想に反して青田は申し訳なさそうな声で切り出した。なんと、晴子に誘われたのだという。

「彼女の兄と、の兄の木暮と、3人とも北村中の出でして、中高一緒だったことになるんですが、来年からは全員バラバラになるんです。その上赤木と木暮は受験で、年明けからしばらくは学校にも来ないはずです。なので、パーティというわけじゃないんですが、家に来ないかと言っているそうで……

それが24日の夜。赤木と木暮の予備校の都合だそうだが、緒方は途端に頭痛がしてきて、片手に掴んでいたシナリオリストのコピーを握り潰した。なんでそれを報せてきた? なんで私に言うんだ? もし24日の夜に私の予定があったらどうだと言うんだ。誘われたら困るから?

ズキズキと痛む頭で緒方は考える。まあそりゃ、中高6年間一緒だった友達だから、それは優先すればいいことだけど、それを誘ってくるのがなぜ妹なんだ。の話じゃ今はバスケ部のマネージャーだって言ってたのに。

だが、緒方は期末前の段階には、ある程度の線引きをしていた。これは「お試し」なのだから。

「そうですか、そう言われればのお兄ちゃんたちと6年間一緒なんですね。私たちも中高一貫だから、3年生になったらそんな風に集まりたくなるんだろうな〜」

電話の向こうで青田の「えっ」というか細い声が聞こえる。完全に想定外の反応だったに違いない。

「さすがに24、25は部活もないですし、青田さん予定が入ってるって覚えておきますね」
「あの、時枝さん」
「何か私に気を遣ってます? 青田さん、お試しですよお試し」

県大会突破はまだ果たせていないものの、本物の男よりかっこいい男を演じるアナソフィア女子として一部では大変有名な緒方である。演技はお手の物だ。

「みなさんと楽しんできてくださいね!」

そう明るく言い放った緒方に、青田は低く細い声で返事をし、すぐに切った。

クリスマスミサは12月25日の午後。つまり24日は空いている。は三井と過ごすというし、シナリオ選考の真っ最中なので、部活もない。確か受験生のはずの弟も彼女と出かけるというし、いくら暇でも取り巻きのお嬢さんたちとは学校の外で会いたくない。

なんだか色々面白くない緒方は、岡崎のダンス大会に行ってみることにした。岡崎に連絡を入れてしまうと気を遣わせるかもしれないので、黙って出かけて行くことにして、気が済んだらまた自分の都合で帰ることにした。

いくらチャペル建設に関わってはいても、緒方家はクリスマスを特別な日として過ごす習慣がない。本当に子供の頃はケーキを食べさせてもらっていたが、それも弟が小学校高学年くらいになるとやらなくなった。一応女の子である緒方も甘いものは好きなので、どこかでケーキでも買って帰ろうと考えながら家を出た。

岡崎が部長に就任して初の大会、アナソフィアダンス部はプロの指導者がいるようなスクールのチームに混じって4位と大健闘だった。なにしろ岡崎が上手い。審査員の中に現役のミュージカル女優がいて、彼女にたくさん褒められていた。なんだか自分のことのように嬉しい緒方は、足元が軽いような気がしていた。

審査結果が出たのが16時頃で、それを見届けた緒方はさっさと会場を後にして帰った。ケーキが欲しいので途中下車をし、のバイト先やHeaven's Doorがある街を足早に進む。確かクリスマスケーキは予約注文のみで、通常商品を切らさないパティスリーがあったはずだ。

が、パティスリーにたどり着いてみると、通常商品はとっくに完売、焼き菓子すらも残っていないという有様だった。12月24日の18時半、デパ地下には近寄りたくはない。こうなったらスーパーかコンビニくらいしか手段がないなと考えていた緒方は、少し肩を落としながら駅に向かって歩いていた。

クリスマスにこだわりはないけど、なんだかぼろぼろと色んなものを取り落としてる気がする。岡崎のステージは楽しかったけど、ただそれだけだ。ケーキも何だか面倒くさくなってきた緒方は、Heaven's Doorの前を通り過ぎたことにも気付かないまま、とぼとぼと歩いていた。

しょうがない、さっさと帰って台本読むかな。まだ12本も残ってるし――

だが、次の瞬間、緒方は強い力で腕を引かれてバランスを崩し、たたらを踏んだ。何が起こったのかわからず、やっと顔を上げた時には、もう手遅れだった。見るからに素行の悪そうな若い男5人が緒方を取り囲んでいた。

しまった――

振り返ってみると、夏祭りの夜に始まった「お試し」以来、緒方は友達とどこかに遊びに出かけたことがなかった。それはデスレースや県大会のせいもあるのだが、基本的には時間があれば青田と会っていたからだ。

行き先は市営体育館のジムだったりで、遊ぶといってもたかが知れているが、それでも青田が一緒にいる以上は、絶対に危険はなかった。待ち合わせは緒方の最寄り駅だったし、帰りは時間によりけり自宅前まで送ってくれるし、そういう時の緒方は自分がアナソフィア女子だということを忘れていた。

それが1ヶ月2ヶ月と続いたせいだ。今日の緒方は改めて考えると自分でも呆れるほど可愛い服を着ていて、そのまま堂々と人混みの中を歩いていた。そんなに着飾ってひとりで歩いていたらどんなことになるか、すっかり忘れていた。今日は青田がいないんだということを思い出したが、もうどうにもならない。

身長が170センチの緒方は全体的に縦長の女の子である。小さく纏まっているのは顔だけ。手足も長いが、凹凸があまりなくて細い。それが推定180センチ前後5人に捕まってしまっては手も足も出ない。だが、あまり機嫌がよくない緒方は怖さより苛立ちが勝っていて、うっとおしそうな顔を隠しもしなかった。

強引に緒方をナンパしてきた5人は、そんな顔の緒方が面白くないのだが、逃がしてしまうには上物過ぎる。緒方が怯んだり怖がったりしないので、徐々に手荒になってきた。どこか行こうよ、が、いいから来いよ、になってきて、ますます緒方は不貞腐れた。

なんなんだろう私。クリスマスイヴに予定なんかなくて、ひとりで出かけてひとりで帰ってきて、なんでこんなのに捕まってるんだろう。一応彼氏のはずの男は別の女のところに遊びに行ってるし、友達は彼氏と一緒だし、今日に限ってこの170センチは役に立たないし、誰も助けてくれないし、誰もそばにいてくれないし――

苛々がピークに達した緒方はつい舌打ちをした。

どんなに美しくても、恭順な態度を見せないばかりか舌打ちまでする女なんて、いらないはずだ。だが、あまりに整った容姿を持つ女が生意気な態度を取ってるのを放り出して行くには、彼らはあまりに愚かで幼かった。力任せに緒方の腕を掴み、罵倒した。それを振り払おうとして、緒方もつい反論する。

口が出る手が出るまた口が出る。確か最初はナンパだったはずなのだが、とうとう狭いコインパーキングに追い立てられた。なんだかいじめみたいになってきたが、緒方は引き下がらない。こんなバカに負けたくない。だけど、5人もいては敵うはずもない。とうとう緒方は頬を打たれた。

「おい、もういいからこいつ連れて行こうぜ。車回して来いよ、マジムカつく絶対ぇ犯す」

これには緒方も返す言葉がなくて、目の前がすっと暗くなった。ああ、アナソフィアも演劇部も将来の夢も、全部飛んだ。家族もも岡崎も、全て失うんだ。そして、青田にはもう2度と会えない――。一瞬のうちに全てを諦めた緒方はしかし、聞き覚えのある声を耳にして目を開けた。

「その手を離せ」

顔を上げた緒方の視線の先に、ナンパくんの肩を掴んで怖い顔をしている青田がいた。

「手荒な真似はしたくない。お前らが手を出さなければオレも何もしない」
「はあ!? てかなんだそれ漫画の読みすぎだろ」

青田の手を払ったナンパくんはけっこうな勢いを付けて青田を蹴り上げようとした。だが、相手が悪い。青田が軽くかわして軽く突くと、ナンパくんはころりと地面に転がった。それが5人分繰り返された。青田はかわして突っついただけで5人を片付けてしまった。途端に怯むナンパくんに青田は言い放つ。

「すまんな、これでも日本で3番目に強いんだ。早めに諦めてくれないか」

何の3番目なのかはわからなくても、説得力は充分だった。ナンパくんたちはやっと我に返ると、罵詈雑言を浴びせながら立ち去った。青田が上手にいなしたおかげでどこも怪我していないらしい。青田はナンパくんたちが遠くに消えて行くまで構えを解かなかった。

そうして姿が見えなくなってしまうと、ようやく構えを解いてはーっと息を吐いた。

呆然とその様を見ていた緒方は、打たれた頬に手を当てたまま青田を見上げていた。青田はゆっくりと振り返ると、緒方の前に立ち、すっと息を吸い込むと、怒鳴った。

「時枝さん! なんでこんな危ないことしたんですか! もう少しで連れて行かれるところだったじゃないですか!」

いつでも優しかった青田が怒っている。緒方はまだ頬に手を当てたまま、ぽかんとしている。

「アナソフィア何年目ですか、ナンパのあしらいには覚えがあるでしょう。どうして煽るようなことをしたんですか。勝てると思ったんですか? 時枝さん、確かにあなたはかっこいい男役をいつも演じてるかもしれない、だけど、その中身は普通の女の子なんですよ!? 鍛えてもいないのに適うわけないでしょう!」

そして緒方が頬に当てていた手首を取り、痛まないように掴むと、そのまま力を入れてがっちり固めた。

「時枝さん、解けないでしょう。無理でしょう? 女性を差別するつもりはありませんがこれは事実です、これを振り解ける力がない以上、あんな真似をしてはだめです! 金輪際あんなことはしないでください!」

緒方はぽかんとしたまま、かくかくと小さく頷いた。打たれた頬が赤くなっている。その頬を青田はあらため、苦い顔をした。12月の冷たい風に白くなっているきれいな頬に、打たれた痕が痛々しい。

……でも、無事でよかった」

掴んでいた手首を解放した青田は、そのまま緒方を抱き締めた。12月も末だというのに、相変わらず薄着の青田に抱き締められた緒方の目から涙がぽろぽろと零れた。