恋愛エクスペリエンス

07

「ちょ、時枝さんどこか痛いんですか、ほっぺた、まだ痛いですかそれとも――
「あお、たさ」
「ああ怖かったですよね、遅くなってすみません、急いだんですがなにぶん人も車も多くて」

慌てる青田に、緒方はゆるゆると首を振った。どこも痛くない、もう怖くない、青田がいるから何も怖くない。

「あ、オレですか、その、赤木の家に向かうのにバスに乗ったんですが、この通りを抜けるんですよ。それで何気なく外を見てたら時枝さんが絡まれてるじゃないですか。次のバス停で降りたはいいけど、これが反対車線の歩道で……えらい時間を食ってしまいました」

申し訳なさそうに眉を下げた青田は、涙目の緒方の肩や腕を擦ってくれている。

「時枝さん、深呼吸しましょう。ゆっくり吸って、吐いて。慌てないで落ち着きましょう」
「あお、青田さん」
「大丈夫ですよ、一緒にいますから」

そう言って青田が微笑むので、緒方はまた泣き出した。

「うわ、時枝さんどう――
「青田さん、一緒に、いてください」
「え?」

青田の両腕に手をかけた緒方は、彼を見上げてゆっくりと、だけどはっきりと言った。

「私と一緒に、いてください。晴子さんのところなんか、行かないでください。私を選んで、ください――

鼻をグズグズ言わせながら言う緒方を、青田は引き寄せて強く抱き締めた。くっついてくる緒方の背中をそっとくるんでやるようなのではなくて、ぎゅうっと両腕をかきあわせて緒方の細い体を抱き締める。緒方の髪に頬を摺り寄せながら、青田は目を閉じた。

……はい、そうします。時枝さんと一緒にいます。時枝さんがいいです。時枝さん、好きです」
「わた、私も青田さんが好きです、青田さ――

緒方を引き離した青田は、そのままキスした。緒方のかわいらしい幸せ補充のチューなんかではなくて、本気のキスだった。だけどやっぱり緒方は幸せ感で満たされて、青田の頬に指を伸ばした。

……もっとしてください」

、私もわかったよ。

どうもね、かなり時間が経つまで、私は青田さんのこと好きじゃなかったみたいなんだ。紹介してもらってすぐ、いい人そうだし優しそうだから付き合ってもいいなとは思ったけど、それだけで、普通の女の子みたいに考えられなくて、なんかしっくりこなくて、つまり、付き合ってたって、私は青田さんのことなんか見てなかったんだよ。

じゃあ何見てたのかって、そりゃ「青田さんが晴子さんを忘れて私を選ぶ」っていう結末だよ。それが欲しかった。彼氏が欲しかったんじゃない、青田さんが欲しかったんじゃない、ただ勝ちたかっただけだった。

だから、あんたが三井さんと隣のお兄ちゃんがどっちも家を出るっていって、それでベコベコにへこんでて、しかも人気でてきて不安なんだって泣きべそかいてて、正直、バカみたいと思ってた。別に浮気されたわけでもないのにそんな些細なことでグズグズ言ってみっともない、ってそんな脆かったっけ、って呆れてた。

彼氏が出来ると彼氏の文句ばっかり言ってる子の気持ちとか全然わからなくて、の気持ちもわからなくて、だから私はみんなのような恋愛は体質的に合わないんだなって思ってた。

そうじゃなかったんだよ。だって、その時私、誰も好きじゃなかったんだから、わかるわけなかったんだよ。

だけど、青田さんが進学で家を出るって話をした時に、なんだかザワッとしたの。でも寂しいって感じもしなかった。今考えると、あれは「私を置いていくの?」っていう、不満だった。お試しとはいえ付き合ってるのに、さも当たり前のように進学で家出ますなんて言う、それにちょっと腹が立ったんだと思うんだ。

私が青田さんの手握ったりとかした時もそう。もったいないとか恐れ多いとか、そうやって遠慮するのが腹立たしかった。付き合ってるのに、どうして手を繋ぐくらいしかしてくれないの、それもだいたい私からで、ぎゅってしてもくれない。私はして欲しかった。私からじゃなくて、青田さんから。

それはクラスの子が、彼氏が何してくれないって文句垂れてるのと同じだったよ。

だって青田さん、どうにも「お試し」ですら本気にしてないように見えて、それはもう悔しかったんだもん。私は真剣勝負と思ってたのに、いつも困ったなあって顔して、だけど突き放したりもしなくて、優しくしてくれるけど、ちゃんと真正面から向き合ってもらってる感じがしなくて。

だけどさ、だけどね、すごいピンチの時にね、助けに来てくれたんだよ。本当に漫画みたいだったけど、ギリギリのところで間に合って、しかも騒ぎにすることもなくさらっと片付けて、やばいかっこいいと思って、叱られたけどさ、晴子さんのところに行くはずだったのに、私のところに来てくれたんだよ。

そりゃもう、落ちるでしょ?

本当に、この人が好きだって初めて思った。晴子さんのこと好きなままでもいいから試してみようよ、なんていうのはもう嫌だって、私の方見て、って。他のことは全部後回しにして、私を一番にして、って、そう思って。

だからたぶん、今までわからなかった気持ちとかそういうの、少しならわかったと思う。三井さんと付き合いだしてからが劣化したなあなんて思ってたけど、人のこと言えないわ。

確かに寮は嫌だよ!

コインパーキングの片隅で抱き合ってキスしていたふたりだったが、なにぶん歩道沿いである。ヒューとか爆発しろとか言われたことで我に返り、その場を後にした。が、緒方はふたりっきりになれるところに行きたいと言う。気持ちはわかるがさてどうしよう。

しかも今日は12月24日の、すでに日が暮れて夜である。ふたりきりになれるような施設は軒並み満室でございます。あ、カラオケのことですよ? 一応立場的な問題もあるので、ふたりきりになるのにちょうどいい場所はない。

困りつつ、とりあえず赤木に連絡を入れた青田だったが、話が通じなさ過ぎて、途中で木暮と交代した。

「本当にすまん、だけど……
「そんなこと気にするな。お前も春には家を出るんだから、一緒にいてやれよ」
「ああ、そうしたい。だが、その」
「こっちは大丈夫。実はな、もう少ししたら三井とが来るんだ」
「は!?」
「三井ん家にいたらしいんだけど、親が帰ってきちゃって、いられなくなったんだって。笑っちゃったよ」

木暮は堪えきれない様子でくつくつ笑っている。家で過ごせたうちはよかっただろうが、それがだめになると行く場所がない。青田も笑うのを我慢しきれずに吹き出した。これは後で緒方に言ってやらねば。

「まあ、少し話したらHeaven's Door行くらしいけどさ」
「ああ、そうか、まああいつらは知り合いみたいなもんだろうからな」
「そしたら赤木がもう誰でも好きなの呼べって言い出して、そしたら晴子ちゃん桜木呼んじゃって」

一転、木暮ははあ、とため息をつきつつ零した。それはさぞかし大変なことになるに違いない。

「だから気にするなよ。もう二度と会えないわけじゃないんだし」
「すまん、恩に着る。にもよろしく言っといてくれ」

急にの名前が出たので、通話を終えた青田の袖を緒方はツンツンと引いた。と三井が居場所をなくして赤木家に転がり込むことになった顛末を話してやると、緒方はけたけたと笑った。自分たちも今ふたりきりになれる場所がないと困っていたが、どこも似たようなものだ。

「時枝さん寒くないですか。お腹すきませんか」
「あ、そうだ、私ケーキ食べたいと思ってて、それでこの辺りに来ちゃったんですよね」
「ケーキですか」

デパ地下は戦争だろうし、あとはもうスーパーかコンビニくらいしか手段がないんだけど、と肩を落とした緒方に、ずいぶんためらってから青田はぼそりと言った。

「ええっと、その、家にケーキありますけど、さすがにそれは――
「あるんですか!? 行ってもいいんですか!?」
「え!?」

目をきらきらさせながら飛びついてきた緒方を支えつつ、青田は目を丸くした。家族いますけど!?

「母がお菓子作りが趣味でして……オレも弟もあまり食べないのに、この時期は大量生産で」
「それを早く言ってくださいよ……! ぜひとも片付けるのを手伝わせてください!」
「いいんですか、その、親兄弟もいるのに」

さっきふたりっきりになりたいって言ってたんじゃなかったか? ふたりきりになりたいのは同じである青田は不思議そうに緒方を見下ろした。だが、緒方は青田の腕にぺったりとくっつきながら、にんまりと頬を緩める。

「まあ、仕方ないですよ今日は。青田さんの部屋で少しふたりっきりになれればそれでいいです」

それはそれでつらいのだが、ぼろぼろ泣いていた緒方がにこにこしているので、青田はその試練を耐えることに決めた。自宅に連絡を入れると、両親も弟も早く来いという。安心した青田は緒方の手を取ると指を絡めて歩き出す。夏祭りから、4ヶ月が過ぎた寒い夜のことだった。

アナソフィアの姉ちゃん大好き、ケーキ食べてくれるのやだどうしよう嬉しい、おい龍彦失礼のないようにな。

要約すると、青田の弟と両親の言い分はこうである。彼女がいない弟はまさか緒方が家に来てくれるとは思わず大喜び、母もケーキが目的だというので照れながら喜んでいるし、父はお姫様でも迎えているような気分だった。

期せずしてケーキ食べ放題にありついた緒方は、興奮を抑えきれない様子でいただきますを何度も繰り返すと、青田母手作りのケーキを凄まじい早さで平らげた。ブッシュ・ド・ノエル、シュトーレン、クリスマス風のデコレーションケーキ、ミンスパイ、緒方はもう喋っているのももったいない様子でパクパク食べ続けた。

「おええ、見てるだけで気持ち悪くなってくるよ……
「別にあんたたちに食べてもらわなくたって結構よ! 時枝ちゃん、また食べにきてね」
「来ます〜おいしいです〜どうしよう太る〜」
「時枝ちゃんは細すぎるよ、少しくらい太ったって大丈夫! なあ龍彦!」

青田は苦笑いする以外に成す術がない。何だか今日は一日が長く感じる。赤木宅に行くのがなんとなく憂鬱だった午後が遠い。それから数時間しか経っていないというのに、自宅に戻っていて、緒方が自分の家族に囲まれてやいのやいの言われているのが何とも不思議だった。

それにしても、や緒方や、アナソフィア女子というのは人に好かれるように出来ているんだろうかと青田は思う。確かにアナソフィアではマナークラスという授業であれやこれやアナソフィア女子たる振る舞いを仕込まれるというが、それのせいだけではないはずだ。

緒方やが特別なのだという結論で構わないのだが、そんな特別な女の子が自分の彼女だというのもまた不思議だった。自分の人生はそういう運命にないと思ってきたのに。

昼からこっち何も食べていなかった青田も、ケーキで腹が膨れかけている緒方に付き合って食事を済ませると、なんとか家族を追い払って自室へ移動した。さも当たり前だというような顔をして弟がついてきたが、さすがに両親に止められてむくれた。青田弟が可愛い緒方は後ろ髪を引かれる思いだ。

「この間は期末、今日はイヴ。そういう日じゃなかったらなあ」
「なんかすっかり懐いちゃいましたね」
「まあそれはお互い様ということで。私の弟も兄貴来ないのかってうるさいですよ」

兄貴。その響きに青田は照れつつも嬉しくなってにんまりと笑う。緒方の弟は身長やら学力の差で不貞腐れているだけで、元々は姉と同じ努力家の快活な少年である。若干本気で高校から柔道を始めようかと悩んでいるらしいと緒方が言うと、青田はさらに喜んだ。なんならオレが教えてあげますよ!

そんな話の流れで、青田一家が階下で聞き耳を立てているという状況のふたりは、今年のインターハイの録画があるというので、それを見ることにした。それはそれで緒方も大変に興味がある。何しろ青田が柔道をしているところは見たことがない。お試しで付き合うことになった時には既に引退してしまっていた。

壁に寄りかかって胡坐をかく青田の膝に、緒方がすとんと座る。もう青田も慌てたりしない。

「本当に時枝さんに助けてもらえなかったら、この試合はありませんでした」
「なんだか懐かしいですね。わ、すごい、強いんですねえ、青田さんかっこいい」

緒方は青田にぺったりと寄りかかって歓声を上げる。

……この頃も夏祭りの頃も、オレは時枝さんの言うことが信じられなくて、真剣に考えないようにしてました」
「えっ、どういう――
「簡単なことです。こんなきれいな人が、オレと付き合ってくれるはずがないと思っていました」

試合も見たいが青田の話も気になる。緒方は少し体を捻って腹に回っている青田の手に自分の手を重ねた。青田も緒方の髪に頬を乗せて、決して部屋の外には聞こえないような声でぼそぼそと話す。

「お試しの件も、これは時枝さんの一時の気の迷いで、部活で忙しい時枝さんの息抜きみたいなもので、そのうち飽きれば連絡も来なくなるだろうって考えてました。どうせ来年は家を出るんだし、いい思い出になればいいくらいに考えてました」

それもこれも、緒方があまりにきれいで、そしていい子だったから。

「お試しの前提からは外れますが、絶対に好きになってはいけない、これはボディーガードみたいなものだ、家を出たら一瞬で忘れられるようにしておかなければ――そんなことばかり考えていました。初めてキスした時もそうです。きっと時枝さんは試してみたかっただけで、他には何も考えてないんだから、と」

その戒めを破って緒方を好きになってしまい、青田の想像するようにどこかでポイッと捨てられてしまったら、あまりにつらいから。それが進学のタイミングと重なってしまったら最悪だ。ただでさえ慣れない生活を始めるというのに、そんな精神状態では困る。

「だけど、もうずっと時枝さんのことばかり考えていて、今日のことも誘われて初めてお試しがなんでお試しだったのかを思い出したくらいで。あの時はつい、あなたに甘えてみたくなってしまって、申し訳ないことをしました」
「甘える、ですか」
「行くなと言ってもらえるんじゃないかと。みっともないですね」

だから、晴子のところなど行かないで一緒にいてくれと緒方に言われた瞬間、全ての枷が外れてしまった。

「後悔しました。飽きられても捨てられても、自分が傷ついたっていいからもっとちゃんと時枝さんに向き合っていればよかったと思いました。そうしたらあんなナンパに遭うこともなかったし、あんな風に泣かせてしまうこともなかった。オレは逃げてばかりでした。ごめんなさい」

録画は青田が勝って、編集の継ぎ目でガタガタになっている。緒方は体を目一杯捻ると、両腕を上げて青田の首に絡ませた。薄着の青田の体は温かくて、自分の体も温まるような気がする。

「私もです。ちゃんと青田さんのこと好きだなって思ったのなんか、さっきのことです。それまでは勝負だとばっかり考えていて、お試しとはいえ付き合ってるのに、青田さんを好きなのかどうかすら、ちゃんと考えようとしなかった。それなのに、青田さんの方からは何もしてくれないって、不満に思ったりして」

妙な取り決めがあったとはいえ、お互い相手に何かをしてもらいたいばかりで、相手とも自分の心とも向き合っていなかった。見ていたのは目の前にいる相手とはまったく関係のないことばかり。

「いいんですかそんなこと言って。不満に思うどころか、うんざりするかもしれませんよ」
「何を言うんですか、望むところです。青田さんこそ覚悟してくださいね」

どんどん勝ち進み続けるインターハイの映像の音声を耳にしながら、吸い寄せられるようにしてふたりはまた唇を重ねる。ケーキを大量に食べたせいではあるまいが、緒方の唇はなぜだか妙に甘くて、青田は我慢を強いられていた。ああ本当にふたりきりになれる場所と時間があったら。

そうしたら、もう何も自分たちを縛るものはないのに――