続・七姫物語 牧編

06

間近に騎士団全員が揃っていてなぜこんなことに、という点については、の立つ授与の場がとても狭かったということが挙げられる。

というのも、あまり広いとそれだけで時間が余計にかかるし、が120人授与耐久走をせねばならない手前、狭い場所でさっさと終わらせられるように、という家臣たちの気遣いであったのだ。それが裏目に出てしまった。

何やらずっしりと重いものを体に受けて地面に倒れただったが、慌てて顔を上げると、目の前が真っ暗で息苦しく、つい両手を振り回してもがいた。それが一瞬で明るくなって息ができるようになると、重いものの正体がわかった。本日正装でハーフアーマーの牧だった。真っ暗で息苦しかったのは、彼の黒のマントが翻って覆い被さっていたからだった。

牧の肩の向こうには銀色がチカチカと太陽に輝いていて、神と清田の怒鳴り声ばかりが聞こえてきていた。一体何が起こったんだとぼんやりしていただったが、牧に頬をピタピタと叩かれて我に返った。そうか、紳一が咄嗟に助けてくれたのか。

、大丈夫か
「し、紳一……
「痛むところはないか、どこも怪我してないか、怖かっただろう」

体を起こした牧はに怪我がないかどうか改めようとした。だが、本日白地に銀糸のドレスのの腰のあたりが一箇所赤く染まっていた。牧はもちろん、もそれを見てはっと息を呑んだ。白に鮮やかな赤、それは血の色だった。

……貴様、騎士の誓いを忘れたのか!!!」
「ちょ、待って、紳一、だめ、やめて!!!」

真っ青な顔をした牧は不意に体を起こして立ち上がると剣を抜き放った。それを慌ててが引き止める。地面に血飛沫が飛び散り、のドレスをもっと赤く染めた。牧の黒いマントを必死で掴んでいたは上ずる声で叫ぶ。

「神くん! 紳一を止めて! 紳一、だめだってば!!!」

の甲高い声を耳にした神は青の色章を受けた騎士に何やら言い捨てると、そのまま振り返って下手人を成敗せんと剣を抜き放った牧を止めた。

「牧さん、落ち着いてください、だめです!」
「止めるな! こいつは騎士でありながら――
「牧さん! 刺されたのはあなたです!!!」

神の声に周囲は水を打ったように静まり返った。牧の足元は鮮血が丸く溜まっていて、彼の鎧の裾からポタポタとしずくが滴り落ちている。その中で素早く立ち上がったはマントを脱ぎ捨てると牧の足元に広げ、そして彼の体を後ろから抱きとめた。

牧の体がぐらりと傾き、そのまま広げられたマントの上に崩れ落ちる。裏側が白い毛皮で出来ている王家のマントが牧の血でどんどん赤に染まっていく。と神の怒鳴り声、観衆の悲鳴、団長の怪我に動揺する騎士たち。

その中で牧はの手を握り、細く長く息を吐いた。

選ばれし騎士のみが纏うことを許される黒のマント、黒の色章、女王を刃から護り、王家のマントと女王に抱かれて息絶える。これは、騎士にとって最高の栄誉ではないのだろうか。自分が生涯をかけて貫き通したかった騎士の姿ではないのだろうか。

父のように、祖父のように。

ただ……もう一度の笑顔が見たかった。屈託なく笑う何より愛しいオレだけのお姫様。

記憶の中の無邪気なの笑顔を思い出しながら、牧は意識を失った。

すぐに騎士団の医療施設に搬送された牧はしかし、を庇おうとして体を丸め、全身に力が入っていたことで切っ先が滑り、深刻な刺し傷にはならなかった。ただそのまま切っ先で深く背中から脇腹をスパッと切り裂いてしまったので出血が多く、予断を許さない時間が続いていた。

……陛下、着替えられた方がよいのではありませんか」
……離れたくないの」
「お気持ちはわかりますが、衛生上の問題でもあります」

は背後から聞こえてきた神の優しい声にも生気のない声で答えるだけで、振り返りもしなかった。牧の意識はまだ戻らず、ただ眠っているようにも見えるが、いつ息が止まってしまってもわからないくらい静かに横たわっている。

しかし神の言うように牧を抱きとめたのドレスはもろちん、両手と顔と胸元も血だらけだった。は渋々立ち上がって、のろのろと振り返る。

「陛下が戻られるまではオレがここにいます。何かあれば直ちに報せます」
……あの子、どうなったの」
……騎士団の規則では位の剥奪と永久追放、あとは裁判所です」
「あの子のお父様、騎士だったの?」
「そのようです。第一組の小隊にいたようですから、それなりに功績のある方だったと思います」
「でも私はパン屋さんや仕立て屋さんに兵士の真似事はさせたくなかった」
「陛下、もちろんです。それは陛下のご意志です」
「だけど私がしてきたことのせいで紳一がこんなことに」
「陛下、様、それは違います」
「ねえ紳一が死んじゃったらどうしよう」
様落ち着いてください、大丈夫です、牧さんは死んだりしません」
「だったらなんで起きないの」
……
「どうして私を庇ったの」

言いながらは堰を切ったように泣き出し、血塗れの頬に涙を伝わせながら神に抱きついて嗚咽を漏らした。神は傍らで意識のない牧に心の中で謝ってから、の体を優しく抱きとめ、背中をゆっくりと擦った。

「それが騎士の役目ですから。当然です」
「だけど私はこんなことになってほしくなかった」
「お気持ちはわかります。ですがこの時のために牧さんを始め騎士は鍛錬に励みます」

そして神は万が一にも誰にも聞こえないよう、声を潜めた。

……様に何かあれば、いつでも命を投げ出せる、騎士は全員そのつもりでいました。だけど牧さんは、それが出来るのは牧さんの他にはオレか清田しかいないと思っていたそうです。でも、結局オレも清田も様と剣の間に飛び込むことは出来ませんでした。それが出来たのは牧さんだけ」

しかも今回の場合、自分と同じようにに仕えると誓った騎士による凶行だったため、余計に咄嗟の判断が遅れた。どんな理由があれ、騎士が君主に斬りかかるなどありえないと思っていた。なので頭の方が目の前の事態を処理できず、体への反応が遅れてしまった。

しかしそれは神にしてみればただの言い訳に過ぎない。牧の言葉通り、自分と清田は彼と一緒にと剣の間に飛び込んでいなければならなかったはずだったのに。あまりに情けない。

「だから、牧さんがこんなところで寝てるのは、オレのせいでもあります」
「何言ってるの、神くんは、これは私が――
「いいえ、オレが刃を受ければよかったんです。オレが牧さんと様を護りたかった」

神は言いながらの体をきつく抱き締めた。が無事なのはいいけれど、その傍らには同じように牧がいなければならなかったのに。それを願ってずっと戦ってきたのに。

大きく息を吸い込んだ神は思い出したように顔を上げて身を引いた。

「大変ご無礼を」
……私、体を洗って着替えてくる」
「はい。かしこまりました」
「そしたら、清田くんも呼んで、3人で待とう」
「陛下……
「昔みたいに、お菓子とお茶も用意して、紳一が早く帰ろうって思えるように」

またの頬に伝った涙を指先で拭うと、神はしっかりと頷いた。

「はい、そうしましょう。呼んでおきますね」
「じゃ、行ってきます」

が神や清田とともに牧の付き添いを始めてから3日目、意識は戻らないながら牧の顔色はなんだか今にも起き上がりそうなくらいに回復してきた。騎士団の医師は傷の経過もいいし、意識が戻らないのは怪我のせいではなくて、もしかしたら精神的なことかもしれないと首を傾げていた。

牧が目覚めるまでは片時もそばを離れずにいたかっただが、3日目ともなると事件の事後処理も含めどんどん仕事が溜まっていくので、渋々執務室に戻った。机の上は書類が山積み。

「見たくなかった」
「そうして差し上げたいのは山々なのですが……
「先生!?」

机にがっくりと手をついたは後ろから聞こえてきた美声に飛び上がって振り返った。発掘調査をしている時の薄汚れた服装ではなく、やけにパリッとした軽装になっている。そして傍らにはが預かりっぱなしの某国第4王子様がいて、先生と手を繋いでいた。

「団長がご不在なので副団長が全て兼任の状態です。副団長もほとんど寝てないと仰ってましたし、騎士団は今皆さん動揺の真っ最中です。これまでその精神的支柱だった団長がお目覚めにならない以上は副団長がその役割を担わなければなりません」

それはわかる。出来れば神と清田と3人でずっと牧の目覚めを待ちたかったけれど、神は2日目の午後には詰め所に連行されていった。は王子様に挨拶をして飴をひとつ差し上げる。

「なのでじいやさんと相談して、しばらく私が陛下の補佐を」
……そんな、先生にそのようなお手間を!」
「ですが実は私、最近この王子殿下のお勉強も見てるんです。ご一緒してもよろしいですか?」

がちらりと横を見ると、王子殿下はうんうんと頷いている。そういえば先生とこの王子殿下の滞在している館は隣だった。ということは先生、この山積みの仕事の補佐をしながらあと2ヶ月で6歳になるという殿下のお勉強も面倒見るということですか?

「はい。それと私も調査のまとめをしなければなりませんので」

先生はにこにこと微笑みながら書きかけの調査書を掲げた。先生、どんだけ高性能なんですか……

そういうわけでは仕事に取り掛かり始めたのだが、やはり先生に雑務をポンポン投げるのは気が引けてしまい、出来るだけ自分でやろうと書類を抱え込んでいた。すると先生はそれを一旦全部奪い取り、大机に広げるとものすごい速度で仕分けを始めた。

それをやりながら王子殿下にお勉強の準備をなさいと指示をし、仕分けが終わったところでまずは署名や捺印で済むものをに突きつけた。がそれに慌てて応じていると、先生は中を検める必要のある書類をパラパラとめくり、さらに仕分けをしていく。

先生、見るだけで書類1枚分の文章が判別できる様子。は感嘆よりも怖くなり、急いで署名をしていく。この3年の間、新米女王の仕事ぶりは褒められることがほとんどだったけれど、先生を目の前にしてしまうと途端に自分が愚か者に思えてくる。

「終わりましたか? では次はこちらを。急ぎの返書ですが全て同じ内容で構いません」
「あの……先生……すごい早いですね……
「私が早いのではありません。陛下の効率がよろしくないだけです」

机にばたりと倒れるに先生は優しく微笑む。

「ですがそれは陛下の才覚の問題ではありません。効率よく仕事を進めるコツというものを教えてくださる方がいなかっただけのことです。陛下は年頃になったらいずこかへ嫁ぐという前提でしか教育をされてこなかった。なのにもう3年もご自身で考えながら懸命に取り組んでこられて、大きな失敗もない。これは陛下の才覚です」

自惚れた愚か者だと思っていたところに褒められると照れくさい。はちょっと否定しつつ、下を向いてニヤリとほくそ笑んだ。何によらず教師に褒められるのは気分がいい。

……でも、そのせいで紳一に怪我を」
「陛下、それは仕事を片付けてからまたお話ししましょう。まずは返書を」

先生は仕分けを終えたらしく、ひとつひとつの山にがわかりやすいよう書付けを乗せてはまた積み直していく。は慌ててペンとインクを引っ張り出し、先生がざっくりとまとめてくれた返書の内容を少し丁寧にしながら書いていく。

そうして先生の舵取りで仕事をすること数時間。なんと書類の山が消えていた。

「今までの苦労は何だったんでしょう……
「ですからこれが『効率』です。ついでに副団長どのはお優しいので雑談が多かったのでは?」

ぐうの音も出ない。仕事に疲れては神に話しかけてお喋りをしながら仕事をしていた。その方が気が紛れて長時間でも働けたからだ。だがどうだろう、3日サボった分は5日分になって返ってくるのか、とげんなりしていた仕事はもうない。

先生は王子殿下を館に戻すよう侍女に頼むと、自らお茶を入れてに差し出した。

「先生、発掘調査の方はよいのですか」
「ご当主が昏睡状態ですから、勝手に掘り返すわけには参りませんよ」
……申し訳ありません」
「なぜ陛下が謝られるのです。凶行に及んだ元騎士の逆恨みを正当化する理由はありません」

先生のきっぱりした声を聞くと気持ちが落ち着いてくる。はお茶を啜ってため息をついた。

「先生、私、ここ数ヶ月というもの、紳一と寝所をともにしていました」
……そうでしたか。確か幼馴染でいらっしゃいましたね」
「みんなは、私たちが国のためにさっさと結婚するものと思っていたんです」

それ以前に3年離れて再会してまた3年離れていたのだから、もう迷うことなどないだろうと誰もが思っていた。結婚を先延ばしする理由が見当たらない。

「私にも紳一にもそのつもりはありました。ですがそう簡単な話でもなくて」
「本来であれば陛下は父君に誰それと結婚せよと命じられるだけのものでしかありませんでしたしね」
「城下の若者のような、恋人同士みたいな日々は……楽しかったです」
「女王である自分を忘れることが出来た?」

先生の優しい問いかけにはゆっくりと頷いた。

「でも、この国が存続する限り、私は女王の座を下りるつもりもないんです」
「陛下にとって女王の座はご家族との唯一の絆ですからね」
……はい、そう、なんです」

にも父母があり、兄があり、それは民ひとりひとりと何ら変わらない家族であった。だがそれら全て失ったにとって、この城や城下や女王という立場全て、失ってしまった彼らと家族であることを示す大切な拠り所だった。

3年の月日が流れていて、日々忙殺されている猛将女王なのだとしても、傷は完全に癒えていない。

「それに、都合6年以上も小競り合いを続ける羽目になったのは、私の父にも責任があります」
「それを投げ出したくなかったのですね」
「仕事と同じですね。懸命に取り組んでいるつもりで、効率も考えずに闇雲に片付けていただけ」

無作為に積み上げられた書類の山の上からひとつ取り上げては片付け、また次を片付け、一体この書類の山の中に何が挟まっているのか、さっさと片付けた方がいいもの、後回しでも構わないもの、それすらわからずに積み上がる山の上に手を伸ばすだけだった。

「陛下、楽をすることと怠けることは全くの別ものです」
「楽……
「楽をするということは、合理的に効率よく取り組み、無駄な疲労を生まないことであると言えます」

の脳裏に疎開先から戻ったばかりの頃の記憶が蘇る。厳格な牧はの休憩中に騎士たちを立って待たせていた。それを「効率を考えるなら休ませろ」と説教したのは他ならぬ自身だった。あの頃は、わかっていたのに――

「怠けるというのはそのままの意味ですね。ですから『楽』は常に心がけねばなりません。陛下が楽に女王という道を進まれることがつまり、国のためにもなります。ある意味では陛下の結婚も同じではないかと私は思います。陛下がご家族の絆と共に歩まれる道は長く、途方もない時間を必要とします。陛下より急ぎ足でも、鈍足でもいけません。同じ速度で歩いていかれることが肝要です」

言い終わると先生は静かにお茶を傾け、そしてちょっといたずらっぽく笑った。

「陛下、不謹慎を承知で申し上げますが、団長殿は大変幸福な方だと思いますよ」
「どういう……
「陛下を護って凶刃に倒れるなど、騎士の花道ではありませんか」
「みんなそう言いますけど……

しかし大量出血で意識がないものを騎士の誉れだと言われても。の顔を見た先生はまた少し笑い、身を乗り出して人差し指を立てた。

「晩年のソロンにはこんな伝承があります。彼はいつか遠い町に腰を落ち着け、そこで没したとされるのですが、なぜその町を選んだかと言えば、ある姫君に心を奪われたからだと言います。しかしいくら英雄でも他国ではただの旅人、特別な関係になることは許されず、彼はその後の生涯を姫君を護る騎士として生きたと言われています。やはり『騎士』の道は護ること、なのでしょうね」

幾多の戦場で戦ってきた英雄の最期は誰かを傷つけることではなく、護ることだった。

「私はいつかソロンが終の住処とした町を見つけたいのです。その足跡を全て辿り、彼がどう生きたかを後世に残したい。それが私の選んだ道です。陛下、道をお探しください。女王というあなたが歩まれる道は、ひとつではありません。よい道を選び取るのです」

しかしはちょっと首を傾げて苦笑いをした。

「どんな難解な算術より、難しい問題ですね」
「頭を使うからいけないのですよ。心にお聞きなさい」

先生の迷いのないきっぱりした声を聞くと不安に震えていた気持ちが安定を取り戻す。はつい胸の辺りに手を当てて繰り返した。心に聞く。それは改めて意識したことのなかった言葉だった。

私の心はなんて言っている? 心が指し示す道はどこへ向かっているのだろう。

どうしたら心は答えてくれるのだろうか。