オリオン

1

テーブル1つで済んでしまう忘年会を終えて、は火照った頬のまま帰路についていた。

だが、頬が火照っているのは酒のせいではない。そもそも、一応は未成年なのだから飲酒は出来ないことになっている。それでもの頬が燃えるように熱いのは、隣に江神二郎がいるからだ。

にとっては、あれよあれよという間の出来事で、なぜ江神がを送っていくことになったのかはよく覚えていない。突然降りかかったこの事態に慌てている間にも、2人で歩き出していた。背後でアリスがニヤニヤしているのは分っていたが、後でどんな目にあわせてやろうかと考えるのが精一杯だった。

歩き出して数分、コンパスの差で遅れが出る距離を縮めるために、は度々小走りになる。少し距離を開けたまま着いていくのでも問題はないのだが、こんなチャンスがいつまた巡ってくるとも知れないから、出来るだけ同じスピードで歩きたかった。

そんなの小走りの足音に気付いたのか、江神が立ち止まる。

「ああ、すまん、気付かんかった」
「はい?」

追いつくのに必死だったは、立ち止まり見下ろす江神の言葉が一瞬飲み込めずにぽかんとしていた。その様子に、江神はふっと微笑む。冷たく冷え込んだ夜気にほんの一筋、白い息が漂う。

「俺の方が足が長いからな」

やっと言葉の意味が飲み込めたは、江神に気を遣わせた恥ずかしさと嬉しさで、また頬の温度を上げた。俯いた目に、スピードを落として歩く江神のつま先が映る。それがどうしようもなく嬉しいのと、夢のようなシチュエーションだということから来る緊張で、の方のつま先は今にももつれそうだ。

しかし会話が続かない。は何か話さなければと頭をフル回転させていたのだが、どうにも思いつかない。EMC全員でいる時はどんなことでもするすると話せるのに、2人きりになってしまったら何も出てこない。かといって、居酒屋の前で別れてきたEMCのメンバーを餌にするのも気が引ける。

何しろはEMCの中ではルーキーであるから、不用意にネタにでもして江神の不興を買いたくはなかった。何か、何でもいいから楽しく笑って話せるようなことはないだろうか。

幸か不幸か、のアパートまでの道のりはまだまだ遠い。

そして、くしゃみが出そうだ。これは不幸だ。

「クジュ!」

出てしまった。としては、無理にでも抑えようとしたわけなのだが、それが逆に押し潰したようなくしゃみにしてしまった。行き場を失ったくしゃみはの鼻を直撃し、無様な音を静かな街に轟かせた。

ああ、最悪。こんなみっともない音を立てて、もう終わりだ。ダッシュで逃げようか。

「大丈夫か」
「だ、だいひょうぶれす」

鼻を押さえていたせいで、再び恥ずかしい音が出た。は今度こそ江神にも判るくらいに焦った。しかし、江神はそれに気を留めるでもなく言う。

「そんな寒々しいカッコしてくるからやろ」

もちろん、少しでも可愛く見えるようにと頑張ったコーディネイトだ。普段の装いとかけ離れすぎず、かつ特別な印象もあり、あくまでもさりげない可愛さ。それを、江神に見てもらいたかったから。

結果的にそれが薄着になってしまったのは偶然のことだ。だが、乙女心に気温などという要素の入り込む隙間はない。1人になった後にどれだけ後悔しても、どうせまた繰り返すに決まっている。

見せることなどないと解っていても選んでしまう新しい下着。当然防寒用のインナーなどは却下。トップスにはニットを選んでいるが、暖かいからではない。そんなわけで、当然ボトムはスカート。ブーツで足元を覆っていても、真冬の京都の冷気はスカートの裾から容赦なく侵入して来る。腰を冷やしてはいけないことは解っているが、そんなものは何かのおまじない程度にしか考えていない。

それでも居酒屋に落ち着くまでは今年新調したピンクベージュのコートがあれば寒くなかった。鎖骨に落としたペンダントも見えるようにしておきたかったから、襟も開いたまま。それが、午後10時を回ってしまった今、の体温をどんどん奪っていく。

「ま、女の子にそれは言わん方がええな」

ところが、不恰好なくしゃみをどう取り繕うかと慌てるの目の前で、とんでもない事態が起きた。

「え、ちょ、江神ひゃん?」

またも正しく音を出せないの唇は、驚くあまりに上手く閉じることも出来なくて戦慄いた。

「うるさい。おとなしく言うこと聞きなさい」

やおら首下に手を突っ込んだ江神は、飛び出しそうな目をしているの目の前でマフラーを引き抜き、の肩に巻きつけてしまった。腰が抜けそうになっているにも気付かない様子で、ジャンパーのファスナーをしっかりと引き上げる。それにつられて引き絞られるフェイクファーで縁取られたフードに、彼の髪が埋もれている。マフラーを取っても、俺は充分に暖かいんだと言っているようだ。

「ご、ごめんなさい、洗って返します」
「洗うほど汚れるわけないやろ、返してもろて帰るから気にせんでええ」

いや、それは困る。今日はこのマフラーを抱いて眠りたいんだ――とは口が裂けても言えない。今晩、このマフラーをベッドに引きずり込むためには、どんな手を使って汚せばいいのかとは真剣に考え始めた。

そんなの鼻に、マフラーからふわりと立ち上る江神の香り。

だめだ。鼻血を噴いてしまう。こんなものと一緒に眠ったら失血死してしまう。江神のマフラーを血塗れにして死ぬ等という冗談にもならない事態はごめんだ。でも、本物を傍らに眠りに落ちることなどありえないと知っているから、せめてそんな夢が見たい。近くにあるはずの、果てしなく遠い江神を少しでも近くに感じていたい。

本人が隣を歩いているのに、香りの移ったマフラーの獲得に躍起になることがいかに歪んだ思考であるか、それはちゃんと解っているが、そもそも2人きりで歩き出してからのの頭はまともに働いていない。明日の朝、己の質的異常な発想に悶えることになるのだとはこれっぽっちも思っていない。

こんなことなら、手袋なんかしてくるんじゃなかった。凍える素手を吐息で温めて、その手を取ってもらい、ポケットの中で手を繋ぐなんてこともありえたかもしれないのに。

静かに歩く江神の横で、の頭の中はどんどん妄想がエスカレートしていく。

ああ、どうして今日は寒いだけで風はないのか。吹きすさぶ刺すような風にコートの裾を翻し、両腕で自分を抱いていれば、ゆったりした江神のジャンパーの中に入れてもらえたかもしれないのに。風がおさまるまでな、と言う江神に対して、風なんてずっと吹いていればいいのにと思えたかもしれないのに。

……い」

しかも私はどうしてこんなに健康なのだ。酒を飲んでいなかったとしても、突然貧血を起こしたり発熱してみたり、手はいくらでもあるじゃないか。そして、朦朧とした意識の中で無防備にも江神を部屋に引き入れて付き添ってもらったっていいのに。朝になって快復した頭に江神がいる意識はなく、慌てふためきながらもはにかんで、言うのだ。おはよう、と。

「おい、?」

夜明けのコーヒーか、そんなもの大歓迎だ。いつでも準備は出来ている。

……、おい、大丈夫か」

そして我に返る。完全にあさっての方向を向き、視点の定まらない目でボーッとしているの目の前に、江神の怪訝そうな顔がある。瞬間、の顔は頬と言わず全ての肌が火を噴いた。眼球ですら熱い。

「ごめんなさい……!」

熱いはずの肌が、きっと色としては真っ青だったに違いない。

「酒、飲んでへんよな? 大丈夫か」

やっぱりダッシュで逃げたい。マフラーを強奪して逐電してしまいたい。

「まあ、よい子はもうお眠の時間か」
「い、いえ、大丈夫です、すみません」
「で、ちょっとええか」

江神はニタリと笑いをからかうと、キャビンを掴んだ手の親指で数メートル先にある公園を指した。一服したいらしい。路上喫煙をしないという心がけは立派だ。当然のことなのだが、守れない人が多すぎるから、立派な行いに見えてしまう。

それはそれとして、マフラーの衝撃も覚めやらない所に夜の公園とは。

誰もいないのも、うじゃうじゃとカップルがいるのも、どちらも厳しい。その中で黙々と一服する江神の隣に佇む。しかも、彼の香りが仄かに鼻をくすぐるマフラーを首に巻いたまま。これは何か新手の拷問か。そうだ、きっとそうに違いない。幸福という名の拷問だ。

「はい、ど、どうぞどうぞ」

公園の方へと曲がっていく江神の後姿を追いながら、は非現実の世界に引きずり込まれるような気がしていた。もう、2度と戻ることが出来ない世界へと足を踏み入れてしまっているのではないか。大学のサークルの憧れの先輩と、少々過ぎた妄想に彩られた恋心を抱えた後輩、そんな微笑ましいありふれた世界には、戻れないのではないか。

それを何よりも望んでいたはずなのに、どうしてか、とても怖かった。