オリオン

3

「わかったわかった。そんなに否定しなくても。アリス、泣いてしまうぞ」

強く握り締めるあまりに真っ白になっているの手を、江神の手のひらが包み、そっと引き剥がす。

「俺の勘違いやったんやな、すまん」

その言葉を潮に江神は立ち上がり、を促して公園を出てしまった。その足取りは、なぜかすっきりとしなくて、江神には2人の間を流れる空気がざらざらしているように感じられた。てっきりアリスとはそろそろ付き合おうかとという状況であると思っていた、それなのにを送る役目を仰せつかってしまうことになったと思っている江神、それを全力で否定しながらも、なぜ否定するのかを口に出来ない

ぎくしゃく、ぎくしゃく。そんなありきたりの表現がぴったり当てはまるような2人の歩み。

「私が好きなのはアリスじゃない」――この言葉はかなり状況が限定される。「私はアリスを好きじゃない」なら、単にアリスに対する恋心の否定というだけで完結できる。だが、「私が好きなのはアリスじゃない」のならば、一体誰が好きだと結ぶのか。江神はそのことについて考えを巡らせている。

普段なら、アリス同様にちょっとだけ小生意気でありながら従順な可愛い後輩の。ただアリスとの関係を勘違いしただけの江神に、断末魔の囁きにも似た、懇願の訴え。

そんな単純な謎は、たぶん江神にとっては腹の足しにもなるまい。

数分もかからずに解ける、簡単なミステリー。
さて、気付いてしまった。これはどうしたらいいだろう。

悩むというほどでもないが、という靄に視界を閉ざされた江神は、ぎくしゃくした足取りのまま黙々と歩く。その隣で、はもう1度頭を平熱へと温めなおしていた。

真っ暗で何も見えないから、つい口を滑らせた。けれど、それはアリスへの想いの否定であって、特定の誰かを思慕している告白とはならないはずだ。聡明な江神は色々と答えを捻り出してくれるだろう。その答えのうち、どれでも構わない。の想いが壊されない程度であるなら、どんな答えでもいい。納得してくれれば。

そう思うと、はいくぶん頭がすっきりして来た。

のアパートへはまだ、たっぷり時間がある。その間、ずっと沈黙のままというのも気詰まりだし、やはりもったいない。ふりだしへと戻ってしまうが、何か気軽な話題はないものだろうか。しかし、何事もなかったかのようにペラペラと関係ないことをまくし立てるのも、わざとらしい。

ここは1つ、言い訳をしてみよう。

「あのう、すみません、さっきから私変で」

突然飛び出してきた、いつものの声に、江神はまたきょとんとした目をして彼女を見下ろしている。

「江神さんには普段どおりのことなんだと思うんですけど、私、EMCにいるのが楽しくって仕方なくて。今日も忘年会だっていうんで、遠足前の子供みたいにテンションあがっちゃって……。それに、部長直々に送って下さる、なんてことになって畏れ多くって、どうも緊張とか、興奮というか、してしまってですね」

どうにも尻すぼみになってしまったが、そこそこ上手く言い訳が出来たのではないだろうか。こんな言い訳で江神が納得するわけはないだろうが、一応のフォローは出来ている。

「お酒は飲んでませんが、酒宴の席の、ことと、思って頂けたら……

江神の反応がない。やや顔を傾けて、の方を向いてはいるが、の前の地面を見ているような形だ。自然との声も小さく、途切れがちになっていく。

……気にせんでええよ」

たっぷりと間を置いての一言に、は胸を締め付けられたような痛みを覚えた。そんな簡単な言い訳で丸め込める相手ではないことくらい解っている。それでも、今ここで全てを壊してしまうのは何よりも怖かった。EMCの中で、そんな揉め事はたくさんだと切り捨てられてしまったら、2度とあの輪の中には戻れない。

ごめんなさい、江神さん。あなたのことが大好きなんです。だからせめて、この嘘だけでも受け入れて。

当然江神は、の言い訳が今思いついた口からでまかせであることくらい、察しがついていた。それだけではなく、が自分に想いを寄せているということ、アリスといい仲だと勘違いされてパニックになったこともちゃんと解っていた。問題はそこではないのだ。

さて、は「アリスが好きなのも私じゃありません」と言うが、果たして本当にそうだろうか。

アリスに直接聞いたこともないし、傍目には2人はたいそう仲がよく見える。片手に満たない年の子供じゃあるまいし、あれだけ仲がよくて恋愛感情沸きません、というのは普通のことだろうか。いや、普通か普通でないかは問題にはなるまい。少なくとも今、の口からは否定の言葉が出たが、アリスは?

色々な要素を除いても、江神にとってはどちらも可愛い後輩だ。3人の先輩たちによく懐き、たまには面白いことの1つや2つも言える大事な後輩だ。が自分を想っているということはとりあえず置いておいたとしても、アリスがさらにへと想いを向けているのだとしたら、江神はそっちの方を纏めてやりたかった。

2人はきっと順当に進級し、ありきたりでも真っ当な学生生活を謳歌し、いずれ卒業していくのだから。

しかしこの仮説は「アリスがのことを好き」という前提があって初めて成立する、とても曖昧な問題だ。そこがクリアにならない以上、仮説に縛られてを無下にあしらうのは気が進まない。なんと言っても、可愛い後輩なのだ。悲しい思いはさせたくない。

悲しい思いはさせたくない?

そこで江神は思考が止まった。それでは江神がの想いを受け入れてやる以外に選択肢がないではないか。その選択肢にまで至らなかった江神は、心の中で大いに慌てた。

まずはそれについて結論を出さなければ、何も始まらないのじゃないか?

隣をとぼとぼと歩いているが、初めて目にする女のような気がして、江神は軽く眩暈を覚えた。そうか、は俺のことが好きやったんやな。それに気付いているのに、じゃあ一体自分はどうなのかという所まで考えを持っていけなかった自分が、とんでもない人でなしのように思える。

今日のこのおしゃれは俺のためやったんやろうな?
マフラー貸しただけで狼狽したのは、嬉しかったからやろか?
隣に座らなかったのは恥ずかしかったから?
アリスが好きなんやろう、なんてことを言われたからパニック起こした?

次々と意味が解ってくる。きっともっと遡って拾い上げてみれば、の恋心の欠片はいくらでも見つかっただろう。その身体の中に膨れ上がる想いを小さく小さく隠して、アリスとはしゃぎながら違う顔を見ていたんだろう。

ごめんな、気付いてやれないで。

可愛い後輩に対して申し訳なく思う気持ちと、自分自身が導き出さなければならない結論が遠く離れていて、もどかしい。時間はあまりない。だが、感情を乗せつつフルスピードで考えなければ。今この瞬間に限っては、真正面から自分に向き合い、について考えることが、1番真摯な態度ではないかと思っていた。

に初めて出会ってからの色々なことがぐるぐると渦を巻いて江神を襲う。どこもかしこもアリスとふざけあい、望月や織田にからかわれているような気がしないでもないが、子犬のように江神の言葉に耳を傾け、聞き入っているくりくりとした瞳が浮かんでは消えていく。

そういえば、いつだったか望月が言っていた。
って、血の繋がらない妹みたいやな」
確か、そんなことを。

おそらく軽く聞き流していたのだろうが、今ならその言葉の意味がよく解る。ちょこまかと先輩たちの後ろを着いて歩き、冗談混じりにかけられる言葉に一喜一憂している可愛い後輩。まるで、妹のようだ。だが、本当の妹ではないことは考えるまでもない事実。だから、〝血の繋がらない妹〟。

ふとしたきっかけで、恋に落ちてしまうことがあるかもしれない、近くて遠い可愛い妹。

何かのスイッチが入ってしまわなければ、きっと永遠に妹でいてくれる存在なのに、どこかでその防壁が崩れてしまったら。そうしたら、どうなってしまうんだろう。妹だったはずの存在を崩れ去る壁の向こうに認めた瞬間に、それは女に変わるだろうか。

間違いなく、変わる。

さんざん逡巡してきた割には、この答えだけは驚くほどの速さで出てきた。

それが、すぐに「自分もが好きだ」という結論にまで至るわけではないが、可能性があることだけは否定できない。それは偽らざる本心だし、それを否定してみたところで何の結論も出ては来ない。可愛い後輩で、妹のようなは、いつか何かのきっかけでスイッチが入ったのなら、いつでも女に変わる。それだけは事実だ。

そう、きっといつでも変われるんやろうな、。今がその時かどうかは――判らないけれど。

江神がやっと答えに指をかけるかという時になって、今度はが唐突に袖を引いた。

「あのう、ちょっとだけ回り道になるんですけど、コンビニ、いいですか」
「ああ、ええよ」

と江神、2人の心の中だけでもこれ以上ないほどに抉れてしまった思い。それはもう、このまま引きずっていかなければならない難題であるから、何を急ぐこともない。江神は快諾してコンビニへの道を取り始めた。

コンビニに入ると、江神は煙草を買い足し、はペットボトルを抱えてこそこそと会計を済ませた。外に比べれば格段に暖かい店内にいて暖を取ってもいいのだが、にしても江神にしても、明るいコンビニの中でことをうやむやにしたままぼんやりしていようという気にはなれなかった。

店を出て、数メートルも歩かない内に、はペットボトルを1つ差し出した。

「こんな寒い中、本当にありがとうございました」

江神が受け取ったのは、冷え切った手に熱いくらいのホットコーヒーのペットボトル。無糖ブラックの文字が、心の奥底にある何かをちくちくと突付いたが、それを顔に出すようなことはしなかった。

「お引き止めするようでアレなんですが……私の部屋は灰皿がなくて。一服していきませんか」

の指差す方には、先ほど立ち寄ったものによく似た公園。やはり砂場くらいしかないような、小さな公園。枯れ木の木立に囲まれ、奥にベンチがあるのも同じだったが、唯一異なるのは、ベンチに寄り添うように立つ街灯だった。

ブーツの踵を鳴らしながら、が街灯の作る光の輪の中に足を踏み入れる。そして、スポットライトの中から暗闇に向かって手招く。

「江神さん、灰皿、ありますよ」

寒々しい装いの中に、ぬくもりで包んだの想いが江神の胸を深く、突き刺す。

手に熱いペットボトルを、江神は強く掴んだ。