オリオン

4

に手招かれるまま、江神はスポットライトの中に入り、ベンチに腰を下ろした。

そして突然、やはり絶妙な距離を置いて隣に座るに、これ以上ないほど焦れた。正確には、そんなを見ていると胸に棘が刺さるような気がして、それが居たたまれなかったからだ。相手に、解決を見ない難題に悩まされているのが、鬱陶しくなってきたのだ。

手にした温かいペットボトルがそれを助長させる。

こんな風に捩れてしまった、それを消し去ることは出来ない。それでも私は江神さんが好きだから、せめて後味が悪くならないように温まって、一息ついていって下さい。そうしてまた、次に会う時は何事もなかったようにして下さい。私の想いは、もっともっと深く、隠しておきますから。

そんなの気遣いが、江神を追い詰める。

「冬は星がきれいですねえ」

額に手をあてて、は空を仰いでいる。江神はかつてないほどに焦れ、そして、それをのせいにしてしまいたかった。お前が、変だから。だから俺まで変になってしまう。

……、気遣わんでええよ」
「え?」
「今日、お前が変やったことは忘れるから。お前も忘れろ」

出来るだけ、いつもの調子で。誰が見ても100パーセントの江神に見えるように装う。

「アリスがどうのとおかしなこと言うたのは、悪かった。それも、忘れてくれ。EMCが楽しい言うてくれて、嬉しかったよ。俺も、楽しい。みんなでおるとほんまに楽しいもんな。そういう日がずっと続いたらええのにな。忘年会が終わったばっかりやけど、年が明けたらすぐ新年会でもやるか。その次は花見やな」

しかしそれは、とても普段の江神とは思えないほどに饒舌で、の顔色を途中で確認することも忘れて、言葉が続く限り喋り続けた。そして、言葉のストックを切らして初めて、を見た。

まっすぐに江神を見据え、怖いくらいに固く唇を結び、両手を膝の上できつく握り締めている。

そこに、可愛い妹のような後輩はいなかった。

……

女というのは、こんなに怖い生き物だっただろうか。江神は針のように尖ったの姿に腕を震わせた。まずい。違うスイッチを入れてしもたかもしれん。知らぬ間に煮えていたらしい頭がスッと冷える。俺は、何を言った?に、何を言ったんや。

、おい……
「私、江神さんは頭のいい方だと思ってます」
?」

思わず伸ばした江神の手を、は力一杯撥ねつけた。乾いた音が静寂の中に飲まれていく。

「だから、私の浅はかな考えなんて、とっくにお見通しだと思います。それを今さら隠したり取り繕ったりはしません。江神さんのそういう所、尊敬できます。すごい人だなあって思います。それなのに、私が面倒を持ち込んだんです。気を遣って何が悪いんですか? それに、言われるまでもなく全部忘れます。何もかも夢だったと思うようにします。私はそうします」

1度言葉を切ったは、江神の手を撥ねたままに、胸元で拳を作る。

「でも、江神さんはそんなことする必要ないじゃないですか。どうして余計なフォローしたりするんですか。いつもみたいに、煙草を咥えてぼんやりしてると見せかけて、そのくせしっかり何もかも把握していればいいじゃないですか。どうして私の下らない想いに便乗しようとするんですか」

ごくりとの喉が鳴る。そうして一息挟むと、は唸るように呟いた。

「今の、江神さんは、卑怯です」

卑怯。その言葉の重みを、江神は全身で感じていた。

様子がおかしいに中てられて、勝手に悩み、進んで霧の中に迷い込んだ。その結果、答えの出ない問題に焦れ、自分を見失った。そんな風になるなど、滅多にないことなのに、自分がどこにいるか判らなくなって。だから、本人なりに必死にだったに当り散らしたのだ。優しい言葉と緩やかな眼差しで、を打ちのめした。

忘れてしまいたかったのは、を送って行く道での出来事ではなくて、そんな風に揺らいだ、自分。

そして、こんな風に突然江神を迷わせた、

どうして可愛い後輩のままでいてくれなかった?
アリスとはしゃぎ、転がるような笑い声で和ませていてくれなかった?
ぼんやりした咥え煙草の部長でいさせてくれなかった?

そうやって全てのせいにして、いつもの自分とやらを守ろうとした。それは、卑怯だ。

今、この時に限って、江神は完全に言葉を失くしていた。

その時、ふいに手のひらの中のペットボトルの温みが江神の意識を呼び戻す。冷めはじめてはいるが、仄かな熱が江神の手のひらを、そんな狭い場所を懸命に温めている。だが、そんな掴めそうで掴めないぬくもりを、立ち上がったの声が切り離す。

「私、EMCが好きです。さっき言ったことは嘘じゃありません。本当に楽しいです」

言葉を失ったままの江神の前に少し距離を置き、立ちはだかって、訥々と話している。

「だから、そういう意味ならアリスもモチさんも信長さんも、大好きです。EMCの何もかもが好きです。EMCに出会えて本当によかったと思ってます。さっき江神さんが言ったみたいに、ずっとずっとこのままでいられたらどんなにいいだろうって思います。そんな風に、いつまでも変わらずにいられたらよかった。
だけど、私はどうしようもないくらいに普通の人間で、コロッと誰かを好きになったり、それで動揺したりパニック起こしたり、平気でそういうことするんです。江神さんみたいに、いつでもスマートでいられるほど、大人じゃないんです。子供なんです。
だから、だから、さらっと聞き流せばいいんです。いつもみたいに煙吐いて、誤魔化して下さい。私の目線になんて、降りて、来ないで下さい。もっと高い所にいて、見下ろしていて、そうしたら、私だって」

の言葉は雪崩のように次から次へと滑り落ちてくる。それが少しずつ少なくなっていって、途切れだして初めて、江神に言葉が戻った。覆い被さる雪を掻き分けるようにのろのろと立ち上がり、震える唇を上手く閉じられないに歩み寄った。

……

名を呼ぶことくらいしか出来なかったけれど、江神はのすぐ目の前まで来ると、かくりと頭を垂れた。

「もう、いい、。もう、解ったから」

やっぱりそんな拙い言葉しか出てこなかった。けれど、それ以外にどんな言葉をかければいいのかは判らなかった。そんな風に自分を追い詰めるな、。そんな風に肩を震わせて、身体を強張らせて、もういいから、俺のために、そんなこと。

状況に苛まれているのは、2人とも同じ。動けなかったのは、江神。そして、壁を壊したのは、だった。

「嘘! 何も解ってない!」

つと両手を開いたは、軽くステップを踏んで江神の胸に飛び込んだ。

「江神さん、ずるい! 解ってないのに、解った振りして、それじゃ、私は」

背中にしがみつくの手が、江神のジャンパーをぎゅうぎゅうと締め上げている。そうやって喚き、苦しそうに息を吐くと、手を緩めて、ゆっくりと見上げた。突然飛びつかれたまま、微動だに出来ない江神の困惑した目を、の視線が射抜く。

……江神さん、私、あなたが好きです」

何かを隔てていた壁が、音も立てずに崩れ去る。

は風化したように消滅していく壁の向こうにいた。
江神の手からするりとペットボトルが落ち、地面にくぐもった音を立てた。