オリオン

5

ペットボトルを手放した江神は、それにすら気付かないでを両腕で抱き締めた。

もうええ、俺の負けや。そう思った。のこの想いから逃げられないと思った。流されてしまうようなことは、本当ならしたくなかった。感情に任せていい加減な判断など、絶対にしたくなかった。でも、の言葉が、想いが、江神を取り巻くたびにぐらぐらと揺れた。

それがどんな結果を招こうとも、今は考えないでおこう。ダメになったらさっさと捨てればいいとかそういうことではなくて、このの想いに、着いていってみよう。そう決めた。

もし、との日常が江神にとって耐え難いものであったとしても、それは、女にしんどいことを言わせて無茶をさせた報いと受け入れる。が例えば突然に心変わりをしたとしても、彼女の言うとおり、咥え煙草でぼんやりとそれを受け入れよう。

それくらいしか、出来ることはないと思うから。

玉砕以上を覚悟していたは、江神の腕に抱きすくめられて初めて冷静な自分を取り戻した。なんでこんなことになってるんだろう。江神の腕の中にいることは判っているが、さてそれはどうしてだろう。そうやって、何度かゆっくりと呼吸をして。そして、ふいに戻る体温。それと共に、体中を満たす温かい何か。

冷たい12月の空の下で、江神に抱き締められている。その事実をは体中で感じていた。温かい。心が軽い。嬉しい。幸せ。そうして巡り巡ってもう1度戻ってくる、あなたが好きです、大好きです、という想い。

江神の口から、の想いに対する返事は出てこない。それでも、は信じていた。根拠など何もないけれど、頑なに信じていた。限られた時間かもしれないけれど、私は江神さんの傍らに寄り添っていてもいいのだ。そうでなければ、この身体を包む江神の腕はただの夢だ。

こんなこと、ふざけてする人じゃない。夜が明けたら知らぬ振りをするような人じゃない。

だから、自己完結でもいい。私は江神さんを信じる。

江神が優しいから、きっとこんな有り様のに押されてしまったのだろうということも、ちゃんと解っている。解っているが、その優しさに甘えるのだ。江神に対して卑怯だと言っておきながら、は自分もそうなろうとしている。

誰に対してか、は心の中で謝る。ごめんなさい、私は卑怯です。江神さんの優しさにどっかりと胡坐をかいて、自分の想いを押し付けて、迷わせて、悩ませて。初めては今夜のことを後悔した。それは何より、江神に対して申し訳ないという思いからだ。

ごめんなさい、江神さん、こんな、ちっぽけな女でごめんなさい。

幸福感と後悔と罪悪感で一杯のを、江神は静かに引き剥がして、そのまま断りもせずに唇を重ねた。

もちろんそれは、にとって最大級の衝撃だったのだが、逆に思考は完全に停止した。一瞬で全ての雑念が消え去ってしまうと、自分の両腕をしっかりと支えている江神の腕にすがって、触れるだけの唇をしっかりと押し当てた。同時に緩む腕の間を泳いで、江神の首に両腕を巻きつける。身長差があるから、思い切りつま先を立てて、引きちぎれそうなほど首を伸ばして。

そのの背中を掬うように、江神の腕が伸びる。両腕で抱えても余るの身体をかき抱いて、もう少しで抱き上げてしまいそうなほどに。もう、江神にも一切の迷いがなかった。腕の中で憩うは、とっくに崩れた壁の向こうにいて、気付いた時には唇を押し付けていた。

可愛い、大事な、後輩。そんなもの、今だって変わるわけがない。それが霞んでしまうわけではなかった。そう、最初から間違っていたのだ。ミスリードはどこに仕掛けられていたんだろう。

〟が大切で、可愛いことは、最初から解っていたはずなのに。

、俺の可愛い。難しいことは、もうどこかへ捨ててしまって構わない。そんなものより、今こうして触れ合い絡み合う唇の方が、どれだけ大切か。こんなにも愛しいものだと、知らなかったから。だから、、今度こそ、ちゃんと解ったから。がこんなにも愛しいものだということが、解ったから。

もう、それしか残っていなかった。

スポットライトの中で、2人は抱き合ったまま、時に揺れて、その度に解けそうになる腕を離すまいと何度も腕を締め直した。の頭に頬を寄せる江神、江神の肩にもたれる。そうやって、冷たい空の下に佇んでいた。

「江神さん、私が困ったことしたら、ちゃんと叱ってくださいね」
「ああ」
「わがままを言っちゃうかもしれません」
「言ってええよ」
「重くなったら、言ってくださいね」
「そんなこと、今は考えんでええよ」

冷気の中に溶けていってしまうような、小さな声でが言う。白く色付いて掻き消えてしまいそうな乾いた声で、江神が答える。は思ったことをそのまま言葉にしたし、江神もそんなの言葉全てを飲み込んだ。

「一緒に初詣、行きたいです」
「ああ、ええよ」
「EMCの後でいいです。2人ででかけたいです」
「そうやな」
「もっといっぱい江神さんの話、聞きたいです」
「つまらんぞ」

そんなことありません、そう言って笑いながら、は江神の目をじっと覗き込む。1番大事なことを伝えるために、両手のひらで江神の頬を包み込み、視線が同じ高さでぶつかり合うのを確かめる。

「それから、もし、いつか、気が向いたら、言ってもいいかなって思えたら、好きだって、言って下さい」

は「私は江神さんが嫌がっても言います」と言うつもりだったのだが、その前にまたも唇を塞がれてしまった。呼吸するのですら難しいほどに、きつく、長く、ありったけの気持ちを注ぐようにして。

「今、気が向いたし、言ってもええかなと思てるんやけど」

またすぐにでも重なってしまいそうな距離に唇を置いたまま、江神は囁いた。この先、そんな風な気持ちになるかどうかは判らない。だけど、今は気が向いているし、言ってもいいと思っているし、好きだと言いたかったから。

「あの、やっぱりいいです。私、もう倒れそうです」
「それは困るなあ」

2度のキスの余韻と安堵感からか、落ち着きを取り戻し始めるは限界を感じていた。抱き締めてもらって、キスしてもらって、その上好きだと言ってもらうなんて。体中の血液が沸騰して気化してしまうかもしれない。そんなよろよろのを腕に抱いて見下ろしながら、江神はにこにこと笑っていた。


「はい」

「はい」

失神寸前なのは変わらないのだが、額を擦り付けながら何度も名を呼ぶ江神の笑顔に、もつられて頬が緩む。これじゃあまるきりバカップル状態だ、なんて思いつつも、人の目があるわけでなし、気にしないことにする。お互いの笑顔がある今、そんなことはどうだっていいことだから。

、ちゃんとお前のこと好きやと思うてるよ」
「江神さん……
「そんな不安そうな顔すんな、嘘やないから」

そんなこと思ってませんと言うの目が、街灯の明かりを受けてきらきらと光っている。

ここにも星がある。そう思った江神はすいっと顔を上げて夜空を仰いだ。

「冬の星座、ほんまにきれいやな」
「江神さん、あれ、オリオン座ですよね」

あれだけなら知ってますと恥ずかしそうな。江神は、そのオリオンのきらめきを忘れまいと、言葉もなく誓った。の瞳に落ちる星と共に、この空のオリオンを、ずっと覚えていよう。

出来ることなら、ずっと、いつまでも。

END