鬼が出るか蛇が出るか。年末ということもあって意外と人で賑わうのか、それが達のように忘年会帰りなのか、カップルなのか。はたまた、誰もおらずに閑散としているのか。どちらにしてもが緊張することに変わりはないのだが、カップルだらけの方がやや辛い。周りに中てられて江神が気の迷いでも起こしてくれるならそれでもいいのだろうが、その場合、は再起不能確実だろう。
蛇が出た。さして広さのない児童公園に人影は見当たらず、公園内は砂場と鉄棒が据えられただけの簡素な作り。入り口の真正面、最奥に吸殻入れを挟んだベンチが2組。江神はまっすぐにベンチへと向かい、はよろよろとした足取りで着いていく。
「すまんな、つき合わせて」
吸殻入れを正面に見て右側のベンチに腰を下ろした江神は、煙草を一本引き抜くと指に挟み、そのままを拝むように掲げた。とんでもない、という意を表すようには片手をブンブンと振る。
江神さんはちっとも悪いことなんかないんです、私がちょっとヒートアップしてるから。
冗談のようで、洒落にもならないから、言えないけれど。はずっとヒートアップし続けているから、いずれオーバーヒートしてしまうのではないかと冷や汗をかき始めている。
「夜のお散歩って感じで結構楽しいです」
今度はちょっとだけ気の利いたまともなことを言えた。本当は『デートの帰り道みたいで』と言いたかったが、まだ地雷を踏んでいい位置ではない。帰宅までの道のりはやっと折り返すか折り返さないかという所だ。笑って受け流してくれるならまだいい。冗談が通じず、無理矢理タクシーでも呼ばれたらせっかくの帰路が台無しだ。
「最近は物騒やからな、女の子の夜歩きは難しいやろうな」
白く色付いた吐息なのか煙草の煙なのか判らないものを吐き出しながら、江神はうんうんと頷いた。
煙草を手に頷く江神を見下ろしていただったが、ふいに上を向いた彼の目と視線がぶつかった。常に見上げているか、座っているなどして比較的近い目線でしか見たことのない視線に、はたじろいだ。
「……座らんのか?」
「え」
自分だけゆったり座って一服していれば、そう言いたくなるのも仕方ない。はここで挙動不審になるよりは、と意を決してベンチに腰を下ろす。吸殻入れを挟んで、左――江神とは反対側のベンチに。
「……、普通はこっちやろう」
「は、え、そ、そうですか!?」
江神は面白くないものでも見たように呆れた目をして、自分の隣をポンポンと叩いた。
「そんなに警戒せんと、何もせえへんよ。こっちおいで」
江神はニコニコと穏やかな笑顔でそう言うが、それだけのことがに強烈なダメージを与えているとは思いもしないだろう。警戒なんかしていない、だけどそんな風に見えたのだろうか、それよりも、こっちおいでって。こっちおいで、こっちおいで。今にもメルトダウンしそうなの頭の中では、江神の一言がループしている。
覚束ない足取りでは立ち上がり、あるだけの気力を振り絞ってまっすぐに歩くと、江神の拳を3つも4つも挟むくらいに距離を置いてぺたんと座った。コートの裾が足りないために、キンキンに冷えたベンチがお尻に冷たい。腰が冷えるので立ったままでいいです、なんて言おうものなら、「これに懲りたら薄着はやめるんやな」なんて、言われてしまうかもしれない。は背筋を伸ばして我慢することにした。
拳3つ4つの距離に関して、江神は何も言わなかった。傍らに座らせたに何を言うでもなく、のんびりとフィルターに吸い付いては、ゆらめく紫煙を吐き出している。
まばらな木立に囲まれた公園は、2人を深奥に抱えて広がる舞台のようだった。ぽっかりと開いた空に小さな小さな星たち。すっかり葉の落ちた木々に縁取られ、切り取られた空はと江神だけが独占している。
見上げれば星空、冷たくも透明な空気、ただ2人を包むのは白い吐息と煙草の煙。
溶解寸前にまで熱されていたの頭は、するすると温度を下げた。何を興奮して戸惑う必要があるのか、すっかり解らなくなっていた。今、こうして江神の隣に座り、邪魔をするものなどない空間にいて、頭上には澄み切った星空がある。
灰を吸殻入れに落とす江神の横顔を、ちらりと見てみる。シャープな頬のライン、そこにふんわりと落ちる緩く波打つ髪、ベンチに置いている左手。江神の上を滑りゆく視線が左手の小指に届くと、自分の右手の小指が見えてくる。限られた視界に共存する2人の小指。
江神が、こんなに近くにいる。
それでもまだ緊張の取れない右手を挙げて、ほんの少し。どんな動作よりも少ない動きで手を伸ばせば、届く。すらりとした江神の身体をすっぽりと包む、黒のジャンパーの袖に、届く。
この腕に手をかけたら、どんな風だろう。そっと這わせて、頼りない力で掴んだのなら、どんなことが起こるのだろう。それとも、何も起こらない?手を伸ばしたら、そこで時間が止まってしまうなら、それでもいい。腕を掴まれたことに気付いた江神が振り向く。その瞳を貫かんばかりに、見返したなら。時は、止まらないだろうか。
ああ江神さん、私は。
「ん、どした?」
「え?」
すぐ隣で煙草をふかす江神について考えるあまり、はまたも意識が異次元へと飛び去っていた。そして、その副作用として、無意識に、いや、意識通りと言うべきか、江神の腕に右手をかけてキュッと掴んでいた。
は、全身のありとあらゆる毛が逆立っているような気がした。クールダウンしたはずの頭は再び沸騰して、しゅんしゅんと湯気を立てている。無意識にとんでもないことをしてしまった。
「なんや、誰かおったか?」
「へ?」
さっと江神の表情が険しくなる。顎の高さに挙げていた煙草を持つ手が下がり、丸めた背中が伸びる。に掴まれた腕を引き寄せると、きょろきょろと辺りを見回している。が不振な人影でも目に留めたのかと勘違いしているらしい。
「誰もおらんようやな、大丈夫、怖ないよ」
「は、はい」
は江神の勘違いを事実にしてしまった。取り繕いようがないし、吸いさしを吸殻入れに落とした右手での手をポンポンと叩いてくれたから。ああ、江神さんはどうしてこんなに優しくて、温かくて、心が大きいのだろう。私なんかとは、まるで天と地ほども。
そう思い当たって、はぎくりと身体を強張らせた。
私なんかとは、天と地ほども。
私がいくら江神さんを好きでも、私の器はこんなに小さくて、温かくも優しくも、ない。
そんな思いに囚われたに、追い討ちをかけるような江神の言葉が突き刺さる。
「大丈夫大丈夫、に何かあったら、アリスに殺されてしまうからな」
変わらず優しい笑顔の江神の視線の中では1人、真っ暗で冷たくて、星の明かりすら届かない奈落へと堕ちた。静かでほんの少しだけ甘い低音の言葉にそっと背中を掴まれて、落下した。
「アリス……?」
「ああ、言わんでええよ。別に恥ずかしいことでもなんでもない」
何を言ってるの、江神さん。どうして今アリスが出てくるの。
熱くなったり冷たくなったりと忙しいの頭だが、この時ばかりは銀色に光るナイフのような鋭さでその意味を突き当てた。今この場でアリスの名が出てくるということ、恥ずかしいことでもなんでもない、言わなくてもいいこと。江神は、またも勘違いをしているらしい。
「今日も、本当ならこれはアリスの役目やったのになあ」
どうやって、この勘違いを正したらいいのだろう。
確かにアリスとは仲良くしている。学館のラウンジにいたって、みんなで古書店に繰り出したって、子供みたいにふざけあって騒いでいた。そして、EMCの集まりではなくなってしまうと、2人でしゃがみこんであれこれと話したりもした。でもそれは、恋に発展するためのステップではない。
江神に恋すると、江神というミステリーに興味を持つアリス。そんな2人の、江神談義。
アリスは、いつも兄弟のように相談に乗ってくれていただけなのに。そう、きっとアリスに対して恋心を抱いたことなんて、1度もない。年の近い、兄か弟か。または年の近い従兄弟のように。何でも話せるわけじゃないけれど、ねえねえ聞いてよ、とそんな風に話が出来る友達だった。
そういう意味では、アリスだって大好きだ。けれど、それはモチさんや信長さんだって同じ。
〝そういう意味ではなく〟大好きなのは、江神さん、あなたなのに。
どんな風に言葉を繋いでいけばいいのかも解らなくなって、は何も考えずに零した。
「私が好きなのはアリスじゃないし、アリスが好きなのも私じゃありません」
深刻なとは対照的に、江神はきょとんとした顔をしている。あれっ、違った? そんな風に。
「違うんです、江神さん、違うんです」
江神の袖を掴んだままの手を、はギュウッと握り締めた。