花の春はそそと揺れ

01

大晦日から帰省していただったが、引き止める両親を振り切り元日の夜にはアパートに戻った。帰省を喜ぶ両親には申し訳ないが、には江神との約束の方が大事だった。

忘年会が終わった後、の想いを受け入れてくれた江神に、初詣に行きたいとねだった。それを江神は快諾してくれたのだが、は彼氏と初詣があるからなどという理由では帰省を中止できなかった。歯軋りして悔やむを江神は駅まで送りに来てくれた上に、ちゃんと帰ってこいと念を押した。

列車の窓の向こうに遠ざかる江神の立ち姿に、は悔し涙の勢いだった。自分から好きとか言っておいて、OKしてもらって、それでそそくさと帰省とかどういう事だ。初詣だけといわず、紅白を一緒に見て2年参りをして、こたつでのんびりとか、出来たかもしれないのに。

なんだそれ。夫婦か。夫婦みたいじゃないか。いらっしゃいませ、大歓迎だ。

いつものように燃え上がる妄想の中で、は憤慨した。その怒りがほんの少し和らいだのはと言えば、地元の友人集団に遭遇して江神を自慢し絶賛を受けた事と、日付が変わる前にその江神が照れくさそうに電話をくれた事ぐらいだった。

「お、そろそろやな」

電話の向こうで、江神がカウントダウンを始める。その声にも合わせて、声だけは一緒に新年を迎えた。

「また薄着しとるんやないやろうな。ちゃんと暖かくして寝ろよ」
「はあい」

江神のお小言も、にとってはデレデレと目尻を下げてしまう甘い言葉で、案の定「なんやそのたるんだ返事は」と怒られてしまった。それでもの目尻は下がっていたし、家の中だというのに、結局強奪したマフラーをぐるぐる巻きにしているから、心も身体も温かかった。

そして、そろそろ電話を切ろうかという頃になって、は汗をかくほどに体温を上げた。

「待っとるからな、気をつけて帰って来いよ。明日は駅まで迎えに行くから」

そう江神が言ったから。

日付が変わり、新年早々部屋で大暴れをし、マフラーを巻いたまま年越しそばをすすり、「へへへ」と笑う娘を、の両親は心配そうに見つめていた。だがそんな奇行を除けば、は実に楽しそうだったし、内側から燦然と輝くように活き活きとしていたから、何も言わずに送り出してくれた。

そうしてとんぼ返り、は乗り換えの時間ももどかしく、江神の待つ駅へと帰り着いた。

元日の夜だというのに、乗降客は思いのほか多く、はよたよたとドアから転がり出た。きっと江神は改札で待ってくれているのだろう、は荷物を抱えなおすとピンヒールのブーツで階段を駆け降りた。

階段を降りきり、改札へと急ぐ。ポケットにあるはずのICOCAに手が届かない。もうそれだけで焦る。改札から見える所に江神はいるだろうか、それを確かめたい、確かめつつもさっさと改札を出てしまいたい。落ち着いてまずはICOCAを探し、次に改札の向こうを確認し、それから歩き出せばいいものを、は荷物を抱えたままでポケットをひっくり返し、キョロキョロと改札を見るという挙動不審振りを披露した。

そんなの様子を、改札の端から見ていた江神は、声を殺し腹を抱えて笑いながら見ていた。

……江神さんひどい」

やっとの事で改札を出たは、まだ笑っている江神を見つけると、開口一番そう言って膨れた。だが、江神が笑い止む気配はなく、「あかん、何でここにモチと信長とアリスがおらんのや」と言ってに蹴られた。

「すまんすまん。けど、もう少し落ち着け」

やっと笑うのを止めた江神は、笑いすぎて目尻に涙が溜まっている。その前では、焦って走ったせいで乱れた髪を整えつつ、まだ膨れっ面をしていた。

「悪かった言うてるやろ、機嫌直せ」

そう言う江神に対して、はぷいとそっぽを向いたが、大きな手のひらで頭を掴まれて、くるりと向き直させられてしまう。そこには、穏やかな笑顔の江神。

「あけましておめでとう、
……あけましておめでとうございます」

ぼそぼそと返したの頬が見る間にしぼんでいく。午後9時になろうかという駅の改札は、降車客が散って行ってしまうと途端に人気がなくなり、は辺りを充分に確かめてから、江神に抱きついた。

「ただいま帰りました」
「おかえり」

すりすりと江神の胸に顔をこすり付けるに、江神もギュウッと抱きしめ返してやる。

「ところで、蹴られた足が痛いな」
「コーヒー1杯で勘弁してください」
「まけとこう」

クスクスと笑いながら手を取り合い、2人は駅前のカフェに消えた。

「ほんなら、何時にしよか」

本当なら野宮神社に行きたかっただが、初詣の後はアパートでお茶していってくれるという誘惑に負けた。今年の初詣は両親から言われていた通り北野天満宮になりそうだ。今は学業成就より縁結びが最優先なのだが仕方ない。

「何時でもいいですよ、江神さんの都合でいいです」
「都合言うても、何もないんやけどなあ」

指に煙草を挟んだままカップを掴み、苦笑しながらコーヒーを口に運ぶ。そんな江神をはうっとりとした目つきで眺めていた。なんと言っても、数日前までは手の届かない憧れの人であり、隣にいるだけで心臓が跳ね上がるような相手だったのだ。

それが今じゃ私の彼氏なんですよ。どうしましょう。

また「ヘヘヘ」と笑いそうになって、はグッと唇を引き締めた。

大晦日になってやっと帰ってきた娘を連れて、の母親は買出しに出かけた。その道中で、は高校時代の友人の集団に遭遇した。男女合わせて数人というところだったが、はここぞとばかりに江神を自慢した。携帯で撮影した画像を見せ、少々鼻息荒く、「私の彼氏」と付け加えた。

意外な事に、最初に「うわ、かっこいい」と声を上げたのは男友達の1人だった。その後を追って次々と賞賛の声が上がるが、男友達たちはいつまでも江神を褒めていた。同性から見ても魅力がある男、それが江神二郎だ。

は当然有頂天だ。女友達の1人が「こんな人どうやって落としたの」と言ったが、そんな品のない言い方は耳に入れない事にした。落とすの落とさないのなんていう低俗な経緯ではないのですよ。

だが、江神をダシに地元でふんぞり返ってきたなどとは間違っても言ってはいけない。その瞬間、冷ややかな目と重い声で罵倒されてしまう。言いたいけど、我慢我慢。

我慢といえば、と江神の間では、ある取り決めがあった。

当分の間、EMCのメンバーには自分たちの事を言わずにおこうというものだ。その「当分」がどの程度なのかは決めていない。だが、忘年会以降最初に顔を合わせた途端に「付き合う事になった」と宣言するのもどうだろうかという理由を筆頭に、2回生組にからかわれたくない、漫才コンビとカップルの2ペアが出来てしまった事でアリスがあぶれる、……等々、色々込みでそう決めた。どちらともなく提案した取り決めだが、すんなりと纏まった。

だからは地元でぶち撒けて来たのだ。冷静になって取り決めが出来たからいいようなものの、放置しておいたら即座にアリスあたりに言いふらしていただろう。聞かれてもいない事をぺらぺらと喋り、もしかしたらアリスを不愉快にさせたかもしれない。

そんな自分が容易に想像できるから、いい戒めだった。

「本当にその時間で大丈夫か? ちゃんと起きられるか?」

一応待ち合わせの時間を決めたところで、江神はのブーツのつま先をコンコンと蹴った。

「大丈夫ですよ、寝坊なんかしませんって」
「あんまり信用ならんなあ」

もう10時を回ってしまったので、江神はを店から連れ出した。

の部屋は江神の住む西陣よりさらに南に位置している。大学までは主にバスを使い、今日下車した最寄り駅からアパートまでもバスで行ける位置にある。正月という事もありバスはもう終発が過ぎていたが、タクシーなどという贅沢はしない。のアパートまでの道のりは、今のところ2人にとっては大事なものであり、デートの代わりでもある。

駅から離れて少しずつ減っていく店舗やネオンを背に、2人は手を繋いで歩いている。の担いでいたささやかな荷物は、強引に取り上げられて江神の肩にある。絡む指がじんわりと温かい。

もうすぐのアパートが見えるかという場所まで来ると、車通りもすっかり減り、2人の足音だけがリズミカルに響いている。数日前には、沸いたり凍ったりする頭を抱えて歩いた道だ。

「いくらなんでもとんぼ返りじゃ疲れるやろ、今日は早く寝るようにしろよ」
「うん、そうします」
……マフラーは取れよ」
「却下します」

本物よりマフラーがいいとかわけがわからん、と江神はブツブツ言った。そう、は江神から強奪したマフラーを始終首に巻いて生活している。もちろん眠る時も一緒だ。のその危ない行動に江神は面食らったが、何かにつけてやめるよう諭し続けている。

「本物よりいいだなんて一言も言ってませんよ」

正しくは、本物だと再起不能になりそうなのでマフラーの方がまし、である。

の住むアパートのエントランスに着くと、江神は荷物を手渡してもう1度念を押した。

「マフラーは取れ」
「いいじゃないですかそのくらい……

マフラーを奪い返されてはなるまいとガッチリ掴んでいるに、江神は呆れた。もう俺の匂いなんて消えとるやろ。本物がここにあるのにマフラーて。しかし、のこういう子供じみたところが江神には面白かった。飽きないおもちゃのようで、指先でころころと転がしたくなる。

そんな女に惚れてしもた俺も充分、おかしいか。

「俺は本物の方がええけどな」

そう言うと、ぎくりと身を強張らせたを引き寄せ、問答無用でキスした。

キス1つで、はとろとろに溶けてしまう。それほど熱を入れて唇を重ねたつもりがなくても、は瞬間解凍状態だ。しっかりと掴んでいられない荷物がだらりと下がる。子供じみていて、少々奇行が目立つが、こんなところはたまらなく可愛かった。

「江神さん――
……おやすみ」

もう1度軽くキスして、江神はそのまま立ち去った。