花の春はそそと揺れ

04

「それにしても豪勢な部屋やなあ」

やっとの事で落ち着きを取り戻したを両手に抱えながら、江神は部屋をぐるりと見回して呟いた。

それは余計なものが全てクローゼットの中に押し込まれているからです。そう言いたかったが、は「そんな事ありませんよ」と軽く受け流した。いくらなんでも見られる事はないだろうと、ベランダやらキッチン周りの収納棚やらにもぎゅうぎゅう押し込んである。ついでに、調子に乗って買ってしまった江神専用枕は洗濯機の中に隠されている。

「自炊したかったんです。だから、ガスコンロのある部屋を探したんです」
「なんや、料理の腕に自信があるような言い方やな」
「自信はありませんよ、普通程度です。経済的だし」

がもっと勘がよく恋愛上手であったなら、そこはかとない表現で料理の腕を自慢し、さりげなく手料理を振舞うように仕向けられたのだろうが、悲しいかなはそんな風に頭の回る女ではなかった。だから、江神が具体的に言ってやらなければならない。

さんさん。手料理、食べてみたいんやけど」
「私、普通の家庭料理みたいなのしか作れませんよ」

凝った横文字の料理などよりも、彼女手作りの家庭料理がどれほど威力があるか。残念ながらはそんな事にも頭が回らない。江神の「彼女の手料理を食べてみたい」というささやかな願望にすら気付かないのだ。手料理にありつくには、再度、この鈍感なにも解るように言ってやらねばならない。

「ものはなんでもええから、が、作った、料理を食べたいです」

やっと気が付いたらしいは肩をすくめて俯いた。そして、ぼそっと付け加える。

「でも、帰省もあったので……冷蔵庫空っぽなんです」

そろそろ日も傾いてきて静かな正月の住宅街を、江神とは歩いていた。空っぽだというの言葉どおり、冷蔵庫の中にはお茶や水の他には調味料やアイスクリームくらいしか入ってなかった。だが、ここまで来たからにはの手料理を食べずに帰れない江神は、食材の買出しにを引っ張り出した。

1人で買いに行くと言い張るには取り合わず、江神はジャンパーを羽織って先に靴を履いた。その後から渋々着いて来たの手を取ると、途端に機嫌が直ってしまった。という女は面倒くさいが、御するのは簡単だ。

「江神さん、なに食べたいですか」
「何でもええよ」
「そういうのが1番困るんですよ」

選択肢が多い証拠だな、と江神は1人ほくそ笑む。リクエストに答えられない腕なら、レパートリーの中から最も無難なものを先回りして提案しているだろう。もちろん、ややこしい料理を要求するつもりはないのだが、否が応にも期待してしまう。

と付き合う事になって江神が唯一得した点であるかもしれない。

「じゃあ、見ながら決めましょうか。安くていいものがあったら、それ使いましょう」

は事も無げに言うが、そういう買い物の仕方で料理が出来るのは毎日きちんと自炊している事の証明だ。何も言わなかったが、江神は晴れ着がなかった事や隣に座らなかった事など全部チャラにしてやってもいいと思っていた。

少々暴走気味で、異様なテンションで江神を慕うだが、蓋を開けてみれば料理上手という隠されたオプションとは。という台風に巻き込まれてぐるぐると飛び続けているような感覚だった江神だが、思いがけない宝物でも拾ってしまったようだ。

のアパートから1番近い駅周辺にあるスーパーへと2人はやって来た。年中無休のそのスーパーは新年の飾り付けがふんだんに施されており、忙しなく客が出入りしている。2人は自動ドアをくぐって中に入った。

正月という事もあって、真正面には餅やら小豆やらが積まれている。その横をすいすいと通り過ぎるの腕を引いて、江神は立ち止まらせた。

「そういえば、雑煮食べてない。、雑煮がええな」
……料理ってほどのものでもないですね」
「そうかもしれんが、もう口が雑煮や」
「京都は――白味噌でしたか?」
「そう。それに大根、小芋、鰹節な」

越境者であるは、違ったスタイルの雑煮で過ごして来たのだろう。面妖な顔をしつつも、わかりました、と頷いた。江神は、作り方を知っているかと問いただしてもよかったのだが、敢えて失敗作を恐れず、の腕試しをしてみる事に決めた。

だが、その先から江神は慌てての手を止める。は、サツマイモを掴んでいた。

「芋っていうからてっきり…私の育った所ではサトイモと言うんですよ」

些細な事だが、大きく隔たりのあるエリアギャップに2人は吹き出した。雑煮で勢いが付いたのか、江神は煎茶と梅干し、結び昆布をカゴに放り込む。はおそらく知らないであろう、大福茶を作ってやるつもりだった。

「お雑煮だけでいいんですか?」
「おせちが欲しい言うたら困るやろ」
「そりゃ、1時間では出来ませんからね」

時間があればおせちも出来るか、と江神は舌を巻いた。実際のところ、の実家ではおせちなどは最低限の品目しか作らず、果たして江神の思うようなおせちであったかどうかは判らない。ただ、一般的なところで伊達巻や煮しめ、煮豆程度ならも作った事がある。きんとんは受験の息抜きと称して挑戦し、見事に失敗して以来再挑戦していない。

「そうだ、時間はあんまりないですから、煮込みものは無理ですよ」

それはそうだ。もうそろそろ4時半を回ろうかという頃合だった。雑煮と一緒に食べられるものを、と思案していた江神だったが、候補の半分以上を無駄にした。野菜売り場で2人して腕を組む事数分、結局かやくご飯に銀ダラの西京漬け――すでに漬けてあるものだが――という計3品に落ち着いた。

「なんだか普段の夕ご飯みたいですねえ、いいんですか、本当に」

は心配そうな目で見上げていたが、江神は充分満足だった。焼き魚に飯、味噌汁の代わりに雑煮、それを全ていくらか年の離れた子供のようなが作ってくれるというのだ。が料理をしている間、何をしていればいいだろう。手伝うと言ったら拒否されるだろうか。まるで一昔前の亭主のように新聞でも広げてこたつに入っていればいいだろうか。そんな事を考えていた江神は、身体のちょうど真ん中辺りがほんのりと暖かいような気がして、少し顔を赤くした。

銀ダラを選んでいるの後ろで江神がぼんやりしていると、品出しの中年女性が割り込んで来た。今から銀ダラの西京漬けが2割引きになると言う。パック詰めされた西京漬けにシールをぺたぺたと貼りつつ、の品定めに口出ししている。は勧められるままに1つ手に取り、江神に確認した。

「これでいいですか?」
「いや、俺はよう判らんから、いいよ、何でも」

熟練の主婦と言った風情の店員の前で、余計な事を言う事もあるまいと江神はそれだけ言うにとどめた。だが、今日の風はに良い方に向かって吹いているらしい。制服姿のおばさん店員はシールを貼る手を止めずに声を張り上げた。

「まあまあ、ご主人も一緒やの? ご主人、ええやないのこんな若い嫁さんに料理してもろてぇ」

おばさんは優しく微笑みながら爆弾を投下した。その勘違い自体、悪い気がするものではないが、江神は途端に真っ青な顔になった。こんな事を言われたら間違いなく、遠くから砂煙を上げてやって来るのだ。の暴走した妄想が。

「え、え、あの、私、その、いえ」

妄想が猛スピードで駆けて来るまでの間、はどう言い返せばいいのか判らなくなってあたふたしている。西京漬けのパックを掴んで真っ赤になっていると、逆に真っ青になって愛想笑いを浮かべている江神を残して、おばさん店員は「あら違うの?」とだけ言って別の商品にシールを貼りに行ってしまった。

そろそろ妄想がに追いつく頃だな、と感じた江神は、落ち着いた様子で先手を打つ。

……、落ち着けよ。きっと今のおばはんには、2人で買い物しとる男女、イコール、夫婦者いう発想しかないんや。おそらく、今のおばはんだけやないぞ、そういう風に見てしまうのは」

自分でもダッシュでやって来た妄想にぐるぐると取り巻かれているのが判るのだろう、はふらふらしながらもしっかりと頷いて江神の言葉を聞いている。だが、江神はふと考えを改める。が何の反応もなく夫婦ではないと否定し、受け流してしまったとしたら、少し寂しい気がした。

夫婦と勘違いされて、じゃあ本当に夫婦になったらこんな風に買い物をするのだろうかと妄想を始め、そこから方々に想像の枝を広げては自爆へと突き進んでこそだ。そう思うと、頭ごなしに叱り付ける気にはなれなかった。

……まあ、付き合う言うのも結婚ごっこみたいなものやろうな」
「江神さん……?」
「今はごっこで我慢しとけ」

新たな暴走の種を蒔かれたはずなのだが、はきょとんとしている。江神は、何でこんな事をスーパーで言わなければならないのかと少々肩を落としつつ、ぼそぼそと言った。

……お前がこの先何年も俺に飽きずにいたら、ごっこをやめたい思うたら、そう言え。その時に俺も同じように思うてたら、もろてやるから。いいか、お前から言うんやぞ。それから、こんな所で泣くなよ」

江神は、最後少しだけ厳しい言い方をした。は、その言葉を噛み締めつつ、大きく頷いた。もちろん付き合って1カ月も経たない間柄である2人の間で持ち出すような話ではない事くらい、判っている。だが、暴走しがちなの抑制のためとはいえ、ばっさりと否定の言葉で切り捨てるのではなく、そんな風に諭してくれる事が嬉しかった。

は、思う。

この胸に溢れそうなほどの想いを、大事に守ってゆこう。つまらない事に囚われないで、余計なものは切り落としながら、まっすぐに育てよう。毎年一緒に新年を過ごせるように、毎日でも2人でスーパーに買い物に来られるように、願いながら。そして、いつか自分から江神にプロポーズが出来るくらいに、素敵な大人になろう。

いつになったら言うてくれるのかと思てたよ。そんな風に言わせてみせよう。自分から言い切った手前、プロポーズできない事になってしまった江神を後悔させるような、そんな女になってやろう。

きりりと引き締まった頭に、妄想の影はない。はにっこり笑って江神の腕を取った。

「江神さん、後悔しますよ?」

江神は、いつになく落ち着いた様子のを見下ろして、柔らかく微笑んだ。

会計を済ませた2人は、ビニール袋をぶら下げながら手を繋いでスーパーの出入口に踏み込んだ。もうすっかり夕日が差している。早く帰って温かい食事を作り、一緒に食べよう。言葉にはしなかったが、2人ともそんな風に思いながら自動ドアをくぐった。

その時、真正面から突然聞き覚えのある声が飛び込んで来て、2人は足を止めた。

「あれえ、江神さん?」
――と、?」

なんと、2人の目の前に並んで立っていたのは、望月周平と織田光次郎だった。

メデューサの瞳を見てしまったように固まる江神と。その2人から数歩と離れていない距離にいる望月と織田の視線が、2人の顔から下り、吸い寄せられるようにして繋いだ手に止まった。冬休み中である現在、同じサークルの仲間であると、そのサークルの部長である江神が、スーパーの袋をぶら下げ寄り添い、1度組んだ腕でしっかりと恋人繋ぎである。

固まったまま動けない江神と。何と言葉をかけたものかと逡巡する望月と織田。

騒がしいスーパーを背景にしながら、双方の間に正月の風がそっと吹きぬけた。

END