花の春はそそと揺れ

03

正月の住宅街というものは本当に静かで、アパートであるの部屋にいても、まるで隣人などいないような気さえしてくる。たまに表の通りを車が走り去って行くが、外から聞こえてくる音といえばその程度で、あとは江神が煙草をふかしたり、コーヒーをすすったりする音だけが響いている。

だが、その静けさも手伝って、は既に限界を超えていた。先ほどから何度となく緊張を咎められるのだが、それは酷というものだった。江神の両足の間にが座り、引き寄せなおしたこたつに2人の足を突っ込む。ソファーベッドとこたつの間の距離は、江神との腹2つ分ぴったり。右手で煙草を吸ったりコーヒーを飲んだりするため、江神は左手でを抱っこしている形だ。

完全なる密着状態を少しでも緩和するため、は隙を見て前はに乗り出し、こたつの上に手をかけようとするのだが、その度に肩を掴まれて引き戻される。

「いやならそう言うたらええ」

晴れ着がなかった腹いせか、やけに意地悪な江神の物言いに反論できない自分が恨めしい。とて、この状況がいやかと言われればもちろんそうではない。だが、なにしろ付き合いたてほやほや、にとって江神はまだまだ近くて遠い存在。習うより慣れろなのだとしても、これではあまりにスパルタ教育だ。

そういうの心情を、江神は解っているのだろう。ゆっくり言葉を選んでを解している。

、ある意味では嬉しい事ではあるんやけども、リラックスしてもらえんのは寂しいもんやぞ」

煙草がなければ両腕でを抱え、優しく揺すりながら語り掛けている。まるで子供をあやしているようだ。

「離れて座ったり、会話もなくぼけっとするのはもっとずっと先でええやろ。第一、俺の話が聞きたい、気が向いたら好きって言え言うたのはお前の方やないか。それはこういう状況でするもんやないのか? 俺はそういうもんやと思うてたから、そうしたまでや」

江神の言いたい事は、もよく解る。でも身体がついていかない。緊張などしたくないのに、どうしても強張ってしまう手足に、鼓動に至ってはそろそろ止まってしまうんじゃないかという勢いでドクドクと鳴っている。

本当なら、江神の言うようにもっとリラックスして、他愛もない事を話し、笑い、冗談に突っ込んだり、ボケてみたり、そういうやりとりを肴にして2人きりの時間を楽しんでいたい。それはもちろん願ってもない事。ただどうしても身体が言う事を聞いてくれないだけなのだ。

「あの、ですね、それは私も、解っているんですが」

沸騰を知らせる薬缶のように、今にもピーと鳴ってしまいそうなほど真っ赤になりながらはぼそぼそと言い訳を始めた。緊張は如何ともしがたいが、これ以上面倒な女だと思われるのも不本意だ。

「どうしても、その、まだ日が浅いというか、慣れてないというか」
「今時珍しいうぶなタイプなんです言うわけか?」

の必至の陳情を江神は面白がっているらしい。の額を掴んでぐるぐる回しては静かに笑っている。

「いえその、そんなつもりはないんですが――じゃなくて、お言葉ですが、それは江神さんのせいで……
「なんや、人のせいか」
「そうです、江神さんだからこうなっちゃうんです!」

これ以上耐えられなかったは、掠れた薄っぺらな声で言い切った。

「たぶん、他の人だったらこんなに緊張しません……

それは、気が遠くなるほど、憧れていたから。眩暈がするほど、恋焦がれていたから。手の届く人だとは、夢にも思っていなかった。後ろから抱きすくめられる日が来るなどとは、想像もしていなかったから。現実は、あまりに甘くて目が眩む。

……、俺の話をしようか」

の限界を感じ取ってか、江神はゆったりと語り始めた。の両手を自分の両手でくるみ、時に撫でさすりながら、無音の午後を引き伸ばすようにして。

「嘘は、言わん。全部本当の事やから、場合によってはお前を不機嫌にさせてしまうかもしれん。けど、ちょっと黙って聞いとけ。たぶん時間が経てば変わっていく事やろうし、変わらん方がおかしい。だから、今だけの話や。もしかしたら、今日だけかもしれん」

そう前置きをして、江神はふうと一息ついた。は、黙って小さく頷く。それを確かめると、くるんでいた手を浮かせて、ポンポンと叩いて返事の代わりとした。

「実はな、忘年会の後、お前が変になるまではお前の事なんてこれっぽっちも好きやなかった。勘違いするなよ、嫌ってたとかそういう事と違うからな。単にアリスとおんなじように可愛い後輩でしかなかったいう事や。何も特別な意識とか感情は持ってなかった。
けどなあ、お前が変になってく理由が判って、正直困った。それは判ったけど逆にどうしてやったらいいか、全然判らんかった。大事な後輩やから傷つけたくないとは思ってた。けど、それと俺の気持ちとは別問題やろう?
お前の言うように、普段の俺はぼーっとしとるようで目ざとく色んなもの見てたんやろうと思う。自分ていうのはそういう生き物やと思うてたし、今でもそれは変わっとらんけど、それじゃどうにも解決しない」

ほんの数日前の出来事を思い出してか、江神はの背後で遠い目をした。

……真剣に考えたよ。理屈と違うから、上手く理路整然とした答えなんて出てくるわけがない。自分自身の答えはまるで見えんし、そうこうしている間にもお前は1人で切羽詰ってるし、かといって答えが出てない以上は余計な事も言えない。
卑怯や言われたな、あの時。あれは実際図星やったよ。もう、わけがわからんようになってしもうて、こんな事になったのはお前のせいやとか投げやりになって、うやむやにしてしまおう思ってな。たぶんお前も思ってたやろうけど、こんな事でEMCが居心地悪くなるのも嫌やったしな」

は、小刻みではあるがうんうんと何度も頷いた。同じ事を考えていた。同じ気持ちだった。悩む事の意味合いはだいぶ違っているが、EMCを、今までの江神との関係を壊してしまうくらいなら想いなど通じなくてもいいと思っていた。傍にいられなくなる事の方が、怖かった。

「手をはたかれて……驚いた。は、こんなに強い女やったろうかとちょっと怖かった。いつもアリスたちとふざけてニコニコしてるお前をこんな風にしてしまうような、そういう不用意な事を言ったからやと思って背筋が寒くなった。
そこでもう、何もかんも真っ白やった。自分で言った事に追い詰められてるお前を見てるのも嫌やったし、じゃあ実際俺はお前の事を受け入れる事が出来るのかってのは、やっぱり判らんかったしな。
そこで、お前が、言うたやろ。好きです、て。あれがスイッチやったんやな。
はなからお前の事が苦手とか、嫌ってたとか、そういうんなら話は別やけど、それはない。
……逃げられへんと思うたよ。
もちろんお前は真剣やったし、それは解ってた。とんでもなく真剣な顔してそういう事言われて、それが軽い気持ちとか、何か邪な打算があるわけやない事は最初から解ってたしな。
そういうお前の前から、逃げられへんし、逃げたらいかんと思うた。逃げたって楽になれるわけでなし、お前を苦しめて、後味も悪くて、いい事なんか1つもないわけやからな。
そんなら、逃げないで立ち向かってみよう、てな。
そしたら、何も変わってなかったわけや。お前は今でも可愛いEMCのメンバーで後輩だし、大事に思っとる事も変わりはないし、ただ……そうやな、妹みたいな後輩が女になってしもうたから、世界が180度変わってしまったというのかな。そん時、初めてお前の事好きやと思たんやと思う。
遅いとか、言うなよ。本当に、いきなりそう思うたんやから。
好きは好きやったんやろうけど、その意味が違てたんやな。妹に対しての好きと、他人の女に対しての好きは違うやろう。そういう事や。
お前に真正面から好きと言われて、初めてそれに気付いたわけやな。
けど、今、俺がお前を好きやと思うてる事が、本当に自分の答えなのかどうか、それは、判らん。後でどんな風に変わっていってしまうかも判らん。何があっても変わらんなんていういい加減な自信はないしな。
けど、たぶん、今はお前が俺を好きでいてくれるぶんだけ、俺も同じ気持ちでいられると思う。
この想いはお前に……にもろたものやからな。
やっぱり卑怯な言い方かもしれんが、俺が自己生産したものやない。
結局……こうやってひっついたりしてしまうのは、やっぱりお前のせいや。お前やから俺もこうなってしまうんやろな。自分でも自分らしくないと思うしな。
お互い様やな」

言葉を止めて、江神は小さく笑った。

「口にせんでも、の顔には色んな言葉が浮かんでくるからな。お前がいくら何も言うてないと頑張っても、俺にはお前がぶつけてくれる気持ちが判るよ。それがある以上は、隣に座れ言うし、ひっつこうとするやろうし、勝手にキスするんやと思う。
……なんのかんの言うても、それは結局好きや、いう事かもしれんけどな」

そこで突然、の洟をすする音が盛大に響いた。

「なに!?」

上手く纏まったと思っていた江神は、いきなり聞こえてきた音に大声を上げて驚いた。は、もうだいぶ前から泣いていたのだ。だが、それは嗚咽を伴うようなものではなくて、じわりじわりと身体の奥底を突き上げては涙となって目から零れるだけのものだった。

「お、おい、泣くな、なんや、何かまずい事言うたか」

の心と向き合っていると、こんな風に仰天して慌てる事ばかりだ、と江神は痛感した。それでなくても今は、上手く自分の気持ちを纏められたし、に解るように伝えられたと思っていたし、話しながら再確認する事も多かった。ああやっぱりの事が好きなんやろうな。そう思っている所に泣かれたら、慌てるのも仕方のない事ではあるが。

下ろしたてのこたつ布団を目一杯引き上げると、は顔をごしごし擦る。それだけでは足りなくて、両腕の袖でもぐいぐいと擦る。そして何度か深呼吸をすると、身体を捻って江神の方へと向いた。

……?」

私は何も知らなかった。江神さんの事、何も知らなかったんだ。今だって全部解ってるわけじゃないけど、江神さんの中に、こんなにも真摯で優しい想いがあるなんて知らなかった。

それを思い知るたびにの目からは涙が零れた。憧れの先輩はすぐ近くに在りながら虚像のようで、その中に心があるという事に現実感がなかった。脈打つ心臓を持ち呼吸する、生身の江神に初めて触れたように思える。そんな生身の江神は一生懸命の事を考えてくれている。

感謝などという簡単な言葉だけでは、の想いは表しきれない。どうしようもなく胸が締め付けられる。

ややこしいの想い、それはどんな風にすればちゃんと江神に伝わるだろう。
江神の心に応えるには、はどうすればいいだろう。

は真っ赤な目を閉じ、困惑している江神の唇を襲う。江神は、それを静かに両腕で受け止めた。

……もう、緊張してないな?」

自分から襲っておいて、まともに目を合わせる事が出来なかったは、江神の首に噛りついたまま頷いた。

「俺も悪かった。焦らんと、ゆっくり行こうな、

背中をさする江神の手に、はまた涙を零した。