花の春はそそと揺れ

02

昨晩のキスが効いたのかどうかは定かではないが、はぐっすり眠り、遅刻など出来そうもないくらいにきちんと予定時刻に目覚めた。頑として譲らなかったマフラーをだらりと肩に垂れ下げたまま、寝起きのは「へへへ」と笑った。

初夢の定義は諸説あって定かではないが、大晦日から元日にかけては夢を見なかった、または記憶にないにとっては今朝目覚めるまで見ていた夢が初夢といってもいいだろう。その初夢は、とんでもなく幸せな夢だった。

夢の中では、まるで嘘のようににべた惚れしているらしい江神と延々街を歩いていた。途中、様々な知人友人とすれ違うのだが、は全ての人に江神を自慢し、江神もそれを笑顔で聞いている。また、時折には見覚えがない人が声をかけてくるが、それは全て江神の知人友人らしく、信じられない事にを肩に抱いて嬉しそうに紹介するのだ。

ここまでくると、最早江神の顔をした別人という他ないのだが、それでもには大変楽しい夢であり、むっくりとベッドに身を起こして「ヘヘヘ」と笑ってしまう。垂れ下がったマフラーを両手でたくし上げ顔に押し付けるが、抑えきれない「へへへ」はしばらく続いた。

夢の余韻を多少引きずりつつも、は待ち合わせの時間に余裕を持って間に合った。江神を待つ間、夢のようにはいかなくても、せめて2人とも笑顔で過ごせればいいなと思っていた。だが、の前に現れた江神は、苦虫を噛み潰したような渋面をしている。

「あ、あれ? 江神さん……?」

挨拶もなく、の手を取りもせず、ただしかめっ面をしている。新年早々何か機嫌を損ねるような事をしただろうかと、は真っ青になった。だが、記憶がない。昨夜はあんなに甘いキスで別れたではないか。

おろおろしているに構いもせず、江神がぼそっと言った。

「なんで晴れ着やないんや」

ぴたりと動きが止まる

……はい?」

江神は腕を組み、新年早々不運な目にあったようなしかめっ面。はたっぷり間を置いてから、まずは確認に出た。

「あのですね、晴れ着でないのが、そんなにまずいのでしょうか」

が一語一句区切って問いかけると、江神は組んでいた腕を1度解き、腰に両手を当ててふんぞり返った。

「当たり前やろ。初詣行くのに彼女が着物やないとかありえん」
……
「楽しみ半減や」

江神はさも当然だといった様子で言い切った。

……何を言ってるんですか江神さん」
「何をって何がや」
「そんな事で機嫌悪そうにしてたわけですか」
「そんな事ってなんや」

は盛大にため息をついて肩を落とした。

「何をつまらない事で駄々こねてるんですか、私着付けなんて出来ませんよ」
「情けないなまったく、大和撫子はどこに行ってしもうたんやろな……
「江神さんだって着物じゃないじゃないですか!」
「男はええやろ別に。見たって面白くもなんともない」
「私は面白いですよ!」

今度は江神がぴたりと動きを止めた。肩を落としていたがぐいとふんぞり返り、腕を組む。先ほどとはまったく逆の構図だ。

「私は江神さんの渋い着物姿見たいですよ。そんなん見たら私メロメロですよ」
「め、めろめろ……?」
「暗い色のお召しに下駄とか履いてですね、片手に文庫本とか持ったりなんかしたらもう!」

は自分でも気付かない内にいつもの妄想を喋り始めた。公開妄想新春特別版だ。

「髪もそんなじゃなくてですね、ちょっと後ろに撫でつけたりしてですね、きちんと膝を揃えて正座して、灰吹きにキセルをカンカンと打ったりとかするわけですよ。それでですね、『おおい、茶を淹れてくれ』とか言ってですね、私ははいはいと従うわけです。そんなのいつでもかかってこいです」

江神はに文句を言った事を激しく後悔した。

「も、もうええよ、俺が悪かったから、落ち着け」

はうろたえる江神に勝ったような気がして、気分がよかった。この時の公開妄想を思い出して大暴れする事になるのは、もっとずっと後だ。それよりも、勝ち誇って気分がいい上に、江神の言葉を思い出して満面の笑みになった。

「当たり前やろ。初詣行くのに彼女が着物やないとかありえん」

彼女だって。江神さん彼女って言った。それにしても江神さん、私の晴れ着見たかったんだ。

へらへらと笑いながらは江神の腕を取り、2人はようやく初詣へと出発した。

「江神さん、着物であーれーとかやりたかったんですか?」
「あのなあ……
「一緒に着付け、習いますか?」
「その話はもうええ」

の妄想を誘発するような発言は今後控えなければと思う江神だった。

北野天満宮へは、のアパート近くからバスで行ける。バスを降りた2人は揃って南にある楼門をくぐり、境内に入った。正月とはいえ、受験シーズンも大詰め。参道はそれらしき若者と父兄でかなり混雑していた。

「江神さんも受験の時、来たんですか」
「神頼みしてる暇があったら勉強してたよ」

人ごみに紛れながらお喋りをしていた2人だが、重要文化財の三光門の向こうに国宝の社殿が見えると示し合わせたように黙る。賽銭箱の前まで来るとは江神の腕から手を離した。ごそごそと財布を取り出すと、は50円玉、江神は5円玉を投げ入れる。

ちらと隣を覗き見ただが、目を閉じて静かに手を合わせる江神に倣って、ぱちんと手を打ち合わせた。

ずうっとずうっと、出来るだけ長く、こうやって江神さんと一緒にいられますように。

相手は学問の神であるが、願う事といったら、にはそれしか思いつかなかった。もし昨年の状態のままで手を合わせたのだとしたら、江神に今より近づきたいと願っていただろう。それが現実になってしまった今、それが変わらず続いて欲しいという事以外は望むべくもない。

「江神さんは何をお願いしたんですか」

参拝を終えると、はまた江神の腕を取り、聞いた。江神が答えるわけはないのだろうという事は解っているが、つい口を滑らせたのならこっちのものだ。とまったく関係のない事でも、拝殿に向かって何を思うのかについてはとても興味がある。

「内緒」
「やっぱりそう来ますか」
「こういう事は言わんもんやろ」

涼しい顔をしてそう言う江神だが、わけもなくそっぽを向き、から目を逸らしている。はそれを自分に関わる事を願ったと勝手に解釈する事にした。事実がどうでも、にはそれだけでも充分だったから。

「しかし寒いな」
「じゃあ、温かいコーヒー淹れましょうね」

突然話をすり替えた事も、それを示しているに違いない。は1人で納得した。

江神を自宅に招き入れる。その事の重大さに改めて気付いたのは、アパートが見えて来てからだった。もちろん片付け掃除は済ませてあるし、見られてはいけないものも隠蔽済みだ。逆に、気付いて手に取ってもらって構わないものはわざとらしく放置している。例えば江神の勧めで読み始めた本などは、わざわざ位置を変えて目に付きやすい高さの棚に移動させた。

だが、そんな下準備を経てなお、恐ろしいほどの緊張が襲い掛かる。

緊張のあまり、バッグから鍵を取り出すのも苦労しつつ、はぎこちない声で「どうぞ」とドアを開いた。玄関でまごつかないようにとブーツを避けたが先に立ち、江神はその後からひょいと敷居を跨ぐ。

「ふうん、頑張って片付けたみたいやな」
「普段は汚いみたいな言い方しないで下さい」

江神のジャンパーを預かりながら、はべーっと舌を出した。慣れてしまうと、この程度の嫌味など逆に心地いい。が上手く切り返せば切り返しただけ、笑ってくれるのだから。

学生の1人住まいであるの部屋は、一応の1DK。ワンルームでもいいのだろうが、自炊したいにとっては、広めのキッチンが欲しかった。そこで学校からは距離があっても学校近辺のワンルームと同等の家賃の1DKにしたというわけだ。玄関を入ると両脇にバスルームとトイレがあり、キッチンと洗面所へのドアを挟み、奥に部屋がある。巨大な本棚が目に付く部屋は余裕の9畳。

元々きれいに使ってはいたが、水滴1つ残さずに片付け掃除しておいたキッチンでジャンパーを引っ掛け、先に江神を部屋に通した。タートルネックにVネックのニット、それに少し色落ちした黒のジーンズというシンプルな装いの江神の後姿に、は見とれている。

「ソファーじゃ寒いから、こたつ使ってくださいね」

一応本業は学生であるはずなのだが、の部屋には机がない。余裕の9畳部屋でも、仮にも読書好きであるから巨大な本棚は譲れなかったし、造り付けの収納には限りがあるからそのためのスペースも欲しい。そんなわけで、冬にはこたつに出来るテーブルを勉強にも食事にも使っている。

さらに、本棚に圧迫されがちな部屋を広く使いたかったはベッドも縦半分に折り畳めるソファベッドにして、9畳部屋を有効に活用している。なにしろよほどの事がなければ4年間過ごす部屋なのだ。出来るだけ快適に、かつ便利に使いたかった。

そんな部屋でに勧められるまま江神はこたつに足を入れ、ソファーのへりに寄りかかった。何も言わないが、まっすぐに前を見ているだけの様子を見るに、多少の緊張感は抱いているようだ。

「今、コーヒー淹れますから。あと、これ使って下さい」
「あ、すまんなわざわざ」
「いえいえ、我慢してもらうよりいいですから」

こっそり買い込んでおいた灰皿を差し出すと、江神は申し訳無さそうに手を掲げつつ、煙草を取り出して火を着けた。その灰皿が可愛らしいピンクの陶器であるところは目をつぶってくれるらしい。それにしても似合わないが、その似合わなさが逆に可愛い、とは思った。

は手早く2人分のコーヒーを入れ、カップをトレイに乗せる。もちろん江神のカップはが30分もかけて選んだ逸品だ。いつか私の部屋で江神さんが使う時のために。そう考えて忘年会の翌日には購入していたものだが、こんなに早く使う事になるとは。

「お待たせしました」

カップをこたつに乗せトレイを下げると、は江神の正面に座った。真新しいこたつ布団を引っ張り出し、足を入れる。もちろん、江神の足に当たらないよう気を配りながら。だが、当の江神は本日2度目の渋面でを見ている。今度は何だ。

「あのう、江神さ……
「学習能力のないやつやな、ほんまに」

はあ、と一息吐いて、江神は煙草を揉み消した。やっぱりは彼の言いたい事が解らない。

「真正面に座るやつがあるか、少なくとも隣やろう。こっちおいで」

これも昨年に続き2度目である。口を半開きにしたまま、は冷や汗をかいた。こたつを挟んで真向かいでも充分に距離が近いのに、近くに座れという。それでなくても自分の部屋に江神がいるという緊張で目一杯になっているは、目を回しそうだった。

叱られに行く子供のようにのろのろと立ち上がり、ここまでが限界という距離まで近づいては膝を落とそうとした。その瞬間、江神は足を突っ張ってこたつを押しのけると、の手を引いて自分の両足の間に座らせてしまった。その上、肩を掴まれてぐるりと前を向かされる。あとは江神の腕がの腹に回れば無事、〝後ろから抱っこ〟の完成である。

「え、江神ふぁ」

座ろうとしていた距離でさえ限界だと感じていたは、もうとっくに頭がショートしている。燃えるように熱い目にぐるぐると視界が回り、肩にストンと落ちてきた江神の顔に当たって頭が固定されてしまうと、とうとうは顔を真っ赤にして固まってしまった。ついでに呂律も回っていない。

「正月早々、世話の焼ける」

そう言って江神はふふんと笑った。