セブン・ワンダーズ [神]

神と私だけの秘密はそこそこ長い間保たれていたし、むしろそのせいで私と神の距離が縮まることになった。何しろ横丁の前は私の通学路だし、そこに入っていく神を何度も見かけたくらいだから、狙わなくても遭遇する確率は高い。

ええと、実に「木綿のハンカチーフ」は8回を数えます。

だけじゃなくて、そんなことを繰り返してたもんだから、私は昭和の歌のレパートリーがどんどん増える。この間なんかとうとう名前も知らない小父さんと「男と女のラブゲーム」を歌ってしまい、後で恥ずかしくなって3日くらい落ち込んでた。神は笑ってたけど、それが逆に後ろめたい。

しかもそういう時は毎回送ってもらっちゃって、友達としてはとてもいい感じで仲良くさせてもらってるわけなんだけど、それはほら、生殺しってやつじゃない? 好きになるなっていう方が無理があるよ。

ただでさえすごい活躍してるバスケ部で、しかも神は今の3年が引退したら主将になっちゃうらしいし、そういう意味ではすごく近寄り難かった。だけど、こうやってたそがれ横丁にいる神とか、送ってもらって帰る時の神はちっともそんなことなくて、優しくて、楽しくて――

私はそれはもう平凡というか平均値というか、今年の担任はお前らは自己評価が低すぎるって怒るけど、神みたいなのと比べたら自信なんか持てないし、ましてやそれが恋愛ならなおさらじゃない?

だから秘密を共有してるだけで満足しなきゃって、ずっと考えてた。彼女でもないのに送ってもらえるだけでも有り難いって思わなきゃ。カウンターで並んでご飯食べられるだけで、もうそれ以上のことなんか――

それが苦しくなってきた秋頃のことだ。部活もないのでさっさと帰ろうとした私は、正門を出ようとした所で足を止めて固まり、同時に血の気が引いて寒気がした。トクさんがうろうろしてたからだ。

やばいどうしよう逃げなきゃ、なんでこんなところにいるの、なんて考えてる内に、トクさんは私を見つけてヨロヨロと駆け出す。正門付近にいた生徒たちがサッと身を引いて避けていく。そうして、どうしたらいいかわからないせいで逃げ損ねた私は、あっさりトクさんに捕まってしまった。酒臭い!!!

「宗ちゃん、宗ちゃんいるか」
「お、小父さんどうしたのこんなとこまで」
「宗ちゃんクラブやってるんだろ、どこでやってるの」
「ごめん小父さん、私、神くんがどこでクラブしてるのか――
「カズちゃんが倒れたんだよ、宗ちゃん病院連れて行かなきゃ」
――え!?」

なんとかしてトクさんを追い返さなきゃ、神があの横丁やこんな酔っ払いと関係があるなんて知られたらマズい、そう思って必死にはぐらかそうとしてたんだけど、トクさんはとんでもないことを言い出した。カズさんは神の伯母さんだ。倒れたって何!?

「小父さん、カズさんどうしたの、倒れたって何があったの」
「店の前で倒れてたんだよ、オレが見つけてさ、隣のマーさんに教えてさ、救急車でさ」
「小父さん、病院てどこ? カズさんどこの病院にいるの!?」

私はトクさんの腕を掴んで大きな声で聞いた。トクさんはモゴモゴ言いつつ、横丁の最寄り駅近くにある総合病院の通り名を口にした。私はトクさんをその場に置き去りにすると、反転して走り出した。そして、猛ダッシュで体育館に飛び込んだ。中では校内一実績があって体育館独占してるバスケ部が練習中。

「神! 大変、小母さんが倒れた!!!」

突然部外者が飛び込んできただけでも驚いていた部員たちと監督は、私が挨拶もせずにそんなことを叫ぶものだから、ポカンとしてた。だけど神はサッと顔色が悪くなって、隣にいた子にボールを手渡すと走ってきた。

「倒れたって何!?」
「今、正門のところにトクさんが来てて、カズさん倒れた、救急搬送されたって言うから」
「きゅ、え、ど、どうしよう」
「マーさんが一緒に行ってくれてるって」
「神、どうした」

私と神がおろおろしてるので、監督がやってきた。ちょっとコワイ。

「すみません、今親が留守がちなのでほとんど伯母と生活してまして」
「ああ、例の横丁のか。倒れたって、大丈夫なのか」
「わ、わかりません、知らせてくれた方がその、いつも酔っている方で」

監督に問われた私もしどろもどろだ。トクさんを見てもらえれば話は早いんだけど……

「わかった、神、早く帰れ」
「す、すみません、、病院て――
「あ、駅前の総合病院だって」
「ああだけどトクさんいるんだよな、どうしよう」
「そんなのいいから、私が連れて帰るから早く」
「だけどお前ひとりじゃ」
「いいから早く!!!」

狼狽えてる神がグズグズ言うので、私はつい大声を出して神の背中を押した。神はごめんと言い残して体育館を出て行った。それを見送った私もまた駆け出す。トクさんを放置しっぱなしだ。

案の定トクさんは正門の辺りでうろうろしては、帰宅したい生徒たちに避けられていく。まあしょうがないよね、前歯ないし、目は濁ってるし、手が小刻みに震えてるし。私はげんなりしつつ、覚悟を決めてトクさんのところまで走って行く。

「おじさん、宗ちゃん病院に行ったよ。だから帰ろ」
「そうかそうか、うん、帰ろう」
「フミさんに声かけてきた? マーさんに宗ちゃんの学校行くって言った?」
「言ってないよ、マーさん救急車に乗っちゃったし」

トクさんはいつでもひどく酔っ払っているので厄介だけど、乱暴だったり触ってきたりはしない。いわゆる独居老人だから、遠縁に当たるゲート近くの店のフミさんという人がなんとなく面倒見てる。私は意を決してトクさんと手を繋いだ。引っ張って行かないとどこへ行くかわからないから。

トクさんが悪いわけじゃないんだけど、私はなんだか悲しくなってきて、目が熱くなった。好きな人と手を繋いだこともないのに、こんな酔っ払いのおじいちゃんと手を繋いで帰らなきゃいけないなんて。だけどカズさんがどんな状態かもわからないし、このまま知らん顔してトクさんを残していったら後で神がなんて言われるか。

校内に侵入してきた不審者であるトクさんを見るみんなの目は冷たい。それと手を繋いで歩いて行く私を見る目はもっと冷たい。だけどこうするしかなかった。他にこの場を取り繕う方法なんて、思いつかなかった。

神の伯母さん・カズさんは、ひどい更年期障害に悩まされていたらしい。症状はひとつではなくて、漢方なんかで誤魔化してきたらしいんだけど、この日はたまたま血圧が急降下してしまい、店の前でばったりと倒れた。そんなわけで、転倒した時に手首を捻挫しちゃったことを除けば、大変な病気とかではなかった。

ついでにカズさんは早くに旦那さんを亡くしてて、ひとり息子は遠くで働いてて、やっぱり近い親戚は神の家族しかいないっていうのに、神の両親はどちらも仕事で関東にすらいなかった。だから神がすぐに病院に行かれて本当によかった。

私の方も大変だった。酔っ払いを横丁まで引きずって帰るのに時間がかかったし、トクさんは挙動がおかしいし、酒臭いし。だけど、何とか横丁まで連れて帰ってきたら、横丁にお店を出してる小母さんたちが待ち構えていて、すぐにトクさんを引き取ってくれた上に、よく連れて帰ってくれたね、っていっぱい褒めてくれた。

何しろカズさんが倒れたと思ったら、それを最初に見つけたトクさんが行方不明になっちゃったので、事件性を疑ったらしい。トクさんがカズさんに何かするとは思えないけど、もしかしてトクさんはカズさんを襲った犯人を目撃したから消されたんじゃ!? ――みんな2時間サスペンスが大好きだからね。

で、海南からひとりでトクさん引っ張って帰ってきたなんて偉かったね、というわけで、私は横丁のお店でフルーツだの水ようかんだの乾き物だののおやつ攻めにあっていた。そこに神から連絡が入った。カズさんは一晩入院だけど大丈夫、これから戻る、横丁にいるなら「みくまり」で待ってて――

カズさんが倒れた時のままだったから、「みくまり」は向かいの板さんがずっと見張ってくれてた。なので私は神が来るからこっちで待ちますって言って、店の中に入った。しんと静まり返った「みくまり」の中はやっぱり出汁のいい匂いがしてて、私はカウンターに座ると、腕を置いて、顔を埋めた。

色んな人に色々見られちゃって、大丈夫かな。神、困ったことにならなきゃいいんだけど――

しばらくすると、キーッていう自転車のブレーキの音が響いて、神が飛び込んできた。

、大丈夫だった!? トクさんは!?」
「大丈夫大丈夫、帰ってきたら小母さんたちいっぱいいて、後からフミさんも来たし」
「いやトクさんはどうでもいいって、は? 何もされなかった? 怖い思いしなかった?」
「えっ? ああうん、ちょっと時間かかったし臭かったけど、そういうのは何も」

そんなの神だって知ってるはずなのに。私はちょっと首を捻る。

「本当に、本当にごめん、オレ何も考えてなくて、深入りさせちゃいけなかったのに」
「え、ちょ、なんでそんな謝るの、平気だって」
「そうじゃなくて、ごめん、黙っててごめん、トクさん、前科があるんだ――

静かな店内からすうっと音が消えていく。神はカウンターに手をついてがっくりと項垂れている。

「トクさん、昔は腕利きの職人さんだったらしいんだけど、娘さんを亡くしてるんだ。そこからちょっと1本ネジが外れちゃったみたいで、もう何十年もあんな感じらしいんだけど、前に、娘さんによく似た女の子を連れて帰ろうとしちゃったことがあって――

神は苦しそうな顔、してる。だけどなんかそれおかしくない? 神が誘拐未遂したわけじゃないじゃん。

「そういう人がいる場所なのに、トクさんが勘違いしそうななんか遠ざけなきゃいけなかったのに」
「べ、別にそれ神のせいじゃないでしょ、私だって――
「だけどオレが二度と来ないでって言えば来なかったろ」
「それはそうだけど、でも私ここで楽しかったし、トクさんは面倒くさかったけど、私、なんとかしようって」

お前なんかここにいなければよかったのに。そんな風に聞こえちゃったんだ。神がそんなこと言うはずないの、わかってるのに、頑張ってトクさん連れて帰ってきたのに、私いない方がよかったのかなって思ったら、つい泣けてきちゃって。神の力になりたかっただけだったんだよ。

「わ、ちょ、、その、泣かないで!」
「ごめん、神が嫌ならもう二度と来ない、ごめんね」
「えっ、そんなこと言ってない、危ない目にあったかもしれないのにごめんって、なあ
「平気だもん、もうトクさんと手繋いで帰って来ちゃったもん、男の人と手を繋ぐの初めてだったけど、私」

結局、私はそれが1番ショックだったわけだ。トクさんなんかおじいちゃんだし、男の人っていうほどじゃないのは頭ではわかってる。だけど、それがどうしても残っちゃった。神が悪いわけじゃないのに、私はついそんなことを口走った。

「あああ、マジか、可哀想に、ごめん、ほんとにごめん」

神がオロオロして私の肩を擦ってくれるから、それがトドメになって私はまた口が滑った。

「ほんとは神と手繋ぎたかったけど、でも平気だもん」
「え」
「トクさんの手なんかガッサガサだったけど頑張って脳内変換して」
「ちょ、ちょっと待って!」
「はっ」

後の祭って、こういうことを言うんだろうなあ……。神に肩をガクガク揺すられて我に返った私は、だけど自分で言ったことは全部ちゃんとわかってて、血の気が引くのと顔が熱くなるのが同時にやって来て、つい肩にあった神の手を勢いよく払い除けちゃった。神もポカンとしてる。

「気に、しないで、もう、来ないように、するから」
……無理だよ」
「ごめん、ほんとにごめんなさい」
、そうじゃなくて」

俯いてた私の手を神がそっと取って、緩く握り締める。え、何で?

「最初、伯母さんには『こんな飲み屋なんだからあんまり連れてきちゃダメよ』って言われてたんだ。オレもその方がいいと思ってた。だけど、何か楽しそうだったし、そういう見てるとオレも楽しくて、家に帰っても誰もいないから、が一緒にいてくれるのが、嬉しくて、つい」

顔を上げると少し照れてる神がすぐ目の前にいて、私は頭がぼーっとしてきた。

「今日のことも、がいなかったらどうなってたかわからない。トクさんのことは申し訳なかったけど、がいてくれてよかった。感謝してる。だからってわけじゃないんだけど、その、オレも手、繋ぎたい」

もう繋いでる。ふたりして繋いだ手にちらりと目を落として、次の瞬間には私は神にふわりと抱き締められてて、また思考停止。さっきまで鼻にこびりついてたトクさんの超臭い酒の匂いが全部飛んで行く。神てばシャワー入ったわけでもないのに、なんでちょっといい匂いしてるんだろう。

が怖くなかったら……これからもここに来てくれないかな」
「怖くない、平気、もう何も怖くないから平気」

トクさんと手を繋いで歩いちゃったもん、もう何も怖いことなんかないよ。

翌日、学校では私たちのクラスの担任と学年主任とバスケ部の監督による尋問が待ってた。まあそうだよね、昨日の不審者トクさんについては噂が先行して色んな憶測が飛んでるらしいし、先生たちも誰一人としてきちんと「たそがれ横丁」のことは把握してない。監督がちょっと知ってるだけ。

だけど、話はとても簡単。先生たちは私たちが危ないことをしてるわけじゃないって、すぐにわかってくれた。その上で神がトクさんの身の上話をしたり、カズさんの容態を説明したりしてた。

私と神が付き合い始めたことは噂の訂正と共にじわじわと広がって、だけどなぜか今度は私が横丁でキャバ嬢やってるって話になっちゃって、神が怒ってカリカリしてた。あ、今は宗ちゃんて呼んでる。

けど、2週間ほどしてそれがほぼ現実になっちゃった。私は大事を取りたいカズさんに頼まれて「みくまり」でアルバイトすることになった。「みくまり」はふだん2時くらいまで営業してるらしいんだけど、私は一応22時まで。もちろん宗ちゃんもその時間まで一緒。

アルバイトしてるからって酒飲んだりはしないし、実態は調理補助なんだけど、自分が倒れた時のことを全部聞いたカズさんは、ちゃんと学校に話しておきなさいって言い出して、私と神てば素直だから、ふたり揃って尋問3人組に報告したんだよね。カズさんが本調子じゃないから、がアルバイトします、って。

そしたらどうなったと思う? 3人が飲みに来ちゃった。

「そりゃ、誤解されるよりはいいけどさ……
「あんまり楽しくない光景だよね」

カズさんや常連さんたちと楽しく飲んでる先生たちを見ながら、宗ちゃんと私は苦笑いが取れない。

「だけどこれで学校も公認だもんな。、ずっとここでバイトしなよ」
「いいけど……宗ちゃんも親が戻ってもここに来るの?」
がいるならそうする」

カウンターの下でそっと手を繋ぐ。もうふたりだけの秘密じゃなくなっちゃったけど、私は宗ちゃんもこの横丁も好きだし、カズさんに料理教えてもらったりして、本当に楽しい。てか料理はお母さんも一緒に習ってる。

「ほらほら、いつものやってやんな」
「え!?」
「なんだなんだ、歌うのか!?」
「いよっ、ー!」
頑張れ……

そしてまた今夜も、私の「木綿のハンカチーフ」が「みくまり」に響き渡るというわけです。

END