千代子、八重子と連れ立って、は箱根にやって来た。
彼氏は歯を食いしばりすぎて今にも奥歯が砕けそうな勢いだったけれど、たかが1泊2日、普段だって何も同棲しているわけじゃないのだし、大袈裟だなあと思いながらは藤真家を後にした。
このたびの温泉旅行は千代子八重子たっての希望で以前から計画されており、「姫受験おつかれしっぽり温泉旅行」というタイトルが冠されている。どうやら姉ふたりはと一緒に温泉に浸かりたいようで、部屋に露天風呂がついているゴージャスな宿をリザーブ、観光はほどほどにして宿にこもる計画のようだ。
ちなみに今回の旅はの受験生生活を労う意味もあるので、費用は完全姉ふたり持ち。一応もお小遣いは持ってきているけれど、みやげでもなんでも買うたるから安心せい、と事前に言われている。
ついでにの家族に対しては千代子が仕事モードの装いで、しかも夜、父親が在宅のときに訪ねてきて許しを求めたので、その場で許可が降りた。そのせいでの両親が若干険悪になったけれど、普段の母親は娘の彼氏が美少年だと喜んでるタイプなので、引き分けということでいいだろう。
そういう前提があるので、も特に何を見て回りたいと主張するつもりはなかった。一応1日目のランチまでは箱根の町を散策し、その後チェックインの予定である。それに、3人とも地元神奈川生まれ神奈川育ち、箱根旅行は初めてではない。何が何でも観光! という気もなかった。
まあ正直言えば関所跡とか早雲寺とかドールハウス美術館とか見て回りたいのが本音ではあるが、そういう個人的な楽しみに姉ふたりを付き合わせたいとは思わなかった。歴オタですからそういうのはひとりでやります。
千代子と八重子はふたり揃って背がとても高く、その上好んでハイヒールを履くので、外では余計に高くなる。正確な数字はも知らないけれど、凶悪な角度のヒールであれば、藤真と大差なくなる勢いであり、そのふたりの間に挟まれるとは捕獲されたリトル・グレイである。
しかし最近そんな「間に埋もれたお子ちゃま」ポジションに対してちょっと抵抗を見せたくなっており、クラシカル装いのはだいぶヒールの高いブーツを履いてきた。いつもよりちょっとだけ目線が近い! そんな気分でタクシーに乗ったはランチに連れて行かれて白目になった。なんだこの高そうな店。
の滞在費を持つ、と言ってもふたりで折半できる上、自分たちのセレクトで連れ回すわけなので、姉ふたりは遠慮がない。昼から鉄板焼きのランチコースに突撃し、どうしようこんな高そうなところとが目を回しているのを楽しそうに眺めながらシャンパンを飲んでいた。
「別に私たちが好きでやってんだから、気にするこたないのに」
「だからって……」
「文句ひとつ言わずに付き合ってやってんだからもてなしなさい、くらいでいいんだって」
「それ千代子姉さんでしょ」
若干震える手でサラダを口に運びながら、はちろりと千代子を睨んだ。なんだかサラダですら味覚の暴力に襲われるほど美味いのだが、しかし緊張が先走ってじっくり楽しむ余裕がない。
「まあ、いきなりこれはやりすぎたか。姫んち、こーいうとこあんまり来ないんか?」
「あんまりっていうか、来たことない」
「えー、そうなん!? 高校生くらいから慣れておくと後々楽なんだけどなあ」
家は、贅沢な楽しみは大人になってから自分で働いた金で行け、という主義である。なのでおそらく父と母はふたりでなら高級店に行くこともあるのかもしれないが、とりあえずそれをに言わないし見せないし、家族で外食はファミリー向けの飲食店に限られる。廻る寿司が多め。
「でもそうか、姫、カフェすらほとんど入ったことなかったもんな」
「それはほら、お小遣い少ないのと、カンナちゃんが」
「ああ、例の健司の天敵」
藤真の天敵、通称巴御前ことカンナちゃんはと同じ歴史部であり、その歴史部の創設者であり、を大層可愛がっており、完全なる異性愛者だというのにを倒錯的な言葉や振る舞いで翻弄してきた人物だが、これがとにかく都会的でオシャレ感のあるものが大嫌い。カフェチェーン店すら嫌がった。
「まあ、駅前のカフェなんかだと客も鬱陶しいの多いからな。それはわからんでもないけど」
「お弁当作って行って公園で食べたりするのも楽しかったんだよ」
小遣いやバイト代で細々と活動を続けていた歴史部なので、フィールドワークと称したおでかけのあとは、事前に調べておいた場所でピクニック状態で昼を済ませることがほとんどだった。だがにとってはそれも楽しい高校生活の思い出だ。カンナちゃんは春から京都の大学へ進学する。
というかが藤真と付き合い始めてしまって以来カンナちゃんは距離を置き始め、受験シーズンに突入してからはメッセージのやりとりも絶えてしまった。その上卒業式には藤真と手を繋いで校門のあたりにいたが声をかけると、無視して立ち去ってしまった。
その時藤真は勝ち誇った顔をしていたが、は正直寂しかったし、同じ歴史部の仲間たちも快く思わなかったけれど、高校生活は終わってしまったのだ。気持ちは過ぎた日々に置いてこなければ。
「じゃあ本来的には姫はこーいうの嫌いじゃない?」
「嫌いも何も、知らないから……」
「うんうん、知りもしないことを『あーいうの嫌い』と言わないところは偉いぞ姫」
「よしよし、おねーさんたちが色んな所連れてったるからな、色んな所」
シャンパン一杯ではどう考えても足りない様子の千代子と八重子はニヤニヤしながら頷いている。
「てかそれだよ、今後の姫の可能性の裾をドバっと広げるためにも今夜は語り明かそうではないか」
「受験でしばらく時間取れなかったしな。一晩くらい寝なくたって死にゃしねえし」
「マジで今夜は寝かさねえぞ姫、風呂でも布団でも可愛がってやるからな」
姉ふたりはケタケタと笑っているが、は内心「カンナちゃんと離れてもそれほど違和感ないのはこのふたりがいるからだな……」と納得した。とはいえ、カンナちゃんが要するに厨二病の亜種であるのに対し、姉ふたりは意図的な悪ふざけで基本的にはマトモな社会人なので、がカンナちゃんの呪縛から解き放たれて千代子と八重子にコロッと懐いてしまうのは無理もない。
今もこんな小汚い言葉で喋っていたわけだが、サラダの皿を下げに来たスタッフにはゆったりと微笑んで会釈をする。スタッフは女性だったが、ウッと喉をつまらせて手が少し震えたのをは見逃さなかった。特に八重子は少し男性的なので女性がクラリとなりやすい。
ま、気持ちはわからないでもない。
豪華なランチに大満足の姉ふたりに連れられたは、そのままピカピカでラグジュアリーでリッチな宿に連れ込まれた。そりゃあ個室に露天風呂と言っていたから鄙びた安宿ではないとは思っていたけど、まさかここまでとは、というレベルでは頑張って口を閉じていた。気を緩めるとパカッと開きそうだ。
隠しきれない緩みを口元にたたえたスタッフに案内されて、3人は本日の部屋へと通された。リビング、ベッドルーム、和室、ウッドテラス、そして露天風呂。それぞれ広々としていてまたは驚き、しかしもう姉ふたりしかいないので、感嘆の声をあげた。すごい!
「いやー、やっぱここにしてよかったな千代子」
「おいおい、内風呂もあんじゃん。、こっちも使っていいからな」
「うんうん、露天風呂広くていいねえ。全員で入れるわ」
「おっ、浴衣もいい柄行じゃん。うちらはちょっと寸足らずだけど、にはいいねえ」
浴衣を手にした千代子と、それを聞いた八重子はの方を見てにやーっと頬を緩めた。は「あ、これ脱がされるな」と直感した。というか姉ふたりにが服を脱がされるのは初めてではない。
「男物着ちゃえば?」
「八重子はそれでもいいかもしれんけど私はなあ〜」
「いいんじゃねえのパンイチでも」
またふたりはケタケタ笑っているが、本当にパンイチをやられると目のやり場に困る。というか酒が入って浴衣を脱ぎだすふたりが想像に難くなかったので、はそんなこともあろうかと……と荷物の中から包みをふたつ取り出した。ふたりへのプレゼントだ。
「え!? なによこれ」
「受験の時もいっぱい助けてもらったから、お礼に。よかったら今日使って」
「な、なんだと、姫が私らに……」
突然の贈り物に狼狽えた千代子と八重子がその場で包みを解くと、てろん、とした生地のベビードールが出てきた。千代子は白、八重子は黒。どちらもセクシーランジェリー専門のネットショップで買ったものなので、だいぶ攻撃的なデザインになっている。
「で、ふたりだけそれで私が浴衣だと嫌かと思って、自主的に用意してきました」
姫が着てるところ見たぁい、と言われると困るので、は自主的にセーフなものを同じ店で見繕ってきた。メイド服である。というかふたりへのプレゼントを選んでいたらメイド服が目に入り、しかも想像以上に安かったのでつい一緒に買ってしまったというわけだ。ちょっとばかりセクシーだけれど、それはまあ、後日再利用してもいい。メイドが好きかどうかは聞いていないけれど、クラシカルが好きだったのだから、まあイケるだろう。
千代子と八重子はベビードールを手にしたままわなわなと震え、そしてメイド服を体に当てて見せているに飛びついてベッドの上に押し倒した。推定180ちょいの藤真と比べると、おそらく176センチ位は余裕である様子のふたりなので、圧力がハンパない。主に胸部の圧力がすごい。
「マジでありがとう、なんなのあんたほんとに可愛い」
「やばい泣きそうあんたほんとに健司の代わりにうちの子になりなよ」
健司と結婚して、ではないあたり、お姉さまたちも大概である。
「あの、だからその、これからもよろしくね」
「そんなん決まってんだろ!!!」
「こちらこそよろしく!!!」
は両頬に顔がひしゃげるほどのキスを食らって思わず呻いた。
チェックイン後、夕食まで少し休憩かな、近所を散策とかかな、などと考えていたはまた口をあんぐり開けていた。ふたりは館内施設であるエステサロンを予約していた。
もちろんエステなどは初めて。マッサージすら受けたことがなく、若干ひ弱な印象を受ける割に病気らしい病気もしたことがなく、そういうわけで、実に背中だの腿だの、そういう箇所の素肌を家族以外の他人に触られるのは千代子と八重子を除けばこれが初めてだ。藤真もまだ。まだです。
最初は緊張でガチガチになっていただったが、スタッフのお姉さんのゴッドハンドにとろとろに溶かされ、全身が緩んだところで警戒心がなくなり、千代子と八重子が別室だったせいもあって、彼氏の姉と旅行なのだとペラペラ喋ってしまった。
「まあまだ高校出たばかりでしょうけど、彼氏とは行かないの?」
「ええと、忙しくて、あんまり時間取れないんです」
「あら失礼しました、もう社会人の方だったの?」
「いいえ、同い年です」
「今春休みなのに忙しいの?」
ゴッドハンドのお姉さんは口を挟むタイミングも完璧だ。は気持ちよく口が滑る。
「彼、バスケット選手なんです。国体にも出たんですよ。すごい選手で、もう大学で練習してるんです」
あまりの気持ちよさによだれを垂らしながらはツルツルと口を滑らせてあれこれ喋った挙句、最終的には、寝た。そして施術が終わって姉ふたりと合流すると恥ずかしさのあまり真っ赤になっていた。なんか人様に話すようなことではないことまで喋ったような気がする。
「エステ怖い自白剤飲まされたみたい怖い」
「なんだよ、姫は気持ちよくなっちゃうと理性が吹っ飛ぶタイプか」
「なんだそれ吹っ飛ばしてえな」
「姫、大学では酒に気をつけろよ」
エステで緩みすぎたので、3人は部屋で横になっていた。は春休みだが、姉ふたりは普通に仕事をしていて、この旅行のために休みを取っただけなのでそこそこ疲れている。温泉宿は静かで、エステに緩んだ体に睡魔が襲いかかる。特にはエステで一度寝ているので、その余韻で既に目が半開きだ。
「ディナーは7時、少し寝るか〜」
「千代子姉さん、八重子姉さんもう寝てる」
「まじか。んじゃ姫はここおいで」
八重子がソファで沈没してしまったので、千代子はふたつあるベッドにをいざなって身を投げだした。は言われるままにベッドに横たわると、一瞬で眠りに落ちた。しっかりと体を受け止めるスプリングに優しい肌触りのファブリック、そしてふんわり軽い羽毛布団には逆らえなかった。
3人はぐっすりと眠り込み、6時半頃になって千代子がセットしておいたタイマーの音で目を覚ました。
「それではメシです。酒です」
「オホン、それでは、の合格祝い、そして新たな門出を祝いまして、乾杯!」
豪華な料理よりも早く酒を飲みたくてウズウズしている様子の姉ふたりは、千代子の乾杯の言葉で一気にシャンパンを飲み干す。はオレンジジュース。
姉ふたりは酒豪だが何よりアルハラを嫌っていて、酒好きとしてそれが許せないという主義である。なのでは飲みたいと言っても飲ませてもらえない。受験が終わった直後に藤真家で八重子の料理をごちそうになった時、グラスの中のシャンパンがあまりにきれいなので飲んでみたいと言ったところ、怒られてしまった。
本日のお飲み物はシャンパン2本とワイン1本、そして地酒。予め別注している。
「ああああ……染み渡りますな……」
「うまい飯と酒、静かな宿、姫と3人しっぽり温泉、たまらんな」
「茶碗蒸しおいしい……」
この3人、一見特にこれと言って共通することはないように見えるが、とにかく自由だ。やっと酒が入って上機嫌の姉ふたりだが、はひとり料理を突付いて感動している。ご飯美味しい。というかこのの自由が加速したのは姉ふたりと親しくするようになってからだ。
それも、姉ふたりが自由だから真似しよう! ではなく、姉ふたりの一挙手一投足にいちいち付き合っていたら疲れるだけなので、自然とフリーダム化してきた。本人たちは「これが主体性を育てる近道だ」とふんぞり返るが、弟は汚物を見るような目で見ていた。
「てか私らはこうやって旅行にも来られたし普段からたまに会ってるけど、どうなん」
「うーん、春休みくらいは時間あるかなと思ったんだけど、想像以上になかった」
「あの野郎ひとり暮らしするとか下心見え見えなんだっつーの。親父も甘いよな!」
「あいつ隠れ家がほしいだけだろ、どうせ」
うっかりスポ根を仕込まれ、期待を裏切らない成長を見せた姉妹はその元凶である父にも厳しい。
「でもこれで姫もやっと大人の階段登るわけだ。初エッチは詳細よろ!」
「やだ」
「何だと! このやろ最近反抗的だよな姫。一体どういう心境の変化だよ」
「それはふたりのせいです」
「アアア――!」
心当たりがありすぎるので姉ふたりは額に手を当てて仰け反った。に主体性が生まれるのはいいが、つまりそれは藤真がガッカリするようにがオドオドしたコミュ障から脱却することをも意味する。いつまでもさなぎでいて欲しい気持ちと成長を願う気持ちでふたつに裂けそうだ。
「てか『姫』もやめてって言ってるのに」
「そりゃあがしばらく健司のこと王子って言ってたのと同じだよ」
「そっ、それはもう忘れて!」
「王子様だったんだよなあ」
一転ニヤニヤし始めたふたりはぐいぐいと酒を煽る。チャンポンで数瓶開けたところで顔色ひとつ変わらないのでまだまだ素面のうちだ。は自身の黒歴史に悶えつつ、背を伸ばしてふんと顔をそらす。
「今でも王子様です!」
「王子様の中には狼が隠れてるかもしれんよ〜」
「平気。ワンコだと思えばかわいいもん」
「ワンコ! あいつそれっぽいな! やべえウケる! 甘ったれで単純だしよ!」
が姉に感化されていけばいくほど、藤真がぐいぐいと手を引いていただけの関係性には変化が生じ、甘えん坊のワンコと甘やかす飼い主的な有様になることもしばしばである。
だが、今日のはいつもとは少し違う。もう高校も卒業したことだし、ボーッとしていたらあっという間に大人になってしまう。もう充分大人になったと感じることも多いけれど、子供でいたい気持ち、子供扱いされたくない気持ち、どっちも抱えているうちは大人ではないような気がする。
そういう中途半端な人間でいられる間に、出来ることはやってみたい。
「私のことはいつも話してるんだからいいでしょ! ふたりはどうなの」
「おっ、まじか! そんなこと言うようになったんだな……」
「なんだよ、お姉様の話に興味あんの?」
勇気を出して言ってみたは両側ににじり寄ってきたふたりに指で頬をグリグリされている。
「えっ、えーと、こ、高校時代の話とか」
「おおう、そう来たか」
「だ、だってほら、一応先輩なんだし、ふたりとも部活すごかったんでしょ」
自分の席に戻ったふたりはまた酒を煽るとしみじみと頷く。この姉ふたり――だけでなく藤真家は父も翔陽出身、全員運動部で目覚ましい活躍をしてきた。中でも健司が1番の出世株となったわけだが、それぞれ自分たちの方が凄かったと譲らない。思い出は美化される。
「千代子姉さんインターハイ出たんでしょ」
「ふふん、翔陽始まって以来、そして未だに唯一の女テニIH経験者だからな」
「八重子姉さんはチアとラクロス掛け持ちのバケモノ」
「そのバケモノは健司か? よし、テキサスクローバーホールドだな」
そして父はサッカーだ。母の血が混じったとはいえ、こうして藤真家はアクティブな子供が3人も育ち上がった。というか母も体が丈夫でないだけで、運動自体は嫌いじゃない。
「、千代子はIHの時に面白い話があるよ」
「えっ!? なになに」
「つまんねえ話だよ」
「千代子に一目惚れしたヤツがいてさ、それも3人!」
は目の色を変えた。大人の千代子しか知らないけれど、当然彼女にも高校生の時があった。それは想像できるような想像できないような、むず痒さとともに好奇心がむくむくと湧いてくる。
「なんだよ、聞きたいの?」
「う、うん。千代子姉さんが嫌じゃなかったら聞きたい」
「まじか。……そんじゃ、飯食って風呂入ったらな。裸で話そう」
少しだけ真顔になった千代子だったが、またニヤリと笑うと、グラスを傾けた。