続・七姫物語 三井編

04

つまり、寿が失ったものはではなくて、陛下との「信頼」だったわけだ。

寿はこのままではの愛を失うと考えていたけれど、それはまだかろうじて残っている。寿への信頼が一気に崩れ落ちてしまったので、それすら失いかねないという状況なだけだ。

だが、ここに来てようやく寿も目が覚めた。このまま親方に遠慮していると本当にを失う。その結果チャミと結婚しなければならないのであれば、親方とも一緒にはいられない。このままだと寿はまた全てを失う。陛下と、親方とチャミ、ふたつの父娘に助けられて生きながらえてきたというのに、全部失うのだ。

崖っぷちに立たされて初めて目が覚めた寿だったが、少々遅かった。あまりよく眠れずに一晩過ごした彼は寝坊をし、チャミに叩き起こされて外に出ると、国王一行の出立が始まっていた。国王と王女の乗った馬車は走り出していて、その後姿を見送りながら寿は心を決めた。親方に全て話そう。

国王が出立したので、館に招かれていた諜報員たちも続々と退去していく。乙国に残るのは全体の3分の1くらいだろうか。親方は上機嫌で報酬を寿に手渡し、帰ったらまとめて計算しよう、と鼻を鳴らしていた。帰ってからでは間に合わない、親方が寄るという隣町についたら話さなければ。

商売の時にも使う荷馬車で館を出た寿は、またチャミにベタベタとくっつかれながら隣町へ向かった。のことを思うとチャミの手を払い除けなければと思うのだが、もう1年もそういう振る舞いを許してきたので、今更なんと言って拒否を示せばいいのかわからなくなってしまった。

昨夜が落としていった「錠前結び」の指輪は、今寿の小指に嵌められている。それに目を落とすと、また決意を新たにする。例え親方に殴り飛ばされても、真実を話そう。こうなってしまっては、甲国に戻れてもと一緒にいられるようになるかどうかは怪しいが、それでも彼女の近くにいたかった。

だが、そんな寿の決意をあざ笑うかのように、隣町は大変なことになっていた。

「いいからこの町で一番いい部屋と一番いい料理のある宿を教えてくれ、金ならある!」

町の案内所で怒鳴る親方を遠くに見ながら、寿は馬車の上で呆然としていた。紛争があった頃の乙国内の町はどこも閑散としていて人も少なく、全てが最低限の範囲内で賄われていた。だが、町は人でごった返していて、大賑わいだ。一体どうした。

「パパまだ時間かかりそうだね」
「これじゃ宿も埋まってるんじゃないか」
「んもー、こんなことになってるなら早く言ってよね。私ちょっと行ってくる」
「えっ、どこに」

馬車からピョンと飛び降りたチャミはくるりと振り返ると、キュッと顔を崩して寿に笑いかけた。

「仕、立、て、屋、さん!」
「おい、チャミ――
「お姫様みたいなドレスがいいなと思ってたけど、お姫様って案外地味だよね。私もっと可愛いのにするから」

素早く走り去るチャミの後ろ姿を呆然と見送りながら、寿は「早くしないと」と焦った。そして、喉にこみ上げる言葉をぐっと飲み込む。は好きで地味にしてたわけじゃない、王女なのに毎日質素な服で働いてたんだ。地下牢の配膳係だって文句言わずにやってたんだ――

親方が満足のいく宿が都合つくまでは1時間ほどかかった。親方が金はあると騒いだので、部屋代を滞納している長期滞在客を追い出すという宿が現れたのだ。宿は町のほぼ真ん中に位置していて、親方の家がある町のように噴水のある広場が目の前だ。ただしそこは現在無許可の露天商たちに占拠されている。

普段の親方の経済状況では到底取れない部屋に通されると、彼は裏返った声を上げてベッドに飛び込んだ。

「チャミはまったくしょうがねえな、まだ時間が早いからいいけど」
「だけどこの宿だって伝えてないですよ」
「そりゃあの案内所で聞きゃ済む話だ。チャミはそこまでバカじゃねえ」

そんなことは言っていない寿だが、親方はこういったことに特に敏感だ。寿はすぐに詫びて、呼んできましょうかと付け加える。仕立屋に行くと言っていたのだし、案内所は行列ができていて時間がかかる。寿は一刻も早く話をしてしまいたかったのだ。

すると、窓の外からチャミのものらしき声が響いてきた。が、どうも様子がおかしい。寿だけでなく親方もベッドから這い出てきて、足早にベランダに出る。揃って下を覗き込むと、ふたりは同時に「えっ?」と声を上げて目を剥いた。宿の表の通りに、チャミがふたりいて、言い合いをしていた。

「だから、丙国と丁国の国境沿いで起こった川の氾濫だろ? 12年前だ」

一人用のソファに親方、ふたりがけのソファにチャミ、そしてチャミそっくりの少女が腰掛けている。寿はあぶれたので椅子を持ってきて座っているが、あまりの展開に言葉もない。

「あの時は丙国側の街にいる大伯母様の家に出かけたんだ。だけどこの大伯母様ってのが性格悪くて一族ん中じゃ有名でさ。うるさいガキは外へ出てろ、ってなったんだ。だからあたしは妹の手を引いて兄や従兄妹たちと一緒に遊びに出て、川沿いにある教会跡で遊んでたんだ。川が溢れそうだなんて知らずにね」

上流で鉄砲水が出たのは前日の夜のことだったのだが、人家のない地域のことで、発覚が遅れた。下流にも家は少なく、ギリギリ溢れそうになって初めて気付いたが時既に遅し、子供たちは水に飲まれた。それでも行方不明になったのは当時5歳の双子の片割れひとりで、死んだことになっていたという。

「流されたせいかね、『チャミ』ってのは丙国の赤ちゃん言葉で『お母さん』って意味だ。名前じゃない」
……べそべそ泣いて、何を聞いても『チャミ』としか言わなかったもんだから」
「ま、ほんとに双子かよってくらい、こいつは甘ったれだったからな」

姉はチャミにそっくりだが威勢がよくて頭の回転も早く、妹の方は萎縮している。

ドレスを仕立ててくれる店を探して町をうろついていたチャミは、自分と同じ顔をした少女と鉢合わせて仰天、しかし姉の方は大人の記憶による反芻があったおかげでチャミのことを覚えていたし、顔を見た瞬間川に流されたはずの妹が生きていたと知って抱きついてきた。

そして一緒に帰ろうと手を引く姉を押し返しながら宿まで来てしまった。

「それで、お前さんはどうしてひとりでこんなところに……
「ひとりじゃないよ。従兄妹ふたりと叔母と一緒。てかうちの一族はみんなで商売やってんだ」

甲国と乙国の紛争が決着を見るにいたり、関係改善の過程にあってその間を取り持つ形になったのは、両国の北に位置する丙国であった。その関係で特に商業地区は甲乙丙の商売人で一気にごった返すことになったのだ。チャミの姉は商売の好機と考えたボスの指示でこの町へ来ていた。

萎縮するチャミをよそに、姉君は興奮気味だ。

「孤児だと思ってたのか、大丈夫、両親に祖父母、姉ひとり、ふたりの兄、あたしたちの下にも弟と妹がひとりずつ、従兄妹はもっといるぞ、叔父さん叔母さんだっていっぱいいる。みんな喜ぶぞ。母さんは今でも家にいるとお前の分の食事の用意を欠かさないんだ。ああ早く知らせてやりたい」

子を失ったと思っている親の心情を推し量るのには充分だった。親方は眉を下げて膝で手を組み、どうしたものかと肩を落としている。チャミは姉の方をちらちらと見つつ、親方や寿にこの場を何とかしてくれと言いたげな視線を投げていた。だが、姉君にしてみれば、妹を連れ帰るのは当たり前のことだ。

「さあ、暗くなる前に行こうか。荷物はまた改めて取りに戻ればいいし、あたしたちだけでも先に――
……やだ、行かない!」
「はあ?」
「私、パパと寿と一緒にいたいの、ふたりと離れたくないの」

チャミはクッションをギュッと抱き締めて姉から顔を背けた。

「何言ってるんだ。お前のパパは丙国にいるだろ。一族の首領で立派な人だよ」
「やだやだ、そんな人知らない! 私のパパはこの人だけだもん!」
「バカ言うなよ! 5歳になって部屋をもらってもお前は父さんと母さんの部屋で寝たがったろ!」

同じ顔が言い争っているのを見つめる寿と親方は複雑な表情だ。姉君の言うことは至極もっともなのだが、何しろチャミの方に記憶がない。彼女にとっては確かに親方がパパなのだ。しかし宥めすかす姉君にチャミは一歩も譲らない。彼女の手を振り払い、そして寿が1番恐れていたことを口にした。

「私もうすぐこの人と結婚するの! だから帰らないよ!」
「結婚!? お前まだ17だぞ! 丙国じゃ結婚は18から――
「だからそんなの私には関係ないでしょ、ねっ、寿、そうだよね!」

全身の血を抜き取られて代わりに氷水を流し込まれたのかと思うほど、寿は血の気が引いた。大変なことになった。親方ははぐれもの同士仲良く家族になるという夢を実現させかけていた。なのによりにもよって最愛の愛娘の家族が現れてしまった。その上寿は甲国へ帰ると告げる機会を伺っていて――

だがその時、寿の小指がじわりと暖かくなった気がした。瞬間的に意識の中に流れ込んでくるの面影に寿は腹を括った。窮地は好機だ。

「親方、チャミ、お姉さん、その話、一度置いてもらってもいいですか」
……置いてどうするんだ」
「オレに少し時間をください。それで、オレの話を聞いてもらえませんか。よければ、お姉さんも」

小指に嵌まる錠前結びの指輪に触れて、寿は居住まいを正し、ゆっくりと息を吸い込む。

……オレは、甲国で言う『山の方』、北西の地域の地方貴族の家に生まれました」

寿は出来るだけ簡潔に、その上チャミでもしっかりわかるように余計なことは言わず、難しい言葉も出来るだけ避けて話を進めた。「山の方」の町から城の宿舎住まいになり、中央学院に通い、そして突然国を追放されたことも隠さずに話し、そのせいで傭兵になり、乙国で紛争の手伝いをしていたことも明かした。

だが、ここまではいいのだ。誰が聞いても哀れで悲しい犠牲者の昔話だ。しかしここからが難しくなってくる。寿の目線だけで話すと、父の冤罪を晴らすための調査の過程でと想い合うようになったということしか出てこない。それは事実関係のみで、詳しい話はしたくなかった。

「親方は知ってますよね、錠前結び」
「久しぶりに聞いたな、そんなの……庶民のオレらにゃあんまり関係ない話だが」
「そのせいでオレは無国籍の傭兵ではなく、甲国出身だと気付かれたんです」

その辺りが関係していたことは伏せ、ワルキューレと第二王子が犯人であったと判明する過程だけをざっくりと説明した。チャミはつまらなそうにそっぽを向いているが、親方と姉君は身を乗り出して聞いている。10年続いた紛争の真実なので、つい聞き入ってしまう。

「とんでもない話だな……あの女将軍さん、とんでもねえ悪魔だったんだな」
「じゃああんたはその縁で諜報員やってたんだね?」
「そうです。両親の墓にも報告したかったし、陛下のために働きたくて」
「ああ、そうだろうともよ、あの陛下は本当に立派なお方だからな」

感心して聞き入っている姉君、そして親方はすっかり陛下を気に入ってしまったようで、うんうんと頷いている。寿はテーブルの上の冷めたお茶をあおると、深呼吸をして覚悟を決めた。もし今ここで親方に殴り殺されても、それはへの想いを貫いた証になる。それならそれでいい。

「その上で、お姉さんの話もあったことだし、もうひとつ聞いてください」

チャミの顔色が曇る。自分にとって面白くない話なのだと勘付いたらしい。

「隠していてすみません。オレには甲国に恋人がいます」
……何? 誰だ」
「王女、姫です」

チャミが口をぽかんと開ける。姉君は目を剥く。そして親方は息を呑んでそのまま固まった。

「地下牢に入っていたオレを救い出して、一緒に真実を見つけてくれたのは彼女です。陛下のお役に立ちたいのも、全てはの元に帰るためにしていたことでした。でもわざと隠していたわけではなくて、どうせ信じてもらえないと思ってたんです。なので、その、結婚は……出来ません」

重苦しい沈黙が流れ、窓の外の喧騒がやけに大きく聞こえていた。最初に口を開いたのは姉君だった。

「恋人ってことは、王女の方もあんたが好きなんだよな?」
……そう聞いています」
「てか3年近くも離れてて今でも好きなのか、すごいなあんた」

茶化しているようには聞こえなかった。姉君は単純に感嘆してるらしかった。

……恩人でもあり、オレの生きる理由、そのものなんです」

言いながら寿はへの想いを一言で言い表すことが出来たので、一瞬で心が満たされた。そうだ、は生きる理由そのもの、がいなかったら親の墓前で死んでいたかもしれない。彼女と生きること、それは希望で、夢で、憧れで、両親とともに国を追われてからの日々の中には欠片ほどもなかった未来の種だ。

だが、親方は納得がいかない。飢えた熊の唸り声のような低音が響いてきた。

「この恩知らずめが……
……申し訳ありません」
「地味で目立たないお姫さんと恋仲だったくせに、チャミをたぶらかしたのか」
……オレは一度も誘いをかけたことはありません」

それは事実なのだが、カッとなった親方は立ち上がって両手を固く握りしめている。顔も赤い。

「オレのチャミより、あの地味で目立たないお姫さんの方がいいってのか? え?」
「地味で目立たないのは、倹約に務めているからです」
「だけど王女様だろうが。お城に住んでるお姫様だろうが。お前とは一緒になれんだろうが!」

年齢的に一家一職制度が始まった頃に子供だった親方には、余計にそう思えるだろう。現在甲国では制度撤廃の方向で話が進んでおり、父親の名誉が回復された以上、寿は地方議会の上院議員の息子であり、一応王女との結婚は問題ない。とはいえそれを突っ込んでも仕方ない。寿は揺るがぬ覚悟を示す。

との結婚が目的ではありません。彼女の近くにいることが目的です。だから、帰りたいと思ってます」

頭に血が上って親方が一歩踏み出した時、寿はそれをまっすぐ見つめたまま身じろぎもしなかった。だが、その間で親方を止めたのは姉君だった。彼女は立ち上がり、どこに隠し持っていたのか親方に向かって銃を構えていた。長く戦をしていた割に甲乙両国ではあまりお目にかかれない品だ。

「親方、落ち着きなよ。彼を殴っても心は変わらないだろ」
「そんな物騒なものオレに向けるんじゃねえ」
「だったらあんたもその手をしまいな。商売人なら理屈で動けよ」

そして、ちらりと寿を見下ろすと少しだけ微笑んだ。

「寿、だっけ。気持ちわかるよ。あたしもこの子のことを思わない日はなかった。たった5年、記憶にあるのはほんの短い間のことだけど、それでもあたし妹を愛してた。家族みんなもこの子を愛してる。親方、あたしはこの子を貰って帰る。その意味でも結婚は諦めてくれ」

例え突然家族が現れても、証明する方法などないと思っていた。だが、双子の姉だ。顔が全く同じ。これ以上にチャミが丙国の商家の娘だと証明する方法があるだろうか。もし姉君が役場に訴え出たとしたら、万にひとつも親方に勝ち目はない。その上乙丙どちらも17歳は未成年。本物の親に権利がある。

寿は姉君の加勢に感謝しつつも、「商売のために邪魔」だと思っていた紛争の終結により、娘息子と思ってきたふたりを一気に失うことになる親方を憐れまずにいられなかったし、それを思うと胸が抉られるような気がした。衰弱して何を言っているのかもわからない父親が息絶えていったのをまざまざと思い出す。

自分が甲国に戻っても、チャミが一緒にいると思えばの決断だったのに。親方を苦しめたいわけじゃなかったのに。けれど、この姉君の出現できっかけが生まれたことも事実だ。寿はそれを逃さなかっただけ。

「よし、親方は頭に血が上ってるようだから、寿、私と行こう。そこで帰る算段を取ろう。あたしも父さんに報せるし、よかったら旅の話を聞かせてほしいな。あんたのしてきた冒険はきっとみんなが夢中になって聞くよ」

寿は頷いて立ち上がった。報酬はまだ自分のポケットにあるし、一旦この場を離れた方がいい。チャミはクッションを抱き締めたままうずくまっているが、親方はまた頭のてっぺんから湯気が昇りそうな剣幕だ。

「寿、考えなおせ。お前が諜報員だったと当局に報せてもいいんだぞ」
「今度は脅しかい。落ち着きなよ、そうしたらこいつ逮捕されてどっちみち戻ってこないだろうが」
……親方、本当にお世話になりました。ご恩は一生忘れません」

まだ怒りに震えている親方に深々と頭を下げると、寿は銃を手にした姉君を追って部屋を出た。