続・七姫物語 三井編

03

親方のもとで住み込みで働き始めて1年以上、親方自身はとても頼りがいがあり厳しくも優しく導いてくれる大人として尊敬できる人だ。だが、あくまでも寿は甲国に帰ることが目的なのであって、いつまでも親方の下で働くつもりはなかった。なのに、それを一度も言わないままになっている。

なぜかといえば、チャミが寿を慕っていて、それを親方が殊のほか喜んでいるからだ。

突然知らない男が家の中に増えて戸惑ったのはほんの数日のこと、チャミは1週間もすると寿と手を繋いだり腕を組んで歩きたがったし、夕食の後に暖炉の前でくつろぐ時など、必ず隣に座って身を寄せてきた。それをどうしたものかと思っていた寿だが、何しろ親方が何も言わない。むしろ微笑ましく見ていた。

時が経つに連れて親方が拾い子のチャミを大層可愛がっていることがわかってくると、諜報活動のためにも、なんとしてでも親方の不興を買うことは避けなければならないという意識にも囚われ、寿はずるずるとチャミから受ける好意を放置してきた。深い関係になるわけでなし、好きにさせておけばいいか。

それをチャミと親方がどう捉えたかはわからないが、とにかくチャミは寿にベッタリ、親方はそれを咎めるでもなく、仲良きことは美しき哉とばかりに目を細める始末。だが、それも紛争が終わるまでのこと。紛争さえ終われば、親方とチャミには礼を尽くしての元に戻る。そう考えていた。

だがどうだろうか、一応生まれ故郷である甲国の国王陛下を目の前にして浮かれた親方は普段の厳しさはどこへやら、目尻を下げてベラベラと喋り倒し、挙句の果てにチャミと寿を添わせたいなどと言い出した。は一度も寿の方を見なかったし、陛下は今にも剣を抜き放って寿を切り捨てそうな目をしていた。

全てはと陛下のためにと思ってこの2年7ヶ月を働いてきた寿は落ち込んだ。

誤解なのに、チャミが勝手にベタベタしてくるだけであって、親方はなんかその気になってたみたいだけどオレはそんなこと聞いたこともないし、もちろんそんなつもりなかったし、だけど親方の心証を悪くしたら中央作戦本部に入れなくなる、そうしたら陛下を助けることが出来ないと思って……

だが、落ち込む寿をよそに、親方は上機嫌である。国王陛下からお墨付きをもらった気分のようで、やはり本拠地は甲国に置くべきかもしれないとか、方々の国から珍品名品を取り揃えて陛下に献上せねばとか、盛り上がっている。館の一室に戻り、チャミが寝たところで寿はソファに座る親方の前に跪いた。

「親方、さっき陛下の前で話してたことなんですが」
「おお、いやあ陛下はとても勘のよい方らしい。何でもお見通しのようだ」
「その話なんですが――
「なあ寿、オレたちはみんなマトモな『家』ってやつを持たない者の集まりだ」

親方は優しい笑顔でふうと息を吐き、まだ青い顔をしている寿に語りかける。

「オレが行商に出るようになった頃には親父もお袋もいなかったし、妹がひとりいたが体が弱くて施設に入ったきり、もう亡くなってる。チャミは丙国と丁国の国境沿いで起きた川の氾濫で親とはぐれて孤児。お前も両親は既にない、陛下に拾ってもらうまでは傭兵だった。ほら、誰も『家族の待つお家』を持ってないんだ」

確かにこの親方が商売ものの倉庫兼自宅にしている家では、そういう3人が寄り集まって生活している。血の繋がりもなく、寄り添って生きなければならない理由もなく、ただそういう境遇の者が集まってしまった。

「しかしどうだ、オレたちはこんなにうまくやっていけてるじゃないか。きっと陛下もそれを見て取られたんだろう。お前の働きにも感心していたし、きっと礼を弾んでくださるに違いない。オレにもくれるって話だし、それを元手に商いを大きくしていこうじゃないか」

親方はうっとりとした目で天を仰いでいる。寿に下される報酬は大金だと信じきっているようだし、それもまとめて商売拡大の元手にする気でいるようだ。寿は自分の置かれた状況が想像以上に悪いことになっているので、冷や汗が出てきた。親方、なんでそんなに夢見てるんだよ……

「寿、陛下がおっしゃったように、お前はオレの息子同然だ。いや、子供を持ったことはないから、そんな気がするだけだが、チャミもお前もオレの家族だ。戦は終わったし、これからも助け合いながら生きていこうじゃないか。それに、今はまだお転婆だがチャミはきっといい妻になるぞ。あのお姫さんだって敵わんさ」

親方は分厚く大きな手で寿の頬に触れ、優しく撫でる。

「寿、家族になろう。オレがお前の親父になってやる」

寿は頷くことも拒否することも出来なかった。彼の中でふたつの感情が一気に膨れ上がる。

無実の罪で衰弱死しなければならなかった父を思う気持ち、それをどこかに感じながら親方を慕う気持ち、「家族を求める」気持ち、それは否定出来ない。陛下にもそれを感じていた。だから必死に頑張ってきた。一方で、「よりチャミの方がいい女だぞ」という言葉には絶対に同意できない。

は紐の結び方ひとつをきっかけにして、夜中に地下牢に降りてきてまで寿を救い上げてくれた。彼の家族に降りかかった災難のことなど何も知らないのに申し訳なかったと頭を下げ、いつでも寿を気遣い、そして自分のもとを去ろうとしているというのに、文句ひとつ言わずに送り出してくれた。

を愛しく思う気持ちは変わっていない、今でもを好きだと思う。けれど、彼は陛下と親方に二度と取り戻せない「父親」を見ていた。成長していく自分を父に見てもらえなかったがゆえの心の隙間を陛下と親方は埋めてくれるような気がしたのだ。

寿はどうしたらいいかわからず、上機嫌のまま寝室に入っていく親方の後ろ姿をぼんやりと見送っていた。

翌日は報酬に関する規定などを記した書簡が諜報員全員に配布されることになっていた。そのため、陛下の部屋の前には行列ができていて、ひとりずつ、あるいはひと組ずつ入室を許され、を始めとした陛下の側近補佐官たちが作成した書簡を手渡されていく。

何とかして陛下の誤解を解きたい寿だったが、陛下の方もこの機会を逃す気はなかったようだ。親方とチャミは別に入室するように指示され、寿はひとりで部屋に通された。大きな机の向こうに腰を下ろしている陛下は何やら書きものをしつつ、寿を手招いた。

「陛下、どうか話を聞いて頂けませんか、オレは――
「これが報酬に関する規定だ。お前の場合はこれの3例目にあたる」
「陛下……
「これについて与えられる権利は辞退と減額のみ。国籍は発行できるが、それ以上のことは保証外だ」
「陛下お願いです、話を――

陛下がペンを置き顔を上げたので、寿はつい口をつぐんだ。陛下は昨夜と同じ顔をしていた。

「何の話を聞けばいいと言うんだ?」
「昨夜のことは誤解です、オレはそんなつもりありません」
「ではなぜあんなことになっている」
「それは、諜報活動の妨げになるようなことは出来ないと、陛下のお役に立ちたくて」
「思い上がるな、少年」

もうすっかり大人に見えるけれど、陛下にしてみればまだまだ青二才というところだ。

「お前の情報だけが此度の終戦を招いたとでも思っているのか? 昨夜見ただろう、この国にはお前以外にあれだけの諜報員が潜んでいたんだ。お前はその中のひとりに過ぎない。オレのために、だって? お前はのために諜報活動を引き受けたのではなかったか? それがなぜ少女と仲良くなっているのか、理解できない」

もちろんそうだ。と一緒にいるために諜報活動を引き受けたのは間違いない。けれど、長くそのために働く中で、目的が「陛下と親方の役に立ちたい」というものにすり替わっていってしまったのもまた事実だ。

「親方の機嫌を損ねたら諜報活動が出来なくなると、それを考えて――
「想い人がいるということも言えないくらい、あの御仁は癇癪持ちなのか?」
「いえそういうわけでは、ただチャミをものすごく可愛がっていて」
「愛娘とよく働く何でも言うこと聞く息子か、都合のいい話だな」
「親方はそんな人ではありません、ただ――
「寿、お前が大事なのは誰だ。か? 親方か?」

寿は陛下に父の顔を感じて息を呑む。陛下はの父親なのだ。

「娘がお前の腕に絡まってきた最初の時に、なぜ想い人がいるからやめて欲しいと言えなかったのだ」
「そんなこと信じてもらえないと思ったんです、王女だなんて――
「それがで王女だなどと言う必要があったか? 国に想い人がいるとだけ言えば済む話だ」

陛下の指摘はもっともで、しかし今こんな事態を招いた寿が1番それを悔いている。チャミが自分の後を追いかけてくるようになった時、ほんの少しだけその可能性に気付いたのに、まあいいかと放置した。親方を慕う分だけ、その「まあいいか」は加速していった。

のことがどうでもよく、あの少女の方が好きになった、というわけではなかろう。それはわかる。だが、私はの父として、娘のことを第一に考えてくれる男でなければ納得出来ないのだ。お前の悲惨な境遇には同情する。そのために私は弟と姪とワルキューレの首を自分で刎ねた。しかしは何も知らないままお前のためだけに尽くしただろう。見返りも求めず、深い沼の底にいるお前を救おうと必死に働いたろう。それをこのような形で返されるのは、父親として許しがたいのだ。わかるな」

寿は頷き、しばしの沈黙の後に声を絞り出した。

「それでも……オレは陛下のために働きたいと思ってます。を、愛しています」

陛下の方もそれ自体を疑ってはいない。しかし親として頷いてやることは出来ない。

「その言葉の意味を自分でよく考えるがいい。下がれ」

陛下は別室に下がらせていた側近補佐官たちを呼び戻し、寿はそのまま退室した。

遠方からこの館に来ている諜報員もいる都合で、甲国国王が滞在している間は館に寝泊まりしてもよいことになっている。その間は食事も日に3度振る舞われるし、諜報員同士情報交換をしても構わない。そんなわけで、ほとんどの諜報員がこの日も館で過ごし、翌日の国王出立に合わせて解散となる。甲国に戻るという者も多く、それらは国王一行とともに帰還する。

ずいぶんとこじれてしまったので、寿は今後の見通しが全く立たない状態にあり、そのため翌日は親方とチャミと帰らねばならない。しかし寿の本当の本音はここでたっぷり礼を言って親方とは別れ、と一緒に帰りたいのだ。ただそれをどうしても親方に言えない。

自分を息子のように思い、オレが親父になってやる、家族になろうと言ってくれた親方に「実は恋人がいました、なので親方もチャミももう必要ありません、さようなら」と言う勇気が出なかった。そうじゃない、親方にもチャミにも感謝はしてるんだ、だけどに嫌われたくない、の愛を失いたくない――

3年前、傭兵団の首領の指示が行き違い、甲国の部隊にとっ捕まった。その際、特徴的な鍵を首にぶら下げていたので、捕虜として城に送られた。臭くて暗くて汚い地下牢に入れられた寿は、過去の記憶から気が狂いそうな日々を過ごしていた。

そんな暗闇の中にひらりと現れたのがだった。夜中にこっそり白い夜着のまま訪ねてきて、彼を甲国の出身だろうと見抜いて手を差し伸べてくれた。疲労で自暴自棄にもなっていた寿だったが、そんなをまるで天使か何かのように感じ、いつしかそれは恋に変わった。

その時の気持ちは今でも鮮明に思い出せる。傭兵生活の間に長く伸びた髪をが切り落としてゆくさまを鏡の中に見ながら、寿は傭兵に身をやつす以前の自分をなんとなく思い出した。一生懸命鋏を動かしている可愛らしい王女がそういう自分に引き戻してくれたのだと思った。

それを忘れたことなんかなかったのに――

親方とチャミとにこやかに過ごせる自信のなかった寿は館を出ると、敷地内をウロウロと歩き出した。館は元々この辺り一体を所有していた地方貴族のものだそうで、ぐるりを外壁で囲まれた敷地内には鬱蒼と茂る林があり、寿はそこに迷い込んだ。月明かりが落ちて風に揺れる木立の間をとぼとぼと歩く。

すると、慌てて手入れをしたのが見て取れる中庭が現れた。館の裏側に位置していて、おそらく伸び放題になっている木々を整えれば大広間のベランダから見えたであろう場所だ。寿は中庭に足を踏み入れた途端、驚いてぴたりと止まった。月明かりが差す中庭の池の畔にがいたからだ。

月の光にきらめく水面、その縁に立つはやはり白っぽいドレスを着ていて、陛下の補佐官の時にはきっちり纏めている髪を垂らし、静かに佇んでいた。寿は思わず小走りになり、に近付いた。


……こんばんわ」

一瞬驚いた様子を見せただったが、すぐに表情を作ると、細い声でそう返した。寿はのすぐ隣まで来ると足を止め、彼女の横顔を見つめた。

、今日陛下にも話したけど、誤解なんだ」
「どういう誤解があるの?」
「オレは親方やチャミと家族になりたいわけじゃない、あれは――
「じゃあ、明日私たちと一緒に帰るの?」

顔を上げたは、落ち着いた表情をしていた。怒りや悲しみや、そういうものは一切ないように見える。一方の寿はその問いに即答できなくて喉を詰まらせた。親方は陛下を見送ってから館を出て、報酬から少し金を出して隣町のいい宿に泊まって豪勢な晩餐を取ろう、と楽しそうに計画していた。チャミは町でドレスを仕立てたいと言ってうっとりしていた。

「何か帰れない理由があるの?」
「そういうわけじゃ……
「じゃあ親方さんとチャミさんにそう伝えて、帰ればいいんじゃないの?」
…………あのふたりには、すごく世話になったんだ」

いっそのこと、陛下が「これは私の部下だから、共に連れて行く」と親方に言ってくれたら――。寿はそれが1番丸く収まると思っていた。のことなど隠したままでいい、親方は陛下に言われたなら自分をすぐに諦められるだろう、と一緒に帰れるなら報酬などいらないから、親方にあげてしまってもいい。

だが、はそういう寿の「甘ったれ」に気付いていた。

「お父さんのことがあったから、親方さんを優先したくなっちゃうのはわかるよ。豪快で頼りになりそうな人だもんね。チャミさんも元気で明るくて、3人でお仕事をしてるのは楽しかったんじゃない? お父さんと妹と3人で生活してるみたいな感じで。だからここでお別れですって言いづらいんでしょ?」

あまりに正確な読みに寿は驚き、しかしそれはが自分のことを深く理解してくれているからなのだと思うと、無性に愛しさが募った。穏やかで優しい声、そしてその凛とした佇まいに寿は引き寄せられ、を抱き締めた。懐かしい匂い、そして感触。今でもやっぱりが好きだった。

、甲国を出てから、忘れたことなんかなかった」
……私も毎日想ってたよ」
「オレが好きなのはだけ、それは今でも変わってない」

腕を緩め、頭を落とした寿はキスしようとした。を想う気持ちが溢れ出している。だが、寿が目を閉じて今にも唇を重ねようとした瞬間、の低い声が聞こえてきた。彼女の腹の中から這い出てきたような、重苦しい声だった。寿は驚いて目を見開く。

「もう二度と寿みたいな犠牲者が出ないように、そう思って頑張ってきた」
「えっ?」
「紛争は終わる。階級制度は以前のものに戻す予定になってる。犯人たちは全員処刑された」

寿の腕の中で彼を見上げるは真顔だった。陛下ほどではないにせよ、冷たくて金属のように重く硬いの目に寿はたじろぎ、しかし腕にくるんだ彼女を手放したくなくて固まっていた。

「叔父様や従姉妹が処刑されてる間、私は城のお堂で祈ってた。寿も含めて犠牲になった人々が心安らかになれるように、国民と乙国に覚悟を示すためだと言って自分の弟の首を刎ねた父に慈悲を、って祈ってた。私たちの働きは報われた、これで紛争は終わる、寿も帰ってくる、父は言ってた、礼を言わなきゃな、って」

寿はを愛しいと思う気持ちが徐々に恐怖へと変わっていった。は何を言おうとしているんだろう。

「そうやって私たちはやるべきことをやってあなたを待ってた。道筋を外れたことなんかなかった」
――
「私は寿以外の男性に指一本触れさせたことなんかなかった」

王女なのだから当然、といえばそれまでなのだが、の声が少しだけ揺れた。

「親方さんとチャミさんと親しくなったのは、あなたが勝手にやったことでしょ。自分で始末つけなさい」

その言葉を持っては寿の腕の中から逃れ、ドレスをつまんで直すと背筋を伸ばした。

「私も寿のこと今でも好きだよ。だけど寿は他に大事なものが出来ちゃったんでしょう?」

言い返せない寿には軽く会釈をして、一歩下がる。

「父は飾り紐を解いて待ってたけど、これはもう、いらないね」

は手のひらから「錠前結び」の指輪を落とすと、その場を立ち去った。

寿は指輪を拾い上げ、月明かりの中でそれを見つめると肩を落とした。以前は寿の指にも同じものが嵌っていた。それは遡ること1年ほど前に、チャミに奪われて壊されてしまった。親方の目の前で起きたことだったので、怒れなかった、笑って誤魔化した。

自分の失態に絶望した寿は、指輪を握りしめて呆然と立ち尽くしていた。